経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

行列する人、見る人、仕組む人

2010年05月29日 | Weblog
アップルのiPadが2010年5月28日に発売。
東京・渋谷区のソフトバンク表参道には発売直前に約250人、
銀座のアップルストアには約1200人の行列ができた。
午前8時の販売開始と同時に、多くの人々が店内になだれ込んだ。


昨日から今朝にかけてのメディアはこぞってこうした情景を伝えている。

人は何で並ぶのだろう
メディアは頼まれもしないのになんで、かってに報道するのだろう。

端的に露骨に言えば、それが自分が得をする、良い思いをするからである。



何でこんなチラシで行列が・・・・・・・。
同じ理由である。

今朝は、やや冷たかったので、少し大袈裟だが、暖まりたいと思う。
方法には、大きく2つある。
1に、自分が暖かくを目指す方法。
2に、周囲を暖かすることで、自分が暖かくなる
風呂の水を暖かくすることで、自分が暖かくなるの類である。

自分は一人、他者は自分以外の圧倒的多数。
一人でことを為すか、大勢の人にやってもらうか
どちらが楽か‥効果的か。コストが少なくてすむか。
自明の理である。

こうした考え方を、置き換えた方法である。
それが私のいいたい売れて儲かるシクミづくりの本意である。

高橋さんの、このチラシに掲載してほしくて、
さまざまなお店や事業所の人が積雪2メートル、氷点下の寒空の下に
朝5時から洗濯物を持って行列する。

なぜか。
チラシには掲載する数に限界があるからだ。

脅したわけでもない、頼んだことでもない。
にもかかわらず、なんでこんな苦労してまで並ぶのか

アップルのiPadの発売。前日から並んでいた人もいた。
香港や青森から来ていた人もいた。

なんで、なんでや。

洗濯を持ってきた業者には、このチラシで
自分の事業所をPRしてもらえるからである。
で、このチラシに掲載されると、
自分のお店の売上げが上がるからである。

その結果、このクリーニング店は、
業界全体が低迷しているに関わらず大繁盛している。

このようにお客が得することをやれば、お客がお客を呼ぶことで
結果的には自分が得する結果を得る。

放っておいてこんな幸運が舞い込むのではない。
偶然でも、ツキでも、幸運の女神に見込まれたのでもない。
そして大して努力をしたわけでもない。
消費者が喜ぶことを考え、楽しみながらあれこれ試行錯誤した。

努力が悪いのではない。しかし自分が得をすることをやれば、周囲がやっかむ。
お客に関係のないことで努力しても無駄。

その分の手間暇とコストを、このチラシに置き換えただけ。

行列する人より、ましてやそれをTV等で見ている人より

並ばせたシクミを作る側に回るほうが、はるかに得するのである。

リーダーと姿勢

2010年05月27日 | Weblog
最近、景気の落ち込みをはじめ暗い話ばかりである。


組織のリーダーが率先して暗い話をするといった感がする。
それも経営者たちが、である。

昼は明るい。夜は暗い。
夜勤帰りかなんかで、昼に寝たいときはどうするか。
アイマスクとかカーテンで暗くするだろう。これが対策。

いつまでも昼が続くことはない。夜になったらどうするか。
大昔は早めに寝る。その内たき火、やがて行灯、ローソク、
今は電灯で明るくする。これが対策。
問題があって、対応、対策を講じる過程で、
文明は進歩発展しているのだ。

それを暗いときに暗い話、黒い黒板に黒のチョークで、
どうするの。それはないだろう、と言いたい。

明るいか暗いは認識である。
暗いのに、明るいと認識する人はまずいまい。
暗いという認識は、みな同じはず。

とすればとりわけリーダーならば大切なことは
1に、暗いという状況をどう活用するかということである。
2に、暗いがいやだったら、明るくするよう手を打つ

どちらかである。


それをなんであえて暗い話か。
みんなの気持ちが暗いときに暗い話をするか。
それがリーダーの対応か、と言いたいのである。


景気低迷期、こういった状況下で求められるのは、
明るいリーダーであるといった言い方をする。
正しい。正しいが、誤解を生む。

上に少し触れたが、暗いのに明るいと認識することではない。
明るいのに暗いと誤解することでもない。
明暗を的確に認識し、経営で言えば
暗ければ何が消費者にとって必要になるか。
明るければ消費者はどうしたものを好か。
そうしたことで戦略を再構築することである。


