経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

畢竟、その後、

2008年11月30日 | Weblog
その畢竟、で昨日は終えた。
今朝は、その 「畢竟、その後(あと)」である。


企業内外の味方、協力者、支援者を増やすためには、
その人達が「得をする」ことを考え、実践すればいい。

これです。

そんな考えはおかしいという人がいます。
おかしくても、おかしくなくても、
理屈はどっちでもいいじゃありませんか。

そういうあなた、自分が買い物するとき
自分の得を考えず、その店の繁盛や儲けを願って
買い物をされているのですか。

売上は、あなた同様、
そうした正常な心を持った人たちの
意思決定が総和されたもの、なのです。



戦略が確定し、組織内に浸透したら、
次は、実践です。

組織のそれぞれが、組織の外の人を
味方、協力者、支援者にするための
方法、戦術を、彼らが五感で
実感できる「形」に表現して、
どんどん、いろいろ実行すればいい。

戦術は無限。1つだということはありません。
手詰まりで困ることはありません。

無いように思えるのは、
これまでは戦略が無かったためです。
あるいは上位者が、各人の戦術まで指図する。
それに出し惜しみしているからです。

たとえば、タバコが売れない。
それで、税金下げろ、と叫んでいる暇があったら、
タバコ1箱かっていただいたら、千円札1枚進呈。
世界不況で大型電化製品の動きが鈍った。
不況よ、飛んでけ。政治家、頑張れ、という時間があったら、
値札を付け替え、オール半額、
それでも残れば、オール1円セールをやれば、
たちまち行列、完売するはず。
 
「そんなことしたら、俺が損する」。

そうなんです。当然です。だからやりはしない。
ただ方法としては、無いのではなく「有る」。
その「ある」ことをしかと頭に置いて欲しいのです。

そこから、「こちらも当然儲かって」、ということが
前提になるわけです。
ですから、これこそ「商いの工夫」。

それも消費者、お客さまの喜びが、一回キリでは、
味方、協力者、支援者であり続けてることはないのです。

そのための工夫を重ねて繁栄し続ける。
これが「経営」だと、私は思っています。

畢竟、商いとは

2008年11月27日 | Weblog
相も変わらず、同じことを繰り返します。
 
相手に喜んでもらえる要素に比例して、
消費者がお客に変わる確率は高くなる、
と仮説を置いてみます。

この確率を5パーセントとします。

喜んで貰った人100人)×0.005=5人。

これが買い上げ客数ということになります。

これに、一人当たり買い上げ平均単価をかけたもの、
これを1万円とする。

1万×5人=5万円、これが売上。

これだけの計算プロセスを経て、算出されるのが売上高。
だからこれが目標になるわけは絶対にないのです。
このことは、もう何度となく言い続けています。

ですが、それでもほとんどの人が、売上を目標としている。
あなたとて、そうではありません?

それとて、困る人はいないのですから、

「あそう。結構なこと」と、口を斜めに

と見逃したとして、よしんば売上げが上がったとして、
それで喜ぶのは、企業側の人間なのです。
それもひょっとしたら経営者だけかも知れない。

ここで、また算数です。
企業関係者の喜ぶ者をかりに100人とします。
としたら、その喜びに無関係の外の人の数は、

地球人口-100人、

ということになります。

経営者一人の場合は、

(地球人口)-1人

これを対立構図、綱引きにしますと

100対(地球\人口-100)
1対 (地球\人口-1)

これでは、多勢に無勢。勝負にならない。


畢竟、これで、ご苦労されているのでは?

「こんな小っちゃな零細企業では、大手には勝てるはずない」

と、ぼやいておられる。ごもっともです。


で、この「多勢に無勢の関係」に持っていかない、
この利口、賢明な方をなぜ選択しないのか。
私の、長年の疑問であります。

つまり、多勢に無勢の情勢下で、
「戦い抜こう、歳末商戦を。エイオーヤー」
とやっている、おかしげな人よ
どうしたもんか、と私は申し上げている。

それは刀で大砲に挑んでいる侍よりこっけいなこと。

それより、少ないことを、活かし、
少ない人数で 売れて儲かるためには、
「多勢派をいかに味方、協力者に引き込むか」、
というのが、どう考えても得策に、決まっている。
そう思われませんか。いやそれ以外にないのです。

