経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

パラダイムの転換

2009年07月30日 | Weblog
時流に対応するには、大きく2つの方法があります。
漕ぎ方を変えるか、時流に合う舟を作るかです。

それは時流の変化が、一過性であるのか、
構造的であるのか、その見極めで決まります。

農薬を使うと一過性的生産性は高まります。
しかしそれを継続し続けると、土が構造的に変容してまう。

波は、待てばやがて収まりますが、
赤潮は放置したままで収まることはありません。

ここで取り上げている変化は、後者。
すなわち構造的。前者では対応できないとします。

ですから、人類は、課題として潮流の構造的改善にという
これまで経験したことのない難しい課題に対して、
世界的規模で取り組まざるを得なくなりました。
これが地球環境問題です。


本稿は、これはさておいて、ということで論を進めます。
すなわち新しい潮流に適応し、他者へもマイナスを与えないで、
生きていける船を造るといった考え、そうした観点で話を進めます。

私は経営の仕事を生業としています。
ですからその領域で十数年前から、
そのための材料を集め船づくりを始めました。

それは、これまでの自分の技を磨くことや
さらなる努力を続けることではありません。
むしろそうしたことが、潮流との乖離を拡大することになる。

「場(チャンネル)」そのものを取り替えることが、
この構造的転換後には不可欠と考えたからです。

明治維新直後、民を中心とした官軍に、武士の軍団は勝てなかった。
これが維新です。
なにが維新かというと、個々の力より集団の力を集結した、
という意味で、くくりつけ機能させる、
その「場」が変わった、ということが維新。
パラダイムを変えることが維新なのです。

それは対応として剣術の腕を磨くことではなく、
個人技である剣をすて、鉄砲、大砲、軍団、集団で、
という思想の維新をも内包します。
その方が合理性、効率性、成果が高いからです。

明治政府は、自らの威信にかけてそのことを
英国やドイツなどから学び、吸収しました。

今政治的にも経済的にも、そういった「維新」の時がきたのでは、
というのが、私の頭の中では仮説卒業の私の思いなのです。

上に挙げた徳川幕府から明治政府の転換を、経営に置き換えたら
何に当たるのか。置き換えられるのか。
まずそのことを考え続けました

成功の要因が次の失敗の要因になる、
といったセオリーが歴史にはあります。

歴史は繰り返される、というのもあります。
古今東西、歴史書を読むと、まさにこの繰り返しで、
今日まできている。そのことがよくわかります。
それはヘーゲルの弁証法も示しています。

いろいろ考える中から共通するキーワードに当たりました。
それは合理化、効率化、集約化です。

少なくとも、明治政府以降、とりわけ第二次対戦以降、
今日まで日本経済を大きく成長させた最大の功労者は、
生産性向上を目的とした合理化、効率化、集約化。

上に触れた歴史のセオリーを当てはめると、
この成功要因が今、そして今からの凋落の立役者、
キーワードになるのでは、ということで仮説設定。
それから10余年間、いろいろ検証を続け、
私の中では既に仮説を脱し確信になっています。

それで、パラダイムを変えなければならない、とする
確信犯としての立場を明確にした上で、
その対応の方へ論を進めて見たいと思います。

当たり前のことを当たり前に

2009年07月29日 | Weblog

単品管理の本質は、発注ではない。
仕入れにあるのでもない。

手持ち在庫の保持にあるのです。
だから欠品がないかどうか、といった吟味が
単品管理の本質です。

欠けていては、消費者が困るもの。
欠けたということは売れたということ。
在庫しておかないとお客が困るもの。
そうしたものを仕入れる。

それをいきなりに仕入れたり問屋のススメを仕入れたでは、
買い手が買いたい商品が欠け、残りは売れ残し。
これで翌日、シャッターを開くから、
この店、売れ残りだらけのお店、売上げ不振店になる。

売上げ不振といえば、なにか大きな理由を考えてしまいますが、
私の経験でいえば、当たり前のことが、当たり前に行われていない
ことから、ことが起きている。

こうした些細なことが理由。これがほとんどです。

買い手が買うのですから、買い手を想定して仕入れる。
閉店後にお店にある商品、皆売れ残り。
それで、翌日店を開ける。それが続けば、
滓の滓、かすだらけのお店。
こんなこと、考えなくても当たり前のことじゃないですか。

