経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

アーセー、コーセー

2011年03月29日 | Weblog
(1)機能性の違いとは、自己充足感を満たす表現の違いのこと。

デザインをデザイアー(欲望、戦略)の形化、具現化と考えたら、
機能とはそのための副次的な戦略(目的),もしくは役割であろう。

その役割を果たすための方法、手段、ツールを、
脳力開発では「戦術」という。

この戦術は、役割に応じて、また役割ごとに無限に存在する。
したがって戦略が一元化、共有化されていることに対して、
戦術は臨機応変に、かつ様々な戦術を組み合わせて行う。

しかもその選択はその役割を担う者の判断に全面的に委ねられる。
だからアーセー、コーセーと現場に指示をしたり、されたり、
指示通り、といったように拘束性を持たせたとしたら、
そもそも戦略は成り立たなくなる。
その彼はリーダ-としては失格者である。

ピカソが弟子の絵描きに、髪の毛は赤で、花は何色でと、
筆遣いや色まで指示しているといったことは、
全くあり得ないことと誰しも思うが、

現実、そうした経営者や上司はごまんといるのではないか。


以下わかりやすくするために、
少々、極端で、穏やかではないな例えで示したい。

たとえば百円茶碗は、粘土で囲んだ空間でもって、
お茶を飲む機能を価値としている。

一方、百万円の有田焼の茶碗は、
こんな高いもの、素晴らしいものを持つ俺だぞ、
ということを高らかにアピールする機能で売れる、とする。

ところが、上司から、争いごとに勝つために
相手を傷つけたれ、という役割を担った部下は、
百円茶碗であろうと、百万円の有田焼であろうと関係ない。

これら両方とも、「相手を傷つけたれ」を具現するための
手段、ツール、道具、つまり「戦術」の一つに過ぎない。

それを相手に投げるときは、「安い方にしいや」と、
上司なりから指示を仰ぐ、といったことでは、
争いの目的、役割を果たし得ないことになる。

戦術は、その場、その場の状況に応じて、
当事者が自由に判断することを委ねられている。
これが前提で、戦略が成り立つ。

生き方のデザイン

2011年03月27日 | Weblog
デザインは、「いいあんばい」の「あんばい」
(塩梅・按排・按配)、あるいは「良い加減」。

それも自分にとって。
そして自分のことをわかってくれる人にとって。


今書いている、この文章も、
これまで1日と欠かさず書いてきたことも、
そして、これからも書き続けるものも、また然り。

自分にとって、良しとする考え、思いを、
自分のことをわかってくれる人にむかって
しこしこと、デザインしているのだ。



(4)デザインには機能性が付帯する。
否、正しくは機能性を付加するところに、
デザインの役割が存在する、といった方がいいか。


欲望には、それぞれ欲する対象物がある。
その欲するものを具現するための
戦術、手段、手立て、方法、ツールがある。

とすれば、デザインには無意味なものが、
存在するはずはなく、よって機能性を持つ、
というのが、私なりの解だ。
正解とは言わぬ、が他者に誤解とはいえぬ。

人はそれぞれ、それぞれのデザイアーを抱き
人、それぞれ、それぞれのデザインを
織りなしているのであるから。


人はいざ知らず、
私には、私にとって、私だけのデザインだ、とは、
とても言えない。言い切るほど強い人間ではない。

だから、どこかで心寂しさを埋めてくれる、
支える人、共感者を求めている。

その自分のことをわかってくれる人に向かって
デザインを道具(戦術、手段、手立て、方法、ツール)
として、しこしこと、デザインしているのだ。


生きることとは、自分の生き方のデザインではないか。
書きながら、ふとそう思い、しばしキーボードから
指を離し、思考を頭の中においた。

この思いつきに、わずかにときめく。
その心に対し、私の頭の中は、止めどもなく
ゴミが流れているだけであった。

良いあんばいといい加減

2011年03月25日 | Weblog
(1) デザインは、その価値観に一定の共感が
得られなければ、成り立たないが、
すべての人に価値観が共有されるとしたら、
これまた成立、存在しえない。

われながら、わかりにくい。


それで、これを別の角度からいうと、
デザインには、一定の普遍性が求められるが、
そのウエイトが高くなると、デザインとしての存在感を減じる、
といったことになろうか。

つまり、デザイアーから発せられる自己主張を、
そのまま形化としても、それが他者に受け入れられなければ
デザインといえないのではないか、ということ。

とはいっても

だからといって他者のデザイアー、主張を
全面的に受け入れて、はたしてそれがデザイン、
といえるかどうか、といった論議になる。


こうした論議を、私なりに整理し、結論してみると、
自我と他人の我に共通する価値観が、
大なり小なりの論議の末、合成された価値観、
いわば一種の妥協の産物がデザインである、といったことになる。

