経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

私は、実務家

2007年04月30日 | Weblog
 いつも、小理屈ばかり書いていると、空理空論者に見られる。私は実務家である。店舗や企業の事務所のレイアウト変更や、POP、ショウカード作成といった手と足を自分で動かし、やる仕事が大好きだ。そうしたことから、自分なりの理論、原則を考え、展開しているのだが、ここで力んで申し上げても、逆効果だと思うので、本稿は、静岡・大須賀町での「街の瓦版づくり」(同町商工会商業部会)の皆さん方に、お話したことを記し、実務と理論の結びつけ方を示してみたいと思う。

これまでチラシは、激安価格の目玉商品をちりばめ、それで集客をし、他の商品も買ってもらうことを狙いとしたものが殆ど。また、その日の売上確保を主とする媒体であるから、即効性はあるが、継続性はない。だがこれは売り手側の見方で、それを受け取る消費者にしたら、こうした売上稼ぎや店や商品の売り込みは、繰り返されるうちに(つまり持続的効果として)押し付けになり、プレッシャーになり、やがて刺激そのものも感じなくなる。こうなると見向きもされない結果になる。

ではどうしたチラシが、消費者から歓迎され、その効果が継続されるか。これまでたくさんのお店や企業経営者のご協力を得て、試行錯誤を繰り返してきた。以下。その一つ。
静岡県のA市、ガソリンスタンドの丸角商事(仮名)の事例。
以前、商業界に紹介されたので、ご覧いただいたかも知れないが、各店不統一、手書き手作り、単色でなんの変哲のない、むしろやぼったくダサイチラシ、手配りチラシである。
ポイントは、肝心な自店の売り込みは、ない。「発行者 丸角 弥次郎(仮名)」のしたに8つの支店名と(  )書きで店長名が記されているだけである。あとは市内、ときには各支店の近辺の商店や病院等の紹介をしているだけである。
講演で、このチラシを皆さんに見てもらうと、期待が大きかっただけに、「なんだ、これは」と失笑される方が少なくない。このことから、多くの皆さんは、チラシの出来映えに関心があることが判る。Yさんと私の狙いは、そんなことではなく「螺旋的効果の持続」
にある。

だから、当社の販売促進の方針は①自らを自ら売り込まない。他社、他者を売り込む②地域のお店の経営者から喜んで戴けることを掲載する③地域のお客に役立ち、喜んで戴ける情報提供に徹する、の3点。これは、私の口癖。「自分が暖かくなりたかったら、自分の周囲を暖かくすればいい」というものをYさんが、「経営理念に、もらっていいですか」と、いわれるので、OKしたものを販促の方針にアレンジしたものである。
詳細は、後日に譲るが、申し上げたかったのは、「地域社会に貢献」、「顧客満足優先」などといった立派な理念を、企業内での朝礼唱和に納めず、戦略化し、これを戦術に下ろし、外の人間に見える形になしてこそ、理念のありがたみ、戦略の効用、戦術の効果が計れるということと、その計れたという効果こそが、企業外のおびただしい人の評価の集積されたものである、ということである。
チラシすら、企業の外のおびただしい人々の支援、応援をいただける形を取ると、これまでの我が店、弧線奮闘のチラシなどより、遙かに持続的パワーを生むのである。

情報は、まず量

2007年04月28日 | Weblog
情報はまず量です。量が質を決めるし、客観性を高めることになります。
では、量を求めるには、どうしたらいいでしょうか。大きくは3つあります。
本稿は、その第一を述べることになります。

1に、情報の量を増やすためには、動くことです。
理由は?
その答えを出す前に、今、窓に向かって5メートルの位置に、実際に座ってみて頂きたいのです。
そこから見えるものは窓の広さの平面に限られるはずです。その状態で見える窓の外の景色を片っ端から書き出してみてください。電柱、電線、空、雲、木々、鳥といったように。)。次に窓に近づき、顔が硝子窓にくっつく様にして外を見てみてください。もっと多くのものが見えるでしょう。そう。庭、バラ、溝、花壇、草、ゴミ箱、犬。こうしたものが加わる。
こうしたものも書き出してみましよう。

 次に今度は、立ち上がり手足を動かし、戸外に出てあちら、こちらを見て回わったとしたら。どうでしょう。
 計り知れない程の情報が入る。書き出したらきりがないぐらいのはずです。
なぜでしょう。どこが違うのでしょう。
少し考えてみてください。

 そう。動いたからです。情報は行動(力)で量、また「行動の違い」で差が付くのです。
これも、「なぜだろう?」と、考えてみることにしましょう。
行動すると、手と足と、そして口、体、神経、筋肉、骨が動くことになる。これらの動きはすべて脳が司っているわけですから、「行動すること」で、使う脳は大きく広がります。