明るいのを暗くする,暗いのを明るくすることは
自分の組織内では可能だろうが、

世界中や日本中の景気、不景気を,
動かすことは、いかなるリーダーも一人では難しい。

これは各国の政治家なりにやってもらう。
そのために国民は税金から彼らの報酬を払っているのである。

もちろん主権者としてよく頑張る政治家を選び、
悪さをしないように見張る、といったことは必要だろう。

が、一応任せて自らは自分の組織を、
進歩発展させることに邁進する

これが、リーダーの基本姿勢と考える。


詐欺師が詐欺の名刺を出さない理由

2010年05月25日 | Weblog
新党を立ち上げた政治家達が、

「このままではこの国はダメになる」といっている。



自民にいて30年も政治していた人たちが、

自分たちが飛び出したら、自民やこの国がよくなる。

と立ち上がった、という皮肉な見方ができる論理でもある。

俺は立ち上がったが、国民は皆、座ったままだいう前提のコピーでもある。



いきなり立てと、頭ごなしに言われても困る、という思いもある。



危機感をあおり、自分たちの意に引きつけるありかたは、

大袈裟にいえば情報による人心操作。



これは、「お布施をしないと、先祖がたたる」

「私の言うことを信じないと、ポアされるぞ」

「君たちは、天国へは行けない」

といった輩と手法的には同じということ。



ともあれ、このことで20世紀末のことを思い出し、

情報の両面性といったことをブログに長々と書いている。



世紀末

「20世紀末に地球は滅びる!」とか

「21世紀はやって来ない」といった類の

本を出したり、講演したりしている人がいた。



どうなったか。そのとおりになったか。



多くの人は実害なかったから、と思っていようが

そうやった輩は、国民を恐怖や不安に陥れることによって

印税や講演料で利益を得ている。

つまり利を得るための一種の詭弁、強く言えば情報操作であって、

国民や国のことを心配しているのではないのである。



そうした輩、彼らの一方的な情報にのった多くの人が

金を払ったおかげで、彼らがぬくぬくできているということだ。

国のため、といい、それで自分たちがぬくぬく、という人たちが

大勢いる永田町が、名前を変えて全国あちこちに存在している。



このように情報は、その情報を流す人の意図や恣意性がまず、あると見てよい。、

そこまでいかずとも、情報は提供する人の立場から発せられる、

ということを、情報を受ける方は承知しておくことが肝要だ。

表を見せられたら、自分埜石で裏を見る。

こうしたことが情報の読み取りには不可欠だ。

それが情報の時代だといいたい。



毎度同じ例で恐縮だが、Aという商品を売りたい人は、

その商品の良い点は情報として積極的に流すであろうが、

不利な点、短所は伏せるであろう。



金を借りにきた人は「必ず期日まで返す」というに決まっている。

返済しませんよ、とはいわない。



言わないから嘘つきだ、とだまされてから文句を言っても、

彼らはだますことで利を得る商売だから、

詐欺師が本当を言ったら生活できませんよ、と叱られるのがオチだ。



詐欺師は、詐欺師という名刺を持っていない。ださない。

だから詐欺師ではないとは言えまい。

政治家は政治家という名刺を持っている。

だからといって政治家と書いてある名刺を差し出す人を

政治家と信じてはダメだ、ということだ。



この私でも政治家の名刺は作れるのだから。

自分でその是非を判断しなければならないのである。



情報と手と足と口でもって確認する

これを1パッケージにして情報時代、というのである。



BBS,ブログ、つぶやき、そうしたものはツール。

情報ツールの氾濫や進歩に惑わされ、

情報そのものの受取り方を誤っては主客転倒。

情報を出す方は自分の利、立場で言うのは当然と見て、

受取る方は、その受取り方で自分の利にもなるし、不利にもなる。

このことをしかと覚悟しておく。



そして、「その情報、聞き流し。なかったことに」

といったように完全無視することも、

情報の取り方として

重要かな、と思っている。これ、蛇足。



新陳代謝

2010年05月23日 | Weblog
「うまくいったか」、「いかなかったか」。「いいか」、「悪いか」
だったら大まかなりとも、判断は容易かのように思えるはずだ。
これ、昨日ふれた。

ところがたいていの人は経験しているはずだが、
理屈では意思決定は択一。だが現実は複雑系の応用問題がほとんどである。

昨日は男性の例、イケメンで例えたから、今日は女性。
それもで極端例で見てみたい。

自分の子供の結婚で、2人の候補者がいる。
「美人ギャル+サラ金地獄付」対「年増それなりさん+高額持参金付」

子供、当人の意思決定ならまだ難易度「中」程度。
しかし親族一堂で決めるとなるとどうか。
そこでは、価値観の違いによる決定ではなく、
いわゆる長老、声の大きい人によって決められる、
といったことになるのでは、と考える。

