経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

相手の意志を変えると云うこと

2012年12月28日 | Weblog
売上は、売上=客数×売価で示される。



この場合、売価は一部の再販価格指定商品、そして

ITの世界でのオークションなどに見られるお客の裁量で決まる、

といったことはあるにしても、概ね経営者の裁量で決めることができる。



だが客数の方は、個々客、買い手の意思決定の集合体、

買い手の領域のことであり、経営者が決めることはできない。



だから、放置し手いる限り、売上が作り手・売り手の経営者の

思う通りいくことは決してない。



その虚数に単価をかけて算出する売上も虚数になる。

当たり前である。

 

しかし経費は、固定経費と変動費と分けられるが、

限度限界、そして対外的制約があるものの、

ある程度は内輪でコントロールできる。



だが、とりわけ前者の固定経費は、おおむね計画に基づき費消されるし、

後者の変動には、売上に正比例し費消される、ということで減益になる。

これまた必然である。



売上という言葉の云々の問題ではない。

消費者の意思決定により購買が決まっている。

そのことを強く意識して欲しいのだ。



すなわち消費者の購買に関わる意思決定を、

当方、あるいは自社製品を、選択してもらうためには

どうしたらいいか、というアプローチが経営思考から

希薄になっていることを憂いているのである。



だから消費者の意思決定が、自分の企業を選択し購入、

という行動に結びつくための条件を考え、それを彼らに見える形で示す、

こうしたことが経営にとっての最大関心、

そして販売戦略の要諦でなければならない。

必死でやっている、頑張っているという声もあろうが

それはたぶんに、「いかに売上を上げるか」ということであって、

私の考える本来のものとは異なることを、

ここで再度で念押ししておきたい。

たそがれ

2012年12月21日 | Weblog


ところで、唐突。

ここは、あるひなびた海岸通りの街。
夕食までにと、全く人通りのない街を歩いている。

寂れ、うらびれた街並みの、どのお店からだろう。
ちあきなおみさんの「喝采」が流れてくる。

これは朝には、似合わない歌である。
黄昏にぴったしの唄だ。

この唄は、かって晴れやかな喝采を浴びた歌手が
人生の盛りが過ぎ、どさまわりに転じている日々。

あるいは華やかなスポットを浴びる舞台での
ダンサーの寂しげな姿・・・・・・


そうした人生、人の持つ光と影、
黄昏、悲哀といったものを見事に映し出している。
私は、名歌の一つと思う。

唄は刹那的。そして彼女が消えて久しいが、
今も私の耳に残るのは、余韻。
この唄が、自分の人生と重なるからであろうか。

ところで、今歩いているこの街。

この街の高度化・近代化事業が完成し、
華々しい喝采を受けてテープカットの風景が、
TVで放映されたのは18年前の今の時期。

借り入れ返済終了まで6年を残して、
今この街は、まさに黄昏どき。
やがて、明けることのない闇に入る。
人生も、事物も、黄昏となれば
哀しいものだ、寂しいものだ。

東シナ海の遠くの海に、日が落ちる。



選択すると言うこと

2012年12月12日 | Weblog
消費者接点を減じることは、
消費者の表情、すなわち顔なりに表れる情の形が、
読み取れないということだ。

その結果、対応力は弱くなる。
しかも企業の対応が企業サイド寄りで、
消費者に疎になることも必然的だ。

またこのことが消費者にとって、
選択肢が増えすぎて、しかも違いが大同小異。

個々の違いが判別できず、選択ができず、
の状態を生んだということだ。


自分の欲しいものが、わからない、
見つからないぐらい事実、「もの」はあふれている。

が、その中から自分の必要としているものを、
見つけることは難しい。
これは実際に買物をしてみたらわかること。

魚沼産の米俵のなかに、
鹿児島産のさつまひかりを一握りいれて、分別せよ
といった命題を消費者は突きつけられているが如し。


消費の現場は、理論に即して動いているのではない。

今や、欲しいものがあるかどうか、
それすらわからない、まさに「もの溢れの時代」と言える。

こうした過剰な選択肢は、迷いを生じさせ、
低価格になっても、消費の低迷を生み出した、
と言えるのではないか、と私は思っている。



この今

2012年12月06日 | Weblog
消費者接点が少なくなると、
個々の消費者の表情、すなわち表れる情が
読み取れなくなる。


人は、美味い物を食べたら、頬が緩む。
苦い物を口にしたら、苦い顔をする。

そうしたことを、直接みることなく、


人は美味い物を食べたら頬が緩む、であろう。
苦い物を口にしたら苦い顔をする、であろう。
といった仮説のまま、検証されることなく
ものが作られ、販売されることになる



「だろう」のごくわずかの乖離が、
やがて大きな乖離となる・・・・。
そしてその教養限度を超えた・・。

その日が、この今。
現象面では倒産、ということではなかろうか。