経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

鬼に金棒、私に-最終

2008年06月30日 | Weblog
戻し、繰り返す。
ある会社のチラシ、DMでも社内報でも広告でもいい。
これを時系列的に並べる。

簡単に言えば、それだけのこと。
1年分を並べれば、概ね上に上がるか、下に下がるか。
これは、誰でも掴める。

そのH屋の倒産のこと。
1年前からのチラシの動きを記したメモである。
           *
チラシの頻度が増え、コピーが過激化。
最初は、安売り、次に廉売、その次が超廉売。
さらに次が、超激安、さらに部分半額セール。
それが、全館半額、ついには「全館ダンダンセール」、
最後が全館、全品100円。

そして最後の1週間。
「閉店セール、什器備品、まるごとと持って行けセール」。
            *
 
人が吐く言葉も人の行動も、読みとる能力は、私にはない。
洞察能力も予測能力もない。
「◎△の泉」の、コメンティターみたいなお見通し力もない。

だから時系列にこれらを並べる作業をする。
手間暇かかる作業で、「状態」を掴めむしかない。

営業強化は、売れていない状態を示す。
配送係増員は、売れている状態を示す。
松下幸之助相談役、営業本部長に、の人事は
松下だけではなく日本の不況突入の先触れ。

そうしたことから、「普遍性あり」とみたことを
さらに自分なりの検証を重ねて、それをツールにした。

そこから得た、これまでのところの結論は
畢竟、信用・信頼は、時系列的積み重ね。
一過性では得られないものである、ということ。

そして、その積み重ねの崩壊には、
1に、ただ1つの出来事で、たちまち崩壊する。
2に、じわじわと時を重ねて崩壊する。
この2つある、ということ。
1の事例は、館山の比内鶏、ミートホープ、船場吉兆
2の事例は、・・・・・・(割愛)。

 いずれにしても、時、そして時系列でみることで、
伏せてきたことや企みも、内に漏れ、そして外に漏れる。
その結果が、新聞などを賑わすことになる。

船場・吉兆のことと、思うまいぞ。
他人事と思うまいぞ。
私は、経営者に言う。

それはまた、自分への聞かせである。

なんといっても、くせ者NO1は、
常にこの自分なのだから。

見るとき、ブレ、矛盾、
そして矛盾を隠すこと。
そうしたこと多いこと、そのもの自体が、
大きな、かつ重要な情報となる。

それを見通すのは「時系列」。
それを見逃すのは、自分のこと。
だから時系列は、自分の護身用ツールでもある。

むろん、仕事に使う。
たとえば人や企業を診るときにも、
人生においても使う。

鬼には金棒、
鬼が強ければ、金棒は無用なもの。

私には時系列。
私に慧眼あれば、
そんな作業はしなくていいのだが。(了)

鬼に金棒、私に-3

2008年06月28日 | Weblog
24年前、川内のスーパー「H屋」が倒産。
その1年以前に、私は、チラシで、それを予測した。

2年間、チラシを収集。
それを時系列的に眺めて得た結論。
確信を持っての判断である。

タノウエ脳力経営塾では、内々で仮説を立て、検証
さまざまなケースを取り上げる。

カネボーの倒産、
当時の渡辺副総理の病状のこと。
寿屋、ニチイ、ダイエー

近くでは、長崎:佐世保での発砲事件のこと。
船場吉兆、比内鶏事件の行方

身近では、明日の天気、知事選
将棋の、次の一手。

新聞報道程度の限られた情報から、
真実を読む訓練をし、脳を鍛える。
チラシは、企業状況を読む格好の材料の一つだ。

鍛錬だから100発100中ではない。
当たる確率5割。はずれも5割。
やれば、うまくいくかいかぬか。
脳力開発での予測は、択一だ。
だから、「やってみろ!」、
やらなきゃ、一生、わからぬことを考えてどうする」
これは、私の師、城野先生の言葉だ
「とぼか、とぶまいか。泣くよりひっとべ」

