経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

出来合い撃退

2009年11月28日 | Weblog
著名人の講演にかたっぱしから。著名人の経営書を買い、
経営講演テープ、経営講演ビデオ、経営講演CDを聞きかじる。
それも無名人のいうことには耳向けないのに、
著名なカリスマ型の講師のいうことには、
何でも丸呑み、追っかけといった経営者に
何人もお会いしたことがあります。

その殆どが、業績不振。それもその追っかけ病から脱できず、
最終的には事業をダメにしている。

私へ相談に見えられたMさんもその一人でした。
Mさんは、13.7億円あった売上げを、
脳をハイジャックされてから3年で5.4億円まで急降下。
それでも、やはり勉強不足のせいと妻や専務まで同行させ、
せっせ、せっせと追っかけに精を出しておられた。

たまたま友人のご紹介で私の所へ。
私の事務所の書棚にほとんど経営者がないのに驚かれた。

頼りなくても、自社の経営は自分の脳にやらせるよう
ほぼ3年かけて、ハイジャックの追い出しにかかりました。
社長室、それに「自宅の」書斎から、経営関係のものを全部一掃。
それから10年、今16.3億円です。

どうしたか。
経営カリスマより、お客様に夢中になること。
特殊性より普遍性。非日常より日常性。専門用語より普通の会話・・・。
そして、何事も自分で行動し、体感する。
体感して、嬉しいか嬉しくないか、楽しいか楽しくないか、
気持ちいいか悪いかを分別し、前者を無意識に選択する。
行動が先、立派な人の言うことより、自分の脳を信じ使うこと。
こうしたMさんの習慣作りの結果が、売上げ回復させたのです。
元々、14億も自分の脳で売り上げてきた方ですから、
人の脳を借りることは、まったくなかったのです。
自分の脳と、他人の褌で十分だった。


出来合いの総菜や弁当も時にはいいが、
これに頼っていては栄養のバランスが崩れる。
出来合いの経営手法になどに依存していては、
自分の経営力など身につかず、経営のバランスを崩してしまう。

総菜、出来合い弁当ブームと時が重なる頃から、
出来合い経営を求める傾向が強くなったこと。
私には偶然には思えないのです。


なんやかやの締め切りでばたつき、それでいてなにも手つかず。
頭の「もやもや在庫」を、外の空気と情報に入れ替えてみたらと、
3年前の自治会長の顔を利かし、顔を出した運動会でしたが、
我ながら、とてもいい判断でした。

親子と爺婆ちゃんの5人で弁当を食べている
一組の家族を発見し、なんだかとても嬉しくなり、
永くご無沙汰の父母のお墓参りに行きたくなりました。


脳のハイジャック

2009年11月24日 | Weblog
出来合いの理念や戦略を、総菜や弁当と同じ様に、
自分の経営に、他の経営者の出来合いを取り込む。

これは、どういうことなのか。是か非か。
以下、少し考えてみました。


人は、まず生きるために食べられるものかそうでないかを分別します。
次に食べられるものの中から、おいしそうなものとそうでないものを分別。
その他、栄養価とか高いか安いとか、入れ歯に優しいとか
人それぞれの事情の基準も加えて、分別しているわけです。
分別とは取捨作業。その結果、選択される。

出来合い経営を求めるケースも上に、置き換えて見ました。

取捨作業の繰り返しが、分別、判断の学習ということです。
その繰り返しが、一定の回線をつくる。
人皆、通常、良かれと思って選択しているのですから、
その繰り返しで、うまくいく流れができ川が形成される。
すなわち「売れて儲かるためのしくみ」を自分の脳に形成される。

先に他の人の頭で分別された「出来合いもの」を仕入れたら、
それで頭は占められ、自分が創った手作りは隅に置いておかれる。
出来合いの総菜と手作りの総菜を食卓に並べたら、
子供達は前者に箸を付け、後者には見向きもしない。