それは、純粋、ストレートに自我を貫いたデザインが、
他者から認識されないことを意味する。


価値観の相違があるが故にデザインが存在する。
しかし、自分以外の万人が、認めない価値観によって、
創生されるデザインは存立し得ない。
ここで、自我と受け入れてしかるべき他者のそれとの
配分が、問題になる。

どの程度の割合で、他者の意見を取り入れれば、
その妥協の産物が、デザインといえるのかどうか。

ここだ。このことを長く考え続けてきた。

ごく最近になってわかってきた。
否、わかってきたかどうかはわからないが、
これもまた妥協の産物的答えでいいのではないか、
ということが、わかったということだ。

それは、
「いいあんばい」の「あんばい」(塩梅・按排・按配)と、
「いいかげん」。これは「好い加減」ではなく「良い加減」



あんばいといい加減

2011年03月25日 | Weblog
(1) デザインは、その価値観に一定の共感が
得られなければ、成り立たないが、
すべての人に価値観が共有されるとしたら、
これまた成立、存在しえない。

われながら、わかりにくい。


それで、これを別の角度からいうと、
デザインには、一定の普遍性が求められるが、
そのウエイトが高くなると、デザインとしての存在感を減じる、
といったことになろうか。

つまり、デザイアーから発せられる自己主張を、
そのまま形化としても、それが他者に受け入れられなければ
デザインといえないのではないか、ということ。

とはいっても

だからといって他者のデザイアー、主張を
全面的に受け入れて、はたしてそれがデザイン、
といえるかどうか、といった論議になる。


こうした論議を、私なりに整理し、結論してみると、
自我と他人の我に共通する価値観が、
大なり小なりの論議の末、合成された価値観、
いわば一種の妥協の産物がデザインである、といったことになる。

それは、純粋、ストレートに自我を貫いたデザインが、
他者から認識されないことを意味する。


価値観の相違があるが故にデザインが存在する。
しかし、自分以外の万人が、認めない価値観によって、
創生されるデザインは存立し得ない。
ここで、自我と受け入れてしかるべき他者のそれとの
配分が、問題になる。

どの程度の割合で、他者の意見を取り入れれば、
その妥協の産物が、デザインといえるのかどうか。

ここだ。このことを長く考え続けてきた。

ごく最近になってわかってきた。
否、わかってきたかどうかはわからないが、
これもまた妥協の産物的答えでいいのではないか、
ということが、わかったということだ。

それは、
「いいあんばい」の「あんばい」(塩梅・按排・按配)と、
「いいかげん」。これは「好い加減」ではなく「良い加減」



ころころと心

2011年03月22日 | Weblog
イメージは、これぐらいにして、
次はデザイン。

【2】デザインの概念
(1) デザインとはイメージを、ある大きさに
切り取り固定すること。またその手段をいう。

縦横に360度に広がる空間、
それも絶え間なく流れ変わる、移ろいの空間、
そのごく一部に意識をおき、一時的に固定すること。

これが見たとか、見えたと言うこと。

その意識の置き方も、何気なくではなく、
デザイアーを背に受けてのある意図、
企てがある場合のことではないか。

意欲とは、意図する欲、
企画とは、まさにそうした企てを、画策すること。

脳力開発でいう「戦略」にあたると考える。


(2) 価値は自我、人、それもその時折によって、
変わる意図的な意味付けといってよい。
万人共通、永久不変の価値は存在しない。

ここに宝石と食べ物がある、とする。
宝石を知らず、おなかがすいている人には、
前者は認識すらされないだろう。

宝石を知っていて、おなかがすいている人は、
どうだろうか。
一瞬迷うに違いない。

なにを迷うのであろうか。

ひもじさは我慢できる。宝石はここで手にしなければ、とか
ここでこの食べ物をクチにしなければ飢え死にする。
宝石は生きていればいつかまた手にできるかも。
一人の人間の中においてすら、あれこれ、様々。
心の葛藤。


ましてや人様々。環境、考えること、見聞、知識、経験、体験、
置かれている立場、おかれている状況によってころころ変わる。
ころころ変わるから、縮めて「こころ」。

この「変わる」ということは、
その人が「意識」を移したということである。

今、「これ」に意識というスポットを当てていたが、
それを「あれ」に移した、ということである。

意識を移したのは自分。
移すということは、これまでの「もの」と、
次のスポットライトを当てる「もの」とを比べて、
前者を捨て、後者を採ったということである。

その選択する間、「あれこれ目移りする」、
これが、「躊躇する」、「迷う」ということになる。

いい加減なこと

2011年03月20日 | Weblog
「自己主張」、といった言葉がある。

それらの発言を聞いていると、
ほとんど、過去、他者の刷り込み、
それにそれらのごちゃまぜを、
制約、縛り、抵抗、規制、ルールなどで加減したもの。

そこには、自己主張の「自己」はない。
過去と他者からの刷り込みを主張しているにすぎない。

しかも当人には、微塵もそうした意識も、認識もなく、
そして臆面もなく、あたかも自己の論の主張であるかのように、
言葉に発せ、それでもって他者を縛る、といった
論者の、なんと多いことよ。