この当然が、わかっていない。できていないのです。
ですから、当たり前が、当たり前にできていること。
これだけで、あなた方が大好きな、競合店との
差別化などできちゃうんです。

流れに身をまかせ

2009年07月27日 | Weblog
理由がわかれば、対応は難しいものではない。
解決できる、と、先に書いた。

 
おもしろくなく、また努力が空回りしている「感」がするのは、
そのことや、そうした「感」に問題があるのではない。

信号機の赤に問題があるのなら、赤を撤去すればいい。
その結果、どうなるか。
問題は問題を除去すればいいのではない。
問題発生の因を知らしてくれた果報者を、叱ってどうする。


川の流れに身を任せ、楽しさを満喫していたのに流れが変わって、
楽しみが苦しみ、恐怖に変わったとする。

流れを変える努力をするか、という問題である。
努力で解決できるか、という問題である。
神仏に祈って流れを変えてもらうか、という問題である。


問題はそうじゃない。
そのことに対して倦んだか、こちらのありかたが
不適応になってきたのだ、と解したらどうだというである。


繰り返す。
なにも流れを変える、といったことに挑戦、努力することはない。
舟を変えればいいのだ。あるいはスポットを変えればいい。

人生という舟のオーナー兼漕ぎ手は、この自分なのだから。
これは手間暇はかかるかも知れないが、難しさはない。
川の流れを変えるのと違い、自分の意志決定でやれる。

もちろんその前提として、時流の流れの方向を
自分で、自己責任として、読みとることが不可欠である。

これは難しくはない。
だが流れに船共々身を任せていたのではつかめない。
私は情勢判断学を教えている専門家だから容易につかめる、
と書いたのでは、私のPR,情勢判断学の宣伝にはなっても、
他の人はとまどう。どうしたらいいか。

そこで私が日常やって、実験済みとを記したい。。
いったん船から下り、岸からその船を見てみること。
これ、客観という。

橋の上から、川を見てみること。
ヘリコプターをお持ちなら、空から川をみてみること。
これ、俯瞰という。

世界地図、日本地図、県地図、市街地地図上で、その川を見てみる。
レストランにいったら、フロア全体が見渡せる位置に座ること。
結婚披露宴で新郎新郎だけを眺めて2時間、といった席は敬遠すること。
これ、全体という。


変化には始点と終点がある。これ、時系列という。

自分の人で、この始点と基点を決める。
短ければ変化がつかみがたいし、長ければタイミングがずれる。
まず2年から3年、といったところか。

最後の5。五感でつかむ。
目を見張り、鼻ピク、耳をそばだて、触り、嘗めて。
すべては難しいにしても、できるだけ
客観、俯瞰、時系列、客観、五感、この5つ。
五感が難しかったら省いて、前の4つでもいい。
可能限り、角度、高度、場、時間を変えて実際やってみる。
こうしたことで川の流れも船の置かれている状況も容易につかめる。


流れの変化は、こうした習慣作りを積み重ねて、見えるものである。
努力ではない。継続である。


皮肉な言い回しだが、
現場でうんうん努力していては、つかめない。
会議では、社外における我が社の評価は見えない。
部分をみて、大局をつかむことは難しい。
部分対策が大局対応になることはない。

売上げどんどん

2009年07月26日 | Weblog
これまでこの仕事に転じてからの自分を、
否定し、捨てることは、自分が思っていた以上に
恐怖を感じた。
ああ、これが物の本に書いてある自己否定の一種かな、
と思ったりした。


事の発端は、単純。子供じみた理由である。
端的に言えば、仕事がおもしろくなくなった。倦いた。
だからそれを磁石として、いやなことばかり目につく。
やめたい理由がどんどん蓄積されていく。それです。

もともとわがままだ。
生き方にしろ仕事にしろ、好き嫌い、楽しいかそうではないか、
といったことを基準に、文句なし前者を選択する、ということで、
好きな仕事を選択してきたつもりだ。
それがおもしろくないのですから、私にとってはことは深刻だ。

そうした時には、実にたくさんの誘惑があることを改めて実感。
それも外部からというより自分の内部からなのだ。
たとえば、「年だよ。気力の衰えってあるんじゃない」
「男にも更年期障害があるんだ。それかも?」、
「そもそも仕事はおもしろくないもの。そう割り切ったら」
といった声。自分が自分に言い聞かせる声が聞こえてくる。

