経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

日本国民にノーベル平和賞を

2009年10月31日 | Weblog
タイトルは大仰だが、体制と文化の話の続きを、
政権交代の意義を高く評価している立場から
文化のそれと、対比、絡ませて、考えてみたい。


文化は体制維持のために利用された。
そうした背景歴史を持って、育ってきたという見方ができる。

たとえば体制下における絵画は、
当時の絵描きが食うための手段として肖像画からスタートしている。
次に襖、屏風画である。
これはお客は体制の上に乗っかっている人、
皇族、貴族、高級武士といった特権階級に限られる。

としたら、事実通り写実した肖像画や屏風画が書けるであろうか。
否であろう。
男は皆美男、逞しく強そうに、女は皆、美女、
優しく色っぽく、強調して書かれるのは、当然である。

したがって当時の肖像画が正しく当人を写しているとは到底思えない。
その意味で、そうした時代にカメラが存在したとしても、多分に発禁もの。

そもそも写真は体制には馴染まないもの、といってよい。
写真が日本の封建制度の末期に登場してきたのは、
偶然であろうとなかろうと、体制にとってはラツキーであった。
また体制の強い折に登場しなかったことは写真にとっては幸せだった。

なぜなら写真は、絵画と物書きと違うのは実写であり、
体制に媚をふるツールとしては、そぐわないからである。
高額で、そうした体制側にしか手に入れられないから、
そうした指摘は当たらない、という指摘があろうが、
それは写真のもつ本質的機能とは異なる論議である。

かって絵描きが、裕福層をスポンサーとしなければ、食えない
今はどうであろう。
大衆すべてが写真家、写真記者みたいなものである。
そのため写真による暴露、特ダネを専門としていた週刊誌フライデーは
消えたといってもいい。


こうしたことは、表現を変えていえば、
人の生活に於ける脚色行為やプライバシー部分が減少する
ということに外ならない。
要するに、隠してもすぐばれる、
しかも民のプライバシーより、政治家とか芸能人、
スポーツ選手とか、いわゆる著名人のプライバシーの方が、
虚飾も多かろうし、剥ぐいでの付加価値がつくし、面白ろかろう。

必然的に彼らは、いつも民による捌きの目を意識せざるをえない。
下手をすると偶像化し引き落とされ兼ねないからである。
これも大衆が分化することの特質であり、
その意味での社会的浄化作用効果は大きいといえよう。

宗教や文化が体制に媚びしないとき、
文化のリーダー達は体制の弾圧の対象となる。
例として茶の千利休。
体制のリーダーたる秀吉は、彼が存在する限り
文化の世界においてはリーダー足りえなかった。
このことをして、秀吉は千利休に嫉妬し、彼を殺すこととなった。

先に述べたように、元々絵描きや物書きは
不本意であってにしろ、体制の太鼓持ちとしてスタート。

これが明治半ばになってようやく体制の枠外、
あるいは批判の小説家等、すなわち結果としての貧乏小説家が出てきた。
彼らはそれまでも元来書きたいもの書くという本質は持っていたのだが、
いかんせん体制に受け入れられるものだけしか、
スポンサーたる紙屋が書かしてくれず鬱積が溜まっていたのである。

いきおい百花繚乱の如しである。
いわゆる文豪と呼ばれる人達を含め、
この時期に数多くの小説家等が輩出しているのは決して偶然ではない。
その意味では、彼らは文化の時代すなわち大衆の時代の到来が、
近いことを独特の嗅覚でもっとも早く嗅ぎつけた先覚者といえる。

事実その頃から、大衆に支えられた文化が萌芽してきている。
その背景には大衆相手でも商売になる、
と読んだ先賢の目を持つ優れた紙屋がいたということである。


こうした文化の歩みと政治の歩みを、ウサギとカメの如く、
「どちらが先に駆け着くか?」としたら、
実際にかけっこしなくても、勝負は明らかだ。

「体制」とは、体制を守るという本能を持っており、
文化は、旧来を打破することに、その存在価値を持っている。

ここに来て、やっとこさ、ほんとうにようやく
国民のための看板に、その実、体制維持、党維持、派閥維持
を主要業務として勤しんできた政権が倒れ、
ともかくも民を主と謳う政権が誕生した。

