経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

車より、人心への対応

2006年01月31日 | Weblog
 街が衰退する理由に、「車社会への対応の立ち遅れ」といった指摘をよくきく。もっともに思えるが、果たしてそうであろうか。
私には渋谷や新宿などの繁華街が車であふれているとは思えない。大阪の難波も心斎橋にしてもそうだ。ずばり言って車ではなく人があふれているのである。
もちろん地方と大都市では現状がまったく異なる。東京、大阪などの大都市は、実は車社会などではなく、伝統的な公共交通や歩行に頼っている街なのである。車で通勤やショッピングする人なんてほとんどいない。だからこうした街には歩く人があふれているから賑わっているのである。つまり。街の賑わいは、歩く人の数であって、車は決して賑わいを構成しないだけでなく、むしろ弊害になっているというのが実態である。

地方商店街の中心は、昔は人通りの多かった旧国鉄駅前通りや国道沿いであった。ここらの土地は密集度も高く、地価も高価で、後発の大型店は郊外への出店を余儀なくされた。郊外となれば、歩行客は限られるから、それなりの駐車場がいやでも不可欠になった。また地方では、日常の生活において一個所で用を足せないから車を使わざるを得ない状況下にある。こうしたことが郊外出店が余儀なくされた背景にあるわけで、それをあたかも流行やブームのごとくいうのは誤りである。
繰り返すが、元来商店街は歩くということを根底になりたつものであるから、商店街としての駐車場は必要にしても。個々の商店には客用の駐車場は不必要ばかりか、個々の商店が駐車場を持つことで、商店街としての本質的な機能性を喪失したマイナス効果の方が大きかったといえる。なぜなら、車でくる限り、歩行者は減少するし、商店街の回遊性もワンストップショッピング性も喪失する。このことが地方の商店街の衰退理由である。
一言で言えば、人への対応、もっといえば人の心への対応が、最優先されるべきなのである。

推挙したのはミスッタかな

2006年01月30日 | Weblog
 戦略の本質は、相手をどう動かすかではありません。
 どうしたらこちらの戦略に協力して,動いてもらえるか、です。ですから、使われる立場から戦略を使えない、ものを見れない人が、どうして「お客の立場に立って、接客しなさい」といえるのか。いや、いえても、誰もやれない。

 そもそも売場が対面売場だ。これだけでも自己矛盾です。
 
 あなたの部下、かりに98人が、こうした矛盾をひややかに見ているだけ。これでは98人分の人件費は出ても、業績に繋がる行動は出ませんよね。

 ここで、また、「うちの部下が思うように動かないんだよな」、などと戦術に責任を振るようでは、だめ。トカゲのしっぽ切り。

 日常の風景の中から、いくらでも戦略をわかっている人、そうでない人、事例など拾えますよ。それが皆、私の教師でもあります。 

 先日医「ホリエモンを推挙したのはミスッタかな」と、奥田経済連会長がいってました。すごいですね。「自分の誤り、ごめんなさい」といえる。これが戦略をわかっている人の基本姿勢です。さすが、と感服しました。

 この点、小泉さんたちはミスリましたね。言い訳すると、さらに分けた分、追求の選択肢が増え、追求しやすくなる。マズカッタですね。「猿も、木から落ちる。人も墜ちる。ごめんしゃい」といっとけば、この世に間違い犯していない人は、キリスト言っているようにいないわけだから、「その女、石をもって追え」はできなくなる。

 戦略は、たとえば言葉という石で相手にどう動いてもらうか、といういわば石の行き先、影響までを含んだ概念なのです。

神の国の形-7

2006年01月29日 | Weblog
生産者が栄え潤っている時代には、その一方きびらやかな商業の栄華があったことは歴史のどの時代をかいま見ても理解できよう。行政はこのことを再確認することだ。そしてこのままでは完全に衰退していく第一次産業や、全国各地で断末の声を挙げ始めた企業城下町や基幹産業の活性化に、消費の場づくりという視点から、街づくりを早急に見直し、具現して行かねばならないと考える。