このことは古今東西の、戦史をつぶさにみたら、
見事なぐらい裏付けられているのです。
既に歴史が実証、太鼓判の普遍的戦略なのです。

あの孫子もそう言っている。そのほうが損しないって。
 
しかも現実は地球人口全部などと不要。
30坪のお店であれば5%に値する
味方、協力者、支援者が1万いても
お釣りが出過ぎ。多すぎるぐらい。

内に抱え込む人には、人件費、保険料、制服などの
費用がかかりますが、消費者には名札も制服も
残業代もかかりません。


ここまで申し上げても、
「そんなことわかってている」、といわれる。

で、どうすれば、言われる。

それで、最近多用している言葉、畢竟、
これを使います。

その畢竟、は、明日、書きます。畢竟・・・・と。

こんなんでありたい

2008年11月25日 | Weblog
メールの先には、必ず人がいる。

私は一括送信をやらないから、それは常に固有名詞の人だ。
まず用件だけ、挨拶だけということはない。
それは律儀とか筆まめとかいったことでは、まったくない。

要は、そのおり、その人に向かって書きはじめると、
頭の中を、いろいろ過ぎる。
その思っていること、気づいたことなどを書く。

そのことは、そのときしか出てこない思いだから、
語句、単語だけでも、さっと書く。
すると、いや事実、ずるずるとなにやかや出てくる。
それまで思いもしなかったことまで、出てくるのである。

画面の先に相手の人がいる、
その人に関係しないことでも、
触発を受けて様々なヒラメキやや発想が
飛びだしてくることもしばしばだ。
 
これまでブログに書いてきたこと、
そのほとんどは、メールから生まれてきている。

もちろん、最初は小破片みたいな語句に過ぎないが、
これを寝かしておくと、だんだん大きくなり、
1日分のブログの分量ぐらいにはなる。

何かやっている折、突然頭を過ぎり、興奮して、
ポストイットが手近にあればそれに、
買ったばかりの本がより手近であれば、
そのカバーに書き殴りしたりする。

だが、後からみて、
「なんじゃ、これ。つまらんこと」
と思うことも少なくない。

そうしたときは、大事な本のカバーを汚したことが悔やまれる。


ともあれ、メールでのヒラメキは、まず大きく育つ。
これは、これまでの成果で、そういえる。

こうしてブログに掲載し続けたものが、
メルマガの材料になるし講演のレジメ、テキストにもなる。
さらに、やがてはこれ、本に育てばと夢も楽しめる。


だから、言いたいのだ。

人様に、だからやれ、という気はさらさらないが、
私にとっては、メールの打ち返し、定型文、
あるいは1-2行の用件のみですますようなことは、
時間の無駄、もったいないことなのだ。

メールからこうしたものが得られないとしたら、
私はブログなどの書き込み欄に向かって、
毎日唸りながら、書くことを考えなければならない。
そうした時間は、とうてい確保できないから、
ブログ自体を断念することになる。

だから私のメールは要件だけで終わらず長く、
受診された相手先にとっては迷惑かもしれない。
それはある。
読み捨てていただけたらと思うこともある。

だからこそ受け取った方に、いの一番に、
それを伝えたいのである。
そして、あなたのお陰で、これ、考えついた、
と感謝を伝え、喜びあいたい。

こんな私のメールでありたい。

仕事って?

2008年11月23日 | Weblog
昔は、がむしゃらに仕事をした。
戦略の専門家を自称しながら、自分は戦略なしだ。
恥ずかしい。

60歳になって、
極力好きな仕事を選んでやるようにした。
快適だった。が、仕事は極限に近く減少した。

好きな映画を楽しく観ても、
収入にならないからである。

それで今年の5月の誕生日を機に、
また試みを始めた。次のようなことだ。

他の先生方がやりたがらないこと。
受け手がないものがありましたら、
遠慮なく、私へ。
そうでない仕事は、出来れば他の先生方へ。

やり馴れて、手慣れた仕事より、
なんだかこれまでやったことのない
そしてこれまでの経験に、少し何かを足さないと出来ない。
要はそんな仕事をしてみたい気持ちが前提にある。
チャレンジ、というほど大袈裟ではないが。


徐々に忙しくなり、6ケ月経た今月は、
30日中、27日に予定が入っている。

むろん、この1ケ月では、たまたまであろう。
偶然性が高いから、「○○である」といった
断定的かつ普遍的ルールとして、ここに書けない。
だが、それでも次のような仮説は出来そうだ。