お母さんは、手料理する気がなくなり、やがて全部が出来合い。
経営もこうしたことに、と私の頭はどんどん妄想を拡げるのです。

言えることは、出来合いを使っていて料理上手になることない。

それは分別力や行動、体験による自らの知恵といったものが、
自分の脳の中に創られないし蓄積もされないからです。
これは間違いがない。確実です。

そうすると、手持ち在庫ゼロの空の頭の中に、
さらに新たな出来合いを他に求め、仕入れる、
といった悪魔のサイクルに陥ってしまうことになります。

それで、偉い先生のたくさんの家財道具で、
我が家の狭い部屋が占領される。

おなじように、他者に自分の頭をハイジャックされたことになります。
他人の脳で、自分の体を動かす。それが会社を動かす。

洗脳?そう考えただけでも、気持ちが悪くなり、
叫びたい。「オウ、ノウ、脳のハイジャック」

ところが、こうした経営者は実に多いのです。
これまで講演好きで、特定の講師の追っかけをしている経営者に
何人もお会いしたことがありますが、その殆どが、この類。
09.11.5


出来合い

2009年11月22日 | Weblog
家族で囲んで食べる、重箱弁当です。

ところが、殆ど仕出し弁当。
このことを云々するつもりはありません。
子供達が嬉しそうに家族とほおばっている姿を見ながら、
経営馬鹿の私は、「出来合い経営」のこと。
かってのMさんのことを思い出したのです。


「観念的」という言葉があります。

辞書を引くと、「具体的事実に基づかず、頭の中だけで考える様」(大辞林)。

これに少し書き添えると、
頭の中で演繹的で、論理的側面から考え、納得しないと行動に移せない人。
常に考え納得した上で行動に移す、「考える」人、
ということになりましょうか。

ロダンの「考える人」は創られてから一度も行動していない。
これからも永遠に、行動しない人です。

ちなみに「詩人」というのが、元々のネーミングです。
頭に浮かんだイメージを、行動によって文字に著す。
これなら、まさに行動する人です。

考えるとは、いずれは行動するという含みを持たせてはいるが、
その時点では行動していない人ということになります。

料理を作るには材料が不可欠です。
その材料はあれこれ考えていれば手に入る、というわけはない。
まずは材料を購買するといった行動が不可欠です。
その行動しないとどうなるか。
畢竟、死である。大げさではない。
食べるという行動をしないと、人は死ぬ。

考えるにしても、材料が不可欠です。
その材料はあれこれ考えていれば手に入るというわけではない。
まずは材料を購買するといった行動が不可欠です。
その行動しないとどうなるか。
畢竟、死です。脳死です。

師の城野 宏先生から聴いたかって中国での話(今はわかりません)。
まったく情報を与えず脳死させる刑罰があったとか。


すべからず、先に行動ありです。
材料を購買ということになると、考える材料が浮かぶ。
料理は何にしようか。これを決めないと材料が決まらない。
このことを目的的といいます(目的的行為論)。
この目的的であるのが「行動」、ないと単に「動く」ということ。

目的的に自ら行動したなければ材料が入らない。
だが材料にも総菜や弁当みたいに出来合いがある。

出来合いの理念や戦略を、総菜や弁当と同じ様に、
自分の経営に、他の経営者の出来合いを取り込む。

これは、どういうことなのか。是か非か。
少し考えてみたくなりました。

たいとつい、揺らぎの中で

2009年11月20日 | Weblog
感銘は、発する者と受け手の対等合作(共感)と、私は考えている。
発信者は「この自分と同じ思いを理解してくれる人がいる」と感謝する。
この同じ思いを受信者も抱き、発信者に感謝する。

しかし先に触れたように相手は自分の考えに裏打ちしてくれる相手がいた、
といった意味合いで発信者に対して同感、共感と
言っている、といったこともあろう。

そう考えると、両者の考えがまったく同じということもない。
否、むしろまっく同じではなくアバウトイコール(≒)。
すなわちこれもまた「曖昧(あいまい)」なものである。

曖昧さの幅は、人やその置かれた状況、国の文化など様々な要因で異なる 。
逆に言えば、曖昧さの存在の上に、人と人との関係、国、文化、
といった多くのものが成り立つ。
曖昧さがあるが故に共立、共存できる、私の言う「曖昧さの産物」である。


その曖昧さを相互が許せる範囲、許容範囲は、
双方の謙虚さの上に成り立つと考えるが、
相互が謙虚で謙譲するのではなく、違いは認めつつ、
あるいは異なる点は異なるとして分離し、切り離し、
残ったイコールを見いだすことで、
「両者、意見一致しまして、めでたし」ともっていく。