 いまの日本の不況は、かつての英国のごとく、工業すなわち生産基盤拡大への偏りとひずみが招いたものであると、私は見ている。
中国、韓国、その他多くの発展途上国が、すべからく生産基地として、国家ぐるみで工業都市を目指している。いわば構造的に生産過剰によるデフレ基調が継続されるのは、必死である。人為的にこれを弱インフレーへ持っていくのは、この国が小泉政権のほとんどを懸けて費やしただけの期間と膨大な犠牲とエネルギーを要したのは、周知の通りだ。

 本稿では触れなかったが、避けることの出来ない少子化問題を加味して考えるなら、国内需要ではみ出した量が、国外に流れ出すことで国際的な摩擦が避けられなる、といったことは必死である。

 これからの日本が目指すものは、原価や量をベースとし、画一化、合理化を旨とする生産拡大志向の国や都市ではなく、売価や付加価値をベースとし、多様的なニーズへの対応を存在基盤とする商業の国、サービスの国、商業の国、商業都市づくりであると思う。(おわり)

神の国の形-6

2006年01月28日 | Weblog
 ずばり再生産と継続的に税収入の望める投資は、消費の「場」を活性化すること、街づくりなのだ。そのための資金は、これまでの負の投資を振り替えれば十分捻出できるし、この投資によって第一次産業、メーカーも負からの脱却が計れ、プラスに転じることすら可能なのである。なぜか。答えは単純、明快である。


 ものが売れればお店も儲かるが、問屋、素材メーカー、第一次産業も儲かる。儲かれば、生産意欲は増す。これが流通というものである。だから消費が生産拡大を牽引する構図に持っていく。そのためには、消費の蛇口の場である街の充実が決め手となるということだ。
 換言すれば、流通のひずみの是正は、生産の問題というより消費の「場」の脆弱性、すなわち街の衰退にあるとみて、ものやサービスがどんどん売れる街づくりに力点を移し、投資とエネルギーを振り替えることだ。自らの街づくりを放置し、この消費の「場」を郊外の店舗や大型スーパーに委ねた結果が、画一的な町をつくり、また中心商店街の空き店舗問題などを生じさせたのだ。

 行政にとって売れる街を作ることは、産業育成の意味からも流通システムからみても最高の収益を生む投資であり、商店街の便宜性がレベルアップすることで社会人口増も税収も確実に見込めることになる。生産者が栄え潤っている時代には、その一方きびらやかな商業の栄華があったことは歴史のどの時代をかいま見ても理解できよう。行政はこのことを再確認することだ。そしてこのままでは完全に衰退していく第一次産業や、全国各地で断末の声を挙げ始めた企業城下町や基幹産業の活性化に、消費の場づくりという視点から、街づくりを早急に見直し、具現して行かねばならないと考える。続く

神の国の形-5

2006年01月27日 | Weblog
真意という言葉だが、政治家が、「言い訳」ととられ、使いにくくなった。近所の中学生が、学校で「僕の真意は、、、」と何気なくいったら、先生から「言い訳するな」と叱られたそうである)。

 経済の低迷には、流通問題がある。端的に言えば供給の量に対して需要が少ないのだ。このギャップが値段を下げても売れないという状況、構造的不況を作っているわけである。過去、繊維であれば生産調整のため、機械買い上げて叩き壊すのに金を投じてきた。さらに需要が低迷したらまた機械をつぶす。これで確実に産業は極小化していった。何のことはない。保護政策がその産業の臨終を早める役割を果たしたのだ。このように太れないで困っている人に、やせ薬を飲ませたりだぶだぶになった服を買い上げたり、といったことを国がやってきた。農作物だったら生産調整と称しブルドーザーでつぶしてしまう。こうした全く後ろ向きのことにお金とエネルギーを投じている。だからじり貧になってくるのは当然である。
 消費の低迷とは「売れないこと」である。だったら「売れるようにする」のが対策であろう。こんなこと子供でもわかる理屈ではないか。
 ところが売れるときは作れ、作れといって増産奨励していた政府が、売れなくなったら、機械買い上げるから減産しろという。繰り返すが、投資は、見返り、投資効果が高く、長く続くところになされるのが定理である。では、行政におけるこのハイリターン、しかも確実性の高い投資はあるのか、ないのか。あるとしたら何なのか。
 ずばり再生産と継続的に税収入の望める投資は、消費の「場」を活性化すること、街づくりなのだ。そのための資金は、これまでの負の投資を振り替えれば十分捻出できるし、この投資によって第一次産業、メーカーも負からの脱却が計れ、プラスに転じることすら可能なのである。なぜか。答えは単純、明快である。続く