「民主党だってわかんないぞ、同じかも」、と言った声もあろうが、
そうしたこれからの問題以前に、
旧体制を無血でもって政権交代をなしたことを言っているのである。
日本国民の英知、賢明さ、そのことを言っているのである。

そのことは世界中に大きく誇っていいのでは、と思っているのである。
私がその関係者なら、今年のノーベル平和賞はオバマさんではなく、
日本国民だ。日本人の一人として、誇りに思っている。

天を物差しにした男

2009年10月29日 | Weblog
人それぞれ物差しが異なる。
共通語がなく言語が皆違うのでは、コミュニケーション取りづらい。
普遍的な物差しがなくては、人も物も計れない。

その普遍的な物差しを、天に於いた人がいる。

西郷隆盛である。

まず、西郷の人格、思想の原点に「敬天愛人」という言葉があり、
彼が好んでよく使い、揮毫した言葉である。

「天を敬(うやま)い、人を愛する」と読む。
この言葉から、西郷の指針(目標)が「天」にある、
ということが明らかである。

西郷南洲顕彰会発行『南洲翁遺訓』より、以下抜粋

~道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、
天を敬するを目的とす。天は我も同一に愛し給ふゆえ、
我を愛する心を以て人を愛する也~

(現代訳)
~道というのはこの天地のおのずからなるものであり、
人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、
天を敬うことを目的とすべきである。
天は他人も自分も平等に愛したもうから、
自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である。~


西郷隆盛のあの人徳と器量の大きさの根底は、
その無私にあるといわれている。
彼は己をむなしくし、思考と行動の基準を
天という無二の存在に求めていたことによるのではないだろうか。

これは、天は一つしか存在しないこととから、
万民共通の物差しとなりえること。

そして地球の上から万民を包み込み得る存在であることから、
たとえば「恥をなせば人は気付かずとも天は見ている」
といった意味での自制の指針に成り得るからである。


大人は容易に小人を計れるが、小人が大人が計ることは難しい。
しかるに、ここで小人に小人たる私が、西郷の敬天愛人の
人格、内部について触れる得るのは、この程度が
人間的かつ人格的な限界である。
おびただしい関連の本が出ているので、そちらに譲りたい。

ちなみにそのおびただしい本の古典的、原点として、
1冊挙げるなら、「大西郷遺訓」であろう。

政教社から大正14年3月10日に出版され、
たちまち増版に次ぐ増版、同年9月には20版。
私が持っているのはそれである。

現在は 政教社はない。
そこでインターネットで調べてみると、
大西郷遺訓―立雲頭山満先生講評 『大西郷遺訓』出版委員会とある。
アマゾン等から簡単に手に入るようである。

この本は、上の『南洲翁遺訓』に中村天風の師で知られる頭山満の講評を添えたもの。
旧仮名遣いだが、頭山が弟子達に、西郷の人格と思想を講話した講述で実におもしろい。


ともあれ、天を物差しに、「敬天愛人」と唱え、
人を愛すること自分の生き方の礎に、と強く意識するだけで、
小人の私も、気が大きくなり、胸を張って生きていける
勇気がわいてくる。

不思議ではある。




褌で包み込め

2009年10月26日 | Weblog
地球は、この俺より大きい。遙かに賢い。

こう書いた。当たり前だ。不遜な、という声があろう。

だがその当たり前を、実際の判断ではどうしている、と
私は、自分自身に問うているのだ。

孫悟空のその話は知っていても、
俺はまだ孫悟空をやっている。
仏様の手は、孫悟空には見えないほど広かった
これが慈悲というものだろう。

地球は、私にはその存在を忘れるぐらい広大だ。
これが「自然」というものではないか。

この当たり前がわかっていれば、
地球や自然や、他人に対してもっと謙虚な視点から、
人智が発揮できるのではないか。
それを、逆らうから。対抗するから。克服しようとするから。
大変なんだ。疲れるんだ。苦しくなるのだ。