入手する情報の違いは、動くことによってその差がでる。このことをご理解ください。また動いた量に正比例して、使う脳の面積も変わってきます。説明の都合で省きましたが、動くことで行動した範囲のものを立体的に観察できる上に、視覚だけでなく聴覚、触覚、嗅覚が加わるのですから、この3者に大きな情報の量,質の差がでるのは当然です。
 つまり脳力の差は、実は行動の差なのです。

繰り返しておきますが、体のどこが動くにしても脳細胞を作動させ,体の各筋肉や神経を動かす指令を出し、また動くことで新しい情報を入手し、これをこれまでの在庫に加え
て、整理、統合、加工、優先順位を吟味し、さらに新たな指示を発する。これが脳の進歩発展の構図、いわば脳の仕組みと機能なのです。
 ですから.動く人と動かない人とでは脳の使いが断然違い、脳の発展スピードにも格段の差が出てくるのは当然です.

 行動の積み重ね、これを過去形でいうと「経験」ということです。これは行動の積み重ねから、脳の中に形成された一種のパターン、あるいはノウハウと呼んでもよいし、経営ではフォーマットなどといったりします
 
でも過去と同じことを続けていると、脳は、車のハイトップの状態になり、たいして鵜を使わなくて(エンジンの回転数が落ちてで)もいいように怠けてしまいます。マンネリズム(新たな情報の取り入れに鈍感になった状態)に陥ったとき、ミスを起こす。
 次回は、情報の量を決める、第2の要件について、お話ししたいと思います。






2は、人と人とのつながり、組織力、ネットワーク、そういったものを活かすことです。人ひとりの知っていることも行動力も、たかが知れている。一人であらゆる活動分野に精通することは難しいことです。
 私は、いま自分の事務所のデスクにいます。ということは福井にはいない。新潟にはいない。高松にはいない。自分の事務所以外のところにはいない。でも、私が好きなメンについて知りたければ、「福井の越前ソバについて、ITでわかんないことを調べてくれませんか」。と聞ける。新潟の十日町のそば屋の三代目に、ヘギソバにかんする言い伝えみたいなこと、教えてくれませんか」、「高松の丸亀商店街、再開発以降、讃岐うどんの売り上げどうですか」と、それぞれのところに友人がいますから聞いて情報を入れることができる。
その意味では、昨日のべた1の行動力が前提になっていますが、いくら行動力があっても、人と人の関係が豊富な人でたくさんの仲間を動員できる人と、一人で行動する人では、大きな量的格差が出るのは当然です。
「そもそも人は、一人では生きられない」とは、よくいわれる言葉ですが、含蓄のある言葉だと思います。

さて、企業のおいて、たくさんの部下に命じて、情報を収集するといった場合、それは意見をきくということも含まれるわけですが、大切なポイントを一つ申し添えておきます。
それは、「入ってくる情報を、けして評価しないこと」です。
情報に、最初から質を求めると部下は自らの判断で評価し取捨選択してしまう。これがリーダーの情報力を左右するきわめて重要なポイントになります。
「おまえさん、そんなつまらんこと。俺の耳に入れて入れるよな。俺は忙しいんだかから」、私の好きなTVトラマ「相棒」のあるシーンで、警察の本部長は、交番の警官の情報を無視し、それが結果的に彼の失脚を招きました。対して、わが右京さんはその小さな情報を多くの様々な情報の中に、平等に加えました。「入ったばかりの新米が何を抜かすか」、「あんな子供のいうこと、信用できるか」、といった人は、情報といったものを理解していない。私に言わせたらリーダー失格者です。
 入ってくる情報に評価を加えたら、入ってくる情報は極端に少なくなり、しかも恣意性が入り、かつ時には加工情報になる。そうしたもので判断をしたら、間違いなく判断を誤ることになります。


 3つめは、戦略です。戦略があれば、ものごとが目的志向化してくるのです。情報も然りです。逆に言えば、情報を集めるための目的とか、何のために集めるのか、といったことが明確にされないのでは、情報は集まりません。あるいは見たものきいたもの、嗅胃だもの、触れたものが、すべて画譲歩と言うことになってしまいます。

ここで、路上で砂鉄を集めることを考えてみてください。一つずつ、砂の中から鉄を含んだ砂鉄を見つけ出すことは、大変なことです。
ところが、磁石があったらどうでしょう。砂鉄の方から飛びついてきます。

ですが、ここでまた1に戻るのですが、この戦略という磁石を、経営者一人が持っていて、他の49人の従業員は、もっていない。そうした化企業が、現実実に多いのです。どうしてかというと、従業員には何を探すかが伝えられていないからです。
 
またこういった企業もあります。パート比率50%のところで、社員だけに、砂鉄をあつめろ、と伝えられていて、パートの25名には知らされていない。または、磁石を使えるのは社員だけ、といった企業も結構多いです。
 
