経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

ドミノ現象がまねく「世間の評判がちょっとね」

2005年10月29日 | Weblog
会に遅れる人がいる。途中抜けたり、頭だけ顔を出す人がいる。またコロコロ予定変更をする人がいる。そして彼らの多くは、自分は偉い、忙しい身分なのだから許される。許してもらっていると信じて疑わない。中には自分が大物であることを誇示するために、わざわざ遅れて参加し、待ちかまえた連中から拍手で迎えられることに快感を見いだしたがる者すらいる。
  
 だが彼らのこうした不遜さの被害者は、例外なく傷つき、不快感をもつ。時には恨みすら抱く。なぜなら人は自分が無視されたり、軽く見らたりすることほど、自尊心と尊厳が傷つけられることはないからである。 そしてその彼への怨みは、加速、拡大され、広がっていく。ドミノ現象が起きるのである。

 なぜドミノになるかといえば、人は人の関係、つまりリンク状態にあるから、Aのドタキャンは、その相手のBのドタキャンになる。BのドタキャンはCの予定変更となりCもまたドタキャンをせざるを得ない、といったように。 リンクされたつながりを通じ、ドミノ現象が起きる。みなドタキャンを自分を震源地としたくないから、「あの人のせいで」と、今度は逆方向へ向かって震源地を追うことになる。こうして震源地へたどり着く。

 「またあの人だ」といった情報が思いもかけないところまで、しかも拡大されて流れる。そうした彼らを人々は信頼しなくなるのは当然だ。
 本人の居ないところで「世間の評判がちょっとね」という言い方を名指しでされるようになったら、まず遠からず挫折する。これはドミノが発生した結果、これまでのリンクが徐々に切断されていくからである。

 悪い例で示したが、このドミノ現象が善で起きると、「(世間で)評判がいいよ」と、会う人ごとに言われることになる。思いがけない人から助けてもらったりする。これまたドミノ現象である。

 ドミノは良い方向へも悪い方向へも流れる。最初の人が、どちらへ倒れるかによる。こう考えると、「自分が中心、自分だけ良し」といった生き方は、結局は自滅の戦略、反対の「他者が中心、他人良し」の生き方は、実は発展の戦略になる。
 戦略だから、どちらでも自分で選択できる。

世界の中心でないところで、アレを叫ぶ 

2005年10月28日 | Weblog
 生きていること、これすなわち呼吸していることです。
吸うだけ、吐くだけでは息切れするのは自明の理。呼吸の本質は異質のものとの共生にあります。動物が吐くものを植物が吸う。植物の吐くものを植物が吐くの共存。こうしたリンク、共生の中に生物は生きている。どんな生きものだって,いな生き物以外も共生のリンクにある。一人じゃ生きられないぞ、とか一人で生きてるんじゃないぞ、とか「活かされている」というのは、ここから来ているのだと思います。
 
 ですから広い世界の中で、このちっぽけな自分だって、必要不可欠な存在なんだ、と自らの価値を自ら認めて、胸を張って生きていける。
 それはいい。それが講じて、この俺様がいるから、おまえさんも、といったことになると、いかがなものでしょうか。自分の鼻が長く、高くなったことに気づくようならいいのですが、それがなかなか。内の中の自分は、外から見えない。外の自分も見えない。自分の内ですら、果たして見えているのか。おおぼつかないところですからね。
 
 「かって」の私がそう。恥ずかしながら自分でまったく知らずして内弁慶、天狗になっていました。自分だけの世界を作り、それを大きくすることに他を顧みることもなく、外とのリンクを切るあり方をし、ただひたすら忙しくに夢中でした。忙しさを誇り、あらゆる言い訳に使い、それを当然のことと確信していました。まさに天動説論者。「かって」、と書きましたが、今も対して変わったいないのでは。

 ただ今、わかったことは、それは誰のせいでもない。私の選択したことだ、ということです。ですから過去の選択に選択に言い訳はせず、それを改め除去し、新しい習慣を作り装填する。大変ですが、この私自身への革新を計っていきます。
 遠回りかもしれませんが、やらねばなりません。大変かも知れませんがなさねばなりません。