外部の声ならこれまでもあったし、なれっこ。
耳や目を塞げばいい。場を変えればいい。
しかし内部の声というのは始末に負えない。
馬鹿は死ななきゃ直らないという。
こうした内部の声も死ななきゃ止まらないのかと思った。

しかし こうした声のお陰か、以外に早く
その理由を見つけることが出来た。。
それは、「脳力開発」のインストラクターでしみこんだ習慣。
「人から言われたら、その反対を考える」、
それに性格的にも天の邪鬼。このことが幸い、幸運した。

加えて生業の経営指導の仕事を通じて、
「売れるには売れる理由がある。売れないにもその理由がある」
その理由さえ押さえれば、それに対応する形で、
売れて儲かるしくみを構築すれば、売れる。このことを確信していたこと。

この2つがおもしろくなくなった私自身を助けてくれた。


年だ、年のせいだ、といわれたらどうにもならない。
年を減じることは、サミエルソンとて不可能だ。

彼は、心は年取らない、といっている。
そのことは肉体はそうではないと、彼とて認めていることになる。
その上での、彼のあの著名な詩ができているのだ。

わかったのです。
 
上に潮流の変化、と記し、潮流が変わっているのに、
私は、これまでの「対応」でもって、対応していた。
具体的に手段としてのあれこれといったことではなくて。

恐竜が、氷河時代への対応を
巨体であるが上に、肌で感じ取ることができずに
不適応品種化し、滅びてしまったように。

今の自民党もまさにそう。脱線。

対応できていないのなら、ことは簡単。対応させればいい。
理由がわかれば対応は難しいものではない。

これは解決できる。対応策はある、と私は確信した。


閑話休題
売る努力をして目標達成
これは、鞭でたたかれた後の快感と、どう違うのか。

努力をすれば報いられる。
では、報いられなかったらどうなのか。

努力をしなくても報いられるってことはないのか。
あるとしたら 努力をしなくて売り上げどんどん、といった
あり方、やりかたが存在するはずだ。
それこそ時流適応、潮流適応の本来ではないか。
その発掘こそが、自分の仕事ではないか。

何であろうと命じられてやるのはサラリーマン時代で卒業だ。
だから天命などではない。
まさにこれぞ自分が倦むことなくやれるライフワークではないか。

この 「努力をしなくて売り上げどんどん」のあり方が
徳島の中谷さんとのやりとりの縁の下にあるということを発見。
そのことを書くつもりが、例によって前書き、背景、横道、余談と
展開し長くなった。

倦むが生むもの

2009年07月25日 | Weblog
忙しい、大変だ、疲れたといった言葉は、
いずれも仕事の場合によく使われる表現である。
ニュアンスとしては、ぼやき口調。

だが、「遊び疲れ」といった言い方がある。
これは、一つのことを長く続けると倦むといったことで、
上の言葉のようなぼやきの色は薄いのではないかと。


同じものを毎日食べると飽きる、という。
だがご飯みたいに、繰り返し食しても飽きないものもある。
好きなものでも毎日三度三度出れば見たくもないこともある。

そういえば、昔、師の城野先生から、こんな話を聞いた
中国には、情報遮断の刑といったものがある。
人間は、長時間、情報が入らない状態にしておくと、
脳は腐り始め、いわゆる脳死にいたる。そうした極刑とか。

なるほど。とすれば「倦む」とは、その警告、
赤信号、と考えられなくもない。


そもそも子供の脳には空き容量が多く、
知るもの聞くもの、いくらでも入る。
脳は知っていることは仕入れない。
脳の在庫にない未知のことはどんどん仕入れ、取り込まれる。
子供にとって、誕生以来見聞きすることは、
おなかの中にはなかった情報だらけ。未知のことだらけ。
これが子供が落ち着きなくちょろちょろ、ころころ動きまわり、
関心のチャンネルを変える、いわば「落ち着きのない子」の理由

つい最近までの話。
子供がTVに長時間かじりつくことが社会問題化したことがあった。
それが今はゲームか。あるいは携帯か。

TVにしろゲーム、携帯にしろ、いわば多チャンネルで
多くの選択肢があるから、倦むこと少なく
長時間かじりつけたのであって、粘りや根気の問題ではあるまい。
実験したことはないので断定はできないが、
たとえば、NHKだけの1チャンネルで、
長時間かじりつくとは考えられない。