何をいいたいのか。おわかりだろうと思うのですが、戦略は、1に統一されていなければなりません。私はアルミ、俺は水晶、拙者は亜鉛、ではいけんのです。2に、組織の全員が共有しなければ組織効率は、著しく低下する、ということです。
 当然、情報収力が低下します。数量的に落ちるだけではなく、精度、確度も著しく劣化することになります。

なず情報が集まらないか、という側面から、情報を量の確保について、以上、3点述べてみました。

 こうして集められた情報は、ずらりと並べて、評価することになります。この評価に関しての手法は、すでにここのブログで、過日MMAPについて開設した折、述べておりますので、今一度ごらんください。私のHPでも、詳しく解説しています。
私のホームページ http://jatsudon.in.coocan.jp/

両取り

2007年04月27日 | Weblog
情報について、考え続けています。

Aの問;
100メートル先に、1万円札がおいてあって、手にした人に上げるよ、ということをいわれたら、どうするか。

このお札を手にするまで、私が走るコスト(エネルギー、時間など)は、私持ち。そしてその間の決算は赤字だ。だか、私は「よっしゃ」と勇んで走り出す。
 タレントの境つとむさんではないが、「それは、な~んでか」。

これは、ここに回答するまでもない。


では、次。
Bの問;
1千キロ先に、1万円札がおいてあって、手にした人に上げるよ、ということをいわれたら、どうするか。

このお札を手にするまで、私が走るコスト(エネルギー、時間など)は、私持ち。そしてその間の決算は赤字だ。だか、私は「よっしゃ」と勇んで走り出さすことはない。
境つとむさんではないが、「それは、な~んでか」。

これは、答えは2つある。
1に、誰が見ても採算が合わないからである。
2に、誰にも、1万円札が見えないからである。

1には、説明はいらない。
2は、説明を要する。
1万円札でなく、1千万円であっても見えない。見えないのだからスポンサーが1万円ではなく、実は1千万円置いておいていたとしても見えない。逆においていなくても見えない。先のことは、先行き不透明、というより、分からないのです。
現実の経営がAであることは、希有である。むしろ投資詐欺師の言い分で、まともな人は首をかしげる。

経営は、Bである。とりわけ起業するのは、Bの2のケース。

ここで、忘れていること。見落としがちなことに触れておきます。
先に、1には、説明はいらない、と書きました。ですが、実は、説明が必要だったのです。

わからないことでは、この1も、同じなのです。わからないのだから、1万円どころか、1円もないかもしれないし、1億円あるかもしれない。いや1千キロ先ではなく、15キロ先に、100万おいてあるかもしれない。
要は先のことは、分からない。見えないところのものはみえない。決めつけてしまえば、先において確実なことはない。だが、それでも生きていかねばならない、ということではないでしょうか。

何を書きたかったのか。もう少し整理してみます。
1に、リスク計算をして動こうが、計算をして動こうが、計算外のことは、その計算に入っていないということ。
2に、リスクやコストを計算し、採算があわないとか赤字を案じて、その場を動かなければ、何の変化もないばかりか、人は誰しも時間軸で生きているのですから「死」へ向かっていることには変わりがないということ。

飯を食べなければ人は死にますが、食べるということはそれだけ経費というリスクがかかる。それを拒否すれば食事を取れなくなる。だが食事を取ったから、間違いなく1万円、1千万円也を手にする、といったことにはならない。こうしたことは分からない。こういうことになりましようか。
 
生きていれば大なり小なりリスクはある。リスクがあるが利もある。リスクがあるから利もある。利があるから、リスクもある。

こうした晴れたり曇ったり、雨が降ったり、また泣いたり笑ったり、これこそが人生の醍醐味、愉快さだと思わざるをえません。

つまり経営は、その流れ(経)の営みですから、これまた晴れたり曇ったり、雨が降ったり、また泣いたり笑ったり。それを私は晴れが好き、雨は嫌い、楽は好き、といったように片面だけを望む人生(ありかた)は、望んでも絶対に得られないのです。(このことは今まで述べた「山と谷の話)でご理解下さい)。

片方だけを望んで、片方だけを得ようと思っても、所詮無理なのです。出来ないことなおです。得られないものを望むことは結局、不幸で嘆きの人生を、自身が戦略として選んだことに他なりません。

