経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

居場所のトリガー

2010年01月30日 | Weblog
これまで長い間、自分の脳に経営思考のシクミを作るため、
たとえば旅先で泊まったときのホテル、街で買い物したお店、
食事をした店などで、「この店で売れて儲かる手だてないかな」、
ということを考え、見つけだすことを習慣にしてきました。

しくみ作り、つまり脳の回線づくりのために始めたことですが、
他のうまくいく方法を考えることは、自分の脳が「嬉しいこと」で
満たされることに気が付きました。

「情けは人の為ならず」といいますが、
なんてことはない。そうしたお店や企業、
そしてそれらに関わる人たちのことを考えることは、
畢竟自分の喜びの仕入れ、イコールになっていた。

少々大袈裟かも知れませんが、これぞ私の旅(人生)の目的、
生業(なりわい)、生き甲斐ぞ、と思いました。


話を経営のことに戻しもう少し続けます。
旅の途中、徒然にそうしたアプローチで経営を考えるのが、
とても楽しみでした。生き甲斐になりました。

そんな中で気が付いたことがあります。
最初はちいさな気づきでしたが、やがて確信になりました。
それはそうした場合、「経営の視点からみてはダメ」だということ。

これもまた私にとっては大発見でした。
自分では自分の大部分が見えないように。
内にいると、内より外が見えるように、
経営にいると見えない経営が存在する。
世界の中に経営があるのであって、経営の中に世界があるのではない。

偶然は、多分に後付けの意味づけ、こじつけもありますが、
偶然、舟木一夫の唄「君たちがいてボクがいた」が有線で流れていた。
福井駅前商店街、昭和町でしたか。夕食をしている食堂の中だった。

「日常生活があって、お店がある」。
日常が主流、その中の支流の1つとして経営の存在がある。

その時のメモには、こんわけがわからないことを記しています。
ですが、これらのメモが、経営を日常というとてつもない
だだっ広い海に浮かべてみる、つまり経営を日常生活から考える、
そうしたことに私を至らしめてくれたトリガーになったのです。

このことが正しい。これが本来だ。そもそも経営とは、と
粋がるつもりも、ましてや誇る気持ちなどさらさらありません。

只、胸を張っていえるのは、「自分の居場所が見つかった」ということ。
これで人を追いかけることもない。
競うこともない。
比べることもない。

なぜならそれは私の世界だから、といった思いです。



逃げて背に付ける

2010年01月24日 | Weblog
脳力が発揮される最低の条件は、
成功する自由と失敗する自由を与えられていることにあり。

換言すれば、このことにより人は進歩発展できる。
つまり成功を称え、失敗を許さないところではこの進歩発展がない。
脳力が発揮できないからである。
経営者はこの点を肝に銘じておくことだと思う。

負けるが勝ちだ、という言葉がある。
これは負け惜しみではない。負けることによって、最終的に勝つ。
いな勝つために、負けるという意味である。
この場合、最終的に勝つことが戦略で、
その間の敗戦は、勝つという戦略を得るための戦術である。
計画通りの、だが計画とは悟られない「負け」をやる。
この典型的歴史的実例がある。

フランスの大軍を率いてロシアに乗り込んできたナポレオンは連戦連勝。
しかしこれがロシア軍総司令官クトゥーゾフ将軍の.戦略だということには、
最後まで気がつかず、ロシアの戦略どおり最後は壊滅状態で敗退したのである。

ではナポレオンはロシア兵に戦いで破れたのであろうか。
違う。
フランス兵を大敗に追い込ませたのは、戦わず逃げる民
奥へ奥へとおしりを見せて逃げ込むロシア軍隊
それにロシア大陸の凄まじい冬将軍の混成軍だったのだ。

ロシアの土地のとてつもない広さと冬の極寒というもてる資産を
活用、機能させるために、ナポレオン軍団自身の意思により
その最適地まで来ていただくには、どうしたらいいか。
お尻を向けて逃げ出し、相手が追いかけてくるようにしたらいい。
尻を見せて逃げたら追いかけたくなるのは猫も人も同じだ。


つまりナポレオン軍団自身とロシアの大自然の二つを活かし
ナポレオン軍団対ロシア冬将軍の戦いにもっていったのである。
勝負は後者の勝ち。いや、寒さと飢え、疲労による前者の自滅だ。

