経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

おお、恐いこと

2012年04月30日 | Weblog
昨日、体制をして、

情報の「仕分け」は不可欠なものであり、

その代表例が、「鎖国」だ、と私は書いた。





したがって、鎖国とは、

私たちが学校の歴史学んだ様な、

外国との全面的国交断絶ではない。

鎖国の内実は体制以外の諸団体、および個人に対する

諸外国との交流禁止である。





その意図は、江戸幕府のあり方に

典型的に表れている、「海外取引の利権独占」。

甘い自分たちだけ、という考え。

すなわち、貿易独占による冨の支配といった

狙いも大きいに違いないが、体制外のものを支配し、

管理するための「情報操作」にあることは明白である。



鎖国は体制に都合の悪いものや、思想なり考えは断ち、

体制に都合のよいものは通す、という仕分け機能

情報統制の役割をもっていた、ということを、

もっと強く念頭に置いて、歴史をみて、

それを教訓としてこの今を将来(さき)を、

見てみることが求められるのではなかろうか。





昔から、「人、もの、金」といい、

今日になって、これに「情報」をとって加えているが、



「人、もの。金」の、人を動かすのも、

管理するのも情報である。



そして、「もの」、「金」を動かすのも、

また「情報」である。ということは今も昔も変わらない。

今になって「情報」が加わった、ということではないのだ。



そして、私が声を大きくして、言いたいことは、

こうしたことは現在にも随所に見られる、いうこと。



それも体制だけではない。

マスメディアも、これまでの歴史のなかで、

利用されてきて、生き残ってきた、

さまざまな教義、教え、道徳、動議、言い伝え・・・、



例えば、「女の子らしく」、「男は・・・」

あるいは、「もうお歳だから、そんな派手なものは・・」

といった類にいたるまで、寄って集って、

私たちは縛られ、コントロールされ、

しかもそれを自ら甘んじ、「良し」とする風潮に至っては、

まさにそれ、恐れるべき情報統制、まっただ中。



「おお、恐わ!!」

鎖国もダ!