地球や自然という大きな、そして偉大な師に師事することだ。
師の教えを元に自己の工夫、研鑽を重ねることだ。

地球や自然をふんどしに例えるのは、恐れ多いのだが、
「人のふんどし」の中に、恐れ多くも含めちゃえというのが
私の経営哲学?「人のふんどしを活かそう」の起因、起点。

この視点を常に頭に置いて、モノの判断、経営判断を行う。
この習慣づくりを、これを私は、「脳の回線づくり」と名付けた

そして.仕事においても、一過性、一時的な効果を押さえてでも
永劫的な体質、組織、風土づくり、すなわち「しくみづくり」に
重きを置いて、やってきた。これからもずっと、これです。


農業の話で、例示してみます。
端的に言えば、人智では、1に農薬を使うことと、
2に品質改良といったことでで爆発的に生産性は高くなってきた。

しかし、長い目でみたら、いや地球、自然から見たらどうだろうか。
間違いだった、とまでは言わないにしても他に方法はなかったのか。

100歩譲って、過去は仕方がないとしょう。

ではこれからはどうしたらいいのか、
人智の誤りは、新たな人智で、見直し、これ良しに転じればいい。

土を活かすことだ。
奇蹟のリンゴで知られる青森の木村昭則さんは、
ふんどしではなく「土」でにその活路を見いだされた。

先日、ここで紹介した鹿児島大学の大木教授は、
水は土で決まる、といっています。

こうした自然の流れで、あり方へ戻れ、と叫ぶことではなく、
また、他人のふんどし依存、自然任せだけではなく、
それらに包み込まれている自分の存在を、人智で表すことで、
地球、自然、他者に少しでも貢献できたら・・・・。

こうしたあり方、生き方に根本を置いて、今停滞感のある経営を、
見てみたらどうだろう、というのが、私の最大の関心なのです。


地球は俺より偉い

2009年10月23日 | Weblog
地球上の生物のことごとくが、
自分にとっての良しとした判断をする。
あるいはそのとき都合の刹那的、ごく短期的な視野で判断する。

その結果、どうなるか。

ここでは人以外、昨日例の一つに挙げたミミズとか猫とか虫を無視し、
人間に限定して整理すると、こう言えるのではないか。

地球全体は、地球にとって、次の3通りのいずれかの状況である。
すなわち、1に良い方向へ進んでいる。2に、悪い方向へ進んでいる。
3に、良いも悪くもない(変化なし)。


上の1、2,3に、それぞれ、
「人間が刹那的に、かつ自分だけ良しの人為的判断で行動する」
を追加すると、どうなるか。

1~3,いずれにしても地球の状況は悪い方へ向かうか、
状況悪化を加速させていくことになる。

その典型的例の一つが、環境問題だと私は思うのだ。

ここで地峡を擬人化して考えるといっそうわかりやすい。
この地球さんは 人間同様に刹那的に、かつ自分だけ良しの判断で行動する。

すなわち、地球は良い方向へ向かおうとしているのである。
としたら、私達人間は、自分の判断により、
地球さんの向かう方向に委ねることを、第一義にする生き方が、
是であり楽ちんではないか、なぜなら地球さんに乗っかっているのが
私たちなのだから。

孫悟空が何日もかけて空を飛び続けて、
お釈迦様から逃げおおせたと思っていたが、
実はお釈迦様の手の上で飛び回っていたに過ぎなかった。

この孫悟空を人間、お釈迦様を地球、と置き換えれば、
畢竟、人智は天智に及ぶはずがないし、ならば天智の活用を
人智で活かした方がいい。活用した方が良い。

すなわち、自分の力で売るより、消費者の購買の力を、
さらに人の力より、自然の力を活かす、
この工夫を人智が担うということになります。

よい方向へ進歩発展する本来の流れを阻害しているのはなにか。
それは、自分だけ良しの考えだ。
自分の車をきれいに保つために、車外にゴミぽん。
企業の生産性を上げるために、地球の空気を汚す。
利益確保のために、諸未帰還過ぎたモノを偽装する。