言いたいことはこれだ。
これは、イコール企業の意思決定、とりわけ小田原評定的「会議」
そのまんま、ということ。
 


自分の信念や考えにとらわれないで人の話を聞ける人には、
いくらでも情報が入ってくる。いくらでも入ってくるから
それを時間軸で締め切り、沢山あつまったものを
冷厳に分析し、組合せ、そして沢山集めたのを
足して割って意思決定するのではなく、

自分の判断で、意思決定する。

昨日触れたが、ここで沢山の中からと、
2つ、3つの中からとでは、質が異なる。
だから聞く耳がない人の意思決定は、質が落ちる。

持てるものを捨てる。、
お店でやっている単品管理では、
手元にない商品を仕入れて、在庫豊富なものは仕入れない。

ところがふしぎなことだが、
人は同意見には聞く耳を持ち、異見を排斥する。
それでは沢山の異見、サンプルが集まるわけはない。

自分が持っていない物を仕入れるのと同様、違う意見だからこそ聞く、
分別せずいろんな情報を仕入れ、
自分の脳でいろいろ組合せて仮説を立て、
それにしたがって試行錯誤、あれこれ行動する。
行動することで、うまくいくか、いかないかが体感できる。
楽しいか楽しくないかが体感できる。 


繰り返し「捨てること、捨てよ、捨てよ」と強調した。
捨てれば身が軽くなり、回転が良くなる。
回転が良くなれば資金の流れも商品の流れも血液の流れも良くなり,
身も事業も健康体。これが回転率、と書いた。

最後に、聴く、集める、たくさん集める、と書いた。

これらを横に並べれば矛盾するが、
時間軸で見ると新陳代謝となることがわかる。

畢竟、新陳代謝。


出せば入る

2010年05月20日 | Weblog
え間のない革新には、絶え間のない対応が不可欠である。
変化のたびに、対応をセットアップ。
しかし脳は一つ、手は2本しかない。
当然、キャパシティの問題もある。

だから今まで持っていたものを捨てるということが必要になる。

私の事務所は、畳にして18畳程度。
そこに机、本箱とがぎちぎちに並べられている。

その本箱がいっぱいだとしたら、
その中の本や資料を捨るか、部屋を拡げ本箱を買い足す以外にない。
部屋の場合なら、資金的余裕さえあれば書庫の増設、賃借。
または事務所の拡張・・・・、
方法(ツール)だからいくらでもあろう。

だが自分の脳ということになると、そうはいかない。
手足も然り。自分の脳や手足を増やす訳にはいかない。

だから猫の手も犬の足も借りようということで組織が生まれることになる


脳の場合。
新しい思考、新しい技術、新しいノウハウを入れるには、
今持っているものを脳の外に放り出さないと、
私の大きな頭の、小さな脳はすぐ満タンになり新しいことが入らない。
短い手足が、それぞれ2本ずつあるが、手から離さないと手に余るし、
お足も足りなくなる。

諸行無常、変化は常にある。
だから常に捨てる作業をし続けなければならない。
これが新陳代謝。身体の場合は生きていく限りこれが不可欠だ。


経営では、経営革新。経営が継続されるためには不可欠だ。

心の場合も生きている限り然り。

以前ここに師から聴いた話として、
中国に情報遮断し脳を腐らせる極刑がある、といったことを書いた。
呼吸は、吸うだけを続けていると死ぬ。はき続けていても死ぬ。

情報もおなじことではないか、と思う。
入れるだけでは死ぬ。

かどうかは、まだ試していないから確証はないが
やはり、出すことが鮮度の高い情報が入ってくるには不可欠と、私は思う。

だがなぜか、人は情報は入れたがり、出したがらない。

昔、異業種交流会というのが、当時の通産省の背押しで全国に組織された。
私もその指導講師(カタライザー)をさせていただいて、びっくりした。

皆挨拶で、自社のPRと自分への情報提供の要請、依頼ばかり。
入れる、下さい、欲しい、協力下さいを欲し、

出す、上げます、お役に立てるならといったこと無し。

それで会場は、たちまち酸欠状態になってしまった。
次の定例会も、次に定例会もその姿勢は変わらない。

それで息苦しくなり、3月ぐらいで私はカタライザーやめ自前の会を作った。

その会の名は「千脳会」。
12人のメンバーが、1人100ずつ、情報を出し合えば、
自分の出した100を引いても、各人概ね千の脳を得たと同じ。
これが千脳会のネーミングの由来だ。


