経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

博多商人塾講義抄

2010年03月29日 | Weblog
人磨きで逆に人を傷つけていませんか?
組織を高めるために個人を磨くことは大切ですが、
これを誤ると組織が崩れるということがあります。

人を磨くということは、磨きあって切磋琢磨するということであり、
決して上からの目線で磨いてやることではありません。
いかに気持ちよく組織の機能を発揮し成果をあげるかがリーダーの役割です。

人を磨くことの先には・・・・・・・・
続きはここを→博多商人塾HP


昨年の博多商人塾での2時間の講演を、主催者の担当、
村中さんが実に上手くまとめて抄録して下さっていたのだ。

うかつに気が付かず、HPのトラブルの修正過程で気が付いた。
これもリンク、すなわちつながりのお陰である。




今ってなんじゃ

2010年03月24日 | Weblog
「今とはなんじゃ」と問われたら
正直言って即答できず戸惑う。

今を見れば、先の盛衰どちらであるかわかる。
朝顔の花を見たい人は朝顔の種を蒔く。
朝顔の花を見たいと思って、向日葵の種や種なら
なんでもいいや、ということにはならない。

このことから、未来が今の行動を決めるという言い方ができる。


たとえば店舗の売り場の話。
今のこの現場が地域や消費者との接点、
過去と将来(さき)との接点を持っているのだから。

今という「点」は、独立した点でなく先の目標を得るために、
そこから今に向かって下ろす線の始点である。


一方、過去を振り返るときの過去に下しつながる線の起点である。
また過去の線の切断点であり、過去と未来を連結している点でもある。


こう考えると、「今」がおぼろげだがわかってくる気がする。

「今」を深く考えることの重要性。
そしてこの「今」、何のために何をしなければならないか。
それは今というその表出された点だけで判断してならないこと。

そうしたことが、ぼんやりとだがわかってきた気がする。

たとえば、その時には多くの人々が評価し賞賛された経営者が
この今は頓挫、悲惨な形で消えているということを思い浮かべてみる。

そのことはまさにその折の「是」とした判断が、
未来がおりてきて「今」になたらば「非」であったということだ。
どちらが正解か。いわずもがなであろう。

その「今」良かれと今に成果をおいてその是非を問うたことが
帰結である未来にとっては、浅はかさで誤りであったことになる。

先ほどの、「花の種」の例で言えば、
将来には朝顔の花を見たいと思いつつ、この今の選択では、
値段が安いとか少なくていいといったの理由で、
別の種を選択したということになる。

将来(さき)を見据えて、といった言い方がある。
キーは、その将来に何を描いているかだが、
どうだろう。
私の場合は、何を描いているかが実に不鮮明であった。

こんな家に住みたいという思いの設計図もなしに、
部品集めに始終していた自分を嗤う。

消費者の立場に立ってといった言い方がある。
キーは、その消費者の何を描いているかだが、
どうだろう。多くの場合は、自分の利や得ではないか
だから、この今やることなすことが消費者に受けない
消費者のだれが、売り手のとって利得を願って購買しょうぞ。

そうした不信が、この「今」の種選択、購買を決めている。


とってにとって

2010年03月24日 | Weblog
物事を判断するには、「基準」が不可欠になる。
だれしも何らかの基準で持って分別し、
判断、意思決定している。

だが、さてその基準が問題だ。

ただその基準がころころその都度変わる人や、
自分の信念、信条でもって不変の基準を持っている人がいる。

前者、後者、その是非の云々は、ここではさておき
よく組織の意思決定で採られている重要性の原則に
ついて考えてみることにする。

たしかに重要性の原則で物事を決めたら
今ある固定された案件なら、これで優先順位がつく。
しかしこれは目の前にある固定されたものの中ということに限定される。

しかも、人により重要性の評価が変わるから、
ここはどうしても「自分にとって」あるいは「自社にとって」
の重要性が優先されると考えるのが常識的であろう。
この「とって」は個人で言えば自分、
組織で言えば上位者の「とって」が優先されることになる。

まだあるかもしれないが、この2つだけでも
大きな、そして極めて重要な問題が生じることになる。

それは上にそって添えるならば、
1に情報はアトランダムに発生するし歯止めがないから、
あくまで時間を切った範囲内での「重要性」であり、
その判断も、あくまでその時点での価値、受け取りであることだ。