第一に、やること、それを仕事と狭義にとってもいいが、
これは、実のところいくらでもある。

第二に、仕事は、2つに分けられる。
人がやりたがる仕事と、やりたくない仕事にだ。

第三に、前者には大勢の人がエントリーし、競争が生まれる。
仕事を得た人は、与えたくれた人に頭が上がらない。
また仕事は大勢で分け合うことになるから、
一人当たりの量は少なくなる。

対して、後者はどうか。
1に、やりたい人がいないか少ないから、
競争どころか引き手あまたの状況になる。
2に、やり手のない仕事をやるということで依頼主などは喜ぶ。
3,仕事をした本人の心は、自己充足感に満ちる。


「仕事はね、えり好みをしなければ、いくらでもあるんだよ」。

そんな聞いたような、結論の裏を取るためでは、けしてない。
仕事の本質は、なんたるかを、私自身確認、確証を得たいからだ。

1人に向かって

2008年11月21日 | Weblog
「最初は、みな無名時代があるからな」

という先達の慰めは、若いときには有効だったが、
だんだん同情に聞こえるようになった。
自分の大器晩成を、どこかで期待していた私もしぼむ。


「過疎で、人がいないのです。それに・・・」と、
沖永良部島 和泊町(人口約7000人)で
慰めて貰った。その夜は、7人だった。

「徳田虎雄さん(当時国会議員)の講演会とかさなったから」

翌日は同じ沖永良部島の隣町の知名町(人口約7000人)。
覚悟していたが、会場の小学校の体育館にはいって仰天した。

体育館、一杯。ほんとうにいっぱい。
中にはゴザ持参で、立ち見席ならず、
通路にゴザ座席が設けられそこまで、いっぱい。
どうみても商工会には縁のない爺ちゃん、婆ちゃん。
それに子供達まで。

経営指導員の沖野さん(故人)に曰く。
「ここは娯楽がないから」

いろいとあった。いろいろ考えるに、
人を呼べる、呼べないは、講師にあり、
ということ。これはいくら心の中に
他に理由を見つけようと認めざるをえない。

田舎に住む無名人。対して力もない。
だからこそごまんといる講師の中から、
私を選んでくださった主催者の皆さんが、
「変なのを呼んでソンした」と、
お集まりくださった皆さん方から
云われないよう。
そして選ばれた自分に誇りを持ってやろう。

できれば、話のあとの成果、
それもびっくりされるような見返りを、
持って帰っていただこう。


そんなこと、こんなこと、ここに書いたこと、
書いていないこと。いろいろあり、
やっと、気づいたこと。
それは、と遠回りしたわりには、簡単なこと。

「大勢に話すのではない。一人に話す」


以来、大勢の前でも、少数の場でも、
私は、一人に話しする。

たとえ、空席であっても、その向こうに
一人を見て、その人に話をする。

一人に向かって話する。 

空席にむかって

2008年11月19日 | Weblog
私が著名タレントだったら、
大きな会場でも満席になる。
とりとめない話をするだけで。
いや、何もしゃべらなくとも。

会員の皆さん方の経営に、少しでも
役に立てたら、と私を選択して下さった
商工会などの主催者の方が、
私の見えないところで集客に苦労されている、
そのことを思うと、未だもっての
無名が情けなくなります。

著名人、有名人になるなど無用のこと、関係ないこと
と公言すらしている自分の心のブレも、いやになります。

やはり自分自身の実績・力のなさが、
集客にご苦労されている理由に違いない。
これは、お招きいただくたびに、
正直、思うことです。

何も人数が多いことがいいという訳ではない、
というのは主催者の側が思い、言われるセリフ。

招かれる側の講師の私のセリフとしては、
負け惜しみ、強がりの誹りは免れません。

このことを書きながら、10歳上の叔母が、
昔、娘時代、あこがれの美空ひばりが川内市に公演にきて、
観客の入りが少なく怒って公演中止にしたことを、
今でも怒っている、と話したことを思い出しています。

私のこれまでの最低記録は、2人。主催の担当者1人。
奄美大島のある町。
衆議院選の最中で、奇しくもライバル候補の二人が、
この島に来島。彼らの講演会があった日です。

でも、やりました。空席に向かって2時間。

かねがねは無名でもいい。有名など望んでいない、
と本当に思っているのですが、集客のときだけは、
有名人でありたいと、思う、虫のいい思いに浸っていると、
実のところそうおもうことすら、
自分へのカッコつけに思えてくるのです。