北島三郎の歌を聴くためにNHK教育TVチャンネルを合わせ、
辛抱強く待つことはないのである。
選択肢が増えた、ということは、そういうことである。


あるとき、知人の議員が、結婚式で祝辞、満面笑みを込めて。
移動15分、次にお葬式会場で急にくらい顔になり、涙を浮かべて弔辞。
といった光景も、隣で目の当たりに見てはっとおもった。

「意識して、チャンネルを切り替えている!」。


選択肢は広がり、いくらでもある。
チャンネルを広げれば、
見たいものをみつけることは容易である。
また見たくないものを見ないことも選択できる。


こんな調子であれやこれや、考え、思って、得たものは、

「チャンネルを自分の意志で自在に変え、快適空間を保持する」

という、そんなにいろいろ考え、遠回りしなくても、
普通の人ならすぐ気がつく当たり前の結論だった。
これぞ人生において快適空間をつくるやりくり。
その快適空間を消費者に提供するのが、商人。

以来、脳力経営塾では、よくこの話をする。
もともとは、この自分の始末に負えない飽きっぽい性格を
なんでやろ、と考えるところから始まった。

悪い性格を直せ、性格改造を、といわれると、
自分が自分でなくなる不気味さを覚え、いやで。
かといって自分のいやな性格と一生つきあうのもどうか。

ならばこの与えられた性格をメニュー、チャンネルと考え、
自在に自分で選択、切り替えたら、と思う。
私の見る番組を人の指示、管理下で絶対に見たくはない。

想定と想定外

2009年07月24日 | Weblog
物騒なたとえをお許しください。

人が一人絞殺された。
そうした事件があったとき、まず単独犯を想定するはずです。

10人、50人、100人による犯行を想定する人はまずいない。

過去の経験から、ということで、まずは単独犯。
複数犯でも10人とは考え難い
これが、アガサ・クリスティさんの狙いだろうと思います。
もっとも、既に亡くなられていますので、
お会いし、確認したわけではありません。


組織では経験がものを言う。こうした言い方があります。
だから、通常ベテラン社員が新入社員を教育する。

先輩に向かってなんだ,という言い方があります。
これは目上に対して失礼だ、ということ以外に、
先輩の言うことが正しい、という折り込みを
前提にしていることは、否めません。
また、良し悪しではなく保守性の原則が
働いていることは否定できません。


手元の辞書によると、
【予断】とは、なりゆき・結果を前もって判断すること。
推理小説だけではなく小説や映画の楽しみは、
こうしたところ、あれこれ予断したり、(下に述べる)先を想定する
といったところにありそうです。

私の専門の情勢判断学において、どう情報を受容するかという場合に
1に、予断は持たずに(判断・評価はせずに)という側面
2に情報というものはセレクトされたものである限り、
そうした予見、判断、俗に「色」は常についているものだ、という側面

この相矛盾する2つの側面を念頭に置きます。

「このことについて情報を集めよ」といったことが上の2。
だからといって、1は現実にない、ということではけしてない。


ここでは「縛られているかどうかの認識を検証する」
といったことが肝要、ということで留め置きます。


次に、ホリエモンで有名になった、
「想定外」という言葉でみてみます。

1に,物事には想定内と想定外がある。
2に、想定内には備えがあるが、想定外にはない。
3に、想定内より、想定外が広い空間である
4に、想定内にも人による大きさの違いがある。
5に、多くの人が考えるのは想定内に限定される

まだあるかもしれませんが、私が思いつくのは上の5つ。

推理小説家が、その小説を書く上で苦心をするのは、
まさに想定外。読者の予断、予測をいかに裏切るか、
という点にあるのではと思います。
もっとも、私は推理小説家ではないし、
彼や彼女たちにインタビューしたこともないので
はっきりしたことはわかりません。

予断、想定、予測、過去を生かす・・・・・
言葉はいろいろありますが、いずれにしても、

1に、こうしたものを自分で意識して
入れたり、抜いたりして「見てみること」

2に、知らない間に人や世間、社会、あるいは他者の意図により、
予断、しがらみ、縛りに犯され、縛られることは避けたい。
そのためには、まず物事を受け入れ、次に疑ってみて、
とらわれがあるかどうか検証し、あればはずし、
最後に自分で判断し直してみる、といっことを
瞬時になす脳の回線づくりが、求められます。

この2つが私が主宰している情勢判断学セミナーの命題です。
情勢判断学について、稚内のAさんから
お問い合わせがありましたので、これ良い機会だと、
情勢判断学の一片を書かしていただきました。
さび付きを取り出すきっかけを作ってくださった
Aさんに御礼を申し上げます。