2012年04月27日 | Weblog
「仏教」も「儒教」も輸入されたものである。





仏教がかってに海を超えて、この日本に

のこのこやってきたのではない。

人が運んできたのである。



では、だれが。何のためにか、





この辺から、私の想像の世界になるが、

そう大きくははみ出していないと思う。



持ち込んだものは、漁師などの可能性もある。

対馬に行くと、日本より韓国が近いことが実感できる。



夜、国民宿舎からみえるのは釜山の夜景だ。

対馬から韓国までは最短距離で49.5キロ。



お互いの漁師達は、同じ海を仕事場として

親しく交流しあっていて、当然なのだ。



誰が仏教なり論語を持ち込んだにせよ、

それを流布するか、封じ込めるかの判断するのは、

まず体制である、と考えて良い。



かりに、派遣された人が持ち帰ったものが、

その全容であったとしても、

体制が仏教の本質や全容を丸ごと、

民に流布するようなことはあるまい。



考えるに、それらの中から自分たちの体制にとって

都合の悪いよい部分を切り捨て、都合のよい所を

残し、切り貼りしたものを、有り難き仏教として

坊主達を介して、普及させたものと考えてよい。

当然だ。



私たちが、道を歩いていて紙くずは見向きもせず、

お札なら拾うのと同じである。



しかし、あとになって、

体制から流れた切り貼り経典にものたらず、

あるいは疑義を感じ、もっと勉強してみようとか、

本物に触れたいとか、さらに奥義を深めたいとか、

いったごく一部の人が、禁を破り自ら中国や韓国に渡り、

初めて仏教の実態を知ることになった、

ということではなかろうか。。



以降、宗教の世界も体制派とそうでない派と、

大きくはふたつの流れができたことは、

決して不自然なことではない。



このことが教訓となり体制をして、

いわゆる「仕分け」が必要になった。

それが「鎖国」だ、と私は考えている。



このことは次に述べる。

おおこわ、情報統制

2012年04月24日 | Weblog



「仏教」も、輸入されたものである。

仏教がかってに海を超えて、のこのこやってきたのではない。

誰か人が運んできたものとである。



漁師などの可能性もあるから、それができるのは、

まず体制である、と考えて良い。



そのために派遣された人が持ち帰ったものが、

かりに全容であったとしても、

体制は仏教の本質や全容を輸入する気はあるまい。



考えるに、それらの中から自分たちの体制にとって

都合の悪いよい部分を切り捨て、都合のよい所を

残し、切り貼りしたものを、和製仏教として

普及させたものと、考えてよい。

当然だ。

私たちが、道を歩いていて紙くずは見向きもせず、

お札なら拾うのと同じである。



しかし、あとになって体制から流れた切り貼り経典にものに

飽きたらずもっと勉強してみようとか、

さらに奥義を深めたいとか、切り貼り、つじつまなどに

疑義を抱いた者が、禁を破り自ら中国や韓国に渡り、

初めて仏教の実態を知ることになった。



以降、宗教の世界も体制派とそうでない派と、

大きくはふたつの流れができたことは、

決して不自然なことではない。



このことが教訓となり体制をして、

鎖国へ進む引き金の一つにとなった。



したがって、鎖国とは、私たちが学校の歴史学んだ様な、

外国との全面的国交断絶ではない。

鎖国の内実は体制以外の諸団体、および個人に対する

諸外国との交流禁止である。



ここで横道にそれるが、「鎖国」のもつ意図について、

少し触れておきたい。

結論からいうと、

鎖国は体制に都合の悪い物なり思想は断ち、

体制に都合のよいものは通す、というフイルター機能

所謂、今でいう情報コントロールセンターの役割である。



それにもう一つ。

海外取引の利権独占。甘い汁は体制だけが、という考え。

これは、江戸幕府のあり方に、典型的に表れている。



言いたいことは、

こうしたことは現在にも随所に見られる、

ということ。これである。



私たちは、知らずして情報統制されている、ということ。

これを言いたいのである。

神々と体制

2012年04月21日 | Weblog



思想的対応の施策として、 仏教、儒教・・・・・・。



体制が民衆をひとからげにして、

傀儡するのに都合の良いのは民の心の拠り所、

支えとなる教義が一番であろう。



特に農民の年貢よって、生活している体制には、

「働くこと」を奨励する教義は、まさに魔法の杖になる。



事実、体制は後退する度に自分たちが傀儡、支配するに

都合のよい教えを外国から、あれこれ仕入れている。

その一つが儒教。



これは体制の都合(ニーズ)があって採用されたものである。

日本に入ってきたのは、五世紀初め応神天皇の頃伝来とされる。

この教えは、民に一生懸命はたらいてもらい、

多くの年貢を取り立てるには、まことに都合良い教えであった。



儒教そのものが、その時代の体制を背景に創られている、

といったこともあろうが、体制が都合の良いように解した、

ということもあろうが、ここではその論議は押さえおきたい。



こうみればなぜキリスト教が禁じられたがわかるというもの。

体制のトップの命令よりも、信じる神の支持を仰いだのでは、

統制などできはしないからである。



かといって逆に、民が宗教に限らず

何も信じるものがないというのも、体制から見て

不気味であり纏めるのに大変である。



また放っておいて都合の悪い宗教に入り込まれても困る。

そこで上に述べたように、自らの統治に都合のよい思想なり、

宗教を輸入してきたわけである。



かって、会社によって創られたご用組合が

乱立されたのも同根である。



我が国では、古事記にみられる通り、

元来に神々がおびただしく存在していた。

これは一つの大きな理由として、

当時、統一された体制概念が、まだなく統制する、

されることなく、ムレ、ムラといった小集団単位で

生活が営まれた、といったことであろう。



のち国家が統一されたようとされたとき、

統一した神を掲げる必要があったが、

在来の神はおびただしい数で、一神制を取ることができない、

といった状況がながく続いた、ということでもあろう。

努力報いられる?

