経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

MMAPと脳力開発

2015年01月31日 | Weblog

当てずっぽうでもいいから、
当たり障りのないことを読むことで、
驚くほど情勢判断力はパワーアップする


脳のシクミ上、こ
の道、あの道、どちらを選ぶか、といったシナプスも、
この人と結婚するか、あの人とするかのシナプスも、
道路で1円落ちている。
拾うか、無視するかの判断シナプスも、
首をくくるか、くくるまいかのシプナスも、
かかる負荷の違いはあっても同じ回線、同じことである。

これ、一事が万事といってよい。

だから、反省は、あくまでおきたこと、あったことを
認めた上の「反省」でなくてはならない。


ましてや「このこと、なかったことに」
といったことはありえないし、万が一あったとしても
それは認めてはならないのである。



次に、それはどうしておきたのだろう、
という理由を明確にし、客観的に押さえた上で、
できれば複数の対応策を考える


そうした日常での何気ない些細なことを
繰り返すことで、脳の回線が作られる。

こうしたことでの脳の回線つくりこそ、
脳力開発、情勢判断力の狙う研鑽、
と私は考えている。

それを心の負担を避けるためにか、
あるいは逃避的に、ただ「反省」といったことでは
その反省は、言葉で終わり、
その判断違いは、まず繰り返されることになる。

確信犯的判断違いも少なくない。
その典型が、談合事件。
その繰り返しを見よ。

繰り返しつつ、
さらに、些細なミスすらも、
「ひとつ間違えば命取り」、
「ひとつ間違えば、俺の会社でも起きること」、
といったように重さを加え、「反省」をすることで、
将来(さき)に起こりえる命取りを救う確率が、
高くなっていくのである。

これが予測力、情勢判断力の真髄である。
飯食うに、それいるの?




最初は、
田上か一度体験した人が3時間ほどの
他の研修の中で、同時並行の形で研修する。

つまりわざわざこの技法習得の研修は、一切不要、ということだ。

経営革新のセミナーでMMAPを習得できる。
創業塾でMMAPも習得できる。
経営計画を作成するときに、MMAPを習得できる。
社員教育、就活セミナーでMMAPを習得できる。

 それで、その日からやれる。

インストラクターがいなければやれない。
そんなものではない、ということだ。
一度やったら皆やれる。みなインストラクター。
飯を食うのにインストラクターは必要ない。
普段呼吸をするのに赤ん坊はインストラクターから学んだか

普遍性とはそういうものだ。

ところで、
なぜこのMMAPが出てきたかというと、
私は師 城野 宏の提唱した脳力開発の指導者である。
情勢判断学の指導者である。

この2つをひとことで言えば、「脳の回線づくり」
といってよい。そのためのツールとして創案したのがMMAP。

言い換えると、脳の働きをモジュールしたのがMMAP。

つまりMMAPをやると、脳の新しい回線が創れる。
その意味で脳力開発と
素情勢判断学を習得したことと同じことになる。

脳力開発の創案者、師の城野 宏は、
脳力開発のアプリケーションツールとして護身道を創った。
私はMMAPを創った。
いつかと向こうへいったら、
師匠に褒めてもらおうと考えている。


脳の働き、動きだから普遍性がある。
あれに使えてこれには使えないと言うことがない。
諫言すれば、手法(戦術、ツール)ではない、ということだ。

このことは、極めて重要なことなので、
稿を改めていつか触れてみたい。



アヒルの話

2015年01月30日 | Weblog
感想とは、感じ思ったことを形にすることだ。
思いを形にするのに、形容詞をつける。

そこで、たくさんある形容詞の中から,
人は自分で選択し、1つを選んで付ける。

ここに、一羽のアヒルがいます。
Aという子供がそれを見て、「可愛いアヒル」といって
頭をなで、なでしました。

それで、それをみてBという子供も、頭をなでなで。

でもどうしたことかアヒルは、その子供に凄い形相をして
かみついてしまったのです。

それで、Bと言う子供は、「怖いアヒル」だ、
と泣きながら先生に、訴えました。

先生が、クラスの子供達に問いかけます。
ここに一羽のアヒルがいます。
Aさんは、可愛いアヒルといいました。
Bさんは、怖いアヒルといいました。
みなさん、このアヒル。可愛いですか。それとも怖いですか。
と50人のクラスの子供達に尋ねました。