その過程で両者間に微妙な違いがあった場合、
それを一つずつ取り出し検討しあい、お互いの許容内であれば、
「同感」といったことで詰めていく。

だが、ここで見落としてはならないことは、
その違いは無視されようが、違いは違いとして未解決のままということである。

これがなんとなく引っかかり見逃せないということなら、
「同感です」といったことで、その後に「でも・・・・・」と続く、
ということになり、新たな火種となり「続く・・・」が縷々と論議され、
その過程が、さらに新たな創造、進歩発展になる。
また結局、、両者相まみえないということに至ることもある。

細かく具体化すればするほど違いは増えるわけだし、
違いを論じる過程で、それがさらに細分化すると言うことで増殖していく。

逆に抽象化すればするほど同調、共感は広がり、
究極的には、「なんだぁ、人間皆同じなんだ」といったこと。
さらに抽象度を高めると、ミミズもあの草もこの俺も同じ地球に住む生き物。
時間軸で言えば、俺もお前も先祖は三葉虫、といったことになるわけだが、
そこまで抽象化してしまうと実感は薄れ、無理がある。

となると、具体化も抽象化も、一定の幅の中で、ゆらぐ、
あるいは使い分けすることになるのかな、と思う。

違いがあるから、(対立の)対(たい)が生まれ、
違いがあるから、(共生の)対(つい)が生まれる。

この対(たい)と対(つい)の組み合わせで、
すべからくが成り立っているのではないか。

このあたりが浅学な私の思考の限界であり、ここで留め置く。

前者の対(たい)は、頻繁に常用されている概念であり、
私が添えることもない。

対して、後者の対(つい)は、対等にあってこその存在なのに、
なぜか、ほとんど死語に近く、ましてや論議されることもない。

このバランスを欠いているところに、ことごとくの問題の因があるのでは、
というのが私の根拠を欠いた次の仮説である。
以下簡単にふれ置きたい。

すべからく、売る人対買う人、雇用者対被雇用者、巨人対阪神、
男対女・・・この両者を結びつける「対」は、対等であり、
お互い様であり、お陰様である「ツイ」である。

その対の関係の意思表明が、言葉で発せられる同感、共感であり、
態度で示される抱擁、抱きしめ、握手、拍手、・・・
表情で言えば、笑顔であるのではないか。
私たちは、そうしたことを忘れ、あるいはないがしろにし、
代役として、儀礼化、形式化、形骸化しているのではあるまいか。

対と対、あいまいさ、この揺らぎの中で私たちは生きている。
これが私の思いである

自分の居場所

2009年11月14日 | Weblog
今回は、指名管理者の選定会議の一環で、
企業のプレゼンテーションの日である。
 発表の1社20分の持ち時間、その後審査委員の質疑10分。
 こうした場合のプレ、どうしてかくもワンパターン化するのだろう。

各社とも変わりなく共通して自社のこれまで実績と何がやれるかの羅列。
技法をあれこれ並び立ててのてんてこ盛り。

肝腎な受託した事業をどんな形にもって行くのか、
そのイメージはまったく描かれていないのである。

1に、何をやってきたかとかあれができる、これができます、
ではなく、まず受託した事業をどんな形にもって行くのか、
この事業のあるべき姿のイメージと戦略を話していただけますか。

 2に、あれできる、これできるではなく、
 1の具現のために 御社としてまず何から着手したいのか。
 1つだけでいいので挙げて戴けませんか。
 
 これが私の質問である。
 
 これまで能弁だったスピーカーが、まったく沈黙。うつむく。
 応えられないのである。

作る料理を決めずに、思いつく限りの食材を取りそろえる。
あるいは、地産地消とかこの地方の特産品をつかって、
従来にないものを提供したと提出書類にあり そうしたことを
しきりにプレゼンテーションするのだが、
ではなにがこの地域の特産品なのかはわからない。

こうした個々の企業の対応を問題として云々したいのではない。
こうした見栄え、どこにでもある言葉、つじつま合わせ、頑張ります、
真心込めておもてなし、といった抽象語をたくさん散りばめて、
さらにそれに非常に、極めて、ひたすら、といった形容詞を冠し
肝腎な中身は殆どない分厚い事業計画書とプレゼンテーションに
よってことが決まるといった「審議」のセレモニー化をもって
建て前だけの審議会、そのお墨付きを開かれた行政、
民間開放としている、そうしたあり方に疑義ありと言いたいのである。