川を飛べない子供に、大きい子供が、励ます言葉だ。

これは、示現流を底流とする薩摩藩に伝わった童歌の一節。

ちなみに示現流には、受けがない。
「チェスト!」と奇声を発し、太刀を振り下ろす。
それで、終わりだ。
二の太刀を想定していない。

答えは、自分から見て、生か死か。
相手から見て、生か死か


脳力経営塾での研修。
「あること」を択一し、検証。
その検証の結果が仮説にならなかったら、
もうひとつを選択。それを検証。
これを繰り返すことで、脳力の開発を行う。
こういったことだ。

だから、あくまで会の中、
自分の、うちうちでやる。
これを外に出したら、流言、風評。
事の次第では大事になる。
自慢話に使ってはならぬ。

当てたら、次はそのやり方に普遍性があるかないか
その検証をする。
普遍性がないと、「宝くじに当たったぞ」と同じだ。
次に使えない。他に使えない。
それでは、世に役立てできない。

その意味で、多くの経営者の成功談ほど、
普遍性を欠くものはない。
ほとんどが、遠回しの自慢話。特殊性の固まり

「普遍性の検証」もまた、時間と時系列を用いる。
選挙に立つ以前から、ホリエモンは短距離型、
長くは続かない虚業家だ、と断言できた
もちろん、彼の著書も時系列に並べて読んでみた。

このことは、偏りの情報で判断の誤りをさけるため。
プロとして当然の作業である。

鬼に金棒。私に-2

2008年06月25日 | Weblog
時系列とは、全容を俯瞰的に掴む方法である。

長編小説の展開を、最初の1行で読みとることは難しい。

それだけの材料で、勝手な感想を記すことはできる。
しかし、それは全体の評価とは、異なるものである。

第一印象が肝心、という言葉を否定はしない。
だが、それで騙されるといったことがあることも事実だ。

口、言葉では何とでも言える。
だが口は、身体の一部にすぎない。
そして、それは人が一生を通じて発する言葉のごく一部。
詐欺師は、これを活用している、プロ。

文章も然り。
ブログに、プロフイルがついている。
なぜか。
これを見て、鬼でも蛇でもないのだ、
と、手形の裏書きほどではにいが安心して
カキコミができるからだ。。

ブログ本分に対しての、感想などのカキコミ。
これは文章が短い。匿名の人もいる。

その上、カキコミした人のブログやHPとのリンクもなし。
としたら、相手には文字を通じてしか、相手が見えない。

相手が見えない。知らないとなると、人は腰を引く。
その分経営もされるし、情報も入らない
 隠して損する、このマイナス側面に気づくことだ。
むしろ情報開示、晒すことの優位性を活用すべきだ。
というのが、 「売れて儲かるシクミ研究会」のモチーフだ。

武士は、名誉を重んじる。
戦いに、死を懸けているからだ。
だから、必ず「やあ、我こそは、・・・」と名乗る。
相手の名も要求する。
お互いを知ってこそ、名誉が保てる。

この名乗りがないものが、闇討ちだ。

ブログのカキコミ、DM、チラシ、電話、勧誘、セールス、
そうしたものにも、この闇討ちの類が多い。

相手、その所属などが、ぼけているほど、警戒される。
拒否反応が強く、うまくいかない。
そのことを、もったいないよ。
やり方として下手だ、と言いたい。

私は、知らしめることの優位性を説いている。
情報開示は、信用・信頼の前提要件になる、
と申し上げ、それを提唱している。


匿名でも、単文でも、長くやりとりし、
それを時系列化、並べれば、書き手が見えてくる。
しかし、全体、全容は、文字だけでは難しい。

ここで、ドラマ「北の国から」のシーンを思い出す。
宮前雪子(竹下景子)の息子、大介が恋をしている。
その相手の女性には、一度も会っていない。
お互い、「誰なのか」もわからない。
携帯メールだけで恋愛に陥っているのだ。