こうしたことは、これは他者の協力も、自然の流れにも
即していませんから、一時的な益出し出来たように見えるが
ある期間経たら、間違いなく破綻する。
これは、まさに地球が未だ健全な証、自然の成り行きと考えています。

地球は、この俺より大きい。遙かに賢い

人にも虫にも、ムシがいい話

2009年10月20日 | Weblog
意思決定を大きく分けると2つの選択があります。
これを「良くなれ」、と「悪くなれ」と置きます。

世の中が変化するのは、永い流れでみれば、
必ず良い方向へと私が言う根拠なのです。

人はもちろん、世の中の生き物で、悪い状態を望み、
悪くなるような意思決定をするものは希有だと考えるからです。

この考えには2つの問題があります。
1つは、ああたはそうかもしれんが、
他の人がどうかはわからないじゃん。
ましてや虫やミミズなどにアンケートもヒヤリングも
やったこともあらしませんやろ?

こう言われたらぎゃふんである。「その通り」である。

もう一つは、これ良しの判断は、人によっても違いますやんか。
ましてや猫とネズミでは利害関係が反するし・・・。

これもその通り、と言わざるを得ない。


だから、ここは全体的にいえることは、とか総じて、とぼかし
さらに私の独断と偏見でさしたる根拠がないことだが、
とお断りして次を続けたい。

地球上のあらゆる生物が、幸せや良かれ、と判断したその総和を
地球の判断としたら、地球は良い方向へ本来は向かっている、
というのが私の考えなのである。

総論としては、皆平和を求めていてなぜ各論では戦争が起きるのか。
映画でよく聞く台詞に、
「平和を勝ち取るための戦いだ!」といったのがある。
「神の名において、聖戦だ」というのもある。

マフィアの男が、自分の子供に「嘘をついたら神様が怒るぞ」
とか、「おお、神はあんな極悪人をお見過ごしになるのか」と、
いったのもあって、私は頭が混乱してしまうだ。

つまりは、こうだ。
自分を良し、自分を善、自分を正義、と無意識に前提に置き、
自己欲求充足のために意思決定をしている。これだ。


これを脳力開発の両面思考により、強い表現にしたらわかりやすい。
「平和を勝ち取る」ということは、
    「そのためにはあんたらの平和など、どうでもええやん」になる
 
「私は断固正しい」ということは、
    「あんたら、まちごうてはるわ」になる。

「おお、神はあんな極悪人をお見過ごしになるのか」ということは、
     自分に不都合なことをなすのが、極悪人。
     人殺しでも自分のためにやってくれれば正義の味方」。



それでも日常語

2009年10月18日 | Weblog
経営はごく身近なものです。
身近なことは、身近な言葉で語ればいい。
それが私の考えです。

もちろん奥深く、専門的な分野を、
それも他の人が目に留めないような
新しいテーマを研究することで学問としての
経営学が進歩発展していく。

このことは、大いに意義があり、絶対不可欠です。
そのことは十分わかっていて、あえて言いたいのです。

それでも分からない話を難しく話す必要はないと。
またわかっている話をことさら難しく話す必要もないと。
相手にわかるように話をすることは話し手として当然なことだと。

伝えたいことあって話するのです。
話をする目的は、こちらの意思、考えを伝える話し手にもある。
本は相手に買ってもらい、読んでもらうためにある
そのために書き、出版している。

教えるということもそう。
相手が知らない、わかっていない、ということで成り立つ。
導くということも然り。

にも関わらず、です。
そうしたことをわかっているはずなのに、
わからない話をして、他の人がわからないといった表示を見せると、
「どうして俺のいうことがわからないのか」といった不快感を示す。