要は出す、それ他者が喜ぶ情報をドンドン出す。これに撤する会だ。
これが今も一部で続いているタノウエ脳力経営塾の前身。
名前を変えたのは、オームが話題になり、「洗脳」する会ではないかと
会員が冷やかされたからだ。

横道から戻す。
閉じ込められた情報は腐る。独り占めの情報を外に出せば、
外には大勢の人がいるからそれぞれが活かす。
活かす人が10人いれば、その活かされた人10人が
活かしたを押し上げる、こういう図式。
こういうことだ。

変える、変えない。

2010年05月18日 | Weblog
変える、変えないといったの背景には
信念がある。変えない信念、変えるという信念。

信念に基づき戦略がある。戦略は生きるか、死ぬか、
どちらを選ぶかといったように択一。
1に、両者共有は存在しない概念。2に、ころころ変えてはならない概念。

戦略に則して戦術がある。
タクシーという戦術は存在するが、行き先、目的無しに乗車した如し。
戦略がなくて戦術は存在したとしてもそれこそ無駄なこと。

戦略具現のためには、戦術はコロコロ変える。あれこれ組み合わせる。
当然、とっさの判断もある。
とっさにの判断で変えなければならないこともある。」

突然雨が降れば、中には風邪を引きたいとか、
ぬれたほうが都合が良いという戦略を持っている人もいるだろうが、
たいていの人は快適空間の保持を心している
(=生きるという戦略)からぬれないように様々な対応を講じる。


諸行無常、すべからく変化する。
変化するものに対し、人が合わしていくことが生きることの本質である。
このことはこれまでも、これからも変わらないが、
変化のめぐるましさという点が、大いに異なるのである。

後に触れるが、情報量の増加は、変化がめぐるましくなるということと
同義語であることを、多くの人は気づいていない。
 
絶え間のない革新には、絶え間のない対応が不可欠である。
しかし手は2本しかない。
だから今まで持っていたものを捨て、
新しい思考、新しい技術、新しいノウハウを身につけるには、
今持っているものを手から離さないと手に余ることになり、
新しいものは手にできない。

個々であえて念押ししておきたいが、一貫してそれは「戦略に基づいて」
のことである。


ところがコロコロ手に持つモノ、戦術を変えているうちに、戦術が目的化し
戦略がスコトーマ化してしまうことである。
これが実に多い。

新しい経営手法を次々取り入れて、それに熱心になりすぎ
肝腎な経営をおかしくした人はけして少なくない。
こうした人は、別の言い方をすれば
戦略具現のために、これまでを捨て、より最適な手法を得るということを
忘れ、捨てることに酔ったか、戦術あさりにおぼれて経営への関心を失ったか
現実からの心理的逃避か、といったことであろう。

捨てる人

2010年05月15日 | Weblog
小魚を丸ごと、といった言い方がある。
これは丸ごとが主で、鯨みたいな巨大なものを丸ごとでは
どんなに大きな口の持ち主でも人には手に負えないから、
小魚といっているにすぎない。
だから「丸ごと」が重要な意味を持つ。


人生、悲喜こもごもで、どんな人も喜びだけの人生を選択したら、
そうしたものは存在していないから、一日も生きていけない。

10円玉、一万年札、表だけ使うということはできない。
表あれば裏あり。陰ありて陽あり。鍵ありて鍵穴あり。

双方揃ってこそ活かせるのだ。

繁栄のために、まるごと人を活かし、まること物を活かし、
大きな自然・環境を背に付けて活かす、
これが当たり前の考え方なのだ。

毎年のことだが、この時期になると
夥しい資料やスクラップ、本などを捨てる

この作業は1、2週間では終わらない。
捨てるとは、残す物と捨てることの分別、選択の作業はけっこう時間がかかる。
資料やスクラップが、単に物理的な意味での「もの」であれば、
そう難しいことではなかろう。
また先入れ先出し法に従えば、楽だろう。

しかし資料やスクラップには、情感がついている。
目にし、手にしたとたんまるで長帯みたいに、
それらがずるずる出てきて頭の中で
ぞろぞろと動き出す。どこで切って良いかわからない。

