知識は固形燃料に似ている、その理由は次の2つ。
1に、いくら持っていても、使わなければ
まったく何にもならない。
2に、固形燃料は、すき焼きとか焼き肉とかを
煮たり焼いたりするときに役立つもので、
それそのものを使うものではない。
だから料理屋で、
固形燃料を料理やその材料として出すところはない。
知識も知識そのものが直接ひらめかしたり売り物にしたりはない。
企業であろうと、人であろうと、
「知識」そのものが役に立つことはない。
料理屋の冷蔵庫の中の材料と同じようなもの。
料理の材料がそのまま、お客に出下としたら
お客は、当惑し、怒るだろう。
知識も、そして「知っている」も「わかる」も、
自分の経験、知識の範囲内のものである。
ましてや知識が、外部の人の行動を動かすことにはならない。
そもそも自分以外の人は、
こちらの思うように動いてはくれない。
自分の思うように動いてもらうためには、
「戦略とその共有」が不可欠な所以である。
共有とは、世には大きく分けて、
自分が知らない世界と知っている世界とがあって、
「知っている」、「わかる」は
自分の範囲以内でのことにすぎない。
だから言葉を発したり行動したりするときは、
自分の知らない世界がいっぱいある。
それは自分が知っている世界とは比較にならないほど
広い世界なのだという謙虚さ、
それに、自分の世界は、自分ですらわからないことがある。
ましてや他人が、私の世界をわかることは大変なことなのだ、
といった認識があってこそ、人を受け入れられる。
違いがあるから、そしてわかり合えないところがあるからこそ
相互に補完しあえ、相互に学びあえるということを前提に、
他者と戦略を共有する。
ここに「共有すること」の意義と本質がある。
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