それを、五郎が驚愕し、いぶかしがり、諭す。
「俺には」、わかんないよ。理解できないよ」
と、ついには興奮しだし、絶叫する。あのシーンだ。

戻す。
長く繋がる言葉を、時系列に並べてみる。
そして矛盾がないか、ブレがないかをみる。
長い目で、全容をみないと、掴めないものもある。
掴めないから、恋いに陥る、ということもあろうが。
 
だから、覚めなければいい、いった言い方がある。
が、それもまた 錯覚、幻想、思い込みである。

錯覚、幻想、思い込み・・・・・・。、
早い話が、「ばれなけりゃいい」、
「隠し通せればいいのさ」

それが また、いかに錯覚、幻想、思い込みであるか。
私たちは、その証を、露見した犯罪として、
新聞紙上で知ることになる。  (続く))

鬼に金棒。私に

2008年06月24日 | Weblog
自宅の郵便受けに、ポスティングされたチラシが溜まる。
 それをみて主婦達は、「また、ゴミがいっぱい」、
 といった言い方をするそうである。
 
 名古屋の友人、朴 寅鎬 さんが、先日のブログで触れていたこと。
  
 これは、私の例。 数日前投資のMというところから、DMが来ていた。
 その場で封も切らずに、資源ゴミ入れに捨てた。
 今日、仕事中に、事務所から転送された電話が携帯に入った。
「先日、DMをお送りしましたが、お読みいただいたと存じますが・・」。
「みてない。捨てた」。ガチャン、である。

 細かい話だが、転送代は、私の負担。
こうしたことにも思いをかけない所の電話の相手をするつもりはない。

 通常は金曜日が、折り込みが一番多い。
だが、この7日、土曜は、金曜日より多かった。

「大感謝祭」、「店仕舞い最終」、「トクトク市」、「こだわり市」、
「大創業祭」、「びっくり市」、「クリアランスバーゲン」、「買わなきゃ損、損」・・。

 表現、さまざま。どっかできいたようなコピー。

 共通点は、3つ。
 1に、即効性狙いで廉価を訴求。
 2に、使い古されたコピー。
 3に、品がないこと。
 
 集客を高めるためだ。これで良し、といった見方がある。
 効果があるから、昔から繰り返し使われている。

こうした言い分があろう。
その通りかも。でもそうでないかも。

だが、実際のところどうなのだろうか?
これが私の素朴な疑問なのだ。

今の売上が欲しいとき、即効性を求める。
その結果、この類のチラシを撒くことになる。
それが費用対効果から見て、金銭上の採算は合うとする。

だが、この採算計算は、あくまで期間限定だ。
100メートル競争なら、スタートしてから、9秒か10秒。
この間で、先頭に立つ者が、テープを切る。
その選手が優勝者だ。

だが、企業の生存競争は、短距離でも期間限定でもない。
42.195キロメートルのマラソンより、長い。
ゴーイングコンサーンである。

繰り返しこの種のチラシを打ち、小銭を稼ぐ。
繰り返しで企業の品性、品格、信頼、信用、イメージが低下する。

どちらが、いいか。望ましいか。
後者の側面を、マイナスとして考慮し、計算しているか。

ノウである。
イエス企業は、最初からこの類のチラシを撒くはずがないからだ。

ノウの企業は、裏では徐々に衰弱させている。
あるいは、ある日突然企業犯罪の主役に、
といったリスクが高くなる。(続く))
08.6.9

「私」と大統領

2008年06月23日 | Weblog
朝、7時半、うえの自治会館(平屋の築43年のあばらや)へ集合。
自治会の道路清掃のボランタリーの日だ。
草刈り機を使っての2時間の作業は、けして楽ではない。
しかも80代が3人、70代が11人といった高齢化集落である。

