経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

動くこと

2014年12月31日 | Weblog




脳を働かすには、行動することです。
動くことは脳を使うことになるからです。
動けば、無意識にせよ、意識せよ脳を使うことになります。

無意識にせよ、意識せよと書きました。
行動には、無意識的行動と意識的行動、この2つがあります。

そこで、脳力開発、すなわち脳の働きを開発させるためには、
日常の何気ない行動を意識して行なったり、
新しいことへチャレンジし、それを無意識にできるようにする。
 この2つが不可欠になります。

 私が、タノウエ脳力経営塾などで、皆さん方に、
「無意識でやっていることを、意識してやりましょう」
「意識してやっていることを、無意識にやれるようにしましょう」
と口癖のようにいっていることです。

このことで、脳は間違いなく、著しく活発化します。

「考えてから行動せよ、という言葉もある。考えの方は、どうか」
といった、質問がありました。

 ここでは少し乱暴ですが、考えは行動の後に必然的に出てくる。
それで、行動の積み重ねの過程で生まれ出てきたものが
脳の中で熟成され、知恵になる。
そう考えて頂きたいのです。

 しかし、いかに行動とはいえむやみにそこらを走り回っても、
大した成果は得られません。
行く方向が定まらないと、エネルギーは分散しムダになるからです。

 そこで、「かねがねから戦略を確定しておくこと」。
このことがとても重要になります。
そもそも行動の方向が決まらないと、行動のしようがない。
 脳は働きようがないのです。

 脳力開発ではこの行動の方向を「戦略」と言っています。
そしてそこへ行くための様々な手段を「戦術」と呼んでいます。
無意識にしろ、意識的にしろ、
行動は、それぞれの場面での脳の判断、指令によるものです。

 脳細胞のシナプスの組み合わせは無限です。
ですから、そこに一定の目的指向がなければ、
脳はその分別に迷い、混乱し動けなくなります。
そう言う意味でも、もともと脳の本質は、
戦略/目的指向になっているといいでしょう。

 それも、生まれたままの時は、
いわゆる真、善、美といったものであったと思うのですが、
それがだんだん環境に汚染され、歪み、濁ってくる。
口では立派な経営理念を唱えているけれど、
実際行動は、ひたすら儲けのために
不真、不善、不美をしているところが
新聞などを賑わせているのは、その典型です。

 これを正すために、
「無意識でやっていること(を糾し)、(新たな正しいことを)意識してやる
ということの必然性がある。こうことです。
              *
 人にしろ、企業の革新にしろ、まず革新を計るためには、
「過去のしがらみ、経験と習慣を捨てること」
と、申し上げているのは、ここに根拠があります。


単純にね

2014年12月30日 | Weblog

世は、変わるものと変わらぬもの、
この2つで構成されています。

ですから 2-X=1 ですからX=1
子供でもわかる。

変わらぬものを押さえていると、
変わるものをとらえることができます。

列車が並行して、同じ方向へ同じ速度で走っていると
お互い停まっているように見えます。

こちらの列車が停車、隣の列車が左へ走り出すと、
こちらの列車は右へ走り出したように見えます。

ほとんどの人は、変わるものをとらえようとしています。
変わらないものをわかっていれば、それはわかります。
変わらないものをわかっていないと、変化はわからないか、
間違ってとらえることになります。


原理、本質は変わらないものに属します。
ですから原理なり本質を 掴んでいないと、
変化は、読みにくくなったり読み誤ったりしてしまいます。
経営でもセオリーを押さえている人は容易に、変化が掴めます。

では変わらぬセオリーとは何なのでしょうか。
難しく考えるから、いけない。
(いえいえ、私が師に叱られたのです)。

私の師、城野 宏先生は、
「犬が東を向けば、尾は西。別に尾っぽを見なくても判る」
と、教えてくれました。

私が、威張る人や俺が俺がという人から、えっさっさっさ、
と逃げるのは、ろくなことにならない、
とこれまでの経験と歴史で学んでいるからです。

その対応として、えっさっさすることになります。
私なりの危機管理、魔よけなのです。

難しく考えなければ簡単です。
わかることをわかれば、後はわからないことです。
それをどうするかは、わかることをまずきちんと押さえてから、
ゆっくり考えたらいいのです。