繰り返しますが、わからせるのが一義的には伝える側にある。
わからせない。わからないでは結果的には話さないことと同じ。
聴講に来た人は来なかったのと同じ。
双方、時間の無駄ということになります。

聴講するために集まった大勢の人が、
今話していることが伝わっているかどうか。
これを大づかみに掴み、話し方、内容などを微調整する。
これをやる人が、自分の話す内容を真にわかっている人だと、私は思う。
「やれる」人ではなく、「やる」人、と書きました。
技法ではなく伝えたい意図、情熱を持っている人だと言う意味です。


話す側の話で終わると、公平さを欠きます。
以下、聞く側、聴講側についても一言、三言。

わからない話をわかったつもり、というか
「わかったふり」をするというでは、見えないモノを見えるといった、
あの裸の王様の話と同じではなりませんか。
わからなければ、もっとわかるように、と問い直せばいい。
講師は、金をもらってそれで生業を立てているのですから
それで、いやがる人は本来はいないはず。

「先生」」と呼ばなければ不快な表情を見せるような
講師を甘やかしてはなりません。

一方、しなくて良い質問のための質問、儀礼的な質問、
自分を物知りだと目立たさせる意図で質問をする、
もっといえば、講師を困らせてやろうといった意図の人など、
いわゆる講師泣かせの受講者もいます。

それでも、私は伝える側が、伝えていく。
この姿勢だけは通すことが、根本だと考えています。
だからこそ私自身、高い位置、高い立場、
上から見下ろす姿勢を取る人多い学会、場は敬遠したいのです。
話は聞かないし本も買わないように心がけています。

それは、そうした人への批判ということより、
どうも居心地が良くない。おもしろくない。

それは、すぐ天狗になりやすく、
また出来が悪く、反応の鈍い講演をしたことを、
他のせいにしがちな私自身への戒めの為でもあります。

プロですから他のせいにしたくない。

その誇りだけは失いたくないのです。。


わからないこと書く人がわからない

2009年10月16日 | Weblog
今は、驚かないが、最初は驚いた。いや悲観した。
論文が、ほとんど読めない。わからないのだ。
「ショック」。  

経営に関する学会だから、テーマは経営に関係している。
日本の学会だから、それらは日本語で書かれている。
私は日本人であり、日本語は達者である。
経営の仕事を30年やっているから
一応そこそこ経営は、分かっているつもりだ。

それが正直言ってほとんど、理解できないのである。
自分の力はこの程度のものか、というのが、
上に書いた「ショック」の意味である。
学会ってこんなにもレベルが高いのかと驚きもした。


とりあえず、横文字、専門用語の羅列されたものを、
辞書を引き引き、解読してみた。
語句の意味は分かったが、文章がつながらない。文意が不明。
要は、何を書いてあるのか。言いたいのかが分からないのです。

それで1に難しい学会、2にえらそうに振る舞う学者が多いところ、
といった2つの基準でもって、順次退会してた。

最終的に、1つぐらいはということで、実践経営学会が残りました。
消去法で1つ残したのですが、退会したくないという積極的な理由もあります。
それは、こういうことがあったからです。す。

この学会の全国大会で、午前の部を終え、昼時。
私にとってはちんぷんかんぷんな論文発表者(スピーカー)にも、
丁寧に、暖かい、思いやりのこもったコメントを述べることで
定評あるX先生と、たまたまテーブルが一緒になりました。

「発表は、何とか日本語になっている。でも論文はまったく言語不明」。
「なんであんなわけのわかんない論文を書くのだろう」。

「学者は学者馬鹿で、体裁もあるから分かった顔をしていますが、
田上さんは、あれ、お読みになれます?」


なーんだみんな、デンマークの童話作家アンデルセンの
あの「裸の王様」の取り巻きと同じなんだ。

これで、この学会残留することになりました。

また、これが縁で、論文審査審査の役回りを承ることになった。
X先生のおかげで、裸の王様の周囲の人たちの中の一人から脱し得た
今の私は劣等感にも辞書引き引きに悩むこともなくこの役をやっている。