こうしてロシア軍隊は、クトゥーゾフの戦略、最初の計算通り、
戦わず逃げること大勝利を得たのである。

クトゥーゾフの大戦略、恐るべし。
こうしてみると人を使っての戦いしかできなかったナポレオン、
たいしたことないな、ということがよくわかる。
ちなみに、イタリア映画の名作「ひまわり」に、
雪の中をのたうち回るフランス軍のシーンがある。
グレンミラーのあの音楽が印象的である。

もう一つちなむと、戦略は大陸に生まれやすく、
日本みたいな小さな国では生まれがたい、といわれている。
ことの是非はわからないが、なんとなくそうかな、と
映画「戦争と平和」などを見て、このクトゥーゾフの大戦略
をうかがうたびに、妙に納得するのである。



とにかく行動

2010年01月22日 | Weblog
1)理念の浸透
 トップが理念を高らかに唱い、それに基づいた言動で生き様を示しことで、
人々は胸を躍らせ、生きていること、働くことの喜びを感じる。

(2)戦略の徹底と共有
 戦略を示し、熱く語ることで、人々に今働くことの意義と目的を知らしめ、
さらには会社と仲間とともに歩む道と希望を共有する喜びを体感する。

トップがきちんと、ロマンを語り、戦略(方向)を示し、
あとは現場がしっかりしていれば、大抵の難局は乗り切れる。

それを経営者がロマンを語らない。方向を示さない。肝心な現場から人を抜く、
といった全く逆のことをやっているから組織が機能しないのです。


(3)戦術は任す
上の理念と戦略レベルは、トップの、決して譲れない仕事です。
対して戦術は、トップがなしたり、示してはならない。(鵜匠を見習いたい)。
 
戦術は、人々に100%任せる。
各自が自由に決めて、クルクルと変えられる。
これでこそが戦術が組織に満ちて、人々は、戦略・目的に向かって、
それらの戦術を自在に組み合わせ行動し、到達することになる。
この3つが機能して、夢中の燃える組織がつくれるのです。
 
では、そうしたことをどうしたら体得できるか。以下。
「いや、寒いな、どうしょうもないな」

こうした無意識のぼやきを、意識して次のように。
「この寒さで、お客さまは、なにを感じておられるのだろう」、
という「式」をたてる。

「雨だな。売れない」ではなく「雨で、不便されているから、
よけいお客様に喜んでいただくことを、みんなで考えようよ」と、
組織の同志たちと式をたてる。

こうした習慣を3月続けたら愚痴のかわりに様々な対応策が出てきて、
結果としてちゃんと売上げも上がっているのです。

今、長崎から帰ってきたところですが、今回もおられましたよ。
「それってプラス思考xっていうのですよね」、と発言された方が。

私は「式をたてる習慣をつくる」という話をしたあhず。
つまりそうした知識を行動で消費していただく話をしたのだが、
そのしたり顔さんはそれを自分の在庫にひっつけて、固定化資産を増やし、
さらに身を重くしてい習慣があるらしい。

ノウハウ、方法、スキル、手段、戦術、そうしたものは、
蓄積するものではなく、消費するもの。
消費とは行動するということです。

理念を背景に戦略に基づき、お客様に動いていただくためには
どうしたらいいか考え、あの手この手、行動することで、
いとも容易に身につくのです。

とにかく行動、とにかく行動。
行動することが戦略、戦術の唯一のマスター方法です。



天下を釣る

2010年01月17日 | Weblog
自分とは違う個性の人、有能な人間を集め、
お互いに戦略を共有すること。これが組織です。

従って組織の大小は、戦略を共有する同志の大小で決まる。
組織の大きさ、店舗。組織の大きさ従業員の数。

そう錯覚した組織は崩壊することになります。

ところが希に、俺は何でも知っている。
だから俺は一人でなんでもできる、といった人がいる。
企業の社長で、戦略は秘中の秘、として一部の幹部にしか伝えない。
身内だけを登用する。アイツはダメ。これはダメ。俺でなくては。
おれがいなければ始まらない、といった人がいる。