それを「わからない!」と全部否定する。
「わかんなーーい」

「何もかもいやになった」と全部否定する。
(それは表現の彩で)嘘だと思いますよ。私は。

ちなみに、こうした表現が、講じると自己否定になります。
自己の存在そのものを、認めたくない。
怖いことです。

世は、単純に。物事は単純に。
一口ずつ、一口ずつ、一歩、一歩、ね。

三葉虫と恐竜

2014年12月29日 | Weblog


長崎屋が消えた。
寿屋が消えた。
ニチイが消えた。

そしてダイエーが消える。




三葉虫が、地球を制覇していたに時代があった。

そのおびただしい数が、他の種を圧倒していた。

それが消えた。



恐竜が、この地球を我が物顔で闊歩していた時代があった。

あの巨大さが、他の種を圧倒していたという。

それが壊滅した。



このように、ある種が栄華を極め、そして消えていた。

なぜか。



前者の消滅の理由は、その繁栄にある。

数が増えすぎたことにある、というのが定説。



後者の消滅の理由は、その巨大化にある。

大きくなりすぎたためというのが定説。



ミクロでいえば、少なくとも生き物には、ライフサイクルがある。

たとえば人は小さく生まれて、徐々に成長し大きくなり、

やがて死を迎える。



これは、あらゆる例外のない普遍の原則である。



マクロが、ミクロを総和した集合体ということであるならば、

人類は人の総和、集合体ということになり、

ミクロの人の持つミクロの原則に支配されることになる。



マクロが、ミクロの総和ではない異なるものと仮定しても、

このミクロの原則が、適用されないということにはならない。

こうしたことを自然の摂理だ、と断定するには、

私の知識は乏しく幼稚的であるのだが。



だが、自然の摂理ではないか、と

ここで仮説をしたのは、

そうした原則が、生き物ではない経済に置き換えられる、

と,私は考えているからである。

強みとは

2014年12月28日 | Weblog
購買決定権は消費者にある。

だから比較購買行動を起こす主役、消費者にとっての

優位性こそ「強み」でなければならない。


消費者は自分の金を出し購買するのだから、

購買決定までにいろいろ比較する。

いろいろということは、評価が相対的なもの

であることを意味する。


では売る側にとっては、「相対的であること」とは、

どういうことを意味するのか。


たとえば値段が安いという強みは、

よそでより安い店があれば瞬時に高い、

という弱みに変わり選ばれない。


品質的に劣っているものであれば安くても、

他者がいわゆる「いい商品」を出したら、

選ばれる機会が減少する。


この選ばれないという内容には、

買い手の行動として2つに分けられよう。


1つは他社商品を購買し当社商品を買わなかったとこと。

2に、購買そのものを断念。

たとえば時計を買う予定を断念。旅行に振り替えた、

といったことも含んで考えたいが、この2つある。


前者の1には、神経をピリピリさせ対応策を講じてはいるが、

2の後者にはほとんど関心を示さず、放置状況である。


ここにシェア論の怖さがある。


事業の強みが、1の対ライバル問題である以上、

常に事業は不安と不安定さを余儀なくされる。

さらに2の後者に対しては、

無頓着、無策・無抵抗の状況になる。

これが、強みは消費者に対してのものであるべきだ、

それに絶対的でなければならない、

と申し上げている理由である。

小さな宿

2014年12月27日 | Weblog


それが、どこでも見る人工的な街、大型店、全国チェ-ン店ばかりで、

それも地域の香りも生活感も、日常性のない街だったりすると、

「ああこれこそが、この街の問題だ」と思ったりする。


街を見て,感じて、それから宿に入って、

頂いた資料やITでその街を掴むといった下調べは、

講演なりが始まる間にやる。




ここかから話を横道へ。

上に、宿と書いたが、できれば旅館が良い。

旅館なら街のおもてなし、サービスの