神の国の形-4

2006年01月26日 | Weblog
 基幹産業をもたない都市が栄え基幹産業をもつ町に衰退が見られるのも、大都市ほど、かっての自民党が苦戦したのも、民の欲望(ニーズ)があまりにも分散、拡散しているためその実力が発揮しづらいためである。
 だが、共通項はある。そこに小泉自民は気づいた。それはこれまでの利益誘導から、不満解消への転換である。

 だが、大都市に対して地方・郡部が貧しいかぎり、そして郡部の求めるものが「画一」というキーワードで束ねられる限り、郡部における古い「自民党(的手法)は、依然として不滅」、。これが先ほどの「ねじれ」の理由である。
かんたんい言えば、都市部には一人のマドンナがいれば良いが、地方ではマドンナより、角栄的マンの存在なのだ。
 
 元に戻す。
 たまたま、冒頭で例に農業を取ったがまったく他意はない。これは農林水産すべて、つまり第一次産業、そして素材メーカーが共通して持つ問題である。炭坑も、繊維もそう。農業も土から種蒔いて生産物を作るわけだからメーカー。みな同じ。
 
 きわどい言い方しているので農林水産、繊維等の関係者の方は誤解しないでほしいが、需要が低迷し、生産過剰の状態のところにお金を投じることは捨て金になると言った真意は、「投資する場所が違う」という意味である。(真意という言葉だが、政治家が、「言い訳」ととられ、使いにくくなった。近所の中学生が、学校で「僕の真意は、、、」と何気なくいったら、先生から「言い訳するな」と叱られたそうである)。続く

神の国の形-3

2006年01月25日 | Weblog
 以前、中尾某元代議士の事件で、「みんなやっていることだから」という声を耳にしたが、これは実に怖いことだ、とコラムに書いたことを前日再掲した。

 事実、今回のライブドア事件でも、「ヒルズ界隈ではビジネスモデル化していること」言われているのだ。法に触れたら犯罪として弾劾することは当然だが、法に触れるか、触れないかは自己判定ではない。だからどこか一歩引いた内輪目に境界線をひくば、なんてことないのだが、はこれまた己へより多く、より高く利益を誘導したいがため、自らの「最先端企業の寵児」と、どこかで自らを崇め、消費者があってこその事業であること無視しsた情報操作は、これまたかって民の代理として議する代議士が、「民」の上に位置する「神の国」の人、天の声を放つ人、と錯覚していたときと同様、時代の寵児として祭り上げた私たち民も、ジャーナリストも、その責務を強く問われなければならないとおもうのだ。

 ところで大型店や大型商業施設の方の出番で忙しいのか、両取りは気が引けるだけの良心だけは残っているのか知らないが地元の街づくりには、これまでは神の声や天の声は少なかったし、あったとしてもその子分の「田の神」や「地」の声だそうな。

 こうしたゆがみの中に実は地域が衰退する本質的な土壌と構図が存在し、悲しむべきことだが、それは民一人一人が、それぞれの意志決定の総和でもあることを認め、自己反省しなければならないことなのだ。少し大仰な言い方ではあるが、民主国家としての未熟性が、この国の経済面も含む発展性を脆弱でいびつなものにしているのではなかろうか。続く