もちろん今でも訳わからない論文が大半。
いや年ごとに訳わからない論文は増えている。
とりわけ杞憂していることだが大学院生、若い人ほど文章の体を成していない。
でも同じ大学院生でも留学生、それも東南アジア各国の
学生の文章は実に美しい日本の文章で、美しくわかりやすい。
ですから若い人、というくくり付けは的確ではないのでしょうが。

わからない話は、聞いてもわからないから馬耳東風する
わからないのは自分のせいではない。相手がわかってないんだ。
だから、ことさら難解な論文は、そう判断した時点で外す。

不遜だが、不遜で良い。不遜は自分の中に留め置き
他人に言わなければいい。

次にこの基準を、生き方に置き換えてみる。
おもしろくない話は避ける。
難しい本や話は、読まない。聞かない。
読者に読んでもらわなければならない業の人が、
読めないような難解な文章を書くこと自体、おかしい。
それは映らないテレビを売るのと同じことなんだ。

そう割り切って、心と時間に実にゆとりが出てきた。
楽しい。リンダみたいに「困っちゃうなー」と言うことも少なくなった。

大木先生の話を聴き、さらにそれは心の中で進化した。

「わかっている人がわかりやすい話をできる」。
これを裏返す。
「難しい話をする人は、自分でもわかっていない」。

水が土で決まるように、そうした先生に教わる学生と
そうではない学生は、これからの生き方の土壌が随分と
異なるのだろうな、と、臨席の学生達が羨ましくなった。


わからないことがわからない理由

2009年10月12日 | Weblog
鹿児島大学の社会人向けの公開ゼミを聴講する機会があった。

私は、もう相当以前から、自分の仕事、専門である経営に関しては、
専門書を読むことはまずない。
同様、こうしたゼミも、経営以外のテーマしか関心がない。

だから、本にしろ、講演にしろ、経営以外が関心だ。
経営以外の世界は広い。だから、関心事がやたらに増え、
結果的に、感心することや寒心することも増える。


「水の話」、

これが今回聴講した大木公彦教授のテーマである。

実におもしろかった。
様々な観点から、得るものが大きかった。
そういう意味では、久々知的快感に浸ることができ、興奮した。
もう15日も前の話だが、まだ余韻を楽しんでいる。

その興奮、いろいろあるが、以下2つだけ、記する。

先生は、地質学の権威である。
学生をのぞく社会人聴講生のほとんどは、今、流行の「水」への
関心で聴きに来ている。私もそうだ。
だからこそ、テーマも「水の話」
だが大木教授は、1.5時間の話で水に触れたのは、一言。2-3秒。

後は、土壌の話なのだ。
看板に偽りありか。いや、そうではない。
これぐらい水のことがよくわかる話を、
これまで聴いたことはないという思いが、
私だけではない聴講生の思いなのだ。
(後の懇親会の各人の感想)

これは、話術といったことより、ものの本質、
すなわちこの場合、土を語れば、
水の99を知ることが出来るということだ。

私達にはなじみがなく、難しく思える土の話を、
「水」との関わりで捉えて話をすると、土の話が水の如く(如水)、
頭に入ってくる。土がわかれば、水のことは、みずからわかる。
これではないか。と聞きながら私は、驚嘆した。

端的に言えば、人100人ー女1人=99人男性。
99語らず、1を知ればわかること。


それに、大木先生。この人は土が好きで好きでたまらない。
それこそ土の話をするのに、嬉しくて、よだれを流している感じ。
表情といい、話しぶりといい。黒板の殴り書きの文字といい。
みなそれを物語っている。

「こりゃ、この先生、子や孫より、土が好きなんだ」
という気持ちが、聞く者に伝わってきて、つられて
聞いている私まで、俄土壌好きになる。


私も今は1つに絞ったが、以前はいくつかの経営学会に所属していた。
また生意気ながら実践経営学会では理事として、
学生や社会人の経営に関する論文のレフリー(審査)をやっている。