倦むは、脳死の赤信号

2009年07月22日 | Weblog
忙しい、大変だ、疲れたといった言葉は、
いずれも仕事の場合によく使われる表現である。
ニュアンスとしては、ぼやき口調。

だが、「遊び疲れ」といった言い方がある。
これは、一つのことを長く続けると倦むといったことで、
上の言葉のようなぼやきの色は薄いのではないかと。


同じものを毎日食べると飽きる、という。
だがご飯みたいに、繰り返し食しても飽きないものもある。
好きなものでも毎日三度三度出れば見たくもないこともある。

そういえば、昔、師の城野先生から、こんな話を聞いた
中国には、情報遮断の刑といったものがある。
人間は、長時間、情報が入らない状態にしておくと、
脳は腐り始め、いわゆる脳死にいたる。そうした極刑とか。

なるほど。とすれば「倦む」とは、その警告、
赤信号、と考えられなくもない。


そもそも子供の脳には空き容量が多く、
知るもの聞くもの、いくらでも入る。
脳は知っていることは仕入れない。
脳の在庫にない未知のことはどんどん仕入れ、取り込まれる。
子供にとって、誕生以来見聞きすることは、
おなかの中にはなかった情報だらけ。未知のことだらけ。
これが子供が落ち着きなくちょろちょろ、ころころ動きまわり、
関心のチャンネルを変える、いわば「落ち着きのない子」の理由

つい最近までの話。
子供がTVに長時間かじりつくことが社会問題化したことがあった。
それが今はゲームか。あるいは携帯か。

TVにしろゲーム、携帯にしろ、いわば多チャンネルで
多くの選択肢があるから、倦むこと少なく
長時間かじりつけたのであって、粘りや根気の問題ではあるまい。
実験したことはないので断定はできないが、
たとえば、NHKだけの1チャンネルで、
長時間かじりつくとは考えられない。

北島三郎の歌を聴くためにNHK教育TVチャンネルを合わせ、
辛抱強く待つことはないのである。
選択肢が増えた、ということは、そういうことである。


あるとき、知人の議員が、結婚式で祝辞、満面笑みを込めて。
移動15分、次にお葬式会場で急にくらい顔になり、涙を浮かべて弔辞。
といった光景も、隣で目の当たりに見てはっとおもった。

「意識して、チャンネルを切り替えている!」。


選択肢は広がり、いくらでもある。
チャンネルを広げれば、
見たいものをみつけることは容易である。
また見たくないものを見ないことも選択できる。


こんな調子であれやこれや、考え、思って、得たものは、

「チャンネルを自分の意志で自在に変え、快適空間を保持する」

という、そんなにいろいろ考え、遠回りしなくても、
普通の人ならすぐ気がつく当たり前の結論だった。
これぞ人生において快適空間をつくるやりくり。
その快適空間を消費者に提供するのが、商人。

以来、脳力経営塾では、よくこの話をする。
もともとは、この自分の始末に負えない飽きっぽい性格を
なんでやろ、と考えるところから始まった。

悪い性格を直せ、性格改造を、といわれると、
自分が自分でなくなる不気味さを覚え、いやで。
かといって自分のいやな性格と一生つきあうのもどうか。

ならばこの与えられた性格をメニュー、チャンネルと考え、
自在に自分で選択、切り替えたら、と思う。
私の見る番組を人の指示、管理下で絶対に見たくはない。
09.7.22


倦むは、脳死の赤信号

2009年07月22日 | Weblog
忙しい、大変だ、疲れたといった言葉は、
いずれも仕事の場合によく使われる表現である。
ニュアンスとしては、ぼやき口調。

だが、「遊び疲れ」といった言い方がある。
これは、一つのことを長く続けると倦むといったことで、
上の言葉のようなぼやきの色は薄いのではないかと。


同じものを毎日食べると飽きる、という。
だがご飯みたいに、繰り返し食しても飽きないものもある。
好きなものでも毎日三度三度出れば見たくもないこともある。

そういえば、昔、師の城野先生から、こんな話を聞いた
中国には、情報遮断の刑といったものがある。
人間は、長時間、情報が入らない状態にしておくと、
脳は腐り始め、いわゆる脳死にいたる。そうした極刑とか。

