経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

花と回線づくり

2011年09月30日 | Weblog
意識して、 どうしたら消費者が喜んでくれるか、

具体的にポスト・イットにでも、どんどん書き出す。

書き出したものを一つずつ、実際にやってみる。



ここまで至って、初めて「変わるのである」



何がかわるのか?



組織が変わる。

お客様が変わる。

購買額が変わる。

そして結果として、売上が変わるのである。





ところで、ここで具体的にとは、

1に、実際行動になるように、という意味である。

行動とは、口と手と足とを使ってということである。

口と手と足とを使えないことを書き出しても行動できない。

「真心をこめて」挨拶をする」と書いてもいっても。

「真心」は抽象語だから、込められない。



できる、と言うのであれば、ここで実際にやってみればいい。

やれはしないことだ。

やれはしないことは、具体的に表現し直す。



「挨拶をする」は、だれでもできるのだから、

例えば、これに「頭を45度に垂れて」と、

付けたとしたら、これはやれる。





2に、具体的にとは、また相手が形、動作として見える

つまり、上の例で言えば、見えない真心を形化して、

見えるようにすることをいう。



美しい花を、「きわめて美しい花」と唱える、

といったことではなくて、

その「きわめて美しい花」を実際に指し示す、ということだ。



但し、その「きわめて美しい花」の現物を見て、

「きわめて美しい花」であるか、そう思わないかは、

こちらの判断ではなく魅せられた相手の評価、判断に

委ねられることは、言うまでもない。





やってみると、

それに対する相手の反応がわかる。

反応は、相手の表情に表れるからだ。

それで、当たりと外れが、体感できる。



この繰り返しで、

確実に脳の回線づくり、習慣づくりができる。

普通は、誰しも「うまくいくこと」を念じているだろうから、

これは「うまくいく回線づくり、習慣づくり」と言い換えられる。

実践編

2011年09月27日 | Weblog
本稿。これまで、述べてきたことの 実践篇。

まず、お客に関わりのない投資、経費と時間を、
消費者に関わりのある費目へ可能な限り振替えること。

すべからく投資・経費・エネルギー、時間は、
自分以外の人(消費者等)に貢献するものと、
そうでないものとに、大きく2つに分けられる。

さしあたって決算書をみて、この2つに分けてみよう。
自分や社員の行動を分析して2つに分類してほしい。

自分の関心は、どちらが多いだろう。
1日中会社のことで頭が一杯だったら、お客への貢献はゼロだ。
1日のスケジュールを見てみよう。

それを色分けでもしてみよう。
なあに、おおざっぱでいい。

ある会社のM社長のある月の予定表では、
お客様関連の予定はゼロだった。
ゼロとわかって、Mさんは唖然とした。

消費者との接点も皆無だった。


皆無と気づき、Mさんはびっくりし、
「まさか!」と叫んだ。

ちなみに、このM社の経営理念:「顧客第一主義」。


要は、
金や時間が、「ない」のではなく、
お客に関係のないことにそれらが使われているに過ぎない。
そうしたことを「意識していない」のである。

だから、ことは簡単。
「意識して」それらをより関係ある方へ
振り替えていけばいいのである。

くどいが、わかった、と思っただけではだめだ。
口に出して唱えても変わらない。

意識して、 どうしたら消費者が喜んでくれるか、
組織を挙げて、トップ以下全員が、ただひたすら
そのことだけを、明けても暮れても考える。
その考えたことを、手を使って、
具体的にポスト・イットにでも、どんどん書き出す。
書き出したものを一つずつ、実際にやってみる。