今は、驚かないが、最初は驚いた。いや悲観した。
論文が、ほとんど読めない。わからないのだ。
「ショック」。   以下、次号で

爺婆から学ぶ商いの本質

2009年10月10日 | Weblog
山田さんが作って、木下さんという八百屋さんが売ったニンジンを、
私が食べて胃に入れたとして、胃は、山田製造、木下販売、
と区分しているいるわけじゃない。

中に取り込まれれば、これまでの所有権、主語、ラベルなど抜け、
だれの喜びでも、私の脳で、自分の喜びとして感じることができる。
そこでは、他人の喜び、私の喜びみの区分はない。


自分の喜び自体が少なくても、他の人の喜びを仕入れることで、
脳にを喜びでいっぱいに出来ることを意味する。
情けは人の為ならず、というが、喜びもまた然り、ということだ。

自分の手持ち喜びの在庫+他から喜びを仕入れ
ーそれを他者に売る=期末手持ち喜び在庫

以上の式の繰り返しが人生であり、右辺の「期末手持ち喜び在庫」が
マイナスであれば、嘆きの人生、プラスであれば喜びの人生となる。

どちらの人生を選ぶかは各人の選択だが
自分の悲喜こもごもの材料がないとしても、
他者と五感の共有を通じて、それを自分の脳へ
取り入れることが出来るということになる。

以下、喜びを例に採るが、悲しみを選択したい方は、
悲しみに置き換えていただきたい。


他人にも喜びがない、としたらどうする。
方法は大きく2つある。

一つは、近くにいなかったらマーケットを拡げて、
県内全域に拡げる。それでも足りまかったら日本中といった戦略。

もう一つは、こちらで他の人を喜ばせてあげる戦略だ。
相手を喜ばせて、それを一緒に喜ぶ。
爺婆ちゃんは、孫を喜ばせて、これが私の生き甲斐といって喜んでいる。
寝ても覚めても、孫の喜ぶ顔を見たさに、命を延ばしている。

この手を使うのである。爺婆から、経営者は学ぶべきだ。
自分の孫の喜ぶことを考えている爺婆の自分に戻ることだ。


これを式に表すと、次のようになる。

自分の手持ち在庫0+他人の喜び仕入れ(他人の喜び0+他人の喜び創造)
-期中喜びの消費= 期末手持ち喜び在庫

つまり、自分の手持ち喜びの在庫がなくても、他人を喜ばせ、
それを一緒に喜ぶことで、期末手持ち喜び在庫をプラスにもっていく。


作り手と売り手が、これを取引先、消費者にやったらどうなるか。
日本中の企業が、これをやったらどうなるか。

日本の人口と消費者の数はほぼ一致する。
だから、これを、日本の企業が全部やったとしたらどうなるか。

日本全体としての喜び在庫がものすごく多くなるのだ。
喜びの島、日本、ということだ。


これは、どういうことを意味しているか。
商いはすばらしいものだ、経営はすばらしいものだ
ということになる。それが理解できるはずだ。

商い、経営はの本質はここにある。
人を喜ばすことにある。
人を喜ばすことで、自分も喜べ、さらに生業が立つ。
時には蔵や豪邸すら建つ。

だからもう一度記する。「喜ばすは人の為に非ず」。

これを冷たい方から言えば、
消費者を喜ばせるという本質を理解せず、
自分の喜びだけの仕入れに勤しむ企業が倒産することになる。

人、消費者のニーズは自分が喜ぶことにあり
、企業を喜ばせるにないから、こうした企業では、
たちまち右辺の手持ち喜び在庫がマイナスになるから当然である。

この点がつかめていない企業再生、経営革新は断言して良い。
再生も革新も、存続すら一過性。続かない。

商いの公式

2009年10月09日 | Weblog
ここに空の瓶がある。

それにコーラを入れたらコーラの瓶。コーラが飲める。
その空の瓶に牛乳を入れたら牛乳瓶。牛乳が飲める。
 
  ここに空の脳がある。
「喜ばしいこと」を入れたら、喜びの脳。
喜びを感じる。嬉しい。嬉しい、と喜ぶことになる。
「悲しいこと」を入れたら、悲しい脳。
悲しいのう、悲しいのう、と悲しむことになる。