組織は戦略が共有されなければ機能しない。戦術は出て来ない。
でてきてもばらばらだ。戦略で有機的結合されている組織が崩壊する。

 
職場でうまく行かないことがあると戦術云々の論議がよくなされるが
うまくいかない理由はたいてい大本の戦略問題であることが多いのです。

同じ夢、大望をいかに多くの人と共有できるか。
これで組織の大きさが決まる。
その意味で国家的組織を担えるリーダーに何が求められるかは、自明の理です。
大きい組織が悪いのでもない。大きくなりすぎたから崩壊すると言うことでもない。
自分の器量を上回るような組織にするから崩壊する。
だから、大きな組織にするには、自分が大きな望みを持つことだ。
その望みを多くの人が共感し、共有すれば、必然的に組織は大きくなるのです。


大望と言えば、大公 望のことを思い出します。

釣りをして魚ではなく国をつり上げたのが望という人だったという話で、
釣り好きの人を大公望といいます。
彼、望は、国を再興すると戦略を持ち、他の3人の孤児とともに
20数年後には国を作った。大公 「望」の話です。すごいです。
彼のように変わらぬ大望をもち、一つの戦略をも持ち続け、
その戦略を共有する人数をじわじわ広げていって、国家を創った。
それで大公 望は、天下を釣ったといわれるようになった。

さきに少し触れましたが戦略は心の広さ、器量、度量と大いに関係する。
このことは小牧の戦いでの秀吉、家康の丁々発止。あれです。

勝ちと功を相手に譲り、戦略を得る、といった器量、度量がなければ
戦略を具現するに用いる戦術が限定化される。

人に勝ちを譲って、それを撒き餌に国とつり上げた大公望の話は、
事実かどうかは別にして、戦略のなんたるかをスケール大きく
鮮やかに表す話で、私はこのことを考えるたびに胸が躍ります。

戦略のなんたるか、そして戦略はそれが共有された員数で組織力となる。
この2つのことを追記しておきます。


戦略とカウントダウン

2010年01月13日 | Weblog
テーマを戦略の話に戻します。
戦略で大切なことがもう一つあります。
間が空きすぎたので、振り返ってから本題に入ります。


戦略は一か八かじゃない。ヤケクソでもない。生きるか死ぬかです。
信長は、今川義元に負けて死ぬことも選択できたのだけど、死ぬのはいや。
だから生きることを択一し生きるためには今川軍に勝つことだ。
今川軍に勝つためには義元の首をとる戦略と、
今川軍との戦いに勝つ方法、この二つある。

二つとも成就する必要はまったくない。択一だ。
だから信長は費用対効果を考えて、義元の首を取ることを前者を択一。
組織の目的をそこに集中させた。
戦いを避けて、義元の首一点に三千人が集中すれば、やれると読んだ。

義元が打たれたら、今川軍は戦う名目がなくなり、全員国に戻るにちがいない。
だれしも戦うより故郷で家族と過ごす方がいいに決まっている。
事実、その通りで今川軍はそちらを択一した。

ここまでは、過日記しました。

戦略で大切なことがもう一つあります。
完成図から今に。屋根から階段を一段一段下へに
設計図を見ながら、今、次、先に用意する部品の段取りをする、
経営計画で言えば百年の大計が先にある。
それを99,98,97,・・・・・・・・・・3.2.1
と戻して経営計画を立てる、といったといった将来(さき)から、
今に戻すシュミレーション作業。
こうした側面が、戦略の本質です。
これが殆どでできていない。

では、以下本文。

このように戦略を具現するためには、まず最初にこうする、
こうなるといった完成図をイメージしておくことが不可欠です。

設計図に即して部品を取りそろえイメージ通りの家を完成させる。
完成図に基づいて戦術の組み合わせて「プロジェクト」を淡々とこなす。

プロジェクトを完遂させるには、一人ではどうにもならない。
また「知識」だけではどうにもならない。なぜか。
「知っている」も「わかる」も、自分だけの経験、知識の範囲内でのこと。
だから知識では外部の人の行動を動かすことにはならない。
自分以外の人は、こちらの思うように動いてはくれない。
自分の思うように動いてもらうためには「戦略」とその共有が不可欠です。

世には大きく分けて、自分が知らない世界と知っている世界とがあって、
「知っている」、「わかる」は自分の範囲以内でのことにすぎない。

世界は人の数だけあるわけですから、1つでも多くの知らない世界を知るためには、
一人でも多くの人との関わりが必要になる。
関わりを拡げるためには、「自分の知らない広い世界がいっぱいある」
という謙虚さと認識があってこそのこと。