神の国の形-2

2006年01月24日 | Weblog
(昨日に続く)
 それもそうだと認めよう。とすると財政はどこの市町村でも厳しくなっている中で、こうした基幹産業の方にお金が大きく振り分けられることが何年も継続されるわけだ。このことは裏を返せば、これ自体が負の投資であるだけでなく、他の投資の制約、未来投資、次のエースを創成する機会損失を逸することの「立ち後れ」が大きいマイナスとなる。この機会損失の額と影響の大きさは前者の比ではない。このことは反論者にも理解できよう。そこでこの地域住民の振りかかる大きな遅れの損失に関しての行政責任については如何?さ、どう答える!さてさて、どちらの方が(広い、狭いという意味も含めて)公共性向が高いと思われるのか。しかし、行政マンは単にその視野や意志決定が短期的,狭義的であることを仕方なしとしたら、その地域の経済的発展に対しては、もっとも純粋で素朴かつ熱心である。
 問題は別のところにある。見過ごしてはならない由々しき問題と誰しも分かっていて、けっこう知らぬ振りしているという問題が確実に存在しているのだ。それは多くの地方における神の声とか天の声と呼ばれる国家(国民)のお金を一部地域や企業に誘導する政治家が公然と存在していることである。しかもこうした公共性あるお金を特定地域の利権誘導することが政治家としての実績となったり郷土愛を鼓舞したりすることすら首を傾げたいのに、時として現金(げんなま)を己に誘導する者もいる。それも私たちは、たぶんには氷山の一角として稀に露見し、世間の話題になるものを知っているに過ぎない。それもいつの間に収まってしまう。こうしたことの繰り返しで「国益」とか「公共」という言葉うさんくさいものに感じるようになった。反面、「狼と少年」の話よろしく、国民が政治家のこうした不始末に対した驚きと不思議さを感じなくなってきたことも事実である。最近の中尾某元代議士の事件に関しても「みんなやっていることだから」という声を耳にしたが、これは実に怖いことだ。(続く)

「神の国のかたち」その1 

2006年01月23日 | Weblog
 地方郡部では農業が基幹産業という所が多い。ところが農業の実態というのは、一部の市町村を除けばすでに基幹産業の地位を失っている。あるいは他に大した産業もないため、農業や林業が基幹産業と称されているケースも少なくない。しかし私には、その地域の稼ぎの担い手で、ある産業が基幹産業であって、補助事業や奨励金が、国庫、県庫からどんどん出される産業が基幹産業として位置づけられているのは、どうも納得いかないのである。補助金や奨励金は、企業でいうならば投資である。投資は、得るべき効果がもっとも高くリスクが最小のところになされる。諸々の施策に基づいての補助金や奨励金の場合、全部がそうだとは言わないが、ハイリターンの期待するどころか地盤沈下や衰退すらくい止めることもできないのは周知の通りである。言葉は悪いがかつての体裁を維持するための捨て金といった方が近いのかも。
「行政の補助金、助成金には、民間とはことなり採算一辺倒ではなく、いまは採算あわなくても、将来を期して育成するという重要な意義がある。それが公共性というものだ」といった反論がある。
 それもそうだと認めよう。とすると財政はどこの市町村でも厳しくなっている中で、こうした基幹産業の方にお金が大きく振り分けられることが何年も継続されるわけだ。このことは裏を返せば、これ自体が負の投資であるだけでなく、他の投資の制約、未来投資、次のエースを創成する機会損失を逸することの「立ち後れ」が大きいマイナスとなる。この機会損失の額と影響の大きさは前者の比ではない。  続く

両面思考を知らない経営者たちへ

2006年01月22日 | Weblog
 脳力開発では、プラスもマイナス、陰と陽を等しく扱う。だから世にきく陽転思考とは異なる。これは陰をを劣るとみて、明るくなろうよ、といったニュアンスがある。つまり最初から、男女平等。対して男女均等(法)は女性を差別しているからこれを是正しょうということで、陽転思考に似ている。

 もし姉歯さんが、脳力開発を知っていたら。ほりえもんが知っていたら、間違いなく世間に大なる迷惑をこかけ、自ら墓穴を掘るような意思決定は為されなかっただろう、と思うのである。

 両面思考は、今儲かる話だが、将来はどうだろう。ばれなかったらナンボの儲け、ばれたらナンボの損、といったことを科学的計算性に基づいて、平等に吟味する思考法である。

 戦略は死活に関わる意思決定だから、当然この両面思考における作業・計算に基づいて意思決定されなければならない。山勘、一か八で、自分と企業の運命を決める人がいるとしたら、それは経営者失格である。

 このことで、歴史から見てどれだけの政治家が、どれだけの経営者が、否彼らだけではなくどれだけの人たちが失脚していったか。天災、人災を含む、当人の意思決定に直接的には関わりなく失脚したり殺されたりしている人には、大いなる同情と遺憾の意を示されなければならないが、自らの意思決定で自滅していく人には、冷たいようだが自業自得と言わざるをえない。
 その上で再起を図る場合には、脳力開発、戦略などぜひ勉強してから、と師の口癖を真似て言って置きたいのである。