ではどうしたらいいか。蛇足ながら。
晴れても売れる。雨が降っても売れる。ここの工夫を楽しむ。
追い風で進むヨットは、向かい風でも進んでいるではありませんか。

 まさに両取り。これも人が生んだ知恵。

経営と営業の虚実

2007年04月26日 | Weblog
経営は?営業とは?と問われたら、こう答えたい。

生きていくことは、つまるところ人と人との関係を基盤としている。当然、生活も経営も人と人との関係の上に成り立つものである、と。

 その関係は、虚と実で構成される。
本稿では、人を介在する「関係」を実としたら、人以外の関係を虚とおいて論を進めてみたい。

 「うちとおたくの会社は、取引は緊密だ」、といった言い方がある。
うちとオタクは、会社の関係なのだが、会社同士の関係の内実は、両社の人間関係のことである。会社同士が知り合い、名刺交換した後、取引しはじめた、会社同士が好意を持ったとか恋愛関係にある、ということではないから虚である。

 「会社としては、君(田上康朗)を首だ」と言われたとする。ここでは会社も首も虚、君というのはこの場合、固有名詞であるから実。こう考えると、虚が実を首(これも虚で、実は解雇)にしたことになる。そこで実なる私は、腹を立て対策として抗議に行くわけだが、何処をさがしても会社さんは見つからない。存在しない虚が私を首にするはずはないから、「誰が俺を首にしたのだ」と、私は実を探すことになる。その結果、「実は・・・・」と名乗って出てきたのが上司のO部長であることが明らかになる。
そこで、私は初めて首になる理由を思い当たることができ、対策に取りかかることが出来るのである。

 つまり幽霊が出てきたということは、幽霊にならない前、その人が生きているときの「実」のときの恨みつらみであるということだから、幽霊に対して、対策をうっても意味がない。
 このことをしかと理解していないと、私たちは対応を誤ってしまう。いや出来ないことになる。

 生活も、経済も、経営も、過去もこれからも、人と人との関係こそが「実」であり、他は実に見えるが、実は虚であるとみた上で、対応することが賢明である。
たとえば、選挙時の候補者の言うことは、公約も含めてほとんどが虚である。「当選した暁には・・・」というが、当選者以外、暁はこないから、彼らの言ったことはすべて虚。当選者にしても、それを実行して初めて実となる。この虚から実への転換率が、評価され、「あの人は、虚を「実」に行う人だ」ということで、評価されることになる。

 従って実行しなかった人に、「なぜ公約したことをやらなかったのか」と問うと、彼らは「実は・・・」といい訳をする。その、「・・・・」の部分を補うと、何をここに入れようと、実際はすべてが虚だったのだ、ということになる。つまり当選したいがために受けのいい虚を並べたいうこと。それ(虚)がその人の「実」体だったことになる。

 経営や営業などを考えるときに、この虚実をわきまえておくと、わかりやすくなる。
 人とは何か、その人が作った企業や組織、製品とはどういうものか、といった人と人との関わりを中心に据えて、きちんとそのつながりの有無を押さえることで、虚の部分を実の部分が明快になるからである。

 これは面倒、大変な手暇のかかる作業である。
だから、実は・・・、といったタイプの企業では、この手暇に莫大な経費とエネルギーをコストとして費消することを余儀なくされる。
逆に、大きく省略できる企業は、企業経営、営業にとって莫大な利益を生むことになる。
極端な例で言えば、「お宅の商品なら問答無用。即買います」、と消費者がいうからである。
これを信用、信頼、ブランド力といったもので表現される。

この点が重要なことであるが、その根底にあるのは、「かねがねの人間関係」である。
 お母さんが毎日出す料理は、家族の誰しもが安心して食べる。(ところが同じ料理でも、これまで見たこともない人が、突然台所へ来て、作ったものはそうはいかない。
 
 お店には、大なり小なり、なにをいってもなしても信頼してもらえない、という上の例、での前者のもつハンディをもつ。
 だから、これをどうしたら、前者(お母さんレベル)へ持って行くか、といったことが経営、営業なりの要諦ということになる。

 虚を実に持って行く作業こそ、経営の主なる流れでなくてはならない。だが現実の流れは、合理化、能率化と称して、実を虚にということが目立つというのが、現場での私の実感である。このことは、今朝の新聞に入ったチラシを叩き台にして、それを各自、虚実の視点から点検してみたら、理解いただけよう。

 商人とは、虚を減じ、実にする手暇を業とする者をいう、と私は言いたい。
 ちなみに、虚業者とは、虚を実に見せかける手暇を惜しまない人である。
 両者は、似てまさに非なり。

続-山と谷の話

2007年04月25日 | Weblog
数日前に述べた、山と谷の話の続きです。

さて今度は大きい山を二つ連ねたものと、先に述べた大と小の2つの山、この二つを見比べてみてください。どんなことに気づくでしょうか。
ここで、紙に書き出して眺めてみてください。行動しなければ分からないと思いますよ。(TV「相棒」の右京さんの名台詞です)
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さて、いかがでしょうか。
山が大きくなることで、「谷が深くなっている」というところに気づく方は、1に、行動する習慣のある方。2に、脳力開発でいう両面思考は身についておられる。
 