この集落は、跡継ぎが帰ってこない。
で、当然だが土地の値段が下がる。
それで、不動産屋が買い、解体、整地し、売り出す。

なにせ新幹線で鹿児島まで17分の薩摩川内市のこと。
あっというまに買い手が付く。
わが上野集落でも、この2年で4つの新しい住宅が出来た。
うれしいことだ。

買い手は、当然?30~40代の若い世代の人たちだ。
かくして、この集落にも新陳代謝が起きている。
本当に嬉しいよ。

今日は、上が83歳、下が31歳の皆さんが、
せっかくの日曜日を潰して、地域活動に参加。

有り難いと、今の自分は思う。
だがかっての私は、そうしたことを、
「それ、行政の仕事」。
「忙しい俺が、何でやらにゃならんのけ」

と思っていた。

事実、名は連ねていても3回に1度の参加。
それで良し、といったことだった。

欲得について考えている。
ボランタリー活動を、欲得の側面から考えたらどうだろう。

ボランタリ-なのだから、欲であるはずがない。
そう解していた。
以前の私は、そう思っていた。

.私は欲が深い。
だからボランタリーなどは、ごめんだ。
そんな暇があったら、仕事。仕事。
そう思っていた。

だが、今は違う。
端的に言えば、私の心の中で、欲がバージョンアップした。
大欲に、否、超大欲化したのだ。
欲がうんと俯瞰化し、うんと抽象化した。
そんなふうに思っている。

落語に、「もう半分」、「五月のぼり」といった、
ついつい欲をのばしたために、えらい目に遭うといった話がある。

だが、私は欲を大きくして良かったと思っている。

昔から、人の持つ欲には限りがない、というひとつの証か。
欲はどんな人にも例外なく、これまでも、今でも、これからも、
無くなることはないだろう。

だから無欲になろうと思わずに、
自欲、個人欲を、とてつもなく拡げて
大きくお国のため、地域のため、地球のため
といった大きな欲にすれば

と、思ったのだ。
以来、欲の性悪説には、私は与しない。

断然不利といわれていたオバマ氏が、
圧倒的勝利の下馬評の高かったクリントン氏に、
買った。

なぜ勝てたか。その理由は?

立命館大学の東 照二教授が、興味深い健勝をしている。
(共同通信08.6.7朝刊掲載論評)

この3月4日の演説を例に取ると、
クリントン氏、I(私)の回数、23回。WE(私たち)の回数 41回。
対して、
オバマ氏  I(私)の回数、10回。WE(私たち)の回数 75回、


もちろん他の会場の演説でも、圧倒的にオバマ氏は、Iが少なくWEが多いと。

自己欲、その欲の突っ張りを諸悪の懇願とは言わないまでも
これが元で様々な災いを引き起こしている。

だがその欲が、うんと広く抽象化すれば、どうだろう。
たとえば自己愛が、宇宙愛になればどうだろう。

自分の部屋を綺麗にしたい。
だから部屋の外へゴミを掃き出す。
これが地球の環境問題になっている。

それで、地球が汚れる。
地球を綺麗に保つためには、地球の外にゴミをはき出せ、という。

だがとてつもない大欲者は言う。
それでは単に地球が綺麗になっただけ。
地球は、宇宙の中に存在している。
だから、それではいつか地球も汚れる。

このように欲のレートを上げる。
すなわち、俺から、俺たち、俺たちから、地域、地域から県、
県から日本、日本からアジア、アジアから世界、世界から地球、
そして宇宙といったように、うんと俯瞰化し、うんと抽象化する
そうすれば、自分だけ良しは薄くなり、
世のため、地域のため、宇宙のためにということで、
歓迎されることになると思うのだ。

あるいは、いい加減、いい案配、といったように
分限を守ることができる。
そうすればまずは幸せな人生を全うできるのでは。

欲の突っ張りがより大きくなればなるほど、
より普遍性を帯びてくる。
普遍性があるということは、多くの人が同じ床で同じ夢を見る、
理想、願うものが共有化することになる。