そして違いがあるから相互に補完しあえ、相互に学びあえる。
こうしたことを前提に、他者と戦略を共有できる。
その戦略を共有したもの同士の群れ、集合体が組織です。

一人で自分の戦略を果たすより違う世界をもつ人と戦略共有を計ることで、
その力が増すというところに組織の存在意義がある。

また組織としての戦略が一人一人の構成員に共有されてこそ、
初めて組織は機能するのです。

人は、どこかで「自分は足りないところがずいぶんとあるし、
自分一人ではたいしたことはできない」と思っていますから、
群れを求め、群れに所属する。こうしてできたのがムラ→社会です。

自分とは違う個性の人、有能な人間を集め、自分の戦略を共有し
組織を構築する。これが会社といったことになります。 

生きるための手下

2010年01月10日 | Weblog
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長崎県立大学の村上則夫先生から、
新しく出版された著書が送られてきた。
ちなみに先生は、私の一番の苦手な分野と一番の得意分野、
情報学、システム学、経営学がご専門。
http://www.sucot.jp/murakami/index.html
実践経営経営学会でご一緒。それも同じ九州ということで
親しくお付き合いさせて頂いている。
その本の題名が「社会情報入門」(税務経理協会)
サブタイトルが~生きる力としての情報を考える~

私が編集者なら、このサブタイトルを
本の題名にするのだが、と思いながら目を通した。
まさに名は、体を表している。

そもそも情報の「情」でわかるとおり人の心を語源としている。
念のため辞書で引いてみると、次の如し。

(1)何かを見たり聞いたりして起きる心の動き。
(2)人が本来もっている性質。
(3)他人を気の毒だと思う気持ち。思いやり。なさけ。
(4)特定の異性を愛する心。恋情。
(5)実際のようす。ありさま。
(6)我(が)。意地。頑固。

どれをとっても人間の心を領域としていることは一目瞭然である。

それが、「情報」となるとどうか。
(1)事物・出来事などの内容・様子。また、その知らせ。
(2)〔information〕ある特定の目的について、適切な判断を下したり、
行動の意志決定をするために役立つ資料や知識。
(3)機械系や生体系に与えられる指令や信号。例えば、遺伝情報など。
(4)物質・エネルギーとともに、現代社会を構成する要素の一。

(1)-(2)までは人間くささが覗えるが、
(4)になると私は、頭が痛くなる思いである。

本来は空気同様、意識することはない。
しかし人間の生きていく上に必要不可欠な存在、
これが情報だと思うのである。

だが、とりわけ今のいわゆる「情報社会」といった言葉に代表される
言葉としての情報は、情報が主で人間をそっちのけ、
というのが私の思いである。

「情報が日常の空気や風にもどった」という気持ち、
それがこの本を読み終えての、まず感じたことである。
その意味で、まさにこの本は、我が意を得た思いがする。

道に迷ったとき、案内が一つもないのも困るが、
数え切れないぐらいあるのも困る。
同様にさまざまな情報が氾濫し逆に情報が見えなくなっている、
という感が強い昨今だしその傾向は、今後さらに強くなることは間違いがない。

そうしたときどうやって氾濫する道標から「本当」を見いだすか。
その解が村上先生のこの本だ。
ネタばれを恐れず、あと一言添えるなら、
それは自分が生きための力として情報を見ることだ。
それも強く意識してて、解して、行動すればいいのだ。