今度は低い山も二つ並べ、谷を比べて見たらどうでしょう。山が大きければ、谷も大きい。谷が小さければ小さい山になりますね。「当然じゃないか」と言われるでしょうが、この当り前のことが分かっていない。分かっていないと言うことは、知っていても使えない。置き換えが出来ないという意味です。最近亡くなられた植木等さんの「わかっちゃいるけど、やめられない」も同根です)。分かっていても使えないから、多くの不幸や悲劇が生まれることになるのです。

「この株は絶対儲かるから、十万なんてハシタ金ではなく百万円出しなさいよ。倍になるのだから」といってくる証券セールスマンに、多くの方々が「しょうけ?」とうなずいてしまい、被害に遭う、といった事件が後を絶ちません。倍の儲けを反対側から見たら、倍の損になるのは〈山と谷の絵〉とまったく同じことなのですが。それが時間軸をすこしずらしているから、見えにくいことはある。彼らはそこを利用しているのですが。

ところが大抵の人は、今の、示された方向からしか見ないから、百万円儲かることだけを考えてしまう。仮に百万円儲かったとしたら、その反対側にはそれだけ損をした人がおり、自分が百万円損をすれば反対側には儲かった人がいる。そのことが見えずに「私はだまされた」と嘆くことになります。そこで「なぜだまされたんですか」と尋ねると、「だってとっても立派な身なりしていて親切だった」などといっている。どこの世界に人をだますのに・身なりが悪く不親切な態度で迫る人がいるでしょうか。それが分かっていても、こうした商売が成り立つのは、実はだまされる方も協力しているからなのです。
人様のいうことをアタマから疑ってかかれ、と言っているのではありません。1に、利益が大きければ反面、リスクも大きいことを承知しておいたうえで判断すべきです。2に、見せられたら、見せられないところを確認する習慣を身につけておくことですよ、と申し上げているのです。筑紫哲也さんが、良くいっていますが、

情報には、知らされる(報道される)情報、報道されない情報がある、ということです。その両面をみて判断できないと、報道される)ニュースを聞いて、それで判断しているようでは、情報の真実は掴めません。結婚詐欺などにあう人と変わりないことになります。


 健康を思う時はたいてい不健康の時。〈心の時代〉と言い始めるのは心が枯渇している時。交通事故ゼロ運動の垂れ幕がかかる町では交通事故が多いのです。
 このように、反対面や様々な角度から見る習慣をつけることを、「多角度から考える」と言い、この習慣づくりによって、「頭がやわらかい」と言われるようになります。

 多角的に見る習慣づくりにより、だれでも当然起こり得る災いやリスクを事前に読めるようになります。予測できたら、通常の人は本能的にそれを回避する対策を考え、身の安全を保つ方向に動きます。反面リスクの方ばかり見て、それを恐れてその場を動かなければ、何の変化もないばかりか「死」へ向かうことになります。飯を食べなければ人は死にますが、食べるということはそれだけ経費というリスクがかかる。それを拒否すれば食事を取れなくなる。こう置き換えたらどなたにも理解できますね。

 生きていれば大なり小なりリスクはある。リスクがあるから利もある。こうした変化があってこそ人生は楽しいものではないでしょうか。晴れたり曇ったり、雨が降ったり、また泣いたり笑ったり、こうした変化こそが人生の醍醐味、愉快さだと思います。それを私は晴れが好き、雨は嫌い、楽は好き、苦は嫌いと片面だけを望む人生は、望んでも絶対に得られないのです。(このことは今まで述べた〈山と谷〉でご理解下さい)望んでも得られないものを望むことは結局、不幸で嘆きの人生を、あなた自身が戦略として選んだことに他なりません。

 幸せを得るのも事業が繁栄するのも、全く同じ脳の使い方です。ですから、日常生活で上手に脳力開発を使って過ごせる人は、事業をやっても成功する人に違いありません。

人に重き帰り

2007年04月23日 | Weblog
小売の取るべき戦略をよむ。
長い歴史を見てみると商店と消費者の関係を、売り手と買い手の接点という視点から、みると、接点を減らしていることが明らかである。
戦後以降を見てみると、さらに特徴的なことが2点浮き彫りにされてくる。1は、商店数の減少と規模の拡大。2に、商店数の減少と1店舗当たりの売上規模の拡大である。3に、規模の拡大と反比例して、販売員数の減少していることである。当然、販売員一人当たりの売上(人的生産性)は、著しい伸びを示している。
これだけの傾向で断定することはできないが、言えることは、1に、零細・小規模商店が淘汰し、大型店化することで拡大する消費者の消費の受け皿を果たしてきたこと。2に、売り手と買い手の接点に関しては一切データーがないわけだが、従業員数の伸びに対して、規模の拡大の伸びが著しいことから、間違いなく両者の接点は減少してきていると推定し得ること。その論証の一つに、零細・小規模商店の減少と、セルフストアの増大がある。セルフで良し、からセルフの方が良い、といった消費者の選別に耐え切れず淘汰されて来た店がおびただしくある。その一方当然しぶとく生き残った商業者がいる。その彼らとて大型店同様に、規模の拡大に努め、省力化・合理化によって凌いできたのである。当然、その過程で接点を疎にしていることは否定できまい。