子供達は、可愛いか、怖いか,どちらの見方に味方をするか,
喧々交合論議となりました。

「ボクはAさんの見方に味方する」
「そう。Bさんは恐がりなんだ」

「いや、Aさんはぶりっこなんだ」
「それにA さんはアヒルの怖さを知らないんだ」

論議は熱を帯びます。
議論している間に、アヒルの話が、
AさんとBさんの対立構図になってきたようです。


しばらく子供達の議論を見ていた先生が、
どうですか。このアヒル。可愛いですか。
それとも怖いですか。どちらでしよう。
それとも・・・・・・・・・、

と言いかけたとき、
学級員のCさんが、
「先生、日本は民主主義の国です。
ですから多数決で決めたらいいのではないでしょうか」
と、提案しました。


いや、はや、こんな大人みたいな子供たちがいるはずはありません
ごめんなさい。私の作り話ですから、子供達に謝ります。


長い間、多くの企業と関わってきて、
その体験でいうのですが、上のような嘘みたいな議論、
会議がまじめに行われている。
そのおかしさに気が付いていない。
そのことを揶揄したかったのです。


情報の読み方

2015年01月29日 | Weblog

消費者のチラシに対する不評、風当たりなどは、
売り手の想像以上のものである。


そんなことはないよ、と思っている人は、
それに釣られて来店した客だけを見ているからである。

いかなる超繁盛店でも、来店しない人が圧倒的多数。
そこでPOSデーターみて、これ消費者が支持している証し
と思っている人がいたら、とんでもない思い上がりである。

見える情報、見せられる情報以外に、
見えない情報、見せない情報があること。
情勢判断には、この後者を強く意識して臨むことが不可欠である。


不振の因、来店客数の減少、つまり集客力の減少。
つまり、来店していないお客の方を見ていないから、
わからないのである。
だから、「今度のチラシ、効かなかった」
といったような、バカな会話が反省会ででるのである。


その根本には、売り手都合のありかたがある。

すなわち買う人を主語とせず、
買い手の売上獲得に狙いを置いての販促企画である、
ということだ。

では、
としたらどう考え、どう対応したらいいのか。
それは、キャッチフレーズ的に表現したら、
「買い手側に立った販促、情報提供」

「情報を受け取った方に、明白に利が見える販促、情報」
といったことになろう。

しかし言葉の表現を変えただけでは、消費者には通じない。
そうした「狼と少年」を繰り返すだけであろう。

まず、売り手の組織に体質的にしみこんだ、
売上至上主義、売上即効性偏重といったことから、
完全に脱する決意をし、高らかに宣言する。

まず売上稼ぎのための販促から完全撤退する。
 
併行し、この戦略転換ができなければ、
やればやるほどじり貧へ近づくための努力になり、
ひいては企業の存亡になることを、
徹底的に組織に浸透させていく。

その上で、販促は“そのこと”を繰り返し、し続け、
かつ進化させることで、
暫時、より売れ続ける体質づくりを具現するもの。
といった本来の役割、ありかたに戻すことである。

“そのこと”の内容を一言でいえば、
「消費者が最適の選択ができる正しい情報の提供」である。

たとえば、こういうことである。
「これ、安いよ、お買い得ですよ」とわめいている店員に
「どうして?,なんで?」
「あれとどうちがうの?」とお客が尋ねたとして、

これは「豚30%,牛70%の合い挽きミンチ,
どちらもオーストラリヤ産。こちらはどちらも和牛。
だから高いのですけど。ハンバーグならこちらが
でもミートソースや焼きそばであればこちらで十分」
といったこと。

要は、こちら都合、こちらが用意した、先取り情報
を一方的に流すのではなくて、
相手に必要な、そして欲している情報を
相手から聞き取る耳を持って、それを取り入れて、
それに対する最適の情報を伝えること。
これがここでいう私の[情報]である。