ドラッカーだったら

2008年11月16日 | Weblog
評論家のT氏を、批判した。

それでは、おまえさんの方はどうか、ということ。
もっとも、私がどうか、いう判定は、
もとより私ではなく受講された方の判断に委ねるべきことと。

しかし自分としても、こうした問いには、答えなければなりません。

で、私自身の採点では、まだまだ十分にその思いが達していない。

しかもちょいと忙しくなると、昨日、批判した著名評論家と同じで、
知ってか知らずか、傲慢になること。
その可能性は、過去あったことを思えば、
これからも可能性大。あります。

ただ、私が救われているのは、著名じゃないので、
それほど傲慢さを発揮できる機会と場がない。
まあ、その程度の違い。
ですから、油断は出来ない。
そう思っています。

さらに主催者の方の採算(リターン)の問題があります。
これは著名人に敵わない。

誰しも最初から著名じゃない。
相当の努力、実績を積み重ねて、
それで評価されて著名人になったに違いないのです。

それに比べて、私のなんと駄目なこと。
26年経て、こんなもの。

でも、セミナーなどで人が集まらず、主催者が困る、
赤字になるということでは、
経営指導を生業にしているのですから、
自己矛盾的でよろしくない。

私の職業上からも、さらに主催者のご好意、
すなわちたくさんの講師候補の中から、
この私を選択してくださった決断に報いられないでは、
といった信条からも、これは困る。避けなければならない。

この場合の採算は何できまるか。何人集まったか。
集客、客数だろうと思います。
それは主催者のPR如何で、講師のせいじゃなかろう、
とかばっていただいたにしても、やはり私のせいです。

それは、私が、「売らなくても売れる」ということを、
この仕事のテーマにして、食べさせていただき、
生きているからです。

その意味で、仮に私がドラッカー並の話が出来たとします。
さて、この地で、何人、お集まりくださいますやら。
私は小さくなって、考え込んでしまうのです。

でも私がもしドラッカーだったら、
あるいは著名タレントコンサルタントだったら、

どうでしょう。

まちがいなく、大きな会場で立ち見席がでる。

ドラッカーだったら

2008年11月16日 | Weblog
評論家のT氏を、批判した。

それでは、おまえさんの方はどうか、ということ。
もっとも、私がどうか、いう判定は、
もとより私ではなく受講された方の判断に委ねるべきことと。

しかし自分としても、こうした問いには、答えなければなりません。

で、私自身の採点では、まだまだ十分にその思いが達していない。

しかもちょいと忙しくなると、昨日、批判した著名評論家と同じで、
知ってか知らずか、傲慢になること。
その可能性は、過去あったことを思えば、
これからも可能性大。あります。

ただ、私が救われているのは、著名じゃないので、
それほど傲慢さを発揮できる機会と場がない。
まあ、その程度の違い。
ですから、油断は出来ない。
そう思っています。

さらに主催者の方の採算(リターン)の問題があります。
これは著名人に敵わない。

誰しも最初から著名じゃない。
相当の努力、実績を積み重ねて、
それで評価されて著名人になったに違いないのです。

それに比べて、私のなんと駄目なこと。
26年経て、こんなもの。

でも、セミナーなどで人が集まらず、主催者が困る、
赤字になるということでは、
経営指導を生業にしているのですから、
自己矛盾的でよろしくない。

私の職業上からも、さらに主催者のご好意、
すなわちたくさんの講師候補の中から、
この私を選択してくださった決断に報いられないでは、
といった信条からも、これは困る。避けなければならない。

この場合の採算は何できまるか。何人集まったか。
集客、客数だろうと思います。
それは主催者のPR如何で、講師のせいじゃなかろう、
とかばっていただいたにしても、やはり私のせいです。

それは、私が、「売らなくても売れる」ということを、
この仕事のテーマにして、食べさせていただき、
生きているからです。

その意味で、仮に私がドラッカー並の話が出来たとします。
さて、この地で、何人、お集まりくださいますやら。
私は小さくなって、考え込んでしまうのです。

でも私がもしドラッカーだったら、
あるいは著名タレントコンサルタントだったら、

どうでしょう。

まちがいなく、大きな会場で立ち見席がでる。

ヅラッカーだったら

2008年11月16日 | Weblog
評論家のT氏を、批判した。

それでは、おまえさんの方はどうか、ということ。
もっとも、私がどうか、いう判定は、
もとより私ではなく受講された方の判断に委ねるべきことと。

しかし自分としても、こうした問いには、答えなければなりません。

で、私自身の採点では、まだまだ十分にその思いが達していない。

しかもちょいと忙しくなると、昨日、批判した著名評論家と同じで、
知ってか知らずか、傲慢になること。
その可能性は、過去あったことを思えば、
これからも可能性大。あります。