自分自身が過去と他者に支配され、
ゆがめられていることすら気がついていない者が
さらに、他者を縛っていく。

「自己」というが、その自己は頑迷、頑固に過去に縛られ、
「主張」の中身は、過去の他者の混ぜ合わせで、
そこに自己のものはない、といったことだ。

そうしたものから、解き放たれるとき、
これが瞑想、座禅の「とき」ではなかろうか。


(10)楽しさは弛緩の状態からも生じないし、
緊張の状態からも生じない。

車は、アクセルだけでは快適なドライブはできない。
ブレーキが不可欠だ。
かといって、動かぬ車にブレーキは不要である。

楽しさは制約と解放のバランスにより醸成されており、
弛緩と緊張の自在な組み合わせにより生じる、と考える。

自在な組み合わせとは、
1に自分で、2にさまざま、あれこれ
できる組み合わせである。

織りなしとは、縦糸と横糸の組み合わせ。
縦糸だけは、織りなしはできない。
横糸だけ、織りなししはできない。


人生の織りなしを、他者に委ねたら
その人生は、自分の人生ではない


(11)弛緩と緊張のバランスが良い加減であることが楽しい。

ここで、「良い加減」は、自分でやる、自分にとっての加減。
バランスとは、動の状況をいい、揺らぎである。
生きていることは、動であるから、揺らぐのは当然である。
「動」がいやで、揺らぎを避けるのなら、「死」しかない。

上に、バランスが良い加減であることが楽しいと、したが
楽しいように加減を持って行く、そのことが楽しい、
ということでもある。

このことは、ルールの中で自在に楽しんでいる
スポーツや将棋や、トランプなどで、私たちは体感している。

緩急自在ができないわけ

2011年03月18日 | Weblog
(9)イメージの大小は、
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
如何で決まる。

風景は自分の身体の向き、視線で決まる。

今、目の前の風景を見ているということは、
1に、身体と視線をその風景に向けているということ。
そして後ろ、前後の風景には向けていないことだ。
それは、前の風景を見る、そして他の風景をみない
という意志決定によるものである。

目の前の風景を見ていても、
その中の一点を見つめていると
他は視野から除かれ、目にいらない。

こうした場合、目の前の風景の中から、
1万円札を見つけてそのために他が見えない、
といったことであれば、自分の関心が、
他を見えなくする制約になった、ということだ。


もし他人から、
「眼前の鬼百合の花弁一点に集中せよ」
と命じられて、それを忠実に守ったのであれば
そのことが、制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
となって他が見えない要因になる。

このことは、カメラで実際にこの今、
体験してみたらわかることだ。

どんなカメラも、レンズの方向しか写らないし
しかも絞りの加減で、その視点を大きくも小さくもできる。
それはカメラを操る人の意思如何。

イメージも然り。

イメージを広げるには、
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
を緩めればいい。


イメージを絞るには、
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
を強くすればいい。


いずれにしても、
自分の意志でなしていることだから
本来なら自分の意志で、緩急自在のはずである。

現実は、他者からの、以前からの
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
の刷り込みにより、緩急自在が自分の意志でありながら、
かなわないといったことが現実である。

そして何より恐ろしいことは、
他者からの、以前からの
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
の刷り込みが、すっかり体質化し、
刷り込まれたものであるといった意識も、認識もなく、
自分自身が支配され、ゆがめられていることである。

彼女のパンツ

2011年03月15日 | Weblog
(8)遊びと仕事の区分はない。
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
そうしたものがないと、遊びも仕事も成立しない。
そのことは触れた。

では、遊びと仕事の区分はあるのか、ないのか。
私の結論は、「ない」。

あるとしたら、あるいはあるように思えるのは、
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
の違いか、もしくはそれらをどう受け取るかの違い。

それで、もう20数年前のことだが試してみることにした。
思い込むのだ。これまで仕事と思っていたことを、遊びと。
思い込むのだ。これまで遊びと思っていたことを、仕事と。
常に意識し、自分に言い聞かせて。

これはうまくいかないことにすぐ気がつきやめた。


仕事と遊びと分けようと、遊びと仕事と分けようと、
遊びが楽しく、仕事が苦しい、といったサラリーマン時代の
刷り込みが消えるものではない。
それどころか、区分を意識することで、
さらに刷り込みを強化していることに気がついたからだ。