2012年04月18日 | Weblog
「努力は報いられる」って言います。



でしょうか??



ならば、私だって努力をしたい、という気持ちになります。



さらに、「この世では報いられずとも、来世で・・」、



と、言われます。





信じたいですが、

来世でかなえられることを誰がわかるのでしょう。



明らかに、浦に何かがありそうだ、と

私は思い、ずいぶん以前にいろいろ調べたことがあります。



それはまた後日、おいおいここで触れたいと思いますが、

ここでは、ほんのさわりだけ。



要は、そのときの体制が、民に働いてもらい、

年貢を収めてもらうための方策に「論語」が使われた、ということです。

いやそのために論語自体が体制に都合の良い論語集である、

といっても過言にならないと、私は思っています。



仏教だってそうです。

体制が利する、支配者側の都合の良いように、

すなわち民を支配しやすい方便として、都合の良い者、

阿る宗派だけを優遇し、そうでないものは、弾圧、排斥された。





体制は民を統治して、始めて存立し得るのです。

統治にとっては、物理的にも思想的にも、

民がばらばらはではやりにくいわけです。





そこで物理的な対策としては、

例えば各地に分散して住んでいる民を、

一箇所に集めるためる方策を採った。

そして町を作り、隣近所をグループ化し、

体制派の適当な者を庄屋に任命し、

代行者として統治させるといったやり方をやった。



これは、堺が有名な事例ですよね。





町に集めておけば民の動きもつかめるし、

不満分子の監視もし易いしというわけです。

民同士が相互に牽制し合うという効果もある。



思想的施策として、 仏教、儒教・・・・・・。

たのしい?