人間が生きていくための単なる杖、ツールと、
情報を俯瞰的に見下ろしてみるだけで情報の束縛、重圧から
逃れられ、いい気分に浸れる好著である。
10.1.10



あれもこれもトンチンカン

2010年01月09日 | Weblog


パン屋の実例。
ある県のパン組合理事長のお店である。

学校給食もいってに引き受けている。

年々、売上げは下降線。
特に、お店は売れない。

それで売る工夫、努力をした。
コンサルタントの指導を受けて、チラシも特売もした。
試食も増やした。POPもいっぱい付けた。接遇教育もやった。

でも山谷はあるが、、売上げは上向きにならない。

さらに新商品も追加したが、やはり同じ。

商工会議所を通じ、私に診断の依頼が来た。
3期分の決算書をそえて。

お店に行って、、試食した。

次に店主たちを追いやり、女性店員に試食を勧めた。

試食用に細かく切ったくずではなく、ショーケースのを1個丸ごと。

4人みな、半分も食べない。

店の商品には手を付けてはならない、ということで
彼女たちはお店の商品を食べる機会がなかったそうだ。

これは後から聞いた話。
なぜ半分も残したか。
結論は、「うまくない」。「甘すぎて」、「大きすぎて」


試食は無料だ。だがまずいものに手を出すのは、
人ではなく蠅えだけだ。
蠅もたからなくなったら、店員は仕事がなくなる。


ざるの中の試食のパンは、今日中に日付が切れるもの。
顕微鏡の検体ではあるまし。それに爪楊枝。

世界のどこに爪楊枝で食べるパンがある?
世界のどこにおいしくないものを試食するものがいる?
世界のどこにおいしくないものを買うものがいる?
世界のどこにおいしくないものを万引きしたくなるものがいる?


世界のどこにおいしくないものを、
売り出しの時に買ったらおいしいだろうと思う?

世界のどこにおいしくないものを、
POPもいっぱい付けたら買うぞ、といっている人がいる?。

まずいものを接遇教育したら美味くなるのか。
甘過ぎや大きさが適度になる、と
考えているとしたら、考えも甘すぎる。


学校で、出されたものしか、
選択できない子供達がかわいそうだ。

先生は、証拠隠滅を指示。こういうだろうから。
「給食は残さず食べなさい」「好き嫌いはだめだよ」

買いたい人がいる

2010年01月07日 | Weblog
客が来店する理由、買う理由を増やせば、客数が増加する。
これは安売りやイベント、接遇などを充実すれば、
売り上げが上がるといったことは誰しもやっているから、周知のことである。
利は区々、人様々あろうが、それを個別に、両面で見てみる。

安売りを「利」と解した人たちと安売りを「利」と解しない人たち
○○イベントを「利」と解した人たちとそのイベントに関心はない人たち
接遇の充実を「利」と解した人たちと接遇はどうでもいいと解する人たち

上の前者、すなわち-区々、自分にとって「利」と解する理由があれば選択。
これに属する集合体が人達の購買により売り上げが上がる。

上の後者、すなわち-区々自分にとって「利」
と解することがなければ選択しない。
この夥し人たちを、私は見えない客と読んでいる。

この人たちに利するものを提示できれば、購買客になる。
今の売上げにはこうした人たちの購買分を機会損失している、
のでは、というのが私の考えなのである。

このことを逆に言えば、利と解しない夥しい消費者の存在が
作り手、売り手側から見えない状態、放置されていることになる。
昨日のタイトル、「いるじゃないか、消費者」ということだ。

なぜ「いる」はずの消費者が見えないのか。
その根本には1に、
ほとんどの経営者は自企業の利、
売上や利益を選る観点から消費者を見ている。
つまり自分の売り上げに見込まれるお客のみに、関心がいき、
それ以外には無関心、ということで、人口減で小さくなっているパイを、
さらに小さくしている。


2に、自分の都合にいいくくりつけで、束ねるからである。
束ね、くくりつけに入らない極く少数派の消費者は、
マーケット視点から、振り捨てられているのだ。

1キロ入りジャンボパック、5個入りパックのキュウリは、
1キロ以下を望む消費者を捨てている。
5個以下のキュウリを探しているお客を無視している、
なんともったいない、こんなに買いたい人がいるのに、

というのがこうした売場を見るたびに思う私の想いである。


自分たちは自分に関わりのないことに関心がいかない。
例え大声で社名を連呼しようが、消費者の自分にとって
何らかの関心、利を与えない企業には、
当然、企業の存在の認識すらしないだろうし、
仮に一度選択したとしても、背を向けているのでは。

たとえば、POSなど購買したお客の情報であり、
こなかった消費者の数で割ると、%にもならない。
それぐらいの極小データーで、「これが売れ筋NO,1]、とは。
内部情報が外部情報を凌駕することはない。


売り手の利の視点で、消費者、見込み客、お客様、客、
顧客、お得意様、上得意様と分類する従来型マーケットでは、
もはや限界が来ていることに気が付き、消費者中心のマーケット。
これを構築することに迫られている。