なるほど。とすれば「倦む」とは、その警告、
赤信号、と考えられなくもない。


そもそも子供の脳には空き容量が多く、
知るもの聞くもの、いくらでも入る。
脳は知っていることは仕入れない。
脳の在庫にない未知のことはどんどん仕入れ、取り込まれる。
子供にとって、誕生以来見聞きすることは、
おなかの中にはなかった情報だらけ。未知のことだらけ。
これが子供が落ち着きなくちょろちょろ、ころころ動きまわり、
関心のチャンネルを変える、いわば「落ち着きのない子」の理由

つい最近までの話。
子供がTVに長時間かじりつくことが社会問題化したことがあった。
それが今はゲームか。あるいは携帯か。

TVにしろゲーム、携帯にしろ、いわば多チャンネルで
多くの選択肢があるから、倦むこと少なく
長時間かじりつけたのであって、粘りや根気の問題ではあるまい。
実験したことはないので断定はできないが、
たとえば、NHKだけの1チャンネルで、
長時間かじりつくとは考えられない。

北島三郎の歌を聴くためにNHK教育TVチャンネルを合わせ、
辛抱強く待つことはないのである。
選択肢が増えた、ということは、そういうことである。


あるとき、知人の議員が、結婚式で祝辞、満面笑みを込めて。
移動15分、次にお葬式会場で急にくらい顔になり、涙を浮かべて弔辞。
といった光景も、隣で目の当たりに見てはっとおもった。

「意識して、チャンネルを切り替えている!」。


選択肢は広がり、いくらでもある。
チャンネルを広げれば、
見たいものをみつけることは容易である。
また見たくないものを見ないことも選択できる。


こんな調子であれやこれや、考え、思って、得たものは、

「チャンネルを自分の意志で自在に変え、快適空間を保持する」

という、そんなにいろいろ考え、遠回りしなくても、
普通の人ならすぐ気がつく当たり前の結論だった。
これぞ人生において快適空間をつくるやりくり。
その快適空間を消費者に提供するのが、商人。

以来、脳力経営塾では、よくこの話をする。
もともとは、この自分の始末に負えない飽きっぽい性格を
なんでやろ、と考えるところから始まった。

悪い性格を直せ、性格改造を、といわれると、
自分が自分でなくなる不気味さを覚え、いやで。
かといって自分のいやな性格と一生つきあうのもどうか。

ならばこの与えられた性格をメニュー、チャンネルと考え、
自在に自分で選択、切り替えたら、と思う。
私の見る番組を人の指示、管理下で絶対に見たくはない。
09.7.22


チラシを一番見る人の話

2009年07月21日 | Weblog
高松・徳島でのタノウエ脳力経営塾が、一番長い。
当時、青年部や青年会議所にいたメンバーは、
みな親会。それに孫がいる人が大半だ。

最初の頃、基礎コースではレジメを用意するが、
あとは私の即興である。

多いときで年6回、概ね一回2時間、これを20年も続けている。
しかも高松・徳島だけではない。
新潟、宮城、岩手、小倉、博多、名古屋・・・・、
それに単発を加えるとおびただしい回数だ。

だから、どこで何をしゃべったか、話の内容は覚えていても
いつ頃かまで、覚えているものではない。

徳島タノウエ脳力経営塾のお世話をしてくださっているのは、
株式会社大源商会の中谷好行さんである。
ここで、大源さんのホームページを開いてみていただきたい。
製材木工機械専門の会社にあるまじき? 美女満載、
おじん少々のTOPに驚かされるだろう。

それもそのはず。
中谷さんは、著名連の「浮き世」の連長なのである。


本業の忙しさに加えて、8月の本番に向けて今猛練習中。
それでも、毎日ブログ「ナカタニ店長天水ブログ」を書いている。
私も連日欠かさず書いているが、私は暇だし書くことが仕事。
比較にならない。

以上が、長い前置きである。

その彼のブログ19日「チャンネルの切り替え」に、私のことが。
私が以前、脳力開発の会で話したことについてである。

人は他人のことより自分のことに、関心を持つ。
店主が一番よく見るチラシは、どこのか、というと
答えは決まっている。1位、自分とこのチラシ。
次に、競合店 のチラシ、というのがお定まりだ。

