経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

消費者が選ぶ時代

2005年01月29日 | Weblog
 本来、市場の主導権者はモノを売る側でなく、買う側にある。これが供給不足の時代に、いかにも売手が主権を最初から持っていたかのごとく錯覚していたにすぎない。今やそれが本来に戻り、売手が消費者から顧客から選ばれることで存在し得る、という条件に戻った。
 ところが、それでも実に多くの売手がそのことに気づいていない。それが消費不況を招いた。現在もまだ気づいていないところが多い。
 しかし中には、IT革命によって、漠然とではあるが「情報がマーケットを左右上下し、質まで決める」、ということに気がつき始めた先覚者もいる。この意味は、換言すれば、情報によって市場を手に入れ得るという、新しい視点のビジネスチャンスの到来ということになる。
 
 こうした時代は、これまでみたいな、というか人のもつ天動説的な視点では、まったく対応できない。そもそもそ、この新しいマーケットは、売り手という、消費者から見たら対岸に位置していてはまったく見えないからである。これはとりもなおさず、売り手からみて、消費者のいる対岸に身を移して、物や事をとらえるありよう、これ以外にはないのである。
 ちなみに天動説的発想とは、自分が宇宙の中心で、太陽や他の星、消費者は自分を中心に動いている。だから消費者は思うまま動かせるし、囲い込んで自分の顧客となせる、という考え方である。しかし、そうした考えは、明らかに誤りである。
 囲い込むのは売り手の都合、私たちはいや、と拒絶されるからである。

 繰り返すが本来の「地動説」の時代に立ち返ったのである。すなわち地球規模で65億の消費者がそれぞれの宇宙を持ち、それぞれが自らの欲望充足のために存在し、動いている。その彼らから、この私、私の企業、お店は選ばれる、という関係にあり、選ばれれば生きれるし、選ばれない状況が続けば、死ぬ。それで困るのは売手で、彼らは困らない。

 だから選んでもらうには、彼らのいる対岸で思考し行動する以外ない、としたら経営を、営業を、組織をどうしたらいいか、という命題の問いかけとそのための思考覚悟の繰り返しの実践が問われる時代になったのである。
 

予測のイロハ

2005年01月27日 | Weblog
 「商店の原点は、地域貢献。品質保証。顧客主義。いやいや、うちは従業員を大切にする。」

食中毒出した会社や、リストラしているところでも、皆、上のような立派な経営理念を掲げていますし、それを朝礼で唱和したりもしています。ですが、それらを見える形にして、目の前のお客にどう伝えて,実践しているかとなると、どうでしょう。?
 
 私は、商いとは、言葉や文字ではなく、実践してなんぼ。またお店や自分のことではなく、今、お店に立っているお客さんのことを。さらに将来(さき)を、見るのではなく、この今を見る。こうしたことが本質だとだと思っています。強い言い方をすれば、目の前の事、出来ず、先を見ることは、逃げ、現実逃避ではないかと思ったりします。とにかくこの今から目を背けてはなりません。

今をみれば、先のは見えるのです。たとえば、真夏炎天下に生肉を外に放置している。明日はどうなっているでしょう。100%当たるはずです。今から目を背けているということは、車の運転でいうと、前を見ないで携帯電話を見ているということと同じです。どうなるか100%、わかるでしょう。
 
 会社は、現場が消費者との接点を持っているのですから、この接点がつながっていなかったら、お金は上がってこないじゃないですか。どんなに立派なパソコンでも、配線がつながっていなかったら、動きません。同じこと。

 今という「点」は、独立した点でなく、先につながる線の起点であり、過去の線の切断点であり、過去と未来を連結している接続点です。この点が、線となって先につながっていく。だから、今を、見、今を深く考えることで、先はわかるのです。
 ただ、「今」という、その瞬間だけで、判断してはいけません。あくまで線としてみる。点線で見る。ところがたいていは点、瞬間だけを見て、「すごい」とか「立派」と評価している。そうしたことは長い線で本当のところはわかりません。体重計にに、ドドドンとのって、指した針が自分の体重ではないはず。