ドレスを褒める

2015年01月28日 | Weblog
情報の話を続けている。
ここで、うんと砕いた話をしてみたい。

TVではなくラジオで、アナウンサーが挨拶代わりに
必ず女性歌手の着ているドレスを話題にする。

つまり褒めている。

「なんでや」、といつものくせで、考えてみた。
 
もちろんアナウンサーは、ラジオでは、
女性歌手が着ているドレスは視聴者にはわからないことは
わかっている。だから、伝えるのだ、といってしまったら、
間違いではないが身も蓋もない。

私がいろいろ考えたことのおおよそを述べると
次のようなことになる。

出演する歌手は、ほぼ固定的。
つまり、代わり映えがない常連である。
とすれば話題にすることは、
1に、変化する「もの」、あるいは「こと」。

「変化」でもって、斬新さを加えてやらねば、歌う歌も同じだから、
番組自体がマンネリ化してしまう。

かといってまさか歌手に向かって、
毎回変わり映えしない唄を、「お上手になられた」とは、
お世辞にもいえまい。
 
容貌もそうだ。
「お美しいですね」と言えない人もいるし、
いいたくても他の歌手の手前がある。
「お化粧がうまくいってしわが見えなくなりました」
変化を正しく伝えてることもできない。

それに容貌は、回を重ねるごとに衰えるもの。
それを「いや、今回はお美しく」といったとしたら、
整形の成功への賛辞になってしまう。
これは惨事だ。

としたら、変化で無難なもの、ということで、
2のドレスということになる。

もちろんドレス以外に、
その間変化する「もの」、「こと」があれば、それが優先される。

たとえば新曲があるときはそのことを話題にするし、
その歌手にまつわる変わったこと、結婚とかリサイタルとか
があれば、それがマイナスにならない限り、
ドレスではなくそちらで、よいしょする。
 
注意して長く見ていると、よくわかるのだが、
ここらがアナウンサーの技量の差。
というより、情報とはなにか、ということへの
理解度と技量、手間暇をいとわない、といったことになる。




瓦礫の山と宝の山

2015年01月27日 | Weblog

「企業全体でせっせとやっていることは、
さらに大きな墓穴堀り・・・」
といった事例は、けして少なくはない。

こうした私の言い回しが大げさに聞こえ、
ことの大変さが理解しょうとせず、放置。
さらに、そのなしていることを
日々、些事として見過ごしている「こと」の重大性が
理解されていないに他ならない。

気がつかないから、やがてその損失金額は莫大になる。
そして、突然、コトはおきる。
プラス事を積み重ねれば、プラス事の山となる。
マイナス事を積み重ねれば、マイナス事の山となる。

プラスの山の積み重ねは、
周囲の人々が支えるから崩れることはない。

しかしマイナスの山は、損失の山。
これを喜んで支える人たちがいない。
いないだけではなく、最初ちょろちょうろ、
あと一斉にパーッと離散し始める。
だから、突然、山は崩壊する。


とりあえず、この今から
机上と現場での視点のずれ、意識の乖離
といったことから生じる夥しい損失の恐ろしさに気づくことだ。
そしてその分のエネルギーやコストを、
消費者・利用者の喜ぶことに振り替えることである。



これまでマイナスになることに投じていたエネルギーやコストが
プラスになることに投じられるのだから、
余分にかかるどころか、業績に倍加して貢献することになる。

一人の口コミはねずみ算で拡散する。
その内容がマイナス事でもプラス事でも、
変わりないコトを考えれば、当然だ。

もともと事業の本質は、その存在、なす事の意義が、
他の人にとって有り難く、喜ばれることを持っている。
故に存在し、成り立つものである。

人は生きていくために、日常生活で必要なものを欠かせない。
これまで、山を超え、谷を越えて、
それを手に入れに行っていた村人たち。

そうした村に、その山の向こうから峠を越え、
それらの商品を背に担った商人にくる。
そうしたときの村人の気持ちはどうであろう。
商人に対する、気持ちはいかがなものか。