おおよそが体感できる、「るつぼ」と考えているからだ。

その点、ホテルは疑問詞を付けたい。

殆ど標準的なマニュアル装備でかためられており

その土地の香りはほとんどしないからだ。

だが観光地を除いて旅館が少なくなった。

ならば次善策として、その土地のビジネスホテルと思うのだが

それも大手のナショナルチェーンに押されて、あっても系列店だ。


私の理想は、山口県・防府の、ちっちゃなホテル「あけぼの」だ。

ここには、土地の香りがある。

家族経営の暖かさ、ほのぼのさがある。

ホームページでもわかるが

http://www.akebono21.com/


ここの素晴らしさ、いちどでいい。体感してみることを

お勧めしたい。

感動とは、どんなものか、感動は身体で感じるものだ、

ということを、体感できるはずだ。


そして感動は人が生むもの。人柄が醸し出すもの

ということがわかるはずだ。


こんなホテルが、宿としてある土地こそ

私が駅を下りて、ワクワクする街なのだ。

営業の目指すもの

2014年12月26日 | Weblog
営業が本来目指すものは、
「売れる体質づくり」なのだ。
その「戦略を具現するための戦術」を画策し、
組み合わせ、実践する。
これが経営の正しい営みといってよい。

だから、「これは戦略を具現するための戦術」であるかどうかが、
戦術を講じる際に吟味され、今日明日のための一時的成果、
一過性的な戦術は戦略に反する戦術として、
選択から排除されなければならない。

なぜなら一過性的な効果を求めて手を講じることは、
体質づくりのための戦術行使の先延ばしになり、
また折角育ち始めた体質が崩れてしまう契機にすら
なりかねないと考えるからである。
事実、そうしたことで挫折する事例がなんと多いことか。
 
そうしたリスクをさけるために
経営者自身が、事業の本質を、あるいは存続の前提を
人と人との出会い、人と人の関係づくり、人との交流の場
として捉え、事業経営の営みの根幹に、
縁ある人との信頼関係を積み重ねていくこと。

このことに重きを置き、その思い(理念))を、
ひとりひとりの従業員、組織の隅々まで浸透させ、
組織風土化することである。

ちなみに、そうした苦心の過程で生まれた
様々な創造性的システムがいわゆる「我が社ならではのノウハウ」
といえるものである、と私は考えている。

ともあれ人は理念と戦略に共感し共有して、
初めて他者、組織のために動く。
消費者も然り。理念と戦略に共感、共有し、
自らの意志で購買行動をなすのである。
そして戦略を共有する「仲間」の数の多いほど
そのパワーは大きくなる。
これが購買力といわれるものである。

事業戦略は、
経営手法やテクニックをあれこれ考える以前に
理念、戦略、戦術という一種の流れに、大きさと勢いを
構築することを最優先の営みの課題、存続のための課題
として優先、考え,構築することが重要である、と考えている。

もう、雨やん出るよ

2014年12月25日 | Weblog

もう雨、やんでるよ



諸行無常、だから絶えず変化するものに
自ら対応することが哲理なのに、
ほとんどの人が考え込んでしまい、その対応に後手をとる。
あるいは口泡飛ばして議論に始終し、行動のタイミングを逸してしまう。

変化とは、今までのツールが
その努力に関係なく用を成さなくなることを意味する。
雨が止めば、たとえ1万円のブランド傘であろうと
398円のビニ傘であろうと無用の長物化する。

変化には、その都度の最適のツールが不可欠なのだ。
ツールを使う場やどう使うかを考えることは、主客転倒である。
人の成功ツールが自分に役立つかどうかなど考えるまでもない。


変化したこと。そしてどのように変化したのか知って、
初めてその解決のための最適ツールが決まるのであるから。

過去に対応するから対応が対応でなくなる。
頭で対応しても対応にならない。

過去は結果であり動かせない。
分析はできるがそれで今の対応や未来の予測には使えない。
傾向は掴めるが、過去の傾向に未来が忠実である
というのは人智の奢りにすぎない。