その証拠に、私の上のような質問に対し、一番当惑していたのは、
行政側、この会を取り仕切っている事務方であった。

片道3時間に負担を感じたが、委員を引き受けて良かった。
自分の意義、役割、ここにありが掴めたことは有り難いこと。
そして何よりこうしたことに五月蠅い私を、
 この委員に任命した「人」の私に対する意図と期待を強く感じた。

滞りなく、恙なく、円滑に、問題なく、想定どうり、慣行により、
 といった こうしたものに疑問を投げかけ、できれば壊していく。
これが私の仕事、与えられた職責だと思った。
人、誰しも自分の居場所がつかめることは嬉しいこと。

 行きにまして帰りのハンドルは軽かった。

またも白圭

2009年11月11日 | Weblog
遊び人、風洪は、たまたま通りかかった建物の二階から
投げ捨てられた赤ん坊を助けた。
この風洪が、のちの大商人、白圭である。
この赤ん坊が、のちの名君 孟賞君である。

白圭は、私財を民のために投じた。
本来は国家事業である、荒れる黄河の治水工事にも、
白圭は自ら采配して行っている。

この史上最大の商人、白圭の臨終のとき、
「私を育ててくれてありがとうございます」
と、礼を言う孟賞君に対し、
「それは違う。お礼をいうのは私の方だ。助ける者は、
助けられる者によって幸せになれるのだから」
と言って、静かに息を引き取る。

15年ほど前、宮城谷昌光さんの名著「孟賞君」によって、
このことを初めて知った。以来、毎年1回は読み返している。
上の部分だけだと何百回と目を通し、抜き書きを重ねてた。


これは、人は係わりの中で生きている。
係わりある人に喜びとか感動と云ったことを含む利を与え続けていくことが,
生きゆく術(すべ)であり、豊かな人生の糧(かて)にもなる、
という意味に私なりに理解し、
以来、この白圭の言葉を私の仕事、経営指導の縁(よすが),原点にしている。
もちろん座右の銘でもある。

言わずもがななことだが、商人にとっての大事は消費者との係わりになる。
売るということは、消費者が買うという「係わり」があって成立する。
その関わりのおかげで、商え、商うことで生きていけるのだ。

こうしたこと、頭ではわかっている。口では言える。
だが現実はどうか。
多くの事業者は、消費者以外に関心を持ち、期待を寄せがちだ。
それどころか自らの「売り、儲ける」に始終し、
時として消費者を裏切ることすら珍しくない。彼らの行く末を見てみよ!
これは道義的に云々の問題ではない。

真の商人とは、消費者にとってのプラスを増し、
マイナスを減らす営みによって彼らとの関わりを積み重ねること。
このことで生業を立てる者、と私は自己流の定義をしている。
そこから外れる、事業もそれを担う人も存在し続けることが難しくなる。

業績が低迷する理由は様々あろう。
だがまずは、即座に、自らの商いのあり方、経営が
上の定義に外れていないかを、問うてみることだ。

清々しい朝、
さらに、さらに白圭の精神とあり方を極めることで、
未来永劫的に消費者に支え続けてもらえる“真の商人”を
育成することに邁進していきたいと決意を新たにしている。


体制と情報

2009年11月08日 | Weblog
  
体制は民を統治して、始めて存立し得る。
統治に際し、物理的にも、思想的にも民がばらばらではやりにくい。
そこで物理的な対策としては、
各地に分散して住んでいる民を一箇所に集めるために町を作り、
隣近所をグループ化し、適当な者を庄屋に任命し、
代行者として統治させるといったやり方をやった。
町に集めておけば民の動きもつかめるし、
不満分子の監視も、やりやすいというわけである。
民同士が相互に牽制し合うという効果もある。


思想的施策としては、体制が民衆をひとからげにして、
傀儡するのに都合の良い宗教なり、教えを導入することである。

時として、体制は傀儡に都合のよい教えを
外国から仕入れてきている。その一つが儒教。
これは体制の都合(ニーズ)があって採用されたものである。
日本に入ってきたのは、五世紀初め応神天皇の頃伝来とされる。
この教えは厳しい年貢を取り立てる必要のある体制にとっては、
実に都合のいい教え、縛りに使える。

