経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

首を取る、ということ。

2014年07月31日 | Weblog
戦略が決まると、それをうまく成功させるためには、
戦術として、アレがある、これがある。
あれとこれと組み合わせて、今川の首を取る。
その一点に目的を絞った。
 
大軍が長く伸びきる場所はどこだ。
休憩を取るのは何時頃か。
何処でとるのかとか。
こうした情報も、この戦略と目的具現に則して集める。
ここでの戦術、あれこれを書くと
おもしろいのですが、これまた別の機会とします。
とにかく、戦略具現のための戦術を、
あれこれ組み合わせて(試行錯誤して)、
ばっちり義元の首を取ることに成功。

今川義元の首を取ったということは、
織田軍が強くて、今川軍が敗退したわけではない。
そうしたことは関係のないこと。
首を取ることが目的でしたから、
それにしたがって、義元の胴体と首を切り離した。
胴は、どうでもいいということです。
続く

首はひとつ

2014年07月30日 | Weblog

「自分たちが生き残り、今川に敗れてもらう」、
というこの大戦略を具現するためには、
今川の首をとるか、今川軍を打ち負かすか
この2つのいずれを選ぶか、
基本戦略が明確にされなければなりません。
戦略は常に択一。
信長軍は零細企業、対して今川は大企業
で、兵力の違いがありますから、後者は得策じゃない。

得策ではない方は捨てる。
そして前者を選択して、義元の首を取ることに決めた。
これなら今川義元の首は一つしかありませんから。
ターゲットは明快。絞り込みOK。
それに首一つに対して信長軍は多勢、
ということに条件が逆転することになる。
 
秀吉には、竹中(竹中、亡き後、黒田官兵衞)が
こうした戦略立案を担当していたようですが、
信長は自分でこれをやった。
さて安倍総理は、信長or秀吉型、どちらだろう。
秀吉型として、さて戦略参謀がいるのかいないのか。
これも機会があったら、考えてみたいところですが、
ココでは次に論を進めます。 
 続く

戦略の共有化

2014年07月27日 | Weblog


戦略は、一か八かじゃない。
織田信長の桶狭間の戦いを、「一か八かの奇襲作戦だ」、
「たまたま運がよかっただけだ」といったとらえ方を
している小説家たちが結構いるようです。

戦略を知らない上に、脳力開発の勉強をしたことがない
のですから無理もありませんが、とんでもない誤解です。

あれは一偶然の勝利でも奇襲戦法でもない。
信長が、いかに脳力開発の達人で、戦略家であっかの好事例です。 
戦略とは、戦いを例にとり、簡単に説明しますと、
たとえばほっとけば五分と五分の確率、
この場合それ以下の不利な条件でもって、
こちら勝つ率10,相手勝つ率0、
そしてこちら負ける率0、相手負ける率10、
この双方を確実に具現する、その大略のことです。

つまり、「うち、信長会社は小規模零細企業。
大企業の今川に負けて死ぬことも選択できるんやが、
負けたうえに死ぬのはいやや」、ということで、
こちらが勝ち、相手が負けるという戦略の方を信長は選択した。
同様、彼の部下も「わいも、死ぬのはかなわんわ。それ賛成!」
と多分に満場一致で賛成した。
これを戦略の共有化といいます。
(あなたのところ、この共有化ができていますか?)

その結果として、「自分たちが生き残り、今川に敗れてもらう、
という戦略が確立し、全員の戦略となった」というわけ。
信長株式会社は、
組織としての戦略の統一が出来たわけです。
戦略の統一が図れないと、組織として戦略機能は低下し、
ときには組織破綻に陥りますから、このことは重要です。
続く

戦略に内包されるもの

2014年07月24日 | Weblog


経営計画、販促計画などなど、
自分の願望やきれいなスローガン、テクニック
を並べる前に、消費者に行動してもらうといった要素を
主眼とした戦略設定が不可欠なのです。

つまり「消費者が積極的に支持、協力を
当社にしてもらうにはどうしたらいいか」、
これを考える。

たとえば、販促ならお客さんが競って買いに来てくださる、
他のお客にクチコミをしてくださる。
そのためには、当社は、私は何を為したらいいのか。
こうした思考のアプローチ、このことに苦心して頂きたいのです。

そもそも戦略の概念には、自分の考える目的達成のために、
自分以外の人たちに協力してもらうか、ということと、
それを自分以外の人たち自身の意志によって
やっていただく、この2つの要素が含まれているのです。