 予測力,脳開でいう情勢判断学って、こんな簡単なものです。


二つの試み

2005年01月26日 | Weblog
嶋崎喜一先生とメールのやりとりしていて、きわめて重要なキーワードが2点、浮かび上がった。
ひとつは、「変える」というキーワードである。これは、(状況等が)悪いから変えるのではなく、1に相手により個別対応のため変える、という側面、2に環境、場の変化に対して、変えるという側面。3に目先を変えるという側面です。3つの積極的意味での「変える」である。

 ある人に、「変えなければ生き残れませんよ」といったニャアンスのことをいったら、「悪いことないのになんで変えなきゃいかんのですか」と、ごきげんを損ねてしまった。変えることは他者に言われたら腹が立つし、自分で変えることもおもしろくない。人は保守的で、世は慣性の法則で支配されているから、変えることは、たやすくはない。このへんのやりとりも含めて、「白圭、風の便り17-2」に書いた。

 ふたつは、「分母を増やす」と言うキーワードである。100のうち1が買ってくれたら、これを購買率という。これは購買客という実数を増やすには2つの方法があることを示している。1は分子を増やすことである。2は「分母を増やす」ということである。どちらかというと分母を増やすことはこれまで不効率の見本とされてきた。ところがメール、HPなどを使い、これにクチコミを乗っければ、不効率どころか、超効率的になる可能性が高い。

 そうなるとこれまでの営業が根本からひっくり返る可能性が大だ。少なくともかけた経費に分母の拡大が正比例しなくなる。うまくいけば、従来型営業部は不要になる可能性だってある。

 またこれは別の意味でも革命である。なにかというと、これは戦術が、戦略をかえる、あるいは否定するという希有な事例だからだ。

 費用対効果は、質を定数におくと正比例するという経済の原理がひっとしたらこれはおもしろくなる。少ない費用ほど効果がある、というところまではいったら理想だが、そこまでいけないにしても、投じた費用に関係なく最大限の効果を望める、という仮説の証明は、私は可能だと思っている。
 嶋崎先生の長男、万太郎さんが、「悟空名刺」というのを創案し、立ち上げた。この事業自体が、上に書いた仮説の証明をしてくれる可能性がある。また立ち上げたばかりのこの事業は、上に書いた理論で、バケて成長していく可能性がある。
 
 こうした二つ、ないしはそれ以上の、無関係、六取引の事業が、相互入れ替わり、相互乗り入れし、同時に相互に複数事業の可能性を成就していく考え方を、私は相互応援方式と仮称し、実践事例を自らな成し、理論化に取り組んでいる。


欠けているもの

2005年01月26日 | Weblog
ハウツーは戦術に置き換えられ,戦略に隷属する。本にはハウツーものと,そうでないものがあるが、前者は読む人の戦略が明快でないとまったく意味をなさない。ゴルフのハンデーをシングルにしたいという戦略を果たすために、「盆栽の鑑賞方法」といった本を読んでもしようがない。
 時代や時流、戦略、用途によりツールは変わるものである。変えなければ役に立たない。それに対して戦略は択一性をもち、変えてはならないものである。この不変の戦略なしには、戦術は意味をなさない。 
 世のすべてのものはこのように不変のものと可変のものとで成り立っている。
 当然、経営においても然りである。だが最近の経営者は、ころころと考え、言うことが変わる。ハウツーものを追いかけている。戦略として確固たるものがあるなら、これはむしろ望ましいことである。だが戦略とは無関係に、あたかも人が持っている玩具を欲しがる幼児のごとく、経営ツール、ハウツーを次々と取り替える。まさに、雨も降らないのに傘を指す、手の傷に風邪薬の類である。