 なぜなら、もちろん私も含めですが、企業経営者に向かって経営革新を説く経営コンサルタン自らが、頑迷でし自らの革新に背を向けるのでは、まさに噴飯ものではないですか。

  あの名作、映画「自転車泥棒」の父、子供の前で自転車を泥棒してしまった父のあの情けなさ、辛さ。胸がキューンと痛み始めます。ジキルとハイドならともかく自己矛盾に苦しまずに、自責の念なしに、平気で人様に経営革新、経営革新と、叫び続けることは、私には耐えられないのです。かっこうをつけるようですが、少なくとも、こうした仕事を通じて自己革新が図れれる、この仕事冥利のチャンスを大事にしたいのです。

 ありがたいことに、仕事をする限り、仕事を通じて、自己革新を図れる。機会がもてる立場にあるわけですから。その意味で、もっともっと様々なリンクを広げていきたい。生きる世界を広げていきたい。世界の中心でないところで、そんなことを叫んでいるのです。

バレンタインデーは不変だが、監督の用兵は変化対応が旨

2005年10月27日 | Weblog
道具は,やる仕事によって変わる。不動の4番バッターというのは、あくまで彼がどんなピッチャーに対しても、どんな投球に対しても対応できる選手であるということを前提にしている。
その確信が乏しい場合、あるいはより確実性を高めるために選手も相手によって変える。ロッテのバレンタイン監督のことだ。
経営者ならずとも、戦略によって戦術を変えることは、ごく常識であろう。そのために己を知り、対応する相手を掴むことが不可欠になる。
 その意味で経営計画も当然のことだが、まず己を知るという、いわば在庫調べをやる必要が必要がある。ついに対応する相手も掴むことになる。この場合相手は単独であることはまずない。不変であることもない。諸行無常、すでに変化していく。ところが対する計画の方は、そもそも動いているものをピンナップするようなものだから、どうしても固定的になる。
 しかも、その固定された計画をもとに、変化に対応していこうとするのだから、やむを得ない面はあるにしても、計画を是、あるいは絶対重要視し、変化を非とし厭い軽視する風潮が珍しくない。
その象徴かとも思える「目標、必達!」といったシュプレールコールなど目の当たりすると、その勇ましにはどこか滑稽さを覚え、苦笑せざるをえない。

 そこには計画は絶対不変・固定・死守、力不足は神や仏の手も借りてでも必達といったように科学的計算性に裏付けされたシステム論の中に、まだら的に精神論が入り込む、というのが良くても悪くても日本の経営の特徴のようである。

計画より、対応に重点を置くことへ、転換を図ることが大事だ。綿密な計画を立てても、変化が激しいと、計画に固執すること自体、対応不能のスクランブル状況を引き起こす。
したがって大まかな計画をたて、現場の状況に臨機応変、かつ細かに対応していく、といった柔軟性が極めて重要になる。
 過去と今を結び、その延長線上にやがて今となる未来があるといった論理を前提とした予測は、もはや化石化している、といってよい。未来は、過去や今に、無関係に今に向かってやってくるのである。としたら、その未来を読み、これを仮説と呼んでいるが、その上で。それに対応する対象を準備し、積極的な意思での「待つ」という姿勢が不可欠になると考える。
私はこれを、待ち受け理論と名付けている。相手がどう出るか分からないのに、こちらの姿勢を先に決めたのでは、対応できるわけはない。これは野球と経営と、同じことである。

何もこのほど新しいことどではない。先の後手は、これから重視されるキーワードとなろう。

真の経営はこれまでの中や延長線上にあるのだろうか、と首をかしげる僕だった。

2005年10月26日 | Weblog
 1945年に封切られた「素晴らしき哉、人生!」というアメリカ映画があります。その最後の方で、「友がいる限り、敗北者ではない」というメッセージが出てきます。

 申し上げたかったことは、この「友」のこと。この映画の主人公 ディームス・スチュアート演じるジョージは、中年に至るまで何1つ自分の夢は実現できませんでした。 
 ここからです。申し上げたいことは。
 彼は自分の夢を果たすことにはことごとくうまくいかずでしたが、よく考えたら素晴らしい津前終えているしかわいい女の子にも恵まれている。それだけじゃない。実は、結果的に町の人々の夢を果たしたのです。
 自分の得を考えずに、町の人の方が良ければ良しの彼のあり方が、町の人たちの心に長い間懸けて蓄積されたのでしょう。それが潰れること間違いない彼の会社を支えてくれることになる。まさに「情けは人のためにあらず」です。
 