極端な場合、1枚の紙にまとわりつくこれらの長帯を断ち切るのに
ほぼ1日様子と言うことだってあるのだ。

捨てきれない。
これが悩み、煩悩だ、といってもこれだけは言えるのだ。

捨てなければ選べない。得られない。

牛乳が入っているコップが、目の前にある。
これは賞味期間が過ぎているのかどうか。まだ飲めるかどうか。
外見だけでは判断できない。悩んでも結論はでない。
悩みとは、結論を出すまでの時間を含めてコストと考える。
それで出る答えは2つのうちのいずれかだ。

 ア まだ活(い)ける。
 ロ、捨てにゃあかん。

確率は五分と五分。

ならば捨てよう。
捨てて新しい牛乳、いや今飲みたい林檎ジュースを入れよう。
こうした心の動きが、選択のプロセスに存在する。
これは、かっての私の心の動きをビデオ再現したもの。


以下、成功し続けている経営者から学んだこと。
凄いとおもった。
せっかく手にしたノウハウを惜しげ間なく
(脳の中はわからないが外こら見て)彼らは捨てていることに。


どんよく

2010年05月12日 | Weblog
これまで、私は仕事を通じて数多くの経営者と出会った。

その彼らを分けると、2通りである。
経営者には、次の2通りあるということだ。

いわゆる成功者とそうでない経営者である。

「こうすれば成功するんだ」
「でも将来(さき)はどうだろう?」

「ああ、だからうまくいかなかったんだ」
「でもこうすればうまくいくかも」

こうした自問自答を内心で自問自答して
不完全なままにしろ自分なりの仮説を出し、それをルール化。
こうした作業を通じて、両者から沢山の大きな教えと学びを得た。

端的に言えば、
前者から学んだことは成功する思考形態、
後者からは、こうしたらうまくいかない思考形態である。

まず前者について。
それは一言で言えば,彼らに共通しているのは
世間で言われるプラス発想ではないということである。
彼らは,確かに旺盛にプラス体験から「こうしたら成功する」
といったノウハウを蓄積している。

後者。
しかし一方、貪欲にマイナス(失敗)からも、
「ああ、こうしたら失敗するのだな」
といったことで、ノウハウを蓄積しているのである。

それだけではない。
1に、自社の失敗だけではなく、他者、他社の失敗まで他山の石とせず、
自社に取り込んで革新のきっかけにしていること。
2にさらにそうして蓄積されたプラスのノウハウとマイナスの
それとを組み合わせて、全く新しいノウハウを創成している。

別の表現をとれば、成功にどん欲、敏感。、失敗にもどん欲、敏感。
「山高ければ谷深し」、この当たり前をよく知り、活かそうとしている。

ちなみにプラス{雄}TO(と)マイナス(雌)、
陰と陽ををかけ合わせることこそ繁栄の原理なのである。
子孫繁栄も事業繁栄も、同じ原理が働いている。当然だ。

この当然のことを当然と思わず、「陽転思考」と
見えた片面、いいとこ取りを言うことこそ、異様・異常なこと.
随分以前からそうしたことを申し上げてきた。


このTOは、「対(タイ)」ではなく、「対(ツイ)」である。
このことは、拙著「羊のちんもく」で触れているところである。
ツイとはコウノトリの雄と雌、仲良しこよし、ラブラブの関係を意味する。

人対(タイ)人、人対(タイ)もの、人対(タイ)自然・環境
これを、人対(ツイ)人、人対(ツイ)もの、人対(ツイ)自然・環境
と読み替えて、活かしている。
つまり繁栄のために、まるごと人を活かし、まること物を活かし、
大きな自然・環境を背に付けて活かす、といった考え方なのだ。

負を活かす

2010年05月09日 | Weblog
成功体験を記憶しそれを維持することで、
今と将来の成功を確保できる、と思うことが
諸行無常という根本に逆らうことになる。

そのことで、いわゆる「人はこれまでの成功要因で失敗する」。
という歴史的教訓を生み、さらに歴史も今も、これからも
この繰り返しが続くと思われる。

このことは逆にこれまでの夥しい失敗から学ぶ人が
少ないことの証しでもあるということになる。

私たちは歴史からもまた、成功体験だけを取り出して
教訓としているようである。


私は、生来の「なんでやろ?」と気にする性格と、
物心ついてからの私の体験と記憶では、
プラス財産よりマイナス財産が多かったから、
本能的にマイナス財産を使わざるを得ないということもあった。