 最近の話で生臭いが、著名経営者K氏に惚れ込み、彼の著書を買い込み、人に推薦、講演会に招き、と夢中していた経営者が、そのK氏がワイセツ事件を起こし辞めた。その後さっと別の著名経営者へ乗り換え、また同じことを繰り返している。惚れ込んでいたときは、「彼は本物だ。すばらしい経営者だ。一生の師だ」。人にも「あなた、かけがえのない友。どんどん気づいたこといってほしい」と、マジそうしたことを言う。そういいつつ、過去ころころ師匠や友人を取り替えているのである。

 そのことはすぐわかる。60近くいきて、これだけの実績を持っていながら、師ががいない。心を許せる友人がいないのだ。
 彼にとっては、師匠も、友人も、従業員も、時には自分の家族すら、実は自社繁栄、自己欲求の具現の戦略のための「道具(戦術)」、ハウツー本の一冊にすぎない。それが、他の人にもわかるから、他者もまた心を許せない。どこかに「俺を道具扱いしあがって」といった感が起きてしまうのである。
 
 かわいそうなのは従業員である。ところが当人は、「従業員のために、がんばらなくちゃ」、と時には涙を浮かべて語る。演技だけではない。吐く言葉、書く文字、流す涙すら、自欲充足のためのツール、自分の言葉と文字に真から酔っているのだ。
 まさに感嘆すべき戦略家、野望家に見られる共通、典型事例といってよい。

 こうした人はけして希有ではない。だからこそ戦略と戦術だけでは、真の経営に成り立たないのである。ここに、経営者以前の人間学、とりわけ理念の大切さを、私が問うている根拠がある。
 理念の根底には、ともに人生の喜怒哀楽を慈しむ、といった他者との戦略の共有を前提とするもの。タノウエ脳力経営塾の目的は、ここにある。



B氏、など枚挙に暇がないぐらいある。が、やはり経営者において普遍性の高い間題潮流を1つだけあげるとするなら、、ハウツー経営者が多いことがあげられる。信念も戦略もなく戦術(ハウツー、ツール)をかき集めて、どうするのだろう。
 師や本に、ハウツーを求めるお手経営者の先は、見えている。

IC電話機、消滅の理由

2005年01月23日 | Weblog
 IC公衆電話機が6年足らずの寿命で消える。新しいものはたいてい試したがり屋の私だが、一回も使わなかった。ICジカードそのものを見たこともない。大方の人がそうではないか。

 そもそも作られた動機が、テレホンカードの偽造、多発にある。それを防ぐため代替えなのだ。だからそれによってプラスになるのはHTTであって、ユーザーではない。
 コンビニに万引き防止機がついたからといってお客が歓迎しているわけではない。消費者は常に自分たちのプラスになるかどうかで、その意思決定と行動を変える。
 
 こうしてたとえ害や不利にならなくとも、積極的な意味でプラスが付加されないと、変えない。その意味では、実に消費者は保守的かつ打算的といえる。

 問題は小さいようだが、実は大変な問題を含んでいる。それはNTTがおごり、消費者を無視し、甘く見ている、といった大きな問題を内包している。
  
 売り上げ=買い上げ、である。これを置き換えると
 IC機設置=IC使用の等式が成立せず、
 IC機設置≠テレカード機使用
になった。
 このことは、「物事は常にこの公式で言えば右辺から変化は始まり、その対応として左辺に及ぶ」という田上
理論にさからっているからである。

 他人事ではない。あらゆることがこの公式で動いているのである。
 いくつかアトランダムに事例を列挙すると
   教える=学ぶ
   働かせる=働く
   叩く=叩かれる
   褒める=褒められる
   リストラする=リストラされる
   計画=実績
       
 きりがないので、ここできるが、上に挙げた等式はすべて、実は≠(イコールでない)なのである。
 イコールにするには、これまた常に左辺側が、右辺にあわせる以外にない。