 ここで彼が目標として、困ったときに支えてもらうために、町の人に善くしていく目標を、最初に立てて動いていたらどうなったかわかりません。わかりませんがそれは、打算には間違いない。恩着せがましくとか、「いざというときのために人脈を」というのでは、どうでしょう。
 。わかりあmせん。わかりませんが、ここはやはり主人公のジョージみたいに企みなしに、というのでなければ、町の人、イコールお客様ですが、みなジョージを友として助けてくれることはないとおもいます。企みのない人への親切、行為お世話などが、蓄積されて、信頼や信用を築く。この巧みのない関係を、この映画では「友」と解しているわけです。
 
 事業も商いも、儲けなくてはいけませんですよね。そういう意味では経営は打算。打算という言葉が気になるようでしたら営利といってもいい。ここがボランタリーとは区別されるところです。

 ですが打算や営利を掲げて突き進んでアプローチすることを、消費者は歓迎しませんよね。そこで猫を被ると言うか、声と側面を見せないといった工夫もあるわけですが、。結局ははぎとってしまうと同じことです。

「どうせ買うんだったらあいつの店で」とか、先ほどの映画の町の人々みたいに、「ジョージを助けてやろう」という気にさせるもの、そう動かせる「もの」は何なんでしょう。こうしたことを本当に真剣に考えてみる必要がありそうです。
いわゆるこれまでの経営、あるいは経営学の中だけに、、経営のあり方や商いのあり方があるのでしょうか。これまでの経営の枠を離れて、考えてみたい、それが和菓子の最大の関心事です。

まだまだ思考と組織はヒットラー。

2005年10月24日 | Weblog
 某経営コンサルタントの持論、長所⇒優点、短所⇒欠点という考え方に対して、私は恐ろしさを感じた。無意識であろうが意識的であろうが、自らを神仏の位置におき、自らを優者に、顧客、読者を劣者と見立て展開される論理の裏には、その表現される文章とは裏腹に、傲慢さと論理矛盾だらけだ。
 一例。彼は曰く。「長所を伸ばしなさい。そうしたら欠点は隠れる」。これまたおかしなことだ。お餅の表と裏は同じ。表を伸ばせば裏も伸びる。

 長短は、個性の違いである。だから長所を活用、短所を活用。長短を組み合わせて活用するべきもの。そもそも長短など相対的なものである。鯨と蟻を対比させてどうなろう。ようは生きていくための組み合わせ、活用すべきもので、優劣を論議されるものではないのである。
 
 陰と陽、上と下、右と左、雄と雌、どちらが欠けても、もう一つの概念はない。だから違いがあってこその両者、個々の存在なのだから、同一化、同質化もその存在を否定することになる。もちろん優劣の論議の対象になること自体、おかしいのである。
 
 優勢民族、劣勢民族を叫んだヒットラーに見られるように、長短両者に優劣を際だたせるために、片方を劣等民族と見て消滅させる、といった考え方は、今は恐ろしく危険な考え方と誰しも思っている。だが今なお、こうした優劣論理が、こうしたしたり顔した者によって、もっともらしく堂々幅をきかせているのを憂う。
 
 個々、個性を生かし、さらに両者、助け合い、組み合わせの工夫を計って良き方向へ、これがこの世を進歩発展させてきたし、これからもそうだ。
 違いを認め合い、さらに違いを組み合わせて最大成果をというのが、組織の本質なのだが、はて自分の企業の組織は、どうだろう?優劣で配置しているか。それとも違いで配置しているか。いやその前に自企業の従業員をどう見ているか。仲間?、雇用者?、兵隊?、労働者?
 
 道徳でなく、倫理でなく、企業の論理に限定してでいい。どうしたあり方が、人を生かせるのか、ひいては自社の進歩発展に機能するのか、思いをそこへ持っていく。それがたくましい、しぶとい経営者、と考える。

信頼が、経営や商いの繁栄の根本だと田舎で大声で叫ぶ人

2005年10月23日 | Weblog
数字や文字の変動、また言葉の変節には、必ず連動する「何か」がある。 その何かが分かる裏付けをとることが、発言や文章の高める、ということです。しかし,言葉に言葉をk重ね、文字に文字を重ねる。こうしたやり方では、「信頼される」には不十分である。

 人は他人から気に入られる為に色々と言動を工夫できる。そのために化粧や虚飾が用いられることはごく普通のことである。人の心はのぞみ込むことはできないから、外に現れる表面的なもので判断しがちだからだ。