もちろん私もそうであるから、この中谷さんのブログを何回も何回も読んだ。
ついにはそこからキーワード取り出し、検索をかけてみた。

私も中谷さん同様、毎日ブログを書いている。
だから中谷さんが書いている「チャンネルの切り替え」について、
私も書いていないかどうか、これをたぐり寄せるためだ。

もちろん自分の話したことだし、その例(置き換え)は、今でもよく使っている。
それだけに、それいつ頃の話かな、というのが気になって、
これまで書いたものも呼び出し、探した。
見あたらない


見あたらないそれを、中谷さんはしかと記憶し、しかも自分の血肉になし、
実際に活かしている。それを私から、と。うれしいではないか。
体重がもう少し軽かったら、舞い上がるところだ。うれしかった。

今度は、嬉しさが持続するためにも、そしてまた
いつかこのことを思い出す時のためにも、
BGMに阿波踊りを流しながら、このブログを書いている。

中谷さん。ありがとう。09.7.19


あやしげ

2009年07月20日 | Weblog
解散が明日。

しばらく巷は騒々しいことだろう。
なにせ「環境公害」をアピールする街宣車すら
音が大きくうるさい国なのだから。


誰しも、自分が正しいという観点から、正義を主張する。
ところがそれぞれの立場から発せられた正義の概念は異なり、
何が正しいかはイデオロギー、国、個々の立場等々によって
異なるし、また時間によっても変化する。

だから、各々が己の観点から正義を主張することによって、
立場の相違がより明確になり、その結果しばしば争いが起こる。
2つの国が相互に平和を願い、それが起因となり、
争いにといった話は笑えない現実である。

国内事情という言葉が出てくる。
これは国のまとまりが難しいということが背景にあって、
「まとめる」ために仮想敵を外に求める。
つまりうちの和のために外国との争いを求める、
その意味では、日本国内は、おだやかで平和かなと思う。

仮想敵を作る。これは何も国だけではない。
日常でもよく見られる、いわば定番手段である。

 私たちは無意識にしろ意識してにしろ、
「群れの結束のためには仮想敵をつくる」ことを、
ごく当たり前のごとく、やっているのである。

連れ買い物などで、「ねぇ、あんた、これどう思う」と、
おばんが隣のおばんに問いかけるのは同意を求めてのこと。
群れの原点的行為といってよい。

おばんだけではない。
人は自分の立場や考えの正当性の拠り所として、
共通の正義や理念を求めて群れるが、
群れを保持し団結を深めるためには、群れ共通の仮想敵が必要になる。

仮想敵を見失ったり拡散したりすれば、
群れたグループのリーダーを中心とする求心力は脆弱になり、
群れの中に異なる正義と理念同士の大小のぶっつかりあいが発生。
そのあいまいさに耐えきれなくなった個は、そのグループから飛び出すか、
また新たな正義を主張し、その正当性に部分的にでも共鳴しえる仲間と
別のグループを創成する。

わかりやすい事例は、この国の政党やその派閥の歴史であろう。

大義名分は例外なし。すべて「国民のため」。
だが本音はそうしたところにないことは、国民の知るところである。

本音をいいなさいよ、ということで
何事かを成すのに、「俺自身の自我の欲求具現のため」と、
絶叫したのでは、支持は得られず、群れはできない。

正直者が落選することが当たり前になれば、
嘘も方便に裏打ちができ、正当化される。

やはり政治家なら、「国民のため」といった大義名分は、
心になくとも、嘘でも必要不可欠なのだ、と。


仮想敵は、はっきりしている。
仮想敵と「敵」をつけて攻撃するというわけだから、敵は悪者。
それを浮き彫りにすることで、こちらは正義の味方の群れ、
ということを国民に印づけることができる。

罵り、誹謗、中傷といった相手への攻撃が、
自分たちの正義を補強、裏打ちになる。
まことに、おかしげなことではある。

和を求める手段として、争いを使う。
正しさの主張が、敵を作る。
まことにおかしげなことだ。が、それは事実である。

こうしたあいまいさ、おかしげな中に存在し生を営んでいるが私たち。
そして当然ながら、この自分もそのあいまい、おかしげな存在の一つなのだ、
ということをしかと自覚しておくことだとおもう。

閑話休題
思うに、彼らのいう大義名分のしらじらしさは、どうだろう。
今回の選挙ほど、ことが、国民とは無関係なところで、
無関係に起因し、無関係に始まっている例は、ないだろう。

それだけに、国民は、国民の判断で、あいまいではない、
おかしげでない結果をきちんと出すに違いない。
私はそう予測、確信している。 09.7.20