だから、過去に対応するのはよそうや。
もう道具(ツール)選びに人生を委ねる愚をおしまいにしょうよ。

肝要なのは、変わるものと変わらないものを区分すること。

それにはまず、不変のものをきちんと押さえること。
なにもかも変化していると思うから、
変化を見過ごし、見誤るのだ。

たとえば同じ方向、同じ100で
並行して走る2台の車に乗っている人は、
お互いの車を見ている限り動いていないように見える。

片方が停まり、片方が動いて、前者は他の一台が動いていることを認識できる。
片方が動き、片方が停まり、前者は他の一台が停まっていることを認識できる。

まずは変わらないものを押さえおくこと。
変わらないものを掴んでいる人だけが、新の変化を掴めるのだから。


「おじさん、雨、やんでるよ。もう傘、要らないよ」

通りかかりの子供に注意され、空を見れば、
いつのまにか雨はやみ、薄日さえさしている。

「坊や、ありがとう。おじさんは変化対応のこと考えていて、
     天気が変わったことに気づかなかったんだ。
             そうか、雨はもう上がっていたんだ」


.

売り下げ対策

2014年12月24日 | Weblog
売り下げにつて考えて見ましよう。

自分のお店の売上が下がっているのは、
あなたのお店で何かあって、利用されたお客様が
「こういうことあったよ。あそこはよくないよ」と
口コミ、言い回られておられるのかもしれません。

あるいは合理化、切り詰め、標準化・・・・・、
そうしたことに一生懸命しているうちに、
お店がお金と物の交換場になってしまい、
あなたの商人としての思いが、お店のスタッフにも、
お客様に伝わらなくなっているのかもしれません。

売れないには、売れない理由が、自分とお店にあり、
そんなふうに理解することが、とても大切なことと、
私は思っています。

お店にはいって、「ここへきたのは場違いだ」
と思うことが、あると、お客様は想像以上に(自分に対して)
腹が立つものですが、そうした思いをお店に足を運んで
言ってくださる人は、殆どおられない。
だから、お店では、そうしたことわからないのです。
わからないけど、売上がさがったときが、
「どうしてなんだろ」。
「そういえばAさんやUさんのお顔最近見ないが・・」
と、漠然を具体的に落としこんで考えるチャンスなのです。

具体的に理由がわからない場合でも
それを契機に、経営者が日々の売り上げにとらわれず、
いかにしたらお客様に喜んでもらえるか、といったことを
あれこれ考え、具体的にやってみることです。

お客様に喜んでもらうことが
自分やスタッフの楽しみ、やりがいになるようにするのです。
お客様に感謝されることを目標、ノルマとして実践してみるのです。

つまり、相手を喜ばしたときに、感じる自分の気持ちを
つかむことこそ、まずやらねばならないことです。

それを売上が下がったらたいていは、「頑張れ、頑張れ」です。
中には、売上ノルマを与え、それに加えて
「真心を込めて、お客様に接しなさい」と、
マッチポンプやっている。
それ、すぐわかりますよ。
スタッフのみなさんの顔が、
私には泣き笑いしているように見えますからね。
.
黄色信号の時、どうしますか。
赤信号の時、どうされますか。

強行突破? だから事故るのです。
売り下げのときには、立ち止まり考える。
「お客さまが喜ぶことが足りなかったのでは」と。




師の命日の記

2014年12月23日 | Weblog
事物を見聞きし触発を受ける。
それをメモしておく。
だが人の話はメモしない。
人の話から触発され、自分の頭に浮かんだこと
これを確実にメモする。

人の話は聞く。
聞くが鵜呑み、まる覚えしそのまま使う、
なんてことはやらない。

自分なりに消化し、解し、自分なりのイメージで
その明暗、虚実などを賞味、ときには確認する。

次にそのイメージしたものが、自分が相手だとしたら、
その相手はイメージを大歓迎し受け入れるだろうか、
とイメージし直してみる。
「おっ、これなら気分が良いぞ」と、お客の自分が確信もてたら、
それはいける、ゴーだ。
それで売り手としての自分のその判断は、
初めて「正」の解となる。

自分だけに、都合の良い、心地よい、イメージは、
結局、虚で、実になることはない。
なぜなら虚を受けて諾とする
相手などいるはずがないからだ。
よしんばいたとしても、
その人に何らのお役に立てることはない。
まさに、それこそ「虚」である。