ここまで至って、初めて「変わるのである」




消費者体験こそ

2011年09月23日 | Weblog
このことは、さきに触れたが、

本来はなり切るもなにも、自分自身本来、消費者なのである。

消費者が、消費者のまま経営者をしているのである。

これは集合と部分集合の関係だ。



その「まま」を取り戻せばいいのである。



しかし、そうはいっても経営思考に染まりに染まって、

消費から遠ざかっている人にとっては難しかろう。



そこで、これも以前触れが「消費者体験」、「客体験」。

を増やし、昔のカンを取り戻せばいい。

すなわち、「消費者体験」、「客体験」を通じて、

消費者、お客の思い、心の動きを自ら体感することだ。



ここで気をつけたいことは、

その思い、体感したことを経営に活かそうと思う

そうした逸る思い、力みを拭い去って取り組むことだ。

これが一番難しいことかも。





なにも「活かそう」などと考えなくとも、

企業経営の現場に戻れば、自然に活きてくる。



すなわち、

「そのことはお客だったら、こう感じるんだ」

「こうした場合、消費者はこう動くのだ」といったことが

自ずから、わかる。まさに「あら、不思議や」である。



ここの域まで自分が消費者であることを取り戻せたら

組織の他の者にも、やらしたらいい。



それでは時間がかかるというのなら

あるいはなんでもマニュアル、マニュアル大好きというのなら、

「自問自答法」を進めたい。



ここで自問自答とは、

「それは、消費者にとってプラスか。それとも・・・」

といったように、自分の中にいる、消費者の自分と、

企業人の中の自分、この二人に問い、答えさせることだ。

この場合、「消費者にプラス」を絶対命題にしておくこと。



常に消費者が有利になる。

消費者の自分が勝つ。それも連戦連勝へ持って行くこと。

つまり、「損得、迷ったらお客の得へ判断を下す」ことが、

自然に行えるようになるまで、自問自答を習慣づける。





組織全体が、指示がなくとも、何のためらいもなく、迷わずとも、

お客に得になるほうへ判断が落とせるようになれば、

間違いなく組織は繁栄の道を歩み始めたと確信していい。

消費者は、自分を得させる、喜ばせる組織を支えるからである。

頭隠して

2011年09月21日 | Weblog


これまで客対応と言いながらその逆、

内実は、内部の内部による内部のための対応であったこと。

それを「お客様第一主義」といったきれいな包装紙で上手に包装。



さらにそれに

美辞麗句や気の利いたキャッチコピーやトークを添えて、

といったことが、上手な販売といわれ、努力、精進の目的とであった。



要は、外部の消費者のお金を如何に内部に取り込むか、

そのために、あの手、この手を講じること。

それが「消費者に対応すること」ではなかったろうか。

その考え方の一つとして、「お客様第一主義」ではなかったか。



しかし、「頭隠して尻隠さず」だ。

消費者はその尻からちらちら垣間見える

しっぽの動きから、売り手側の本音を知ることになる。

こうしたことで頭隠したこと自体が無意味になってくる。



事実,今時、

お客様第一主義」と、声高らかに唱えて、

感動する人などいやしない。



無意味な対応に苦心してどうなる。

無意味な対応に工夫と改善を加えてどうなる。



対応とは、対するものに応じる、ということであって、

対するものに、こちらの思惑に応じてもらうことではない。

対するものに応じるには、対するものの動きを知らねばならない。

こちらがこちら都合に動いてもらうように仕向けることではなく、

対するものが、自分いしで、こちらの思うつぼと合致するよう

言動をしてもらうようにすること。これが「応ずる」ということだ、



経営の場合、上の「対するもの」とは、消費者だ。

ああした場合、こうした場合、

消費者が、どう考えるか。どう動くか。



企業内外での日常のあらゆる

ああした場合、こうした場合の、こちらの思考、言動に対して

消費者はどう思うか、考えるか、どう動くか、を押さえることだ。



それには、相手になりきる。これ以外にないのである。



自分がお客だったら、そのことでどう動くか、

そのことはお客にとって、直接的、間接的にプラスになるのか、

消費者になり切る。お客になり切る。

なり切りって、考える以外にない。



では、そのためにはどうしたらいいか。

ああら、不思議

2011年09月19日 | Weblog
組織の外、消費者のことまでを経営判断の範疇として、
その全体最適を図ることが、組織のトップだけでも浸透すると、
組織は、次第に活性化してくる。