2012年04月16日 | Weblog
こうしたことが経営でもみられていないか、

何度も書いていますが、本来の経営は普遍性、日常性の営み。

それが特殊性になっていないか。という視点で

診断時に該当企業を見て見るのが、私のスタンスです。



よく「努力して・・・」といいますが、

私たちは日常生活で通常、呼吸をしたり、

食事をしたりするとき、「努力して・・・」

ということは稀有ですよね。

そういうことがあったとしたら

病気かなんか、つまり通常ではない特別な場合です。



売ることには努力がつきもの、といったこと。

私たちは、努力して売ることに何も疑問を感じていません。

当たり前のことのように思えます。



しかし、私は当たり雨のことが、当たり前でなくなった、

そのことこそ問題だ、と考えます。

購買が減じ、売上が下がる。

購買が増加し、売上が上がる。



売上を上げる努力をではないはずです。

購買が減じた理由を捕まえ、購買が上がるようにする。

これが対策。つまり対策であって、努力ではないのです。





次の文章は、パレアナ学会の機関誌に、

この「努力」について、以前「パレアナの研究」というタイトルで、

私が書いた評伝に、少し加筆し、再掲してみます。





~日本人は何らかの形で儒教の影響を受けておりますから、

ここの所の努力を「修養」と理解する人が多いのではないでしょうか。

楽しむことを修養とか躾では楽しむことできないのです。

「ねばならない」の世界ほど人間を苦しめることはありませんよね。

楽しんでやるという意識がないのに喜びが生じるはずはない、

ということに気付かなければなりません。



「喜び探し」はあくまでゲームなのです。

ゲームだから、うまくいってもうまく行かなくてもいいし、

軽いタッチで、楽しみながらやるものです。



それを、うん、うんうなって「喜び探しをする」。

可笑しいことだと思われませんか。

(現にパレアナは喜びのゲーム探しに結構失敗しています)~



努力が楽しい、という言い方もあるかもしれませんが、

それは楽しいことだから、楽しいのであって、

努力することそのものが楽しい、ってことではないと、私は思います。



誤解して欲しくないのですが、私は「努力」が無用、良くないこと、とか

そんなことを言っているのではないのです。

あくまで、楽しいか楽しくないかの分類で申し上げているのです。

ない、ない、ない

2012年04月12日 | Weblog
日常の中に、普遍性を見つけ、

これに法則性があるかどうかを検証する。



日常性、いわゆる恙(つつが)なく、

といったことを視点におき、それ以外を特殊性として、

あるいは異常性として、



「おかしいぞ。なんでやろ?」



と考え、仮説を立て、検証を繰り返す。



これは野原一面の雑草を、植物図鑑で一つずつ検証していくと、

その実、雑草なんてほとんどないことに気が付く。



なんてことはない。

自分が名前を知らなかったにすぎない。

調べるのが面倒で、雑草と総称しているだけ。

簿記の諸口も、科目の雑費もそう。



雑草なんてない。諸口などない。雑費もない。

その他大勢もない。みんなもない。お客様もいない。



「みんなが、そのことに反対しています」

といった、以前書いた恩田 杢、上杉鷹山の話と同じ。



特殊性、異常性といっても自分が単に経験がない、

知らなかったにすぎず世間では当たり前のこと、

といったことは結構あるものです。



このように、自分の頭の中から、

「おやっ?」と思ったことを、自分なりに検証し、

それを解消し、排除する。



こうした消去手法で、私はこれまで仕事をしてきました。

少し極端な言い方ですが、日常の中の特殊性こそ、

物事のネックになっている、という考えです。



少なくとも、私は仕事、あるいは政治、経済

を見る、考えるときは、そうした視点で人やコトやモノを見る。



たとえば、

政治という舞台は、特殊な場なのでしょうか。

国と国民の発展と幸せを考え、行政をするということは

特殊なことなのでしょうか。



永田町、霞ヶ関を舞台に、

ここの俳優たちは非日常性の衣装をまとい、

日常会話にはほど遠い言い回し、中学生でも読める漢字を間違い

TV向かって見得を切る。国民の見えない夜は、

時には昼間で料亭やホテルで会食をする。



それでいながら、選挙費一切は、国民に負担させている。

こうしたことは、日常性か、庶民性か、非日常的か。特殊性か。

ワクワク、柔軟

2012年04月08日 | Weblog
意識は、全体利益へ、得策へ向けるべきなのだ。



肩凝りの完治、というか、肩が本来に戻るのも間もない。



本来がこんなに気持ちの良いものか。



私は、 顔が床に着かなくなっている。

いつ頃からだろう?。



幼児は、立ったまま、両足の間に頭を入れ、

容易に後ろを見ることができる。

これが、本来だ。



なのに、大人は、理屈を付けて可能性にブレーキをかけ、

機能退化と、思い込んでいる。



可能性への挑戦、といったものではない。

本来は容易に可能なこと。そこへ戻せば良いだけの話だ。



古人、疑いもなく「売上」とネーミング。

それが6割強は「売り下げ」。

だが本来は、「売上」だ。



脳力開発の仲間で、武道家の

故伊藤 昇先生は、容易にそれをやって見せた。

「幼児がやれることは田上さんだってやれるよ」。



まだ、やれないが、私はやれる。

そのことには微塵も疑っていない。



とりあえず、開脚180度が当面の目標。

それで15年がかりで、

現在、せいぜい120度か。



それもつい最近までは、顔が床に付いくいたのだ。

それば、今床に両肘は付くが、顔は付かない。



顔が付いたら、両脚の間から、

自分の後ろの景色を逆さまに見れる。

これは、楽しいだろうな。





革新課題には、あらたに加えることもあるが

本来に戻すこともある。



私たちは生まれてこの方、前へ前へ、と前に進んできた。

前に進むことで、大きな成果も得たに違いないが、

老化という反作用を余儀なくされた。



もういいではないか。これ以上前に進むと、

現世の壁を打ち破り、あの世へいってしまう。



戻せ、これからはこれだ。

戻せ、戻せ、幼いときの溌剌さを、柔軟性を!



