経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

論理が変わる

2011年07月30日 | Weblog
組織の外の人間が、組織内の戦略を

垣間見ることができるのが、現場である。



現場には、経営者の理念、思いが、戦略として方向付けられ

組織のそれぞれに共有され、その戦略を現場のそれぞれが、

それぞれかつ次々と戦術として形化している。



心の思いは見えないが、形化されていれば見える。

言葉は見えないが、形化されていれば見える。



しかし形は、何とでもなる。

言葉なら、何とでも言える。



形からそれを見極めることは難しい。

事実、その形と言葉で、これまでなんども、なんども

消費者は裏切られてきた。

否、それは今後もなくなることはなかろう。



ならば見極めが付かないじゃないか、

と考えるのは早計というもの。



裏切られる度に、消費者の選択眼は磨かれる。

自分が裏切られなくとも、他山の石を

拾い、学習する。





そして掴んだことは、大きくは。

1に、きれい事、美辞麗句は疑ってみる。

2に、情報開示が少ないところは疑ってみる。

3に、時間軸と俯瞰的に観察する。

4に、一事が万事、そして他山の意志的見方をする

5に、消費者同士のネットワークを活かし見る。



といったことになろう。

こうなると、

これまで企業の論理を押し通す企業が有利であった

それが、消費者の観点から、消費者の物差しに対応する企業が、

消費者から選択される、といったことで有利になると、

まさに攻守所を変えるところとなった。

ところで、上の「企業の論理」とは、

1に、画一化、標準化といったこと。

2に、情報不開示、企業側からの一方的情報提供

3に、売れれば良し。あと知らず

4に、自分だけ良し。他は知らず

5に、建材苦情への個別対応にとどまり、本質的原因解明は避ける。



といったことが挙げられる。





しかし世界中探しても、画一人間、標準化された人間は存在していない。

それでも売れていたのは、人間様が、画一化、標準化といった

企業の論理に合わせていたのである。



こうしたことで、今や、

1に、きれい事、美辞麗句は敬遠される。

2に、情報開示が少ないところは敬遠される。

3に、一度ことを起こせば、次から長く敬遠される。

4に、一事が起きれば他も、同業他社まで、敬遠される

5に、消費者同士の情報交換による評価で,ノウとなれば、敬遠される、



といったことになったのである。



そうしたことによる売り上げ不振を、「景気低迷で」なんてことで、

すり替えているようではその企業の起死回生は難しい。

6次産業化プランナー

2011年07月28日 | Weblog
次産業化プランナーとして、本格的に稼働始めた。第一次産業の振興に、これまで培ってきた現場経験17年。そして経営コンサルタントとしての実務経験すべてを投じる決意です。仕事と言うより、この世に生を受けた者として、この世に残したいという思ったとき、根っこの農林水産業だと思ったのです

現場は語る

2011年07月27日 | Weblog
戦略の具現には、科学的計算にもとづき、
様々な戦術の中から最適のものを組み合わせ実施される。
しかし、現場と相手の動きは流動的で変化する。

だから、戦術は委ねる、任せることになる。
リーダーの立場の人、リーダーの肩書きを持っていても
多くは、この「任せる」ということが、できない。
「任せたぞ」というが、その実、アーセー、コーセーと
細かく戦術を指図している。

仕切る、指図しているということは、それ以外の戦術は、
断りなしには使ってはならない、という縛りになる。

このことにより変化に対しての対応に大きなブレーキが掛かり、
戦略の成就を阻害する要因になる、といった事例には枚挙に暇がない。
それでたまたまうまくいけば、
「そうれ、俺が言った通りやればうまくいくだろう」
と自画自賛する。

それでうまくいかなかったら、
「おまえ、俺の言うとおりやらなかっただろう」とか
「徹底が足りなかったのだろう」とか

あるいは、「未熟なおまえに任したのが、失敗だったよ」
と、配下に責任転換し、真剣に人材教育の必要性を考えたりする。

組織で発生する「失敗」は、大きく二つに分けられる。
1に、戦略に属するもの。
2に、戦術に属するもの。


で、1は、当然、経営者、管理者の問題である。
だから、配下に転嫁する限り、解決は永久にできない。
戦略に属する失敗は、戦術により取り戻せないからである。

戦術に属する失敗は、
スキルアップ、教育研修、OJTなどでカバーできる。

安かろう、悪かろうの商品を仕入れてどんどん売ろう、
といった経営者の戦略を採っているお店が、
商品に素晴らしいPOP,ショーカードを何枚付けようが
店員の接遇を高めようが、関係ない、ということである。