 もくもく奉仕活動をしている。
そうした仲間達たちを見ながら、思う。
彼らは、あるいは奉仕活動を「している」といった欲すら
思うことなく、為しているのでは。

しからば、「無欲は大欲に似たり」。

ここにクリントン的経営者が登場したとする。
そして、宣わく。

「私なら、その2時間で50万円の売上を稼ぎ出す」。
「、私の力で米国をより豊かに出来る」

次に、オバマ氏、曰く。
「私たちは、みんなで89円の発泡酒と3袋500円の珍味で、
   私たちの流した汗に乾杯できる幸せを共有できる」。

 10時に作業を終了。
1缶89円の発泡酒で、乾杯。
「汗を流した後の、ビールは、うまい」

と、ささやかな宴をめいっぱい喜びあう仲間達。

みな、口々に言う。
「このビールが最高に美味い.それが楽しみでやっているんだ」

それを欲の突っ張りの私が、
「薮払い&道路清掃のクリーン作業。2時間で89円支払う。やりませんか」
と、大声で呼びかけ、チラシをうつ。

集まるか。ノウだ。

それまで日が差していたのに、天、にわかにかき曇り大雨。
それを潮に、みな解散。

御礼&交々

2008年06月22日 | Weblog

 パソコンの不調について、ブログで触れた。

何人かの方からアドバイスを頂いた。
また、日頃考えていることについて書いた記事に、コメントも頂いた。

見ていて下さっているんだ。

そのことがまず、何より嬉しかった。


このブログには、カウンターがついている。
また、来訪者のニックネームもわかる。
なのに、コメントやアドバイスは、嬉しい。

.嬉しいのなら、素直にうれしがっていればいいものを。
何で違うのだろう、と気になった。

何か、大切なものを教えてもらっている気がしてならない。
それを見落としてはならない。
そんな気持ちである。

 しばらく、考えて、できれば、出てきたらそれについて書いてみたい。


 ところで、もっと早く、書いておくべきだったことがある。

5月下旬頃から、ホームページの改修を始めた。
3つのホームページ3つの内、メインは

  ようこそ「タノウエ脳力経営塾」へ




15年間、書き足し書き足しして、気がついたら総枚数80ページを超えていた。
サーバーの容量は2Gある。余裕はあるのだが、いたずらに分量が、も考え物。
当然重複もあるし、陳腐化しているものもある。

新陳代謝、進歩発展を唱えている私にとっては、自己矛盾もいいところ。
じきに、カウント数20万。これを期に、リニューアルを始めた。

まったく言語を知らない。
HP作成ソフトを使って、自分で合間、合間を見て作り替えている。

まずはTOP。
以前と大きくは変えなかったが、とりあえず手直しした。
そのためだろう。
予想外のことが発生した。
.他のページの多くが、大きく崩れてしまったのだ。
また沢山のリンク切れも生じている。

仕事の合間を縫ってのこと。1日1ページをもやれはしない。
だが、やれたとして、最低でも2ケ月はかかる。
その間、全ページが、いわゆる「工事中」。
足下が悪い上に、なにかとご不便、ご不快をおかけすること。
伏してお詫びです。