その理由は、組織内部、我が社のため、わが課のため、
今期、今月の予算達成のため、といった、
「のため」が、実は足かせ、縛りになっていたため
と考えられる。

だから内部と外部の、そうした仕切りが取れると
一気に、視野が広がる。思考が広がる。

よく「先の見通しが立たない」
「先行き不透明だ」
「お先真っ暗だ」
「展望が開けない」
といった言い方をする。

そう言っている人をいちいち調査したわけはないが、
その人たちが位置している場所は、
上空ではあるまい。山のてっぺんではあるまい。

先の見通しが立たないのなら、
見通しが立つ場と位置に立てばいい。
あるいは
眼鏡の度数を上げるか、望遠鏡を使えばいい。

先行き不透明なら、透明化を図る手立てを打てばいい。
それができないなら、見えない先では見ず、
この今見えるところで、仕事をすればいい。

お先真っ暗ならどうするか。
灯りを付けたらいい。
普通の電灯で駄目ならサーチライトでお先を照らせばいい。
明かりで失せない闇はないのだから。

展望が開けない、のであれば、
どこかの山上に行って展望台に上がってみるといい。
展望台と名が付いているところで、
展望が開けないところはないのだから。

そもそも部屋にいて、展望が開くはずはないのだ。

要は、
見通しが立ち、透明で、明るい、展望の開ける
場を探し、自分が手足を動かし変えたらいいのだ。

それを、
見通しが立たない、不透明だ、真っ暗だ、開けない、
と口で言っている。言うことで、「仕切り」を増やす、
といった逆のことをしきりになしている。

自らブレーキを踏んでいながら、
この車、動かなくなった、と言っている。
家の中にいて、外が見えない、といっている。


といったことで、
組織のトップの思考、判断が全体最適化と言った場合の
その「全体」が拡大し、外をも含まれることになれば
当然、外の消費者も見えてくる。

トップの思考、判断の仕切りが取り除かれると、
あら不思議、いや不思議でも何でもなく、
組織は、次第に活性化してくる。

仕切りが外れると、各人、個々、何をなさねばならないのか、
その優先順位までを含めて、見えてくる。
やはり、あら不思議か。

器を大きくする方法

2011年09月17日 | Weblog
いかに全体を想定し、最適化を描けるか、
いかに長期の目標を掲げ、長期的な観点から、
最適化を描けるかが、大きな視野、大きな全体を描けるかが、
経営者の器の大きさ、と、申し上げた。

視野が広がること。大きな全体を描くこと。
これは、実際にやらねばわからず、やればわかること。
では実際にどう体感したらいいだろう。

以下、私のお勧め、あれこれ。
できるだけ大きな世界地図、日本地図を壁に貼る。
それも国境や行政区分がないものがいい。
(理由は、後述する)

できるだけ小高い丘に上がって、そこから360度の視野を見下ろす
あるいは見通しのいい平地に立ち、天を見上げる。

海辺に立ち、その向こうのアメリカなり、中国なりの方向をみる。
高層ビルの上から、豆粒みたいな人や車の往来を眺める。
といった、「なんだそんなことを」といったことだ。

なんということはない。
人は、自分がちっぽけに感じるとき、
大きな世界をイメージできるし、また大きな世界を描くとき、
自分の小ささを感じることができるのである。
元来、宇宙は広い。世界は大きい。

それを
「自分の課」という仕切りで仕切る。
「鹿児島県」という仕切りで仕切る。
「我が社」という仕切りで仕切る。
「日本」という仕切りで仕切る・・・・

といったように細切れに仕切るから、
狭くなる、そして縛られるのだ。
自分の思考を、行動に仕切りを入れるのだ。

もともと、自分とそれ以外という存在しかない。
その自分も、自分と自分以外のつながりであり、
そこに仕切りがあるわけではない。

その仕切りはすべて人間が、自分が勝手に仕切ったものである。
その証拠に、県境なり、市の堺に実際いってみたらよかろう。
そこには行政のたてた区分版以外、どこにも区分はないのである。
ましてや、思考のなかに仕切りがあるはずはないではないか。

だからせめて、考えるときぐらい、
大きな思考、縛られない考えで考えてみようではないか、
というのが、いいたいことである。

器が大きいと言うこと

2011年09月15日 | Weblog
ゴーイングコンサーンとは、
「企業活動は永遠に続く」と想定していること。
つまり、人間と違い、企業は一度作られると、
死ぬことが想定されていないのである。


これは、企業が貴重な雇用の場であり、
社会に必要な商品やサービスを提供する生産活動の源
とされているため、倒産や廃業をしないように                                                                               半永久的に継続していくことが企業の社会的責任
とされているからである。

現実は、予定されていないはずの死、倒産は、
想定外と呼ぶにはふさわしくないぐらい多発している。


なぜか。
理由はいろいろあろうが、
私は、経営者の判断ミスによるものが
ほとんどではないか、とみている。

では、その判断ミスとは、ということになるが、
それは、全体最適、全体利益を犠牲にして、
部分最適、部分利益追求を行ったことではないか。

その結果、その部分最適、部分利益も損ない、死滅する。
これを別の表現をしたら、
短期的な稼ぎのために、その後の長期にわたる、
本来は得るべき売上と利益を失う、といったことになる。
そのいわば見えない収益の機会損失は夥しいものである。


回りくどい言い回しになったが、言いたいことは、
要するに。部分最適、部分利益が如何に大損になるか
そして命取りになるか、ということを強調したかったのである。

そして全体最適、全体利益を考えての判断が、
いかに重要か、ということを強調したいのである。


経営において、如何に大きな「全体」を想定し、
全体最適化を描けるか、これが経営の要諦であり、
それができる経営者こそが器の大きい経営者と呼ばれて
讃えられて、しかるべきではなかろうか。