「なんとまあ、ややっこしい」。
昔、師から、上の話を聞いた時思った。

師は、それを見透かし、曰く。
「この話せば、ややっこしいことを、
お前さんの脳は、本来なら瞬時にやっているんだ。
ところが、知識のアカで脳回線が詰まっている。
それを復元するのが脳力開発なんだ」
(12月21日、墓参りにて記する)。

師、12月21日逝去。享年72歳。
父、12月31日逝去。享年92歳。

葦と足

2014年12月22日 | Weblog
この店がないと、「うちらは困る」といった地域の人たち、
この地域の人に買ってもらわないと、
「生きては、いけない」という商店の思い。

こうした双方の思い、露骨にいうと
利害の一致の上に存在するのが商店ではないか。
これを原点と考えることにします。

その原点に遠ざかる距離に正比例して商店が苦しくなる。
あるいは住民が大変になってくる。
そのいずれか、ということになります。

この店なぞあってもなくても困らない
ということになれば前者。商店が困る。
この地域の住民を相手にしていては大きくなれない、
ということで、その商店が遠くの町へ移転した
と言うことであれば、地元住民が困る。

今、全国で、こうしたいわばすれ違い現象が起きている。
首都圏の繁華街では、お店がたくさんあって、過当競争。
その中のいくつかが消えても消費者は困ることはない。

だから売り手の方が、消費者にたいして
あの手、この手、テクニックで客の関心を誘う
涙ぐましい努力が欠かせない。


一方、郡部では、そうした努力をせずとも
消費者は、近くにあるといった理由だけで利用してきた。
なにせ銭(あし)はあっても、遠くへ買い物に頻繁に通う
足はないのだから、仕方がなかったのだ。

そうなるとその商店は、足元を見てサービスと品質は低下し、
頭(ず)と値段は高くして、サービス、設備などに
コストをかけない、というやり方で安定売上を確保してきた。

ちなみに郡部では、商品に値札をつけていないお店がみられる。
理由を調べたら、
1に、値札代もつける手暇も惜しい。
2に、定価で売る気はないから値札に値段を入れたら困る、
3に、売る人等によって変動価格を採用している。

ようはタチの寿司や伊勢エビなどに「時価」とある、
あれを雑貨屋や八百屋がやっている、とイメージあれ。

実例1つ。もう30年も前の話だが、
ある離島で、朝方には、1本230円の大根が、
夕方古くなったのを半分にきり、630円(一本1260円になる)
で売られていた事例を、わたしは目の当たりに。

驚いて、店主に言ったら、「経済の原理しらんのか」
といった顔をされた。
店主曰わく理由は、
明日あたりから海がしける。となれば島では野菜類は貴重品。
さすればすべからく需要と供給のバランスで価格は決まるから、
高くなるのは当然である。お分かりか、
この若造コンサルさんよ!

ながいあいだ経済の原理は、まさに売り手有利に働いていたのである。
それは時代のせいでも、経済の原理がえこひいきしたせいでもない。
足がなかったからである。

だが自動車が普及することで、距離を短縮する足ができ、
売り手と買い手の立場は、おおむね逆転した。

地元の住民たちに、足により自分の銭(あし)を使う場の
選択が出来るようになったのである。 

これで、郡部の町から、店が消えていった。
上位町に客を奪われた。
大型店に売上を持って行かれた。
中心商店街は空き店舗は。郊外へ客が流れたせい・・・・。

気持ちは分かるが、
こうした自らを被害者においた考えからは、
処方は絶対に出てこない。
こうした現象は、たった1つのことで決まっているからである。

それは、「消費者の選択の結果」。
逆に言えば、ここに気がつくことで我が店のバラ色を描き、
その具現を計ることが出来るのである。
それも難しいことではない。
難しいのは、作り手・売り手の論理を捨てきれないこと。
消費者中心主義を理解できないことである。

この1260円の大根との遭遇以来、
私は「消費者中心主義」を提唱始め、
ダイコン経営コンサルタントからの
脱皮を決断したのである。