2に、「自分にとって」あるいは「自社にとって」の重要性ということが、
その他のステークホルダーにとってマイナス、不利益になることも
多々あるということである。

そのステークホルダーの中にはほぼ例外なく消費者が含まれる。
端的に言えば、その消費者を直接的、間接的に不利益に至らしめれば、
消費者はそうしたことを生じせしめた「自分」ないしは「自社」に対して
どうした反応を示すか、ということである。

その結果の先にJALの「今」といった問題が存在する
と考えたら、わかりやすいのではないか。

畢竟、
自分、自社にとって重要なことを優先し選択するあり方は、
自分、自社にとって長期的にはみてどうなのか、
そのことを考えてみる必要がある、と考える。


存在感

2010年03月17日 | Weblog
他の人の場合がどうかはわかりませんが、
文章を書くときには、たいてい相手を先において書いている。
それが不特定であったり特定であったり一人であったり複数であったり、
個人であったり事業所であったり対象物、ぶっつける相手がいる。
実際にいないときも想定して書いている。

その対象者の中に自分自身がいる。そのことに気が付いた。
それもしばしば。時には単独出演、時には他の人との共演だったりです。
それも最初から自分ということではなく 対象に向かって書いているのが、
実は自分への問いかけ、自分の脳への刻印であるのではと
気が付くといったことが多いように思います。

かっこいい言い方として「自分を見つめるために書く」といいますが、
それではたとえば良い子の自分を意識しながら書いた子供の頃の日記。
母が盗み読みしていることを知っていて、
母が驚くようなことを書く。あれです。

そうした邪気、恣意性は大人になりすぎた今でもちらちら頭をかすめますが、
毎日欠かさず書き続けているうちに薄れてくるのではと期待しています。
その点楽観視しています。
そうした形で、自分が少しずつ晒され浄化されたらと思っています。

ところで、一昨日まで長崎・平戸市にいました。
離島を結んで、いくつかの町が合併されできた市です。
鹿児島から遠い遠い。町と町の間も遠い遠い。
そこで、完全ゼミ方式の経営革新ゼミを行いました。
夜19時から2時間、5回です

その間は、やることもありません。
オランダやキリシタンに関係する歴史的史跡などたくさんあるのです。
が、それらを積極的に見に行くという意欲が沸きません。
ホテルにはIT設備がない。持ってきた本は皆読み終えた。
温泉は朝9時から15時まで入れない。
で、ただひたすらぼーっとして過ごしました。
この多忙期に、と少し焦る気持ちもありました。
しかしそのお陰で、その分溜まったエネルギーを
ゼミ受講生5人に全力、すべてを注ぎ込むことができた。

この人たちにこの寒村の将来(さき)を託する思いで、
マンツーマンで、私の持つすべてを伝えることができました。
これはこうした私の力みをきちんと受け止めて、
熱心に応えて下さった受講生のお陰。

まさにこのこれまでにない充実感は、まさに受講生のおかげ。
その私の想いは働きがいを超えた生き甲斐を感じた。

対象あってこその自分の存在の実感。
忘れられない旅でした。


対応、その本質

2010年03月14日 | Weblog
昨年は、これまでにない景気に、どこへ行っても厳しい状況との声。
小さな企業は、耐えられない、という声。
一方、大企業からもそうした声はしきりに発せられる。

しかし・・・、と続ければおしかりを受けそうだが、
これまでも多分いこれからもそうした状況を繰り返して、
ここまで来れたしこれからも進むのだと、そう思います。

ではどうしたらいいか。
これには、これさえを守りいけばいい、というものがある。
ところがそれがなかなか守れない。
だからわからなくなってくるといえます。

ではこれさえを守りいけばいい。
これをかりに、「たった一つの原則」と呼びます。


自分の意思に無関係に変化するすることに合わせ、
対応なんて考えたら、
自然と環境と経済情勢とライバルを皆的に見立てたとおなじこと。
迷うだけでは済みません。揺れる綱から落っこちてしまう。

だからそれらは無視すれば、元々存在しないことと同じになる。

競合がどうであろうと、他人がどういおうと、
理想がどうであろうと無視する。意識しない。考えない。
ちらっとその気配を感じたら、振り払う。

それでも頭の隙間にそれらが入り込んでくる。
ですから、その隙間に意識して別のものを流し込んで埋める。

具体的には、ただただ、お客様への対応にひたすら。
お客様に良かれと思うことを、できる範囲でやり続けることです。

大きくすること、生き残れるかなぞ案じないことです。
そんなことを考える隙間が生じないぐらい夢中に、
ひたすら、他者(お客)の得することを考え続ける。
瓶にコーラをいっぱい入れると牛乳や酒は入らない。