儒教嫌いで知られる、あの劉邦すら、
体制維持に都合のいい局面では大いに儒者の教えを活用している。
同様。儒教そのものが体制オンリーの教えである、といった
一面的な意味ではない。この点誤解のないよう。

信長、秀吉、家康もそうだが、建国以来、一向宗など、
宗教対策に頭を悩ましてこずっている。

こうみればなぜキリスト教が輸入され、
そしてご禁制になったのかわかるというもの。

体制のトップの命令よりも、信じる神の教えを仰いだのでは、
面目丸つぶれ、そもそも統制などできはしない。

かといって逆に、民が宗教に限らず何も信じるものがないというのも、
体制から見て不気味であり、纏めるのに大変である。
また放っておいて、体制に抗う諸々の宗教に入り込まれても困る。

そこで上に述べたように、自らの統治に都合のよい思想なり、
宗教を輸入してて、改宗させ、心の統一をもくろんだわけである。

要は体制は神仏のご意向すら道具として使ってきたということである。
こうしたことは、今でも変わらず、借り物の経営理念で、
愛社精神を培わすといったことは経営の世界では珍しくない。


以前述べた古事記にみられる通り、
日本に神々がおびただしく存在していた頃は
日本全土を統一した国家体制の存在概念がなかったことが覗える。
のち国家が統一されたようとされたとき、
ばらばらな民心を束ねるためにも、統一した神を掲げる必要があった。

しかし在来の神はおびただしい数。で一神制を取ることができず、
体制はやむなく、別の宗教を持ってきて、統治する方策を講じた。
それが応神天皇以来の仏教、信長時代のキリスト教である。

したがって体制は、もともと仏教の本質や全容を輸入する気はなく、
それらの中から体制にとって都合のよい部分を切り貼りして
都合のよい和製仏教として融合化されたものとみてよい。

しかし、あとになって体制から流れたそれらに疑義を抱いた者が
自ら中国や韓国に渡り、初めて仏教の実態を知ることになった。

情報統制、そして情報開示への流れは、今も、昔も変わらないということだ。


以降、宗教の世界も体制派とそうでない派と
大きくはふたつの流れができたこと。
体制と反体制の二面的流れで歴史の織りなしは構成される。
これは昔も今も変わらぬ普遍的な流れといえよう。

このことが教訓となり体制をして鎖国へ進む引き金の一つにとなった。
したがって我々が学校の歴史学んだ様な完全な国交断絶ではない。
これは現代であの国、この国も同様である。
鎖国の内実、本質は体制以外の諸団体、個人に対するものであり
民に対する情報統制であることを知っておくべきである。

ここで少し横道にそれるが、
「鎖国」のもつ意図について簡単に触れておきたい。
 結論からいうと、鎖国は体制に都合の悪い物なり思想は断ち、
体制に都合のよいものは通す、という
フイルターの機能として設けられたと理解すれば判りやすい。
それと海外取引の利権独占が狙いであるから、鎖国どころか
むしろ体制の利益に則した交流は積極的に行われたとみる。
そう考えないと体制が鎖国令を出した積極的メリットがない。
それでは、鎖国令発令そのものが不自然になる。


情報操作は体制の常套手段。
否、情報そのものが操作性向を内包しているものいっていい。

すなわち情報には、流される情報と流されない情報があり、
その双方ともに、流す側の意図が含まれていることを
当たり前として、受け取り、その部分を押さえることで、
逆に精度の高い情報になる、という流す方にとっては
皮肉な反面を持っていることも事実である。

受け取る側からみたら、情報を鵜呑みにすればえらいこと。
だが、情報判断学を心得ていて読み取る力があれば、
常に確度/制度の情報が手にいる、ということになる。


判断の結果

2009年11月06日 | Weblog
事業は経営者の判断で動く。

その判断の結果、業績が伸びたり、低迷したりするのであって
どんな判断をしようとも全て業績が上がる
という仕組みになっていない。

すなわち倒産は、経営者の判断が
大衆に支持されなかった結果である。
大衆とは、一人一人の集合体である。一人一人の考え、判断は本来、異なる。
それににもかかわらず、また不買運動の談合した形跡もないのに、
ここでは買わない。これは買わない、と意見が一致、マスになることで、
売上不振、その結果の倒産となる。