乞う.ご期待、とは自分にお世辞でも言えないのだが

総理、退場を命じる

2008年06月20日 | Weblog
道具は,やる仕事によって変わる。
替えなくても良いときもあるが、普通は替える。

野球の例。
不動の4番バッターは、彼がどんなピッチャーに対しても、
どんな投球に対しても対応できる選手であるということ。
これを前提にしている。

不動とは、動かないという意味ではない。

 1-状況の変化を掴める脳力
 2-状況の変化に対して動く柔軟な心
 3-状況に対して動ける柔軟な身体

この3点を備えている人である。

その3点を前提に、
対応とは他者(もの)に、こちらが対応する、

という基本的姿勢。これが不可欠である、と考えている。

まちがっても、相手がこちらに合わせる、
といった考えや姿勢が微塵でもあってはならない。

極端な事例。
相手のピッチャーが、私の望み通り、
ホームランがでるようにすることはない。

ボールが、私の望み通りホームランがでるように、
バットに当たってくれることはない。

だから、不動の4番打者がいるとしたら、
監督は4番を交代することはあり得ない。
あるとしたら彼は、不動ではないのだから。

ここ、不動の4番打者がいないからこそ、監督の采配が求められる。
監督としての腕が揮えることになる。

だから選手が対応において、
こうしたらうまくいく、といった確信が乏しい場合、
あるいはより確実性を高めるために、
4番打者といえども、状況、相手の投手によって変える。
これが、監督の仕事である。


戦略と戦術の話をしている。
戦略によって戦術を変えることは、ごく常識である。
これは、経営者固有のことではない。
人間すべてに通じる普遍性があることだ。

もちろん、政治家も。
いや失礼。政治家であれば、いっそうのこと。

だが、例外はある。
原油の値上がりで、船が出せない。
当然魚も値上がり必死だ。
すべてのものについて、値上がりが始まっている。

状況は、値上がり。

国民のニーズは、これをなんとか。
だから、政治家の対応は、これをどう押さえ込むか。
である。当然だ。

まして、この国の総理、首相ならば、当然。
だが例外の人がいた。

この値上げ利状況で、いか釣りせんが、
          いかんとも船が出せない、
と発表している最中に、

「ぼち、ぼち、消費税のUPを検討したい」

と、いった発言する人がいた。


もちろん価格高騰は、今。
消費税はさき、と言うことだろうが。

おじいちゃんのお葬式で、来年のはなしであろうが、
孫の結婚式の話は、常識ある人ならつつしむものだ。
これが、対応の常識。


彼、福田さんが、この状況時の総理である。


野球なら、監督が即、交代を命じる。
これが一番の対応だ。

私の、今の気分は、交代どころでは収まらない。

「総理、退場を命じる!」08.6.20

山河と街を、滅ぼすなかれ

2008年06月19日 | Weblog
事業の存亡は消費者の選択如何で決定される。

結果的に消費者から選ばれない企業が消えていく。
その結果、空き店舗や空き事務所などが増加。
それで土地価格や賃貸料が下がる。

下がれば、「ならばお店を出そう」という人が出てくる。
資本主義における需要と供給の原則である。

この原則が機能しないとしたら、どうなるか。

共産主義における理論を餡(あん)として、
資本主義の皮で包み込んだ、「おまんじゅう」をイメージして欲しい。

この餡が苦ければだが、そうではない。
餡は、皮より甘くて美味いから、歓迎される。
餡には、砂糖がタップリ。
毎日、美味しい美味しいと食べ続け、
やがて糖尿病となる。

これが保護政策の怖さだ。


商店街における空き店舗が出たという事実には2つの側面がある。

1に、空き店舗が増えた。次は俺の店かも。困ったなぁ。
2に、資本主義国家として正常な新陳代謝が機能している。良かったなぁ

ものを見るときは、常にこうした両面から見なければならない。

だが1の見方に私たちは囚われ、囚われさせられている。

商店街の集まりで、
「この商店街は資本主義が機能して空き店舗が多い。よろしかったですなぁ」。
「これは新陳代謝が機能していることで、健康的で良いことですぞ」。
と、私が言ったとする。(事実、言ってきたのだが)。
私は、この仕事からたたき出されることになる。

人は、とかく自分を被害者に置きたがる。
被害者は、救済されなければならない。
先生方が動き出し、官僚を使って、票のためにも動き出す。
それらは、国家百年の大計とはかけ離れたもの。
打ち出される対策は、保護政策。救済政策。

新陳代謝が機能してこそ街に、人体に、
流動性が生まれ、活気がでる。
活気とは、生きる活力のことだ。

このことを、阻害することは、命取りにもなりかねない。
本質的問題に目を向けず、本当の対策を無視する。
それで、林業はどうなった。
農業は、どうなった。
商店街は、どうなった。