 
1に、瓶にコーラを入れて、牛乳を飲むことは出来ない
喜ばしいことを入れて、悲しむことはむつかしい。

2に、コーラーを入れるのも、牛乳を入れるのも
喜びを入れるのも、悲しみを入れるのも、
自分の選択であって、他者の選択ではない、ということ。

もちろん脅迫とか洗脳とかがあるのので、絶対ではないが
通常は、自分の選択である。


自分の選択である、ということは下の例えが掴みやすいかも。
映画がこの世に悲劇と喜劇しかないとする。
悲劇を見たい人が、悲劇を見に行く。まずこの反対はない。
喜劇を見たい人が、喜劇を見に行く。まずこの反対はない。

喜劇を見に行って、なぜ悲劇ではないのだ、と不思議がる人もいまい。
非劇を見に行って、なぜ喜劇劇ではないのだ、と不思議がる人もいまい。


3に、選択するネタがない場合はどうするかということである。
私は、喜びたい。しかし自分には喜ぶネタ(こと)がない。
こうした場合はどうするか、ということである。

買いたいものを手にして、支払おうと思ったら財布は空っぽ。
こうした場合のことだ。
はたっと困った。私自身には手持ちの「喜び」の在庫がない。
こうした場合、どうするか、ということだ。

ないのなら、方法は2つしかない。
お金の場合は、あきらめるか、借りるか。

喜びや悲しみの場合は、自分以外の人のをいただけばいい。
現に喜び合い、もらい泣き、といった言葉がある。
つまり、普段、日常の中でやっていることだ。

楽天が勝ったら実入りが増えるのは、楽天の関係者。
いくら楽天家でも応援した客に実入りがあるとは思っていまい。
だが金を払ってまで応援し、一喜一憂している。

それは球団のためか。違う。みな自分のためである。
自分のために喜びや悲しみなどを仕入れているのである。

仕入れればいいのである。
野球や映画みたいに、仕入れが有料の場合も多いが、
それらもTVで見れば無料。
お隣の爺様の快気祝いを、一緒に喜んで
振る舞い酒で楽しむといった手もある。

世界人口-1の人たちが1つずつ喜ぶ材料を
持っているとしても凄い数になる。
1分に1回、消費するとしてもその喜びの在庫は底をつかない。

ここで、商い不可欠の算式、
(手持ち)在庫+期中仕入れー期中売上げ=期末在庫
で、嘆きの人生、喜びの人生、孤立の人生をみてみたい。

なお、「悲しみ」で、分けてみたい方は、
「喜び」の部分を「悲しみ」に入れ替えて、検証してみて欲しい。

自分の喜び在庫+他人の喜び仕入れー期中喜び消費額=期末喜び在庫

Aさんの場合
自分の喜び在庫0+他人の喜び仕入れ0ー期中喜び消費額112
=-112→嘆きの人生

Bさんの場合
自分の喜び在庫0+他人の喜び仕入れ196ー期中喜び消費額112
=期末喜び在庫84→喜びの人生

Cさんの場合
自分の喜び在庫112+他人の喜び仕入れ0ー期中喜び消費額112
=期末喜び在庫0→孤立の人生

A、B、C,私達は自分で選択が出来る良い世の中にいる。
選択は自由。選択の結果は、自分の利、不利。


「私にはちっとも良いことない」といったBさんこそ商人向き。

畢竟、他人のふんどし、
否、他人の喜びのお裾分けで喜べ、喜ばせることで
生業が立つ。これが、商人ぞ、と私は思う。