地上30メートルの高さを綱渡りしているとき、
そうした状況にある自分を意識し、下を見たり考え込んだりでは
綱から落っこちてしまう。
だから向こう岸のお客さんの拍手をゴールと考え、
それに向かってひたすら進む。これです。


ただし、おもしろくなかったり楽しくなかったりしたら、
「風邪でも引いたのかな」とでも思い軽く心のチェックをして微調整する。
肝腎なことは目標は強く、それも強烈に持つ必要があります。

その目標が自分に関連していたら、綱が揺れ出す。
で、「お客様の喜びを年々倍加する」といったことにおく。
最終目標は「5年後お客様の喜び率100%」とでもしておく。

これは曲げない。譲らない。
その上で「今年の目標、リピート率31%」といったことでも
中間に、短期的な目標とする。

これが私の考える、今、そして今後の対応の本質です。

手直しと革命

2010年03月09日 | Weblog
明治維新のとき、志士たちが、手直し改革でなく、
革命に立ち上がったこと。
そして民主党が維新と言っていること。

全然違うなという思いだ。もちろん前者が是で、後者が非。

 ここで塩野七生さんの「ローマ人の物語」を思い出す。
「ローマーでは法律を改正する場合前の法律を手直しせず全部新しく作り直す」。

これも理由は、手直しには利害がいろいろからみ、
面倒で、手暇がかかる、それにこれまでとの整合性が大変だ。
1つを直せばあちらもとHPのリンクみたいに張り巡らされている関係にある。
だったらいっそうのこと。「ごわさんにして」というのが革命だ。維新だ。、


ところこれまで、それからこれからも大手は規模の拡大を余儀なくされている
大きくなることでの限界が今、表れているし、
そしてそれはさらなる進行を止めように求められない。
止めたら万事休す。終焉だ。

それに大きい故に革命ができない。やれてせいぜい手直しである。

ということは、手直し程度では追いつかないことにより
多くの大手が不評を買い、今こぞってのたうち回っている。
GMSと呼ばれた総合スーパー。長い歴史を持つ百貨店など典型的例。

それは消費者が望んでいるにも関わらず、やるにやれない、
手つかずの大きな市場がある、ということを意味する。
ここに着眼、目を向けようよ、と中小企業の皆さんに呼びかけたいのである。

しかも消費者が講い願っている金のなる市場はドンドン拡がる。
ここを狙ったらすごいぞといいたい。


捨てる神あれば、拾う神あり。
手直しは保守。保守では根本は変わらない。
中小企業なら丸ごと変えることができる。革命ができる。

具体的には、どう考えたらいいのか。
革命のきっかけはどうしたらみつかるのか。

脳力開発に、「売れない理由の中に売れるという要素を見いだせ」とある。
ヘーゲルも言っている。「否定の否定」といっている。

これまでの成功要因が、今売れない要因だ。
まず、「今」にリンクされている「過去」を全部裁ち切ることだ。
重たい過去を引きずるのを止め、過去のない赤子のように身軽になる。


次に未来とリンクすることだ。
そのリンクは、ゴム紐がよい。
「未来」に強い杭を打ち、そのゴム紐を引っかけ、
この「今」に引張ると、「今」は未来に引っ張られて、
未来へ猛烈な勢いで向かうことになる。

そのためには過去がない方が良い。「今」は軽い方が良い。
但し、未来のくい打ちと強靱なゴム紐は不可欠だ。

革命とは、
過去を切り未来にゴム紐をかけこの今を未来に具現することだ。


たらい回し

2010年03月07日 | Weblog
御和讃、流す(ゲーム用語)、生まれ変わりたい、一から出直す

 これらの語に共通する心は何でしょうか。
 部分手直しより、全体を換え方が楽、やりやすいという考えです。

そういえば大型家電店の修理センターは修理センターはなく、
修理の承りセンターなのです。
修理する人の為の取次書を記入するのが目的。
だから受付の人に事情を話してもムダ。
修理する人は別にいるわけですから。
ところが、その修理する人も仕事は自社で交換をやるか、
メーカーに修理の委託するか、その判断をする仕分け人なのです。

その判断基準は、どっちの方が時間と人件費かからないか、
といった観点から作成されている社内マニュアルです。

部品の交換も、部品を修理するのではなく部品全体を取っ替える。
たとえばVDVの一部がおかしくてもデスク丸ごと交換する。
担当は自分の修理となりますと、
後で問題と責任が自分に来ることは避けたい。