このことはすごいシクミだ、と私はいつも驚嘆している。

この原則は別にバブルであろうとなかろうと
関係なく働いている。それが正常というものだ。

大衆、消費者に支持されない企業が存続するとしたら、
その方が異常事態なのである。

このことは大衆に主権がある自由主義国家である証しであり、
社会主義国家ならびに独裁国家では、
体制は絶対的存在だから倒産など概念自体がない、
という建前になっている。

建て前はそうだが、利は体制が吸い上げ、
赤は大衆に労働過重という形でツケ回される。



大衆一人、一人の意見、ニーズ、好み等が異なるのは当たり前のこと。
その意味で一社、一事業、一商品・サービス当たりの
大衆支持率は分散しているのが自然な状態である。
その結果、一定以下の支持率しか得られなかった企業は消えていく。
これが倒産である。

つまり大衆本来の「分化」状態であとしたら、
マスとしての売上げには限界が存在する。
それも低いレベルの限界だ。
それではやっていけないということで、
経営者は必然的に各自それに対処する工夫をする。
これが「経営」である。それをなす人が「経営者」である。
それ以外のことをやっても厳密には経営とは言わない。
私が、妻の買い物籠を持ってやっても、
消費者が購買するという意思決定に結び付かないからである。


こうしたことで、倒産には需要と供給のバランスを保つ
という経済の原則の調整機能としての役割を担っている。

その観点からみると、日本は総じて、
民主主義国家として正しく機能しているし、
経済の原則も正しく働いていることを示している。


民主国家の最大の利点はこういった形で
大衆による一種の社会的浄化作用が機能している点にある。
政治家もこれでふるい落とされ、今回みたいな政権交代も起こりえる。

繰り返すが、その浄化作用の結果をみても、
あくまでマクロベースでだが、
日本国民の総じて判断は正しいし、その判断の結果、
日本という国は、総じて正しい方向に歩んでいるといえる。

総じてに含まれない、ミクロでは話は別で、
これはいろいろ問題はある。

たとえば、経営不振で言えば、経営者の頭、
国のことであれば民をそっちのけの政治家の頭、
その政治家に投票した人の判断・・・





情報の中の私たち

2009年11月02日 | Weblog
先に仮の国の例をとる。
何を言いたいかは例に取った国のことではない。
1に、情報が、いかに操作されているか、といったこと。
2に、情報の読み取り方
3に、自分にプラスにするために存在する
上の3点について、考えてみたい。

かって社会主義に汚職がない、泥棒もいないと言う者がいた。
が、とんでもない誤りであったことは周知の通りである。


当時は体制がにより大衆が厳しく統制され、
都合の悪い情報はひた隠しにされ、
どんな小さな情報でも都合が良いものは、
脚色して積極的に流していた、

その後共産圏に関する過去の報道なり評論が
いかに虚構であったかが明らかになった。
今、汚職などない、など言うものは誰れもいない。


今は資本主義の考え方が導入され、
またIT時代の波にこの国も抗えず
随分開かれた国家になった、

以前より、いわゆるみえない国家が、
随分と開かれてきているという人がいる。

逆である。
なぜなら今も国家統制の一環として、
ITを大いに活かし、開かれた国家であることを強調することで
開かれていない国家の反面を小さく見せようといったことが
堂々行われているからである

そんなことはないよ。
なにより大衆に外国の報道機関がマイクを向け、
日本や他の国と少しも変わらずコメントしている風景は昔はなかった
あれを見ると、この国は随分と開かれてきたと思いますよ、

という反論もあろう。
私に言わしたら、それこそ大衆を前面に立てた
国家的情報と疑念を持たざるを得ないシーンなのである。

問題は、こういった初歩的な情報操作にでさえ、
見事に引っ掛かり、相手の流すままを「報道は事実」と
称して流してきた代弁者、メッセージャー、
報道機関や評論家たちの情報解析力か不勉強、あるいは品性にある。

閉ざされた国家であるからこそ、
流されてくる情報だけではなく、
流されてこない情報は何かを考え、
そしてそれを検証し流される情報の妥当性を検証する。
こうしたことは情報の専門家のイロハ、
セオリーであるからである。


要は、この国に限らず、何事に付け
情報操作は基本的には変わっていない。
いやITの追い風、隠れ蓑を得て
それはむしろ大がかりに、かつ強化されている、
いうのが私の意見だ。続く