山も田畑も、街も、否そこに住む人々も。
昔、杜甫は、「国、破れて、山河在り」
と詠った。

だが私は、今、
「山河と街が破れて国滅び」と、詠いたい。

そして、国滅びて、高級官僚在り」と、蛇足したい。

消防車は、その稼働率をもって云々されるものではない。
消防車が稼働しなくても良い地域造りこそ、本来の対策なのだ。

空き店舗を活用することは、一過性的対策が本来ではない。
真の対策は、街を構成するお店がそれぞれ新陳代謝、
「血液さらさら、流動化」を計ること。

虫歯や歯周病で、痛む歯を抜くことが、歯の治療ではない。
そうした歯抜けが出ない歯茎、あごを構築する。
これが本来の歯医者の仕事であろう。

かって20年ほど前に、高松の丸亀商店街でお伺いした折、聞いた話。
、今でも忘れない。
現明石専務理事だったか。お茶の亀屋の尾碕さんだったか。

ここの商店街は、空き店舗が滅多に出ません。
それでもこの街に出店したいと、希望者が順番待ちなのです。

本当の行列の出来るラーメン屋は、これだ。
ところがほとんどは、行列が出来るように、売り手側が仕掛けている。
行列を作っている。

表現の違いがあっても、同じことじゃないか、
という意見があるかも。

先回りして答えておきたい。
それは断固違う、あなたはわかっていない、と。

まず主語、主体が違う。
次に、目的が違う。

購買あまたの店では、売るシカケ、対策は不要だ。
どうしたら、そんなお店にもっていけるか。
これが目的。

空き店舗がでるのを行列して待つ出店希望者
そうした商店街づくりに、空き店舗対策は不要だ。

理想論と笑っていい。
だがその理想に向かって歩を進める。
それが商人の夢、ロマン、行動の本来ではないのか。
子や孫の夢を、理想論と笑う、親やジジババはいまい。

街や企業には、どうだろう。
         *

「山河と街、滅ぼすなかれ」

と、夢と理想の具現を目指す。

そうした街、そうした商人を訪ねての旅。
それが私の夢、理想、そして仕事である。

それ、対応?

2008年06月18日 | Weblog
時流は、時が流れる、と書く。

世は、変動あうるものと、変動しないもの。
この2つで構成されている。

そして、この2つを見ている「私」がいる。

この「私」は、生まれ死ぬ存在である。
だから、当然、揺らぎ、変化する存在である。

たとえば、「私は、正しい」ということ。
これは変化する存在である「私」を通してのこと。

右に進む車から、停まっている車を見る。
と、荒れ不思議。これが左に動いて見える如し。

その変化しないものが変化してみえることになる。
かくして、「私」からみた、世のすべては変化して見えることになる。
ここに、誤解が生まれる。

「私」は、誤解と言うが、それは相手から見たら正解。
誤解への対応は、「私」から見て、そして「相手」からも見ること。
これが対応である。

時が流れれば、これまで良しとしたものが、良しとしなくなる。
あり得る。あることだ。

だから時流に合わすことができないものは、淘汰する。
淘汰される、と被害者へもっていってはいけない。

淘汰がいやなら、対応する方向に持っていく。
あくまで主体を「私」に置くのである。
そうすることが、対応だ。

商店街に空き店舗があるということは、2つの側面がある。
1に、対応出来なかったお店が、以前は存在していたという側面
2に、他の店はちゃんと対応して生き残っている、という証の側面、

この両面がある。
だから、その片面だけを見て、商店街ダメ論は、公平ではない。
ましてやその存在意義を否定するという論は暴論である。

生き残っているお店がある。
その事実を、しかとみることだ。
ダイエーは消えたが、近くのばあちゃんのお店は、存在している。
消えたダイエーを見ても、残っているばあちゃんのお店を無視する。
これではいけないと、そう指摘しているのだ。