逆に言えば、この2つの要素,いずれが欠けても
戦略とは言えず、結果的にたんなる願望、ごり押し、
独りよがり、といったことになります。

戦術

2014年07月23日 | Weblog
理念は思いを込めた空気。
流れのない空気は、よどみに過ぎない。

これに流れと早さを方向を付ける。
これが風。

ですから 戦略は、風の方向、それも早い風。

脳力開発では、「戦略は大胆に、戦術は細心に」、
といった言い方をする。


おおざっぱだが、流れがある、
これは端(はた)から見たら、
まあなんと乱暴な、無謀な、
と思われることもあろう。

それを女房役が、
「まあまあ、そう言わずに、彼の大胆さは、
私の方で手間暇かけていろいろと、
埋め合わせしますから」、といって、
消費者接点でもって消費者が見える「形」にする。
これが戦術です。

俯瞰的全体

2014年07月22日 | Weblog
 「俯瞰的全体」

人の存在そのもの、生き方そのものが、
社会システムであるということ。

個は、不完全である、ということを前提に存在している。
それで個は,区々それぞれ不完全であるがゆえに、
不完全同士が、お互いの足りないところを補完し合あう。

この有機的結合体、あるいは集合体が、「組織」である。
この組織も又、1つの個体として、他の組織との補完関係を
もって全体組織を構成している。この全体組織を「社会」である、
としたら、この社会もまた1つの個体として,世界、
あるいは宇宙を成す・・・・といったことです。

なんだ、そんなこと。あたりまえのこと。
わかりきったこと、と思われることと思います。
私自身も、うすうすは分かっていたことです。

しかし、そうしたことを強く意識して生きていたわけではありません。
いな、そんなことは考えてもいませんでした。

つまり、私という個は、そうした存在である。
そして全体とのつながり、他の個体と相互補完関係にある。
というようなことは知ってはいても、それを「意識」して、
これまで、生きてきたわけではありません。

そこで、今後できるだけ「意識」して、
日々を過ごしてみよう、と考えたのです。

私の脳力開発セミナーを受講された方は,ご存じですが、
1に、「無意識にしていることを,意識してやろう」
2に、意識してやらねばならないことを無意識にやれるようにしよう」

これが学ぶことだ、と口癖に、言っています。

その学びも,机上ではなく、日常の生活の中で、と、
私が、「経営は日常生活の中で考えよう」と主張しているのは、
ここに起因しています。

話がそれました。戻します。

先ほどの話で、重要なのは「不完全」というキーワードです。
ここで「不完全」とは、次のことを言います。
「自分にあって他人にない状態」および「自分になくて他人にある状態」

とすれば、繁栄のために男は女を必要とし、女は男を必要とする、

自分は他者を必要とし、他者は自分を必要とするということ、
すべからく完全でないことが前提になっている、ということが・・・・。



晒せば

2014年07月21日 | Weblog


晒せば


人が考えていることは、文字、言葉、それに絵、音楽など
形として表現されなければ、自分にも、
ましてや他の人にわかるものではないし、
伝え、伝わることはありません。

そうした当たり前の話を、30年近く以前に、
師の城野先生から教わり、以来自分の思うこと、
考えることを毎日、書き続けています。

当て所もなく書いているのですが、
文章を書くときには、頭に「相手」がいます。
いつの間にかその人に対して書いている、
といった言い方が近いかも知れません。

そのことを強く意識したのは、メールを書くとき、
あるいはいただいき返信を書くとき、
頭に浮かんだことが考える切っ掛けになったり、
あるヒラメキが生まれたり、といったこと。
こうしたことを、しばしば体験したからです。

そのことから、文章を書くには読んでいただく相手が必要だし、
その相手を意識して書けば書きやすいということに気がつきました。
だから、私はメールを定型文で埋め込むことや、
打ち返しは、エチケット云々の問題ではなく、
場や機会を捨てることになりますからやりません。

そのおり頭に浮かんだものを、そのまま書き連ねる。
それが相手の方に関係ないことに広がったったり
あるいは、長文になり目を通すにあたり迷惑になる、
と考えたときには、その部分をメールから削除し、
メモソフト箱に入れて、醗酵を待ちます。