 極端にいうなら、外見や言葉や文字や、言動は騙すつもりならいくらでもだませる。とりわけ言葉や文章は、表現の巧みさに幻惑されるという、クリスキーさが避けられない。ですから恣意性なくとも、実体との乖離は少なからずある。

 こうした一種の化粧と虚飾の中で、私たちは日々の判断をなしていることを考えれば、その判断自体、「絶対普遍」のものではないことを、心の片隅に置いておく必要がある。
 その上で、やはり、最終的にはその人間の信頼性がどうか、ということに信の重きをおくことである。すなわち人に信頼性とは、これまでがどうであったか、普段はどうであったか、日常の生活しはどうであったか、ということ。端的に言えば、時間軸で見ることである。
 
 結局、信頼できる人間というのは、過去をどれだけ信頼すべき些事、小事、中事、大事、を積み重ねてきたがであろう。(重要なことは大事だけをみて、主事を見落としてならない。念のため)。
 だから、過去を繰り返し、約束を破ったりドタキャンを繰り返す人が、「オレを信頼してくれ」とか「当社は信頼のおける会社である」といったところで、人は信用しないであろう。
 
 もっとも、これを逆でにとる詐欺商法もある。古い話だが、私の神の会社が、取り込み詐欺にあって商品をごそっと持っていかれたことがある。
 その間、1年間に21回の取引すべて前払い、22回目に、「数日後に払うから」と言われ、騙されたのである。
 しかし、これにしても、もう少し用心深くその人の人間的な側面からの信頼どうというものを過去にさかのぼって把握できていたら、避けたことだ。

 言いたいことは、情報化の時代、アナログの時代、殺伐とした時代、人間不信の時代、、、。だからこそ、人間の信頼性が最終的な商いの成否に占める比重が高くなるということである。
 おこがましい言いようをお許し願いたいのだが、私が15年ほど前、仕事の軸足を「商人道」に置いたのは、これが理由である。

 断定していい。信頼される人がやってこそ、信頼される経営、信頼される商いをなすことができ、よって人々から支えられ、未来営業の繁栄を可能にするのだ。
 

友達がいない人が率いる企業体にとうして投資してはいけないの?

2005年10月22日 | Weblog
 世の中のすべては、「つながり」でできていて、つながっているからこそ生きることができます。これを逆に言えば孤立していたのでは生存できないということです。なんらかの縁で数々のつながりができ、その中でとりわけ親和性の高いものが、群れ、あるいはグループやネットワークをつくることになります。そして群れは群れとして、相互に情報交換を行い、連携性を高め、群れの整合性の確率や精度を高くしていくことで、群れとしての機能性、目的が生じるとそれは有機的に結合され1つのシステムになる。個は、個として完全に独立を保ちつつ、こうしたシステムのもとに生きていくことになります。

 早い話が、友達がいない人は、このステムから除外される。人間の身体は1つのシステムですが、ガン細胞が恐いのは、このシステムから孤立しているだけではなく、システム体を構築している正常な細胞を破壊するところにあるとされます。
 同じ様に、他とのつながりを損得とか、利害とか、効率とかいった、おおよそ非人間的な要素でしか見ず、他との関わりをいわゆる企業の論理における関係上にしか構築できないは企業は、世間から孤立するだけではなく、同時に他の企業体にとっては、「困る」存在になる。だから結果として排除されることになります。
 
 ですから皮肉なことですが、自分一人ひたすら頑張り、努力するタイプと言うのは、孤立化、いわば死へまっしぐらしていることになるのですが、その結果が出るま本人にはわからない。そこに怖さと、他者から見たときのお気の毒さがある。
 ですから端的に言えば、友達がいない人が率いる企業体と言うのは、その意味でまずうまくいかなくなる危険性は高い、と見ていいと思います。
 
 

鬼の爪に外国の陰謀が見えた話が省エネの話になる話

2005年10月21日 | Weblog

 嶋崎喜一先生のブログhttp://log.soshin.cc/で「DNA活性化体験」を読み、またも奇遇と驚いた.