ただ、私が救われているのは、著名じゃないので、
それほど傲慢さを発揮できる機会と場がない。
まあ、その程度の違い。
ですから、油断は出来ない。
そう思っています。

さらに主催者の方の採算(リターン)の問題があります。
これは著名人に敵わない。

誰しも最初から著名じゃない。
相当の努力、実績を積み重ねて、
それで評価されて著名人になったに違いないのです。

それに比べて、私のなんと駄目なこと。
26年経て、こんなもの。

でも、セミナーなどで人が集まらず、主催者が困る、
赤字になるということでは、
経営指導を生業にしているのですから、
自己矛盾的でよろしくない。

私の職業上からも、さらに主催者のご好意、
すなわちたくさんの講師候補の中から、
この私を選択してくださった決断に報いられないでは、
といった信条からも、これは困る。避けなければならない。

この場合の採算は何できまるか。何人集まったか。
集客、客数だろうと思います。
それは主催者のPR如何で、講師のせいじゃなかろう、
とかばっていただいたにしても、やはり私のせいです。

それは、私が、「売らなくても売れる」ということを、
この仕事のテーマにして、食べさせていただき、
生きているからです。

その意味で、仮に私がドラッカー並の話が出来たとします。
さて、この地で、何人、お集まりくださいますやら。
私は小さくなって、考え込んでしまうのです。

でも私がもしドラッカーだったら、
あるいは著名タレントコンサルタントだったら、

どうでしょう。

まちがいなく、大きな会場で立ち見席がでる。

もういちど、拍手を

2008年11月14日 | Weblog
セミナーはご参加いただいた方からみたら投資だ。

時間を費やしているから、命だ、と
そこまでは言わないが、無料であろうと時間の投資ではある。

さらに公的機関での経営講習会は、貴重な国民の税金が使われている。
税金を投じていることは、これまた投資。
で、国としてはこれで業績が良くなれば
税金で見返りが回収されるし、雇用促進にでもなれば、
政権は安定するし、予算をとおした永田町の先生方の鼻も高くなる。

 そうしたことを思わないにしても、
経営講習会は、経営者が参加するわけだから、
自分の判断眼を鍛えるためにも、投資対効果を意識して欲しい、と私は思っている。
そして、しばしば自分の講演の冒頭、そうお願いをしている。

それは自分の為でもある。
ほぼ3日に1回ぐらい講演をしている。
すると正直に言って、話し手としても
どこかに馴れ、甘え、侮りがでるのは、自分でもわかる。

手抜きまではいかないにしても緊張感を欠くのは、
私自身、何度となく体験している。

私にとってはその日、2回目であっても、
この講習会を選択した人から見たら、
選択の結果を良し、としなければ
経営者としての資質が疑われる、といったことになる。
ぜひそんな風に厳しく見て欲しい、と思う。

売れっ子、著名人に自他共に例外を認める馴れ、甘えが、
投資は回収の見返りがなければ無駄金になる、
といった経営判断に瑕疵を生じさせる。

少なくとも経営に関する講演会には講師も受講者も主催者も、
そうした真剣さが、他の、たとえば文化講演会などとの
根本的違いではないか、と思う。

講師業を生業にしている私が言うのはおかしいのだが、
主催者も講師を甘やかしたらダメだと思っている。
主役は受講者の方々。それを講師よいしょでは、
HNKや民放の歌謡番組のアナと同じになる。

歌手をよいしょし、タレントに大業な世辞や敬語を使うアナウンサーが多いが
視聴者が主人公ということが全然わかっているのか。これは横道。

私が、これまで最高に呆れたのは、
経済評論家の鋭い突っ込みで著名なT氏。

ほんとに腹が立ったことをいまでも覚えている。
まず会場に遅れてきて、その理由を宮沢総理(当時)に、
声をかけられ立ち話をしていた、と、言い訳を、自分の自慢話に。

これで45分。タイトルは最近出した本のタイトルなのだが、
その話は全くせず本の紹介だけは忘れず、バッチリ。

「今日は、内容の濃い話をしたので、このへんで」、と15分残して終わる。
それを、これは地元の民報の売れっ子女性アナU(当時)が、
「お忙しいところ、鹿児島まで駆けつけてくださったT先生に、
                    もういちど拍手を」。

 
 帰宅後、本棚にあった彼の著書、2冊をその日に捨てた。