ちなみにこの文章も、先日貰った知人へのメールの
返信の一部から、書き出したものです。


事務的、無味乾燥なメールのやりとりこそ、
私に取っては、時間の無駄、もったいないこと。
このことは、ここに何回か書きました。

また他の人に、自分のおりおり考えていること、
あるいはかねがねから思っていることなど、
さまざまな機会を通じて、自分を晒すこと
この効用が、私を仕事を支えていいるのです。

自分を形にし晒せば他の方から様々なことを教わる。
こうしたことで人と人は補完関係にある、といったことも、
この晒すことから得た大きな学びの一つです。

以下蛇足。
強い表現で言うならば、
自分を晒さない人には一歩引いてしまう。
自分のことを伏せて、聞く耳を研ぎ澄ましても、
その耳には真の必要なものは入ってこないのではないか。
私はそう思っています。

単純に考える

2014年07月20日 | Weblog
「単純に考える 」

世には、変わるものと変わらぬもの
との2つで構成されています。

変わらぬものを押さえていると、
変わるものをとらえることができます。
列車が並行して、同じ方向へ同じ速度で走っていると
お互い停まっているように見えます。

こちらの列車が停車、隣の列車が左へ走り出すと、
こちらの列車は右へ走り出したように見えます。

ほとんどの人は、変わるものをとらえようとしています。
原理、本質は変わらないものに属します。
ですから原理なり本質を 掴んでいないと、
変化は、読みにくくなったり読み誤ったりしてしまいます。

ですから、経営でもセオリーを押さえている人は
容易に、変化が掴めます。

では変わらぬセオリーとは何なのでしょうか。
難しく考えるから、いけない。
(いえいえ、私が師に叱られたのです)。

私の師、城野 宏先生は、
「犬が東を向けば尾は西。別に尾っぽを見なくても判る」
と、教えてくれました。

私が、威張る人や俺が俺がという人から、
えっさっさっさ、と逃げるのは、
先(尾っぽ)を見なくても判るから、
付き合ってもろくなことにならない、
とこれまでの経験と歴史で学んでいるからです。

その対応として、えっさっさすることになります。
私なりの危機管理、魔よけなのです。

難しく考えなければ簡単です。
わかることをわかれば、後はわからないことです。
それをどうするかは、
わかることをまずきちんと押さえてから、
ゆっくり考えたらいいのです。

それを「わからない!」と全部否定する。
「何もかもいやになった」と全部否定する。
(それは表現の彩で)嘘だと思いますよ。私は。

パレアナ-御礼

2014年07月19日 | Weblog
昔書いた原稿に、少し手を加えて、
今日まで46回、ここに再掲してきた
「真・パレアナの研究」ですが、
元の原稿がここで切れています。

いつか、最後まで書いてみたい気がするのですが、
ここで撃ち切った当時の思いも大切にしたい。

すこし揺れているところです。

ひとまず、ここで終わりたいと思います。
長い間、読んでくださった方、
とりわけ強く応援しつづけてくださった昔の
仲間達に、心から御礼を申し上げます。

真パレアナの研究-46

2014年07月18日 | Weblog


「四つ葉、これを見つけると良いことがある」
という話が、パッケージされた形の知識として
日本に伝わった。

だから、日本人の嫌う四つ葉の
「4(死)」は無視されたのではないでしょうか。

最高の感動は第一発見者にあり、
ということであれば、それは少なからず、
知識に寄って薄められた感動といえるような気がします。

それが講じてくると輸入された感動のパッケージ、
他の人から与えられた「感動」に気づかず、
感動しているうちは、まだいいとおもうのですが、
感動を与えられないと、感動しない
と言ったことになる恐れもあります。

そういった風潮が最近は、とみに増えてきたのでは、
ということを言いたいわけです。


話を元に戻して、人は陽気さんのように、
四つ葉を「ラッキー」なものとして求めているのでしょうか。
もうおわかりでしょう。

三つ葉では心が動かされない、感動しない。
つまらない、おもしろくない。退屈するからからです。

強い言い方をすれば「日常性に対する不感症」が、
遠くのもの、極端なもの、特別なこと。特殊性に
ますます感動を求める、といったことでしょうか。

としたらそれは傾向として
決して喜ばしいことではない、と思うのです。

まして自分だけ四つ葉を手にいれて、
自分だけが「ラッキー」と思いたい、
ということであれば、他の人への優越感、誇らしさ
といったことがどこかに出てきて、他の人の羨望、妬み、
嫉妬を生じさせ、日常性のおだやかさに、
波風をたててしまうことにもなるでしょう。