そもそも、変化の主体は何か。
そして変化の内容は何か。
こうしたものを掴めなければ、対応しようがない。
たとえば、「売れなくなった」という。
これは消費者が買わなくなったということである。

また、どの店でも売れなくなったということではなく、
その店で買わなくなったことを意味する。

あるいは、全部が売れないのではなく、
売れている商品もある。
が、売れなくなった商品もある。

このようにその理由が、
 個別問題か普遍的問題か、
 原因は特殊か、普遍性があるものか、

といったように詰めていく。

その上で、その理由なり原因を除去する。
そして、買ってもらえる理由、原因と入れ替える。
これが対応である。

念押ししておきたいが、ここで「売る」ことは、対策ではないのだ。
売れないものを売ることではなく、購買してもらえる手立てを講じる。
これが対応だ。

それは、そもそも売り上げは、購買の結果である。
その購買の主体は、消費者であること。
畢竟、事業の成否は消費者の支持で決まる。

この当たり前のことへの認識が乏しい
あるいは誤解している、

つまり、対応とは言っていても、
ほんとうの対応はなされていない。

それでも、生き残っているのだから、
 1に、皆さん、幸運だ、ということ。
 2に、これまでの幸運が今後も続くかどうか、ということ
 3に、正しい対応をやったら、間違いなく伸びますよ、

 以上、3点が、私の実感である。

 「その対応、本当の対応?」
と、問いかける。こうした習慣づくりを、ぜひ。

不機嫌なパソコン

2008年06月16日 | Weblog
数日前から、パソコンの調子が悪かった。
長い付き合いだ。
立ち上がりの時点からご機嫌がわかる。

使っていないアウトルックが立ち上がり、消える。
エラーなんとかがいったん出て消える。
立ち上がった瞬間、メモリーが100%近くまでUPする。

それを無視して、なんとかやってきたのだ。
が、今朝は凍り付いたまま動かなくなった。
クリーンもテグラグも5日に1回はやっている。
だから、原因は別にあるかも。

それも思いあたりがある。
もう1月ぐらい前か。
WXPのP3をインスト。
以降既存のソフトとの干渉が始まった。
それで、そうしたソフトを見つけ出してはアンインスト。
それを、3Pをインストしていないノウトパソコンへ移し替え。
まだ、その残りがある、とみた。

ぶつかっているソフトを探し出さなければならない。
だが、パソコン音痴の私は1つのソフトを外し様子を見る、
といった面倒なことを繰り返す以外に方法を知らない。

時間がとてつもなくかかる作業だ。
これで1日つぶす訳にはいかないので、1日、1つか2つずつ。

それで3日目の朝、今日だが。もう立ち上がってすぐ、
 1,「何とかがない」。
 2,「何とかを探せ」。
 3,「メモリー不足」、

3つも警告が重なり、凍り付いた。

1と2は、簡単だ。
あったものが、ない、ということ。
だから、昨日アンインストしたものを再インストをすればいい。

3は、1と2を探すのに、メモリーの使い回し過ぎかも。
とすれば、1と2を再インストで、解決する。

あたり。
昨日の状態に、戻る。

だが、それ以前からの症状の解決にはならない。
それは、原因、何だ。どう考え、どうしたらいい。

メモリーは1G。
XPなら、これで十分と思っていたのだが、
P3は、それだけ負担がかかるというのだろうか。
パソコンのメモリ2G追加で2万ぐらいか。
ならば、俺の脳のメモリー回復に、2万円、食った方がいい

幸い、午後から枕崎へ行く。
天気快晴。最高のドライブ日和だ。
2時間も、のんびり考えていれば、知恵が出るかも。

デスクトップには、レジストリーの掃除をさせ、
ノートで、しこしこ原稿書きをしている。

18年間、一緒一緒だった犬も、最後の3月は介護。
その始まりは、朝の散歩を渋り、それでも不機嫌そうにつきあう。
考えてみれば、その3ケ月だけが、彼との交流の時だった思いがする。