こうした話をすると、経営者は
「そないなこと、わかっとりますわ」
と一応に言う。

しかし、わかっていようがわかっていまいが
現場は、戦略と戦術の取り違えを如実に語っているのだ。


だれに!
消費者にである。
消費者は、その語る現場で情報を得て、
購買の決断をしているのである。



戦略の達人

2011年07月23日 | Weblog
秀吉の、「負けるが勝ちの戦略」、
家康の、「立ち枯れの戦略」をみた。
少し戻って信長の桶狭間の戦いをみてみたい。

生きるか死ぬか。

今川義元に負けて死ぬことも選択できたのだけど、
死ぬのはいや、ということで、「生きること」を択一した。
生きるためには、今川軍に勝つことだ。

今川軍に勝つためには、今川義元の首をとる戦略と、
今川軍と戦い、勝つ方法。この択一だ。
前者、後者、どっちが勝利の確度が高いか、を考え、
前者を択一して義元の首を取ることを考えた。


ワンマン経営者が、いなくなると、企業は衰退する。
元々今川義元が、京を目指すのは、彼個人の課題。
組織全員の目標ではない。
彼がいなくなれば、京に行く目的より、早く故郷に戻り
妻子の元へ、となるだろう。

ランチェスターの「弱者の戦略」を、勉強していなくとも
信長でなくとも、そうなる。


戦略は決まった。
次にその方法、戦術だ
その戦術は、アレがある、これがある、いろいろある。
あれとこれと組み合わせて、今川の首を取ってしまった。

ということで、一か八かの戦いに挑み、奇跡の勝利、でも
運良くでも、強運に恵まれ、といったことでは全くない。
ましてや一か八でも、ヤケクソでもない。

まさに信長は、「脳力開発」の達人。
戦略を立て、それを組織全員に共有する。


「生きたいか!」  

「オ-!」

「それなら狙うは、義元の首ぞ。他にかまうな!」

「オ-!」

その狙う首が、どこにあるか。
その首が、どこにある場合が、取りやすいか。
その首を取りやすい時間帯と場所は?

戦略を具現するためには、まずこうした情報収集だ。
信長は、他の武将にまして、かねがねから「情報収集」の重要性を
認識していた。

戦略を具現するためには、科学的計算にもとづき、
様々な戦術の中から、最適のものを組み合わせるのだが、
現場と相手の動きは流動的で、変化する。


だから、戦術は任せる、ことなのです。
否、任せる以外にないのです。

それを、アーセー、コーセーと上が仕切るから、うまくいかない。
方法、戦術まで指示命令する企業をみたら、
うまくいかない企業とみてまちがいない。


選択次第

2011年07月19日 | Weblog
国民に「代」(わって、国のために

「議」を論じるのが、代議士の由来。使命である。



 そのためには、燃える思いを理念に

それを背景に戦略を立て、

それらを主である国民と共有することが不可欠である。



だから政治家、官僚が、なにもかも情報を、

国民に閉ざすといったことは望ましくない。

主である国民を信頼していない、見下している証しともとれる。



その傲慢さの裏返しが、他の国への

へつらい、阿り、甘さとして現れているのではないか。



国民は信頼して代議士を選び、政治を委ねているのである。

政治家も国民を信頼しなければ、

国を挙げて国づくりはできまい。



国民の支えあっての政治。



そして国としての誇りと威厳を堂々打ち出してこそ、

他の国からも尊敬される国家と考える。



国民も、高い位置から自分たちを見る政治家、

国家という大義名分を理由に、情報を国民と共有しない政治家



そうした輩を、個々個別に見極め、

自らの代議として、けして選ばないことだ。



選挙は、国民による彼らの審査と、

国家を清める、願ってもない機会なのだ。



代議士ないしは政治家を経営者、

国民を消費者に置き換え、

審査を購買減少、清めを淘汰、と置き換えたら、

経営も、また消費者の選択次第なのだ。




立ち枯れ

2011年07月17日 | Weblog
その後日談とは、

昨日述べた秀吉の戦略を読んで、

あえて自分に一目置かした上で秀吉の配下にはいった、

という話である。



その家康の大戦略とは、秀吉の立ち枯れを待ち、

自分が天下人になるということである。



[泣かぬなら、泣くまで待とう時鳥]