悲しい

2005年01月22日 | Weblog
 事物をみて、数字が読める。逆に数字から事物が見える。この仕事には両方が必要だろうし求められる。だが、前者は、音感の優れた人が人の会話の内容は聞き取れず、全部音になって聞こえるのと(聞いた話だから、本当にそうか実のところは、私にはわからないが)同じに思えるが、よく考えたら、違うような気もする。音には情感があるが、数字にないからである。たとえば、「小説読む暇あったら、もっと成績あげなさい」と言うのが前者。無機質の数字にでた結果がすべてだ、とか手段がすべて、というのがこちらの類だろう。
後者は、たとえれば1年の成績から、その数字を得るための部下の苦労が見えて、涙するといったこと。では結果よりプロセスが後者だろうか。
 
 中小企業大学校、経営指導員基礎Ⅱ、もう十年も担当している6日間の机上研修の前夜、そのことを考えていた。そもそもゼミで、受講生たちが願うのはどちらなのか。否、ゼミに限らず学ぶと言うことの本質はどっちだろう。私はわかっている。わかっていると言うことは、私のスタンスが正しいとか、悟っているとか、そんなことではない。そんな意味ではない。不器用で片思い思考だから、結果ではなくプロセス重視、後者をなんの根拠、考えもなく贔屓してしまっている。自分のことならそれでいい。だが人に教えるとなると、自分の偏りで、いいのか、と、ふとそんなことが気になったからである。

 教えない、縛らない、仕切らない、結論で喜ぶより一瞬一瞬楽しく、幸せの金太郎飴でなければおかしい、旅の醍醐味は、目的地にあるのでなく目的地に行くまでの移ろいにある。だって人生がそうだろう。臨終を目的として生きている人いるわけない。競争や効率が目的なら、生まれてすぐ死んだ方が一番になる、いろんなたとえをして、ここまで生きてきた。
 
 それでいいのか、という問である。自分は良しとして。
 8年前に大学の教員の話を東海大学の金子先生にいただいて、迷ったとき、考えたことで、今、また自問自答している。そのときは、自分の生き方で人に教えることの矛盾に気づき、揺れに揺れた末、「お断りした」。
 その時と同じ揺れを今、しているのではないか。瞬時に価値をおいて8年歩み、実は一歩も進んでいない自分が、ここにいる。そのことが悲しかった。

ああ、よかった。

2005年01月17日 | Weblog
1月13日夕方。ルートイン青森の906号室で執筆中、持病の腱鞘炎だろう。肩や腕がひどく痛み始めた。長いつきあいだから、緩和するには何が必要かわかっている。ホテルをでて新町の薬局いった。ここは調剤をやっているので、作ってもらったらいいかな、と思ったがまずは様子に売薬にした。

 ついでにビタミンEの小瓶を買おうと、棚をみた。2種類あった。同じ容量、成分もほとんど変わらないのに、1つは525円、1つは1000円。

 「この二つ、どう違うの?」
 二つの瓶の効能書きを1分ぐらい見つめて、そして首を傾けて、彼女はいった。
 「値段とメーカーが違います」
 「だからなぜメーカーがちがうと、こんなに値段が違うか、って聞いているんだけど?」
 また、彼女は小首とはいえない中首をかしげて考え、それからおもむろに答えた。
 「原価が違うと、売価が違ってくるんです」

 正直な人だ。ちなみに、この彼女。新米ではない。少なくとも4年以上はこの店にいる。なにせこちとらはこの青森市有数の商店街、新町通を、4年前から月一回は徘徊し知り尽くしている、商店通、ベテラン消費者なのだ。

 句の調合室に、さらに年配の薬剤師らしいおじさんがいたが、聞こえているだろうに、何もフォーローしない。

 ああ、調合を頼まなくて、「よかった」。 

オンリーワン

2005年01月12日 | Weblog

真実であろうと、言葉は常に不安、不安定です。だから人は、言葉を形にする。頭の中では、間違いなく正しい、それは確信できる。でも形が欲しい。 形に表すにはいろいろある。もの書きは、小説に、詩人は詩に、絵描きは絵に、歌手は歌に。経営者は、事業にといったように。