そうした村人の思い、気持ちを、
今の商人達は自ら彼らに抱かせることができるのか。
そうした村を訪れる商人に、チラシやCMが必要だろうか。

こうした話をすると、きまって

「そりゃ、時代が違いますよ」
「今はね、競争関係がありますしね」
「ものあまりの時代で、お店もいっぱいありますしね」

と、言い出す。言い出さなくても、心にそう思っている。
そうした堂々巡りしたい人は、「どうぞ、そのまま」と言いたい。


私は言いたい。
「時代が違っても変わらないものありますよ。
そこへ着眼されたら」

「今、競争関係があるから、なおのこと、
お客様が喜ばれることを欲されておられるのです。
そこへ着眼されたら」

「ものあまりの時代で、お店もいっぱいありますから、
消費者は選択眼が鋭く自分たちが喜べるお店を
探しておられるのです。
あなたのお店がそれになれば良いではないですか」


ときおり私は、悲しくなる。
宝の山は、人間にとっては宝の山だが、
人間以外の動物たちにとっては瓦礫の山にみえるのか、と。



形容詞

2015年01月26日 | Weblog

1つのものをみて、それに付けることができる形容詞は、
形容詞の数だけある、といってよい。

人は、それぞれ自分の思いの中から、それに似つかわしい
形容詞を無意識、ときには意識的に付ける。

様々な形容詞の中から、それぞれ違う人間が、
いわば自由選択すれば付けられる形容詞も、
いろいろになるはずだ。

ところが現実は、違う。
ごく限られた形容詞に集約されるのだ。

このことを、週刊誌の書き出し風に表現すると、
選択肢がいくらでもあるのに、択一に絞られて
物事、価値観まで決めなければならなくなった、
縛りでがんじがらめの社会、企業の組織。

といったことになろうか。

しかし、このことを煎じ詰め、極端にいうと、
下記のようなことになり、私はぞっとするのだ。

ある会議の席上。
社長:「これは、間違いなくバカ売れ商品になる」
司会:「今の社長のご意見をどう思うか。
くったくない意見を許す」。
A:「間違いなくバカ売れするでしょう」

B:「社長やA専務のおっしゃるとおりバカ売れまちがいなし」。
C :「御意、B部長の申されたとおりです」
D:「私も、同意見です」

まさに、まさに、付される形容詞は、
裸の王様により集約されていくのである。


もう一つ。

以前、ここにアンルイスさんの話を書きましたが。
それを思い出している。

アンルイスという歌手が、徹子の部屋で語ったこと。
 以下、彼女の話の概要。


売れない頃、背伸びをして、高価な宝石を身につけていた。
だが、だれも注目しなかった。
親しい先輩が、こういってアドバイス。
「アン。だめよ。あんなケバケバの安物を身につけていては。
有名になりたかったら、無理してでも本物を身につけなくちゃ」。

何年か後、売れっ子になった。
彼女が身につけているのは安物の宝石である。
みんながアンに、こう言ったそうだ。
「アンさん、すごくすてき。あんな高価なもの身につけて。
うらやましいわ」。(この会話、田上の意訳)

まさに、まさに形容詞は、変わるのである。

そして肝腎なことは、どんな形容詞が付けられようと、
どうであろうと、本体自体には、「変わりがない」

ということだ。


墓穴を掘る

2015年01月25日 | Weblog

今ではない。
しかし先に起こる売上不振、そして企業の衰退。
それがどうして些事などであろうか。

この今から
つもり重ねた些事が、やがて売上の山になる。
または廃山となるのである。

消費者の喜びの山は、売上の山。
消費者の不満の山は、不信の山。
そして廃山と化す。

ならば経営理念、方針が、消費者に良き想いや感動として伝わり、
さらによきクチコミになるように、言動することで、
直接的、具体的に形化をなすことが、
日常の仕事での肝心要(かんじんかなめ)である。