それが私のライフワーク。
生涯をかけて根強く、根気よくやっていきたい。

いるじゃないか。消費者は

2010年01月05日 | Weblog
なにせ個人の自由業というのは、現場に出向き、これを1としたら、
事務所なりで3はデスクワークにかけて、一仕事ということになる。

時間的には、顧客から見えないところでの時間が私たちの大半の仕事になる。

自分の仕事、といった言い方をするが、
その内容は100%他の人のことなのだ。

自分の企業、自分の事を頑張って時間をかけても1銭にもならない。
畢竟、飢え死にすることになる。

だから私が忙しい、と仮にいったとしたら、
それは頭が、自分以外の人のことで占められて、
パニック気味の状態、ということになる。

サラリーマン時代は、会社のためとは言いながら、その実自分のため。
自分の事で始終。それが、この生業に入ったお陰で、
完全とはいわないが我利を考える頭を、「仕事」に取られ余り悩まなくなった。

ちなみに、悩みは我執が根本と私は思っている。
そのことは、未だ持って親友であるNくんの水虫を、
私が夜も眠れないほど心配したことがない事実でもわかる。


繰り返し述べているようにお店を儲けさせるため、
得(toku)させるために来店されるお客はいない。

だからこそお客が、たくさんあるお店の中から我が店を選ぶ理由を作る、
このことが経営者、商人本来の、最重要業務になる。
ところが、これまでたくさんの企業を見てきたが、
このことを主要業務に上げてるところは、希有だ。

そのことは、そんなことをやらなくても企業は成り立つ、
といった証ではないか、という見方もあろう。

実証主義に立つ私であるから、最初の頃は、そうした考えにぐらついた。
だが真実は多数決で決まるわけではない、と頑なに言い続けてきた。
月のない闇夜に、月の存在そのものに疑問を挟む人はいまいとも。
闇や雲で見えないだけで、使いは存在している。

少子化時代、高齢化時代、不況下でも、消費者は存在している。
そのことを、少し書いてみたい。

先達

2010年01月02日 | Weblog
新しい年を迎えた。

元旦、ある新年の集まりに参加したのだが、
次々壇上に立ち、挨拶する人たちは口を揃えるように、
「今年は大変な年、不景気な年、先行き不透明で」と、
参加した一般の人にぺたぺたラベルを貼り付けているのだ。
「まるで、刷り込み普及員だ}

まさにそうなのだ。
厳しい年とか大変な年、不況と切り出せば、当然その根拠なり
背景なりがその後延々と強調される。
話は暗く沈んだものになり、聞く人々は、
自分の企業の先行きに一抹の不安と陰りを感じ、散会することになる。
何が、これで「おめでたい新年会ぞ」


味もそっけもない言い方をするならば太陽暦にしろ陰暦にしろ、
双方とも人間が考え、制定したものである。
意味づけとは、そこに意義があるからである。
その意義とは人間にとって、ということになろう。
だから自然の現象自体にお正月だ、おめでたいといったものは、
何一つあるはずがない。
それに、おめでたいことと意味づけしたのは、
人間の先達の英知というものである。
「それをなんだ。恥よ、あんた方」

年数とか、時間が経ったといった、いわゆる時間軸は人間固有の概念。
だから「年が替わる」という認識は人間だけである。
犬や猫は、お正月を決しておめでたい日とは思っていないし、
そうでないとも思っていない。たぶん。
当人達に尋ねたり、脳の検査をしたわけではないが。

また当然、新しい年になったからといって、過去がクリアされたり、
特にそのことが理由で自然界に変化が起きたりするということは
けっして起こり得ないことである。

いいたいことは、
1にどうラベルをい貼り、それにどう意味づけするのは人間である、
2に自然現象は概ね人間の意志に無関係に諸行無常であるから、
こと自然現象にかかわることを人間が予測することは難しい。

この2つの理由でもって、どうせ人智のおよばないことなら、
明るい方に予測、ラベル貼りするのが、人間の先達の英知といってよい。
とはいっても自然は、人間の都合の良いことばかり聞いてくれるはずがない、
そのことも、人は十分承知していた。
そのために、自然を神仏として偶像化し称え、接待した。

なんという先達の知惠。
「それにくらべて刷り込み普及員の浅ましさ」。

「笑点」を見て、仕事して、仙台の佐藤光一さんから頂いた名酒
「鼎心」を味わいながら「相棒」をみて就寝。
おかげですばらしい初夢を見た。