ですから、いちおう修理の対象でもないところも検査、テストし、
異常なしのチェックリストにチェックは入れる。
これは殆ど機会でテストでできると思われるので、
検査せずにチェックということはないと思いますが、
隣にいて見たことないのでなんともいえません。

修理する、直してあげる、ということより、
どこへ、このババ(婆ではない)と責任を振るか、
といマニュアルとおもっていい。

保証期間であれば、ユーザー負担は、部品代を除いてないわけですが、
そうでない場合はユーザーから料金(手数料等)を取ります。
ほとんど何もやらないで取り次ぐだけ、
その手数料?が重なるとどれぐらいベラボーか
ということを調べてみました。

昨年の外付けのハードデスクの修理の場合、
動かなくなった物理的なもの(データーの復元ではありません)が、
これが5万円(消費税別)。
 それでメーカーの修理センターに、いくらでやっているか
さんざん苦労して調べたところ、センター長が1万円で請求したということ。
請求したところは私にではない。
他に間に2社入っていて、私への請求書は5倍。5万円に膨らんでいた。
その間に入っている会社の1つは、
メーカーのデリバリー会社、旧財閥系著名商社の子会社でした。
ちなみに、そのハードデスクはいくらで販売されているかというと、
高いところで1.5万円。

これでは使い捨てが遙かに安くなる。


過去への上書き

2010年03月03日 | Weblog
今、売れないということを前提に、
売ることを努力や様々なスキルで打破といったあり方が、
いわゆる「営業」として主流、旺盛を極めている。
またそうした考え方が主流。
それが本来ではないから、売れなくなっている言った。

だが心配ない。
本来でないのなら本来に戻せばいいのである。

だから消費者としての時間を増やすことによって容易に戻る。
こうした病にかかった原因は、自分、自社のことだけを考え、
自分、自社を収益提供者である消費者のことを疎かにしたという
原因もわかっているのだから。

消費者は、会社やお店の得を考えて消費しているのではない。
経営者は、そうした消費者の得を考えなければ存立できない。

繰り返す。
豆腐屋は、豆腐が売れなければ成り立たない。
だが、消費者は豆腐屋がなくても生きていける。

これがわかれば、どうしたらいいかは自明の理。


直す以外にない
本来に戻り、身につけていくこと。
自己なり経営なりを進歩発展、あるいは売れて儲け続ける
という目標を強烈に念頭に置き日々消費者体験を
積み重ねていけば身につく。これで案外に具現するものだ。

それを時間と金かけて経営者の立場からの革新をやっている。
捨てきれない、引きずった過去、その上に新しいものをのっけている。
ウインドウズの「上書き」と違って「これまで」が消えないのだから、
結局、新旧ごちゃとちゃになり長い目で見たら悪くなっていく。
その結果が出て初めて自分は余計なことをしたのではと後悔する。

それはいつも言っていることだが、
自宅の掃除ではき出さたゴミが外の消費者へふりかかること。
「鬼は外!」と鬼を消費者へ押しつけ、
「福は内!」、と消費者の福を中に囲い込む、といったように、
まるで経営、商いのセオリーの逆をやっているから当然だ。

逆をやっていても、ここまでこれたのだから、
ゴミは内、鬼も内といった経営をやったら
どれだけ大きく伸びるか。楽しみでもあるのだが。

私ごと。
W-7に昨年変えてHPの更新ができない状態が続いている。
それであれこれしていたら、昨日HPが消えた。
いや削除してしまった。旧いバックアップはアクセス権なし。
もがいて、この始末。これまでを惜しんで悪くした。

ではどうするか。

これはこれまでの上書き修正で
やってきたやり方に「ストップ」がかかったことだ。
延長を否定されたら、やり直すしかない。
「仕方がない」のではない。やり直すという仕方が常にあるのだ。

経営もそうだ。
人が同じ狢に陥るのも、この過去、現状の延長線に
未来を構築するといった考えが挫折するのも然り。

こうした状況を大昔から繰り返してここまで来れた。
人の寿命が短い時代はその成果より命が先に結果がでたからいけた。
しかし還暦からがこれだけ長くなるようになると、
こうしたやり方の寿命の方が先に尽きる。

やり直しは時間がかかる、と言う。
だがやり直さなかったらどうなるか。
間違ってままで通したらどうなるか。
人は、その選択肢のことを考えず、
偏った択一をしているのではないか。
そんふうにかってに、考えている。