客観的と全体最適

2011年09月08日 | Weblog
自分は、消費者、お客様のことなど
まったくわかっていなかったのだ、
ということがわかることは、次の2つのこと。

1に、自分が消費者として買い物をするときの気持ちで、
消費者は、我が社を選び、あるいは選ばず、
我が社の商品を買い、あるいは買われないということ。

2に、自分が消費者として買い物をするときの気持ちで、
消費者は、他社を選び、他社の商品を購入されている、ということ。

そんな想いが頭を過ぎるようになったら、
わかったとみていい。

そして自分の組織の連中が、なんと自分たち経営の都合で
ものごとを考え、動いているかに驚くだろう。

それが客観だ。消費者は、そうした視点で我が社を観ているのだ、と。


おめでとう。脱「経営者」思考!
消費者として仲間入りだ。

組織内に、組織単体という視点だけの部分最適の判断ではなく、
組織とその外をワンセットにした全体最適の判断ができる人が、
組織に1人でもいいから「いる」ことが、
いわば企業の死活を決めると、いってよい。

組織内部では、「部分最適ではなく、全体最適でものを見よ」
と配下に口を酸っぱく言っている経営者も、
彼のいう、考える「全体」とは、所詮組織全体、組織内部であって、
外は含んでいないことが殆どである。


真の意味の「全体最適」、すなわち組織全体ではなく、
組織の外まで組み入れ、俯瞰的にものごとを捕らえ、
その最適、最善手を図ることこそ、求められることである。

そんな余裕などない。
それでは企業が損をする、

といった意識、あるいは無意識が、ブレーキとなって、
全体最適の、「全体」を、狭義に設定し甘んじていたのかもしれない

客体験実践法

2011年09月06日 | Weblog
客体験を実際やってみればわかるが、

経営者は。まずできない。

ご本人は、お客になったつもりでも、全く駄目だ。



ついつい経営者の視点

ついつい競合店調査モードになっている。



そもそも歩き方、目配り、身体の動き、

そうしたものがとても一般の買い物客には見えないのだ。



それだけどっぷり、主観、売り手側の論理に

汚染されているのである。



そのことがわかるだけでも、最初は、「良し」としよう。





次に、家庭サービスのつもりで、

奥さんや子供の買い物について行く。

大型スーパーか百貨店がいいだろう。

この場合、「おい、あの売り場にいってみよう」

といったようにリーダーシップを発揮したら、

もうそれだけで駄目。



子供のお尻に付いていく。

奥さんの手を引く方についていく。



彼ら、彼女たちこそ、消費者であり、

あなたこそ消費者失格者なのだから。



どこの世界に、買い物をするに、

ぎんぎらぎんの経営的視点で、

売り場や商品を見る買い物客がいようか。





家族がいやがって一緒してくれなかったら、

それだけで消費者落第の印を押されたと見てよい。



が、仕方がない。無理に一緒せず一人で街に出かけて、

他の買い物客の後をついて行けばいい。



そんな暇があれば、経営書でも読んでいた方が、

といったことが少しでも頭を過ぎるようなレベルでは駄目だ。



やがて、自分は、消費者、お客様のことなど

まったくわかっていなかったんだと気がつく時が来る。



必ず。

客観獲得

2011年09月02日 | Weblog
お客を無視して、主観的に動いた報いは確実に訪れる。

それは、虫の知らせもなく、徐々に。

それがこのせいだ、という理由を知ることもなく、だ。





ならば、この今からその報いが訪れない布石を講じる。

それが経営者だ。戦略的経営者だ。





その布石。

「顧客第一主義」などスローガンにし、口で何遍唱えようと、

それは自分を中心において唱えているかぎり、

まったく意味もないし効果もない。



そんな布石、いや布石にも成らないことをやっては単なる先延ばし。

報いの方は先延びしないから、逆に滅びを引き寄せることになる。



布石とは、意志を持って、石を布のように

敷き詰めていくことを意味している



ここで意志とは、

客観、客が自分たちを観るのと同じ観点、視点で観ること。

これを意識して行うことを意味する。

つまり、主観の「主」を「客」に置き換える。





ここで布石とは、

この習慣を組織に徹底的に浸透させること。

これがなければ、絵に描いた餅だ。



ここで徹底的、というのは浸透率100%ということ。

難しいことだ。



なら、どうしたらいいかだ。実証済みの方法がある。

消費者体験を増やすことだ。

身銭を切って、自分が買い物をする機会を増やすこと。



他店視察、先進地視察といったように、

経営的立場をどこか頭に残して、といったことでは絶対駄目だ。

そうした売り手の意識を完全に抜き去ることが不可欠だ。



従業員にやらしてみよう、といったことを言わずに、

まず自分でやってみよう。



やってみればわかるが、経営者にとっては。これが実に難しい。

ついつい経営者の視点

ついつい競合店調査モードになっている。