山田洋次監督の「隠し剣 鬼の爪」という映画で、武士の歩き方を、西洋風に今の歩き方)に手直しするシーンが出てくるので、気になり暇が出来たので、調べていたところだったからだ。ちなみに最近は、こうした偶然、奇遇が多くて感嘆しきり。
 
 日本人は、武士の歩き方を見たらわかるが、右足を前、同時に右手を前、左足を前、同時に左手を前の歩き方。これを明治になって改めた、という。ちなみに四つ足のものは、みなこの歩き方で、勇逸人眼だけが例外。さらにちなみに、ムカデが今の私たちの歩き方をしたら、生きてはいけない。(^_^)

 この古来の歩き方が、ナンバ走り、もっとも省エネで、筋肉、骨への負担がない歩き方でとか。でもこのナンバに関心が、というより嶋崎先生が、登山で遭難しかかった折、とった歩き方がいかにも理に合っていて、ひょっとしたらと、即先生にメールした。以下、先生のメール。
                         *
 メールいただきインターネットで調べて驚きました。
限界ギリギリで会得した歩き方が古来の忍者や武士の歩き方だったとは。

 登山仲間では片足で歩けるようになったら一人前といわれています。
荷物も体重も一本足で支え、もう片方は空中で休んでいます。
後ろからみると体全体が右に左にゆらゆら揺れています。

 このような武道的能力開発手法ががあったという言う事は今まで知りませんでしたがそういえば多少思い当たることがあります。

 皆で議論をやっていて熱中すればするほど脳を休めている自分がいました。
ですから長時間議論でもばかばかしくて眠ってしまうことはありましたが
議論疲れで人より先に眠ったことはありません。
 妙なところで休んでいてハッと気がつくと全部の問題が解決できるような言葉を見つけているのです。
                      (後略)
                                                                 嶋崎 喜一
                      *
 
 私たちは、知識から入りがちだが、古人の何百年と積み重ねて得た、知恵に極限の状態の折、そこ(原点)へ到達した、その体験と「こと」に驚嘆した。
 
 私の場合は、繰り返すが、たまたま 「鬼の爪」を見ていて、武士の走行を、洋風(今の、右足だし、左手出し)へあらたさせる訓練のシーンが出てきたので、「えっ」とおもったのだ。これでは「刀は抜けなくなる」と。
 
 それで、「武士の力を削ぐ、外国の陰謀かも?」とおもって調べているところだった。 それで、なんば走りと嶋崎先生の極限での体験がかさなった。
 日本の昔の人が1日2食、粗食で持ったのは、その前提として省エネ動作、があった!がもしれない。

 こうしたことを背景として、あるいはその延長線上に、これからの生活や経営のあり方が見えるのか。前に向かって急ぐエネルギーの半分をさいて古人の知恵を見て、学ぶ姿勢こそ必要ではないか。次のテーマができて、今朝も良い気分だ。
 

普遍性、日常性があって、未来永劫的に通用しなけりゃ通用は恐い。

2005年10月20日 | Weblog
 普遍性、日常性があって、未来永劫的に通用されるのが「セオリー」

 人をそれぞれ思考パターンがあると思う。私の場合は、経営の問題を考える場合,経営の方式や図式やセオリーや事例で考える前に、人間としてのそれらを経営の方に当てはめてみる。

逆に経営の方で、正しいとされる。有効とされる。思想やセオリーや方式や公式を人からすすめられたり、本で見つけたにしろ、まずそのまま受け入れることはしない。排他的に拒絶するという意味ではない。それらをまず人間の方に、置き換えて、有効であるかどうか適用できるかどうか。実際に確認をしてから、判断をする。

それは慎重だという意味ではない。普遍性的なものでなければ、本当のものでない。強く言えばまやかしだと思っているからである。人間の生きる一つの手段として経営がある。生きることに、使えないセオリーが、どうして手段の一つにすぎない経営に役立とうか、というのが、私の考えである。、

 第一普遍性が中ったら、こまろうに。よく経営者が、成功体験のを経営セミナーに夢中になる。ほしいその内容が、講師特有のもので置き換えが出来ないのであれば、買っても使えない道具と一緒で、損が出るだけだ。あるいは経営者自身が、日常性から離れて、特殊の高い生活をしていたならば、日常に疎くなる。

、専門家の考えたもの、作ったものは、特殊性的なものである。だから 普遍性の高い世界にいる普通の人には、理解できないことが多い。さらに皮肉なことだが他分野の専門家にもわからない。そうした意味で、ここ特殊性とか専門性と言うのは、一種の高い高い。垣根に同じだろう。システム、フローは横の関係である。