さらに自分の生業である経営革新の仕事と、趣味である歴史好きのお陰で
このことに気が付き、それを自分の仕事で出会う経営者を通じて検証してきた。

そして経営革新(だけではないが、ここでは一応限定しておく)においては、
こうした同じ過ちの繰り返しをやらないための思考としくみづくりを主眼に置く。

そのためにはどう手を打つか、
といったところから、これからの革新の第1歩を踏み出さねばならない
という自分なりの確証を得た。

それに負の資産をそのままに、その上に成功体験を積み重ねる
いわば上塗り型の成長では、成長するにつれ土台の負の資産が崩れる。
これはまず、私の汁範囲では確実と考える。

極端な事例だが、そうでなければ、あのダイエーが倒産し、
ダイエーの目の前のよろず屋が今も健在といった事例がある限り
「なんでやねん?」という私のもやもやは解消しないのである。


失敗事例を活かすアプローチとしては、
自分が創案したしたMMAPを使っている。

(これについては、ここをご覧頂きたい。無料で公開している)
http://jatsudon.in.coocan.jp/HTML/CCP012.html
別にMMAPでなくともKJ法で、なんでも良い。
要は道具などどうでも良いのだ。
負を活かす、といった考え方と実践してみる
ということで思考とシクミは構築されるのだから。

具体的なには、これまでの失敗事例を心の痛みを感じない形で、
できるだけ淡々と事務的に、ポストイットなどに1項目ずつ書き出し
すべて羅列する。羅列の順は時系列でいい。

そうした並べたモノを。、大きくは二つのアプローチで吟味する。
1に、個別ではなく全体的にそうした事項が発生した根本は何なのか。
2に、次に、個別的吟味、検証だ。

この作業ではポストイットを関連のある事項ごとに括り付けても良いが、
あまりこれにこだわりすぎると、

「結局、一言で言うと経営判断の幼稚性ということになるよね」とか、
「畢竟、当社はデフレ対応に乗り遅れた、ということだ」

といったどこでも一人はいる、したり顔の結論になり、
元の木阿弥になるので、この点注意したい。
このことは1でも言える。
失敗といったマイナスの財産がたくさんあるのに、
それを1つにまとめるほどもっあいない話はない。

ツケの論理

2010年05月06日 | Weblog
今の儲け、今の人気、次の参院選に過半数を、
といったことが目的化する。

長期目標より短期の方が意識的には強烈になるから、
将来(さき)のことそっちのけ、国民のことそっちのけ、
にして、その短期目標を目的にすり替えし、ひたすら邁進。
事業でも然りである。


こうしたことが今さえ良ければ良し、
自分たちさえよければ良しとして、
未来のための種まきどころか、未来の糧となる種まで先食いしまう。
こんなことでそのツケを次の世代につけまわしている典型的な例は、
地球環境問題や我が国の超借金問題や年金問題・・・。

典型的例が、国に関係すること政治家、政党、内閣。
皆、その時、その晩の受けを狙って、
短期的成果を目指すといったツケ回しをやっている。

日本という国の百年大計どころか、十年さきのことを考えて
活動している政治家がこの国にいるのかどうか。


経営者もまだしかり。
とりわけ大会社のサラリーマン経営者は、
自分の在任期間の成果を狙いことを考える傾向が強い。

その点、孫が社長になるときまでは考えて思考しなければならない
中小企業、同族会社は大きな強みを持っているといえる。

だがその子、孫は、はたしてどうなのか・・・・。
たとえば、経営者に限らないが2代目、3代目たち。
意地悪を言えば自分の蒔いた種でも育てた花でもない。
先祖様が蒔いた種が実を結び、花が咲く。それを継いで
刈り入れに始終している、といった現実があるのだ。

刈り入れに始終している彼らにモノ申したい。

将来の飯の種は誰が蒔くのか。
蒔かない種から収穫ができるであろうか。
将来の収穫ができず家族や従業員を食べさせていけるのか。

たしかに今日までの私たちは、
大なり小なりの成功の体験を積み重ねてきて発展してきた。

同時にプラスの財産だけではなく、
それと同数の失敗の経験も夥しく持っていて、
それもを、どん欲に活かしてきたからこそ
今日があることを忘れてはならないと考える。

わたしたちはとかく成功体験を記憶し引き継ぐ。
そしてその成功体験で挫折しているのである。

逆にこれまでの夥しい失敗から学んだマイナスの財産は
拒否し引継がず同じ過ちを繰り返してきているのである。
                       続く