織田信長、豊臣秀吉、それに徳川家康

という三人の人間性をそれぞれ後世の人が句に詠んだもので、

「泣かぬなら殺してしまえホトトギス」が信長。



「泣かぬなら泣かせてみせようホトトギス」が秀吉、

家康は「泣かぬなら泣くまで待とうホトトギス」とされたもの。



通常は、無理せずに機会がやってくるのをじっと耐えて待つ、

という意味に用いられる言葉である。



「じっと耐えて待つ」に、家康の戦略があり、

ただ我慢、耐えていたのではないのである。



「臥薪嘗胆」の話を思い出しまでもなく

人は、勝算 (夢。目標) のないところ

我慢はできないものなのである。


その戦い。くれてやるわい

2011年07月13日 | Weblog
人は行動する瞬間(ここでは勝ちにいったとき)最大の隙が出る。

だから勝つために、隙、弱さを見せてやる。



これを、戦いに活かした典型的例が、小手・長久手の戦い。


秀吉は、小牧の陣で、この戦略をとりました。

家康に負けることで、家康を臣下におく、



家康を臣下に置くことで、念願の「天下取り」が成就(秀吉の大戦略)。

そして全国の不満分子のぶつぶつを収めることに成功しました。



それは家康を臣下に置けば、天下を得られる、という大戦略が、

さきにあったからです。



戦いそのものにすら、戦術に使っている。

秀吉のまさにすごさといえましょう。



つまりこの場合、家康さえ治めれば天下統一が具現できる。

そのためには、この戦、くれてやるわい、という大戦略。

負けを撒き餌にして、家康を釣る。

繰り返しますがそれは家康をつり上げることで天下をとれる、

という確信があったからに他ありません。



その後、戦をくれてやるだけでは、まだ心許ない、と思い

嫁に行っていた自分の妹(朝日姫(あさひひめ).秀吉の異父妹)

を離縁させ、徳川の第二正室として付けている。それでも足りないとみて、

実母まで、送り込む、といった徹底ぶりである。

(ちなみに、この二人は、家康への人質ということになる)



常識で考えれば、これは勝者が敗者にとる態度ではない。

いかに秀吉が、大戦略の具現にあの手、この手を

惜しまなかったか、の歴史的事実である。





これには後日談がある。

そうした秀吉の戦略を読んで、あえて自分に一目置かした上で

秀吉の配下にはいった、という話があります。



なぜ配下にはいったか。

それは、

隙が出る

2011年07月11日 | Weblog
「両面思考」が「戦略」の前提条件。
すなわち二者択一の選択概念を持つものが戦略。

と考えるとその片方を戦略という使い方は、
言葉尻をとらえて言っているのではなく、
ほんとうに戦略のことわかっているのか
といいたいのです。

あるいは出版社の担当が、著者に無断で、
こうしたタイトルをつけたのかも知れませんが。


分別、選択、判断は、二者択一がベース。

生きるか死ぬか、勝つか負けるか、消すか付けるか、
発展か衰退か、山か谷か、左か右か、上か下か、などなど。

生きる方を選択もできるし、死ぬ方も選択できる。
これが第一。
次に生きると決めたら、生きるための方法を考える。
生きる、という戦略に即した戦術を採る。

死ぬと決めたら、そのための方法を考える。

その方法は区々無限にある。
これを「戦術」といっています。

このことは繰り返し述べてきたところです。

次に、いくつか事例で見てみます。

過日、熊本で剣道の模範試合をみました。
どちらも強そうです。

私は隣席の知人に、
「どちらが強い(上段者)かわかりますか」
と問いかけました。


問いかける私には、確信がありました。

それは弱い方が、さきに仕掛けるということ。
いえ、強い方が隙を見せて、相手が先に動くように仕向ける。
動くように誘っている。

なんのために?