当然だ。

ところが不思議なことに多くの企業では、
自社を自社で持ち上がることを必死にやっている。

大売り出しを年がら年中やっている企業があるとしたら、
売り出しを年がら年中やってもうまくいかなかったからだ。

なぜ売り出しをやるかと言えば、売り出しをしないと、
目標の売上に達しないからだ。

なぜ売上が上がらないか。
消費者の購買が少ないからだ。


こうして考えれば、対策は売上を上げることや、
売り出しを行うことではなく、
消費者の「購買を高めること」にあることが
誰しも理解できるはずだ。

ここで、それでも、
「だから売り出しをやっているんだ」
「だから営業に力を入れているのだ」

と、また戻り堂々巡りしたい人は、「どうぞ」と言いたい。

そうした彼らの「売上」は自分たちの都合、事情。
これだけなら少しは私も理解できるが、
昨日ホテルの例で示したように、
なかには自社のやり方、すなわち規則やルールを
消費者に遵守させるためにその多くのエネルギーと費用を
使うというまったく逆のことをやっているに例には、
「なんでやろ」と、理解に苦しむ。
自ら墓穴を掘る。
少しずつ掘っているから気がつかないのだろうか。

これでは、機会損失を積み重ねるだけではなく、
さらにコストを投じて不評を買うといったことを、
企業全体でせっせとやっていることになる。

さらに大きな墓穴を完成させるために。



小事、大事に至る。

2015年01月24日 | Weblog



以前、私が利用したホテルの話。

HPには、「脱日常性の開放感」とあり、
カタログには、「ご家庭のくつろぎを」というコピー。
さらに部屋のバスルームには、
「限られた資源の節約にご協力ください」
といったステッカーが貼られていた。

この矛盾、おかしさにこのホテルの経営者や支配人は
気がついていないのだろうか。

こうしたことにも気がつかない彼らが、
これまた自ら謳い文句としている「最高のおもてなし」ができるのだろうか。

それとも彼らの自宅のバスルームには、
「「限られた資源の節約にご協力ください」といったステッカーが
貼られているのであろうか。

私からみたら、わざわざ手間暇とコストをかけて、
マイナスになることをやっているように思えて
しょうがないのだ。

ホテルの、この部屋の水道は飲めるのか。
ひょっとしたら屋上のタンクは、いつぞやワイドショウで、
取り上げられたがあったが、汚れ放しではないだろうか。

こんな不安を持つユーザーは少なくはない。それに対して
「地下からくみ上げた自然水です。たっぷりお飲みください」
というステッカーが貼られてあるホテルがあった。

これは見事だと思って、以来定宿をここに乗り換えた。


消費者を不愉快にし、悪口のクチコミをさせ、
お客に背を向けさせる要因も、
反対に、良いぞ、良いとこだよとクチコミをし、
お客の呼び込みをしてくれるといったことの分岐要因は、
高邁な経営理念、方針といった抽象的、間接的なものからではない。

直接的、具体的に五感で、見聞き感じられる形、コトとして、
客が受け取る想いや感じが、ユーザーの選択を左右しているといってよい。
それら一つ一つを、経営者からみたら些事・小事に見える。

しかしその些事、小事は、間違いなく形、コトである。

そしてその選択により、経営が左右され、困るのも、喜ぶのも
企業でありその経営者の方である。
大事になるのも、小言になるのも、起因はこうした些事からである。
なぜなら大事は、経営者ならずとも従業員が気がつくし、
経営者の小言が怖くて糺すからである。
だから大事になるのは、経営者すら見逃しそうな些事・小事である。

端的に言えば、些事が、売上の好不調という結果を左右している
といっても過言ではあるまい。


むにゃむにゃ

2015年01月23日 | Weblog

生意気にも、経営関連の学会に入っている。

学会の様々な会合に出入りし、
大勢の学者先生とお知り合いになれた。
その交流の場で、いつも問われて困ることは、
「ご専門は?」である。

学者にとって、自分の専門分野こそが、学者たる
所以であり、そうした質問は極く当たり前のこと。

にもかかわらず、問われる以前からどぎまぎし、
問われたら、言葉に詰まる。
経営に関する学会に初めて入ったのは昭和61年。
その後30年余の間、専門らしき専門分野を
持ってないのは、私の怠慢である。