 ところが、ルーズ停留所の住む世界は、すべてそれらが連結されて、一体化されたものになっている。これを生活と呼ぼう。垣根のなかのものには、自分が、担当している。生活のう部品には、精通しているが、その部品が、システム化され、フォローしていく。姿は、垣根が高ければ高いほどを見えない。
 これを経営の場合に置き換えると、経営が、専門化、特殊化し、普遍性や日常性から遠ざかり、よって消費者が見えなくなる。こうした彼らの作ったり、仕入れたものが売れるはずはない。その彼らの経営判断が、正しいはずは無い。短いスパン、一部品の延長線に未来の完成図が見えるわけはない。そのときだけの成果をもって、未来永劫的なセオリーであるとは言えない。
 
 セオリーは、あくまで時間を超え、専門性を超えルと言った意味での普遍的なもの、そうでんさければ通用するのは恐い、というのが、私の理解である

こうだった、むかし良かった、口うるさしは秋風情

2005年10月19日 | Weblog
 今日は,汽車にのって、県庁に出かけた。
 久しぶりの川内駅である。ほとんどの駅員さんはなじみだ。いつものとおりひょいと執務室を覗いて驚いた。みな知らない、若い顔ばかりだ。
 おそらくこの駅で、青森とか福井とか、徳島とかへの切符を、しばしば買う人はいまい。だから駅員の皆さんに覚えていただいた。それに、「どうしたら早く行けるか。どうしたら一円でも安く行けるか」といろんなことを尋ねる。また時には喧嘩をして、駅員さんみんなと顔見知りになっただけでなく、お互い名前まで覚え親しくなった。おかげでどこへ行くにも親身になって、私の気持ちを受けた切符を探してくれる。その人たちがみんないなくなった。

 新しい若い駅員さんは、スマートで、マニュアルには忠実だろう。だが心を通わせてくれるようなことは期待できないな。いなそうしたことを期待したらもういけない、と思った。「田上さん今度はどこや。えらく遠いじゃね」などと、客に親しげに言葉を書けたら、最近の駅長は叱るだろうから。
 でもさびしいね。
 、
 県では、ある委員会の第2回目。民間の委員は、大学のH先生と私の二人。他の初めは、県の幹部である。
 その中に、もう15年になろうか、足軽会という県庁職員有志の勉強グループがあり、一度だけ講師に呼ばれたことがある。その時の足軽会の会長のSさんがいて、10年ぶりの再会にびっくりしたことは、どうかで先日、書いた。

 会始まる前に、彼と何気ない世間話をしていたら、青森の温湯温泉の話になった。旅の好きな彼が、東京駐在時代に、この温湯温泉に行ってその素晴らしに感激したそうだ。温湯温泉には宿は一つしかないから、私が大好き、大贔屓の旅館だ。そこで、そこの女将や露天風呂の話の思い出になった。本当に不思議なもんだ、奇遇だとうれしくなった。
 ハイになった私が、いろいろ突っ込んだ質問をする。と隣のSさんが、身内の委員なのに、つられるように質問を発した。なんとなくその気持ちがわかって、うれしかった。
 迷惑なのは、答弁を担当した若い職員である。苦労して一生懸命繕うとするので、申し訳なく思い、「私のは。悪い性格だから、もういいですよ。なんなら取り下げてもいい」。
 でも私の質問は、この案件が議会に乗ったとき、間違いなく議員が衝いてきそうなところを意識してしたものである。そのことが、彼らに伝わったかどうか。

 文章や言葉は、相手に、こちとらの思いや意思を主張するのではなく、理解し、共有してもらうことに、第一義がある。それに、「誰のために」という主語がない。あっても間違っている。主権在民がわかっていないのだ。

 その昔ながらSさんに、「足軽会」のネーミングの意味を訪ねたことがある。「お殿様に使えるいい足軽になろう。そのために勉強しよう、という意味で名付けました。お殿の意味は、もちろん県民のことですよ。」。
 その答えにいたく感動して、みんなと遅くまで飲んだ思い出がある。
 今も、足軽会が続いているかどうかは、聞きそびれたが、たぶんSさんの代で終わったのではないか。そんな気がする。当時のメンバー皆、今、幹部なのだから。

 そんなこんな、それに審査の集計に手間取ったこともあり、4時に終わる予定の会が30分ほど延びた。

 県庁から、駅まで7キロ歩くつもりが、遅くなったので途中、半分ぐらいから電車に乗り駅へ。帰宅7時半。

 朝は少し残っていた腹痛が、昼からはまったくでず、久しぶりに気にせずに遅い晩飯を食った。
 それにしても、今日は、「昔は良かった、こうだったが多かったな」と反省、
 
  「鏡みる、顔の後ろに 秋風情」