ウンウン唸り前に進む革新ではなく、

創業時のあのワクワク感も取り戻す革新もある。



私は、私自身の人生にも、経営でも、

楽しさ、ワクワク、柔軟さを選択し続けることにしている。

全体と個

2012年04月06日 | Weblog



「これだ!」、この要領だ。

これが1つ。



2は、肩を指で押せば、酷く凝っているところ、

そうでないところを分別する。



これで、肩が痛いという野は、正確ではないと言うことだ。

「最近、身体が弱ってね」というのも正確ではない。

「パソコンが壊れた」、というのも正確ではない。

これも以前書いたことだが、パソコンを修理に頼むと、

故障したところを特定せず、丸ごと交換するのがほとんどだ。



これは、患者が頭が悪いと言ったら、頭丸ごと交換というのと同じだ。

クラス全体の理科の成績が悪い、と案じた先生が、

理科の成績委悪い子を良い子と入れ替えるようなものだ。



雷で停電になったから、すべての配線を取り替えることはない。



どこが、と特定すればいい。



特定できたと言うことは、個々が肝心なことなのだが、

「それ以外は、大丈夫で、悪いところはほんの一部」と、

強く認識することである。







私たちは、多数決とか、ABCの原則と言うことを学び、

それを知っているにもかかわらず、部分を取り上げて、

全体を「悪い」といったような表現をとることに、

なんのおかしさも感じない。



キリスト教徒でもない人が、13日の金曜に、

眉をひそめることはない。



4を嫌う日本人が、4葉のクローバーを探して、

見つけると喜ぶ。同じ人が、下足箱の4は嫌う。



私は下足箱も、飛行機の座席も4を狙う。

空いている確率が多いからだ。



脱線。脱線。元に戻す。



だが、それで留め置く。ここが肝心。



特定するだけでよい。



大部分の社員は、遅刻していないのに。

全体朝礼で、叱り、全員の意識を低下させる。

そうした馬鹿なこと、愚をやってはならない。



100人中1人の遅刻のために、

100人の生産性を5%落とす愚より

99人の生産性を1%上げる方が、遙かに得策なのだ。

痛いの,あっけ-

2012年04月04日 | Weblog



ひとり残らず、みんなが、だれしもとか、

すべてが、ことごとく、といった言葉、

とりわけ、政治家などが、国民はみな思っている、

といった言い回し。実にあいまいで、紺今日がないものである。



これらの言葉が、正確、真実であるために、

国民ひとりひとりに確認したかどうか、が問われる。



それはない、ということなら、

それは言っている本人がそう思っているだけに

過ぎないことになる。



正確には、「私はそう思っている」と言うべき所、

それでは心許ないので、「国民みんなが」と根拠もなく

伏しているにすぎない。だから、「とても」、「非常に」と

いった強調語、形容詞に過ぎないのである。



単なる形容詞、ということを受け取る方が承知していれば

良いのであるから、なにも言葉尻にこだわり、目くじらを立てることでもない。



「何を、こいつ。自分に力がないものだから、虎の衣をかぶりおって」と

影で、笑えばいいのである。





だが、こうした漠然とした言い回しを、

情ではなく理性で、局間的にみなければ経営は間違いを起こす。

そのことだけは、強く心しておくことが必要である。



肩の何処とどこが、凝っているのか。

どこのどいつとは、経理部の西、独逸(43歳)、

こいつとは、営業課の、南田 小伊津(29歳)だ、



と具体的に部位、部署、固有名詞、属性まで押さえる。

これは改善のイロハである。



具体的には、

肩以外の部位の筋肉を動かす。

肩がこっている認識は、それ以外はこっていない、ということだから

手足、お腹など他の部署の凝りが、偏り酷い状態を

意識的に創った。



凝りを創るのは難しいので、代替えに、痛い状態、

あるいはすごく気持ちの良い状態を創った。



そしたら、あら不思議。私の意識と関心は、

肩こりから外れて。そちらに言ってしまったのだ。



「痛い、痛いの、あっちへいけー」で、

痛い指以外を叩いた母のことをおもいだした。



「これだ!」