問題は、こうした中で、いつの間にか商業者と生活者との間にあらゆる点での相当の乖離(ギャップ)がみられるようになってきたことである。その結果、いわゆる業態的に言えばダイエーを先頭にしたGMSの構造的不振が起きるべきして起きた。
その理由は、様々あろうが、一つにまとめて一言で言えば、消費者との乖離と言えるのではないか。
それは、皮肉なことに、百貨店から始まった。消費者との接点を疎かにしたのはセルフストアより彼らが先であったからだ。以前から、委托販売員、派遣社員に依存していた彼らは、ほとんど消費者との接点を放棄していたのである。
加えて、「私、売って上げる人、あなた買う人」、売り手高位の対峙概念であろう。その発せられる言葉の慇懃さとは裏腹の消費者より高い位置に立った百貨店経営者の不遜な言動(三越の岡田事件。西武の禁の屏風・絵画事件、そごう脱税事件、その他高島屋、松阪屋とさまざまな事件を起こしている)。事件には至らなくても著名百貨店経営者の言動は、どう考えても消費者を知らないか、もしくはこうした消費者を無視したものと受け取らざるを得ないものが多かった。それがダイエー他の経営者や、著名商店街の役員などの発言にも及ぶようになった。
その後の構造的消費不振は、こうしたことに対する消費者の不信感もしくは拒否反応がある、と私は理解している。

経営が見えない。経営者が見えない。大手・大資本だからといって信用できない、といった不信感が、消費不振を招いた、それは、一言で言えば、消費者接点を希薄にしたツケだ、と幾度となくしてきた。余談ながら、商店街の衰退の始まりとその後の趨勢と、商店主の居職分離のそれとは、まさに逆比例している。これも関係していることは間違いがない。

 ここへ来て、人手不足。これも10年以前から、新聞のコラムを借りて申し上げきたことだが、当時不況期でリストラしていた時期。これはそのための一過性的人余り。少子化・高齢化、人子減少といった構造的要因があるかぎり、日本は構造的人手不足なのだ。

そうなるとどうなるか。1つはさらに人手を要しない形のストアオペレーション化の方向。2つは、かりに高額の人件費を払ってでも人員を確保する戦略、3,外国人労働者への依存。3は、国策との絡み、業種・業態により条件が異なるので、ここでは省き、1と2,どちらを選択するかで、商業は、その運命が変わる。
 以前も書いたが、ユニクロの2の、選択は、商業における人的機能という物の価値を真から分かっている経営者が、できる決断である、と私は高く評価している。
消費接点こそ消費、とりわけ小売業の生命線。その生命線を削ぐ形で企業の存続を図ることは、長期視点から見たら、難しいこと。この点断定しても良い。


代議士すらできるのだから

2007年04月22日 | Weblog
リンゴがこの地球に生まれて以来、その果実は上から下に落下していた。ナシも柿も栗も水も。皆、そんなことは知っていた。だが、ニュートンが万有引力の法則を発見するまで、それを「法則」とみるものはいなかった。法則とは、普遍性、時間的変質なく、どんなことでも適応されますよ、といったことです。まずそのことを自分で確認して見ました。

 私は、今、手元にある、なけなしの1万円札を机から落としてみました。やはり下に落ちる。千円札はどうか。これもそう。500円玉は。これも下から上にはあがらなかった。100円玉も。アルミの軽い1円玉も下におちた。

 やはり高いところには,金はあがらないのです。ですから商人が高い姿勢,高慢ちきになったら、お金がその高いところには流れにくくなる。なぜなら普遍性があるのが、「法則」だから。

 お金みたいに実際に実験はしにくいが、情報はどうでしょうか。
偉そうな人はどうか。高い位置の人はどうか。威張る人はどうか。組織の上の人はどうか。彼らが腰が高い場合と、低い場合では、どうだろう。

 やはり万有員引力の法則は有効だと思うのです。これも昔から。歴史小説、三国志や太閤記などを読むとこのことが随所に出てくる。ですから時間的変質もなさそうです。

 子供が赤点を取ったから、テストペーパーを父親に見せず、満点を取ったら見せるのは、子供のせいじゃない。父親が満点は喜ぶが、赤点は叱るからだ。父親に入る情報がゆがむのは、父親自らの姿勢によるのです。