勝つ、という戦略を具現するためにです。


これには少し説明が必要かも。

人は行動する瞬間(ここでは勝ちにいったとき)最大の隙が出る。
だから勝つために、隙、弱さを見せてやる。

人は、動くとき、左右どちらかの足を踏み出す。
その瞬間は、片足で一番不安定。
だからこの瞬間を突く。

人は、手を振りかぶる。
その瞬間は、脇はがら空き。
だからこの瞬間、胴を狙う。

声をかけられる。
人は、そちらに注視する。
そちら以外が、がらあき。

次は、これを実践上で活用した例を・・・・・

隙が出るそのとき

2011年07月11日 | Weblog
「両面思考」が「戦略」の前提条件。
すなわち二者択一の選択概念を持つものが戦略。

と考えるとその片方を戦略という使い方は、
言葉尻をとらえて言っているのではなく、
ほんとうに戦略のことわかっているのか
といいたいのです。

あるいは出版社の担当が、著者に無断で、
こうしたタイトルをつけたのかも知れませんが。


分別、選択、判断は、二者択一がベース。

生きるか死ぬか、勝つか負けるか、消すか付けるか、
発展か衰退か、山か谷か、左か右か、上か下か、などなど。

生きる方を選択もできるし、死ぬ方も選択できる。
これが第一。
次に生きると決めたら、生きるための方法を考える。
生きる、という戦略に即した戦術を採る。

死ぬと決めたら、そのための方法を考える。

その方法は区々無限にある。
これを「戦術」といっています。

このことは繰り返し述べてきたところです。

次に、いくつか事例で見てみます。

過日、熊本で剣道の模範試合をみました。
どちらも強そうです。

私は隣席の知人に、
「どちらが強い(上段者)かわかりますか」
と問いかけました。


問いかける私には、確信がありました。

それは弱い方が、さきに仕掛けるということ。
いえ、強い方が隙を見せて、相手が先に動くように仕向ける。
動くように誘っている。

なんのために?

勝つ、という戦略を具現するためにです。


これには少し説明が必要かも。

人は行動する瞬間(ここでは勝ちにいったとき)最大の隙が出る。
だから勝つために、隙、弱さを見せてやる。

人は、動くとき、左右どちらかの足を踏み出す。
その瞬間は、片足で一番不安定。
だからこの瞬間を突く。

人は、手を振りかぶる。
その瞬間は、脇はがら空き。
だからこの瞬間、胴を狙う。

声をかけられる。
人は、そちらに注視する。
そちら以外が、がらあき。

次は、これを実践上で活用した例を・・・・・

取り違え

2011年07月07日 | Weblog
戦略の具現には、科学的計算にもとづき、
様々な戦術の中から最適のものを組み合わせ実施される。
しかし、現場と相手の動きは流動的で変化する。

だから、戦術は委ねる、任せることになる。
リーダーの立場の人、リーダーの肩書きを持っていても
多くは、この「任せる」ということが、できない。
「任せたぞ」というが、その実、アーセー、コーセーと
細かく戦術を指図している。

仕切る、指図しているということは、それ以外の戦術は、
断りなしには使ってはならない、という縛りになる。

このことにより変化に対しての対応に大きなブレーキが掛かり、
戦略の成就を阻害する要因になる、といった事例には枚挙に暇がない。
それでたまたまうまくいけば、
「そうれ、俺が言った通りやればうまくいくだろう」
と自画自賛する。

それでうまくいかなかったら、
「おまえ、俺の言うとおりやらなかっただろう」とか
「徹底が足りなかったのだろう」とか

あるいは、「未熟なおまえに任したのが、失敗だったよ」
と、配下に責任転換し、真剣に人材教育の必要性を考えたりする。

組織で発生する「失敗」は、大きく二つに分けられる。
1に、戦略に属するもの。
2に、戦術に属するもの。


で、1は、当然、経営者、管理者の問題である。
だから、配下に転嫁する限り、解決は永久にできない。
戦略に属する失敗は、戦術により取り戻せないからである。

戦術に属する失敗は、
スキルアップ、教育研修、OJTなどでカバーできる。

安かろう、悪かろうの商品を仕入れてどんどん売ろう、
といった経営者の戦略を採っているお店が、
商品に素晴らしいPOP,ショーカードを何枚付けようが
店員の接遇を高めようが、関係ない、ということである。

こうした話をすると、経営者は
「そないなこと、わかっとりますわ」
と一応に言う。

しかし、わかっていようがわかっていまいが
現場は、戦略と戦術の取り違えを如実に語っているのだ。


だれに!
消費者にである。
消費者は、その語る現場で情報を得て、
購買の決断をしているのである。