 ところで、経営者のどれだけが、自分の言葉を形にしているだろのだろうか。私が知る限り、経営計画書、経営のあり方、朝礼で語ることに至るまで、人の言葉だ。人が形にしたものを、溶かしもせずそのまま。私が20数年研究している会社は、自分で突き詰めた体系的な理想を言葉とし、試行錯誤して80年も形を形成している。ここまでくると、すごみというかうらやましさがあります。形が崩れても、また組み直し、自分の理想と仮説に、寸分の疑いをもたず、やり続けた。こうして作り上げた形は、もうどんな企業も追いつきません。何人かの人に、この本を薦めてみました。殆ど反応がありません。
理由はわかっています。こんなことして経営の自前の形を作るより、既製品で間に合わした方が、楽だし、一見成果が上がる(錯覚ですが)からです。
その中の一人、Aさんから、今年海賊版経営計画書を頂きました。今年も書いてありました。「オンリーワン」。

 自分の思いが形にするというプロセスを内包していてこその経営。その形、経営をやることで、また新たな形のないものが生まれる。それを加えてまた形に。この繰り返しこそ、生物学で言う「進化」ではないかとおもうのです。ですからこの進化のプロセスを体験しようとしない、経営者の経営は、一代すら、全うできないのは自明の理です。
 

田上のQ&A

2005年01月07日 | Weblog
 Q&A
[経営の勉強したいのですが、どういう本読んだらいいのか、推薦して下さいませんか]
という電話が、あった。「どうして?」、というと、「事業が。今ひとつうまくいかないので」ということらしい。
[どうだろうか。あなたは。風邪をひくたびに内科医になる勉強しようと思ったことありますか]。「ないです。それはどうした意味ですか」
「ないでしょう?そうだよね。でも今、あなたは、私に同じ質問をしたのですよ」
[n?,n?]
[わかんない?、事業がうまくいかなかったら、上手くいくようにしたらいいだけさね。それをどうしてとおまわりして、経営のお勉強をというのさね。勉強すれば、経営よくなるの?関係ないよ]。
「勉強する暇があったら、売場にいって接客でもやりなさいな。資金繰り苦しいのに、資金繰りを楽にする本など読んでいたって、楽になんないよ。お金を借りに走り回らなければね。でもどうして売り上げが落ちてきたのだろう。どうして資金繰りが苦しくなったんだろうって、考えることはとても大切なことだと思います。その本質的な原因を自分なりに抑えておくことから、経営革新は始まるのですからです。

どうせ読むのだったら、落語の本とか、池波さんとか周平さんだとか、何でもいいやおもしろい小説読んだら、おもしろくなるから。エッその手にしている本、なに!ダメだよ”。出来る経営者が読む経営の本100冊”だなんて。だって、できてないのだろ。あなたは」。
そうしたつまらないおもしろくもない本。古本屋んでも持っていって金にして、居酒屋さゆりでででも、いっぱいやった方が、気が楽になるでせう。ちがふ?」
 経営者は経営のお勉強をするのが、しごとではないとよ。」

生活感

2005年01月02日 | Weblog
日常の生活の中で生活者として正常な感覚を持っているかどうかが、作り手・売り手の重要な資格になる。私は人を判断ときに、まずこのことをみる。生活感のない人に政治をやらせたら、国がむちゃくちゃになる。日常の生活をしていない人が、作るったモノが、日常生活に適合するわけはない。日常生活を当たり前にすごしていない人には、生活者の欲するものが何かわからないから、品揃えが出来ない。かくして彼らは衰退する。
 生活感の共有ができていないことが、モノが売れない本当の理由である。