 どうやら情報が入りにくいのは高い姿勢。そして情報がゆがむのは受け手の姿勢と対応が変わること。このことがおぼろげに理解できました。
 
 だが、ニュートン以外の人が気がつかなかったみたいに。否、気がついていようといまいと、今も昔も政治家は、選挙以外の時は頭が高いし、高級官僚は選挙ないから、多分にいつもそう。企業の上役も出世するたびに頭が高くなる。経営者も会社が大きいほど、高い姿勢。これは如何。いや遺憾なことではないか。

 どうしてだろう。ですがここではどうしてだろう、と考えるより、どっちが有利か、得なことか、と考えた方が賢明だと思い、それで考えてみました。

 どう考えても、対応が、まるで逆だと思うのです。なぜならリンゴも金も、情報も、身を低くして受けないと、高いところに投げてくれないし、落ちこぼれも増えるからです。

 法則とは、法に則る対処をなさい、という学び、教訓です。その点でも、彼らは逆らっていることになります。だからこそ、あえて意識して謙虚な姿勢を取る必要があるのではないだろうか。

 あえて、というのは意識してということの強調ですが、そんな難しいことではないと思うのです。出来る。大丈夫。なぜならあの代議士すら、選挙が近くなり終わるまでは、意識してやれば立派に、謙虚な姿勢がとれているではないです。票ですら、低い姿勢の人に流れるのです。

 あわてて、この文章を偉そうな表現から、優しい表現に変えた私でした。

接点こそ

2007年04月21日 | Weblog
小売りを例に、これから取るべき戦略を見てみたい。

 長い歴史を見てみると商店と消費者の関係を、売り手と買い手の接点という視点から、みると、接点を減らしていることが明らかである。

 戦後以降を見てみると、さらに特徴的なことが3点浮き彫りにされてくる。1は、商店数の減少と規模の拡大。2に、商店数の減少と1店舗当たりの売上規模の拡大である。3に、規模の拡大と反比例して、販売員数を減少させていることである。当然、販売員一人当たりの売上(人的生産性)は、著しい伸びを示している。私が店長時代、管理本部の「一人当たり守備率」というえげつない指標で苦しめられた時代である。

 これだけの傾向で断定することはできないが、おおざっぱに言えることは、1に、零細・小規模商店が淘汰し、大型店化することで拡大する消費者の消費の受け皿を果たしてきたこと。2に、売り手と買い手の接点に関しては一切データーがないわけだが、従業員数の伸びに対して、規模の拡大の伸びが著しいことから、間違いなく両者の接点は減少してきていると推定し得ること。その論証の一つに、零細・小規模商店の減少と、セルフストアの増大がある。セルフで良しが、店主も店員もいないがいい、セルフの方が良い、といった消費者の選別に耐え切れず淘汰されて来た店がおびただしくある。

 その一方当然しぶとく生き残った商業者がいる。その彼らとて大型店同様に、規模の拡大に努め、省力化・合理化によって凌いできたのである。当然、その過程で接点を疎にしていることは否定できまい。

 問題は、こうした中で、いつの間にか商業者と生活者との間にあらゆる点での相当の乖離(ギャップ)がみられるようになってきたことである。その結果、いわゆる業態的に言えばダイエーを先頭にしたGMSの構造的不振が起きるべきして起きた。
 
 その理由は、様々あろうが、一つにまとめて一言で言えば、消費者との乖離と言えるのではないか。それは、皮肉なことに、百貨店から始まった。消費者との接点を疎かにしたのはセルフストアより彼らが先であったからだ。以前から、委托販売員、派遣社員に依存していた彼らは、ほとんど消費者との接点を放棄していたのである。

 加えて、「私、売ってあげる人、あなた買う人」、売り手高位の対峙概念は、口はともかく売り手側の意識の中を大きく締めていたことは事実である。その発せられる言葉の慇懃さとは裏腹の消費者より高い位置に立った百貨店経営者の不遜な言動(三越の岡田事件。西武の禁の屏風・絵画事件、そごう脱税事件、その他高島屋、松阪屋とさまざまな事件を起こしている)。事件には至らなくても百貨店経営者の言動は、どう考えても消費者を知らないか、もしくはこうした消費者を無視したものと受け取らざるを得ないものが多かった。それがダイエー他の経営者や、著名商店街の役員などの発言にも及ぶようになった。

 その後の構造的消費不振は、こうしたことに対する消費者の不信感もしくは拒否反応がある、と私は理解している。

 経営が見えない。経営者が見えない。大手・大資本だからといって信用できない、といった不信感が、消費不振を招いた、それは、一言で言えば、と繰り返すが、消費者接点を希薄にしたツケだ。余談ながら、商店街の衰退の始まり、その後の趨勢と、商店主の居職分離の始まりとは時期を同じくし、その後まさに逆比例している。これも、同根、消費者接点の減少と関係していることは間違いがない。