もちろん、いつか自分の関心、集中できる分野に出会い、
それに関して、自分なりに掘り下げて研究してみたい
といった野望は、常に頭にあった。

それでいながら、これまで自分の専門はもとより
専門といったように絞ることができず、
あれやこれや,そのとき、そのときに引かれるものに
目移りしながら、さらに連想でもって、自分の
関心をやたらに広げていくあり方、やり方を
続けて、ここまできた。

正直に言えばこれがもっとも私の性分に合っている。
そして、それが私の生き方として一番過ごしやすい、心地よい。
そう断言しながら、一方では関心を絞れないことに対すること。
絞りきれず分散、目写ししていることによる、
いわば知の積み重ねのないことに、
一種の不安を感じているのも事実である。

だからといって、よくジョークに使われる、

「専門を持ってないことが、私の専門なのです」

とは、かりにそれが居直りに聞こえないとしても、
私は使いたくない。

私なりに、「消費者中心主義」、「売れて儲かるシクミの研究」、
「売らずとも売れる営業の研究」といったことは、
長年、私なりにアカデミックな観点から研究している。

だから、少し赤い顔をして、
「私の専門は、売れて儲かるシクミの研究です」
と言ったことがある。
その折の、学者先生達の怪訝な顔。

それを思うと、これまで通り、
「いや、私は浅学で、専門らしい研究など、むにゃむにゃ・・」
が一番似つかわしく思うのである。

で、今年も、この「むにゃむにゃ・・」でいきた。
むにゃむにゃ・・ 

あや不思議

2015年01月22日 | Weblog

よく、「消費者のみになって」とか「消費者の立場に立って」
というが、なり切るもなにも自分自身本来、消費者なのである。

消費者が、消費者のまま経営者をしているのである。

これは集合と部分集合の関係だ。

その「まま」を取り戻せばいいのである。

しかし、そうはいっても経営思考に染まりに染まって、

消費から遠ざかっている人にとっては難しかろう。

そこで、これいくども言っていることだが、
まずは日常生活での、「消費者体験」、「客体験」。

を増やし、経営者でない頃の昔のカンを取り戻せばいい。

すなわち、「消費者体験」、「客体験」を通じて、

消費者、お客の思い、心の動きを自ら体感することだ。

ここで気をつけたいことは、

その思い、体感したことを経営に活かそうと思う

そうした逸る思い、力みを拭い去って取り組むことだ。

これが一番難しいことかも。

なにも「活かそう」などと考えなくとも、

企業経営の現場に戻れば、自然に活きてくる。

すなわち、

「そのことはお客だったら、こう感じるんだ」

「こうした場合、消費者はこう動くのだ」といったことが

自ずから、わかる。まさに「あら、不思議や」である。

ここの域まで自分が消費者であることを取り戻せたら

組織の他の者にも、やらしたらいい。

それでは時間がかかるというのなら

あるいはなんでもマニュアル、マニュアル大好きというのなら、

「自問自答法」を進めたい。

ここで自問自答とは、

「それは、消費者にとってプラスか。それとも・・・」

といったように、自分の中にいる、消費者の自分と、

企業人の中の自分、この二人に問い、答えさせることだ。

この場合、「消費者にプラス」を絶対命題にしておくこと。

常に消費者が有利になる。

消費者の自分が勝つ。それも連戦連勝へ持って行くこと。

つまり、「損得、迷ったらお客の得へ判断を下す」ことが、

自然に行えるようになるまで、自問自答を習慣づける。

組織全体が、指示がなくとも、何のためらいもなく、迷わずとも、

お客に得になるほうへ判断が落とせるようになれば、

間違いなく組織は繁栄の道を歩み始めたと確信していい。

消費者は、自分を得させる、喜ばせる組織を支えるからである。

「あや不思議、当たるようになった」
と多くの経営者から喜ばれた、おまじないである。