それに仕事も遊びも。
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
こうしたものがあるのには、変わりがない。

変わりがないのに、違いがあるのはなぜか。


これはもう、答えは一つしかない。
自分が、つらい、おもしろくない、やりたくない、
といった風呂敷をかぶせたら、そのことは
つらいこと。おもしろくないこと。やりたくないこと。

自分が、楽しい、おもしろい、やりたい、
といった風呂敷をかぶせたら、そのことは
楽しいこと、おもしろいこと、やりたいこと。

すなわち「こと」に問題があるのではなく、
「自分の選択」に問題ありなのだ。
自分ではなく「選択」に問題ありなのだ。

その状態を、それよかれと判断し、その「こと」に
2つの風呂敷の内、1つをかぶせたのは、
自分であって、世間でも、隣のおっさんでも、妻でも
会社でも、ゲームでも、友人でも、医者でも、坊主でも
みのもんたでも、ない。けしてない。

としたら、どちらの風呂敷が良いとか悪いことでもない。
2枚あること良いこととし、その選択を自分で意識してやればいい。
これは自分のパンツを自分で洗濯した独身時代と
おなじこと。彼女のパンツを洗濯する気分でルンルンと。

息し続ける

2011年03月13日 | Weblog
息を吸い続けてみました。
苦しくなりました。

それで、息を吐き続けて止めてみました。
苦しくなりました。

次に、息を止めてみました。
苦しくなりました。


それで、
普通に息をすることにしました。
楽になりました。

気がつきました。
普通に、息をし続けることは楽しいことだと

そしてもうひとつ。気がつきました。

息苦しさは、生き苦しさ、と。



息は無限に吸い続けることも。
またはき続けることもできない。


さて、昨日の続きです。

脳は無法者でもない。
無法地帯では、役立たず者になる。

制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
往々にして、なければ良いのに、と思うことがある
これらは、必要なものなのだ。
なければならないものだ。


こうしたものの緩急自在、の中で
緩急自在に生きている。いやそれも違う

生きているのではなく、その存在があって、
緩急自在を織りなして、生きていることができるのだと
私は、いつごろか思うようになりました。


イメージの広がりは無限。
無限であるが故に、そのどこかを切り取り、
あるいはタイムアウトのセットをして、有限状態を作る。

イメージのあれこれ、豊富さには限りがない。
だからこそ、それらを取り出すには、どこかに
区切り、歯止めを作らなければならない。

選択とは、そういうものがあるからできること。
取捨選択。拾い出すことができるということは
捨てることができるということ。

ゲームを楽しむことも人生を楽しむことも同じ。
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガ
がはめられていてこその「存在」、成り立ち。

無法者だ脳

2011年03月11日 | Weblog
欲望、すなわちデザイアーがそもそもの動機。
それを具現する(形化)する。これをデザインという。

(6) デザイン
デザイアーにより、目的に必要と思われる部品を選択したら、
そのための最適の組み合わせを決めることになる。
これを「デザイン」という。

たとえば、うまいものを食べたいという欲望が、
今日は寒いから、すき焼きとデザインが決まり、
その材料、その組み合わせを決める、といったこと。

もちろん、空腹でたまらず、そのために発生したデザイアーで、
たまたま冷蔵庫に残っている材料から、適当なデザインを決め、
空腹を満たす、ということもある。

だが、これはあくまで「適当なデザイン」なのである。

これは、安易だとか、手段を選ばずとか、戦略なしの戦術とか
様々な場で、様々な表現で表されているが、
いずれにしろすべて「下策」である。

大望を抱き、志を掲げ、理念を掲げ、
目標を見据えて、その具現のための戦略を定め
そして戦略に即した手(戦術)を行使する。

これは、脳がことをなす(創成)の工程である。


(7)制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガなどなど。

嶋崎喜一先生の創案した「TG」の講習会の折、
「なんで、そんなルールがあるんですか」
といった質問をした受講生がいたそうな。
何でも良い。ここにゲームがあるとしよう。
そう。将棋でもいい。
「この将棋では、ルールはないので
どうぞ自由にやってください」
といわれたとする。やれるか。どうだろう。

将棋は
碁盤の上でやる、二人でやる。
そのルールを外せばどうか。

一人一手ずつコマを動かすルールがある。
それを守る必要がなくなれば、どうか。
駒にはそれぞれ動きの制約がある。
それを外したら、どうか。

王が積むと勝負が付く。
それも無視。どうなるか。

こうしたことを考えれば、
制約、縛り、抵抗、規制、ルール、約束事、タガなど
が何者なのか、おぼろげにわかってくるのではないか。