 ここへ来て、人手不足。これも10年以前から、新聞のコラムを借りて申し上げきたことだが、当時不況期でリストラしていた時期。これはそのための一過性的人余り。少子化・高齢化、人子減少といった構造的要因があるかぎり、あるいは成長そのものを止めない限り、日本は永続的、構造的人手不足なのだ。

 そうなるとどうなるか。1つはさらに人手を要しない形のストアオペレーション化の方向。2つは、かりに高額の人件費を払ってでも人員を確保する戦略、3,外国人労働者への依存。3は、国策との絡み、業種・業態により条件が異なるので、ここでは省き、1と2,どちらを選択するかで、商業は、その運命が変わる。
 
 以前も書いたが、ユニクロが上の2を選択していることはあきらかである。その選択は、商業における人的機能という物の価値を真から分かっている経営者だけにできる決断である、と私は高く評価している。

 消費接点こそ消費、とりわけ小売業の生命線。その生命線を他者に委ねたり削ぐ形で企業の存続を図ることは、長期視点から見たら自殺行為。この点断定しても良い。

y弱いことを知る

2007年04月20日 | Weblog
上に立つもの多くは、甘言者と身びいき者が組織を崩壊させると承知していながら、いつの間にか彼らを周りにはべらせ、諌止者を遠ざけ、時にはその首を切り、そして裸の王様となっている事例を私は仕事柄、数多く見てきている。
古来、有能な指導者は、自分の周囲にそうした輩(やから)がはびこるのは、自分の器量からみて止むを得ない。だからこそ自分の誤りや行き過ぎについて、諌止する者をあえて左右においた。それだけではない。たえず口癖のように、彼らに対し、自ら自分への諌止、苦言を求めた。

それは、人は甘言に甘く、また人は甘言を弄して利を得るものだ、ということを歴史から学んだ人だからである。否、学んだだけではない。その甘さが人一倍自分にはある。自分はそうした弱い人間だ、ということを知っていたからに他ならない。

私たちは、とかく錯覚をする。酒に弱い人間が酒におぼれると。だが事実は違う。酒が強い人が酒に溺れるのである。小さいときから病弱な人が長生きして、健壮な人がぽくりと逝くといわれるのも同じことであろう。

 そうした風に考えると、弱い自分、一ではたいしてことができないと、知ることが起業者としての人間的資質の重要な一つ、そして事業家としての成功の条件にも加えて良いのではなかろうか。
 

似非 共感・共有

2007年04月19日 | Weblog
商人が、その職場であるお店に住まなくなった、いわゆる職住分離が始まった頃から、商店街が衰退し始めた、と先日書いた。偶然かもしない。他の要因が絡んでいるのかもしれない。後付けの根拠かもしれない。
だがここで強調しておきたいことは、そこに生活していない、あるいは異なった生活環境をしているということで、これまで「その土地で生活者している体感を踏まえる」といった視点が希薄になることは紛れもない。また日常生活において、同じ生活者であるということで持つ様々な接点を失うことは、望外の損失になったのではないか。子供の校区が違う、といった一つをとっても、いかにたくさんの接点を失っていることか。
遠くの親戚より、近くの友というではないか。
つまり接点が希薄になるということは、経済学でいう、売る人対買う人の関係が対峙概念がくっきりする。そのことが、これは私のこじつけだが商いにやたらに「戦い」理論が入り込んできた理由ではなかろうか。
少なくとも個々単位に、商店に行き詰まりを生じたということがあったとし、名医が解剖してみたら、その原因は、その商人が自分も生活者であるということを忘れて、商うことに始終したその姿勢にあった、と診断される。名医ではないが私はそう思える。
創る人たちもまた然り。生活者からは離れた次元で、生活者への提言、ものづくりをやり、それが当たるか当たらぬかの、第一次的判断は、卸屋が、それは売れるか、儲かるか、リベートはいくらかとソロバンをはじき仕入れる。商業者もまた然り。卸屋が選択した中、その範疇内のものを選択し、提供することで、区々付加価値と称する口銭を得て、売りを行っている。
今、経営革新がまるで流行(はやり)である。そのこと自体は歓迎すべきことである。だが本来革新とネーミングするなら、小手先ではなく、まずこのことに根本的な疑義をもつことから始まらなければならないと考える。
繰り返すが、商人みずからもその地域の生活者であり、消費者である、この視点を放置したままでの経営革新などうまくいくはずがない、といってよい。
共感と言葉で吐くことは、誰にも出来るし詐欺師の専門領域であろう。共感には、生活のある部分でもいい、共有の場が会ってこそ、感じるものである。それを接点すら書く者同士が、「共感、共感」とは、いかにも軽薄で、怪しげな嘘っぽさを感じる。そうした思いが、消費者をしてそうした人、そうしたお店に背を向け始めた理由と考える。