経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

昔、昔、商店が

2010年10月31日 | Weblog
昔、昔、その昔。

町に、おじいさんとおばあさんが,小さな店をやっていました。
おじいさんは、毎日川へ魚釣り、
大きな町から問屋の営業マンが来たときだけが彼の出番。

おばあちゃんは,お店の奥の居間まで、
近所の友人、おヨネさんと馬鹿話しているか、孫の相手の片手間にお店番。

それでも息子や娘を一人前に育てることができました。


そして二人は,今、この孫3人を
大学まで出してやろうと夢を見ているのでした。

だからといってそれでチラシを蒔こうとか、店舗改装をやろうとか、
そんな頑張る気持ちはありませんでした。

そんなことを考えずとも,客は来てくれたからです。
なぜなら、この町にはこのお店の他に2つあるだけ。

このお店、A店は煙草と酒、塩といった専売品を中心に、
ちょっとした食品、駄菓子など。

もう一つのお店B店は、下駄と靴など履き物と呉服小物。それに火薬。
もう一つC店は、文具、本など、

皆、小さなお店でしたが、
それぞれ棲み分けと強みがあって共栄共存。
それなりに潤っていました。
ちなみにC店なぞ、3階建てのビルをつくっていました。
1階は、店舗兼居間。?階は、在庫置き場の倉庫。3階は住宅。



Aは,専売品の強み。
Bは、シューズや制服を学校などへ納めている強み
Cは、官公庁への納めと,学校への教科書独占です。

この小さな町にも、物を売る側にとっては
平和で、おだやかで、良い時代がありました。

売らなくても、商品を並べておけば売れた時代。


その時代のなごりか,今でも,鹿児島の田舎では
客が,店に来て挨拶。
「ごめんなっせ、すんませんが、パンば,ちっとわけったもんせ」

共通語に翻訳すると。

ごめん下さいませ。もうしわけありませんが、
パンを少々でも分けて下さいませんか。

補足。
分けて下さいませとは、只で,と言う意味ではない。
売っていただけませんか、の一種の謙譲語である。


分けていただいて,帰るときの客の挨拶。
その商品を,自分の額の上に惜しい抱き、
客;「あいがとうごわいもした。またたのんみゃげもんで」
店:受け取ったお金を,手提げ金庫に,投げ入れながら、
「また、きゃんせ」

これも通訳。
客;「ありがとうございました。またぜひお願いをいたします」
店:「また、おいでなさい」

昭和30年前半ののどかな,商店の風景です。




空間

2010年10月28日 | Weblog
変えるとは、
今、心身を置いている空間を変えること。

私は、そんなふうに考えています。

行く場所、やり方、読む本、交通手段・・・
可能な限り意識して変えるようにしています。


それに来年3月21日からは、
川内駅から博多駅まで1時間内でいける。
これは鹿児島県の事業所は、
博多を、自分たちの商圏にできるということ。
まさに、千載一遇の幸運到来です。

加えてツイッターは、遠方ほどコストがかかる、
といったことに関わりなく、県境はもとより
国境すらありあません。


私は、講師として、いわば壇上に立ち、話をする立場。
ですから不足しているのは、席に座り、話を聴く立場。

それで、福岡や熊本の有料のセミナーに積極的に参加。
受講生の体験をし始めました。

そうしたことで、自分の物理的空間を、博多など本県以外に。
情報空間をツイッターに、ということを始めました。

まだ結論を、と言うほどのことはないのですが、
感触としては、間違いなく正解です。

仕事以外の世界は、こんな広いのか。
こんな知らない空間がいっぱいあるのか。
なんと広々としているのか。

立場、仕事、自分の生活、とは無数にある空間の中の1つに
過ぎなかったのだといった驚きを実感している、毎日です。
これだけでも勇気と希望がわいてきます。


そうしたことで、何が変わるか。変わらないのか。
わかりません。変わらなくても良い。
気分はすごくいい。そんな感じです。


後の祭りの理由

2010年10月25日 | Weblog
「売れない」は「購買されない」こと。
「売上の過小」は「購買額の過小」の結果である。

売上の主体は売り手、購買の主体は購買者、広くは消費者である。

この場合、売り手は、購買の主体者ではない。
そして、購買の結果、売上が立つのであるから
売り手が売上を作ることはできないことは自明の理である。

売り手が別の場で,買い手になることは,当然であるが、
ここ、自社、自店では、買い手ではないし、買い手になれない。

だからひたすら、ただひたすら、
購買の主体社である購買者、消費者へ、購買を促進するしかない。

その場合、対応の相手は消費者、講じる対策、あれこれが「購買促進」である。


にもかかわらず、対応する相手のことを考えることもなく、
だだひたすら自社、自分の売上対策の対象として,
売上促進あれこれを画策している。

ちんぷんかん、ちぐはぐ、なんかおかしくはないだろうか。

そうした一方的な思考、行為の積み重ねで、堆積されたものが、
ある一定度を超えたとき、逆Vの右辺に達し、
そこから努力の如何を問わず下降線になる・・・・。

こうしたことがこの今、自分の企業に起きているのではないか。
それが自社が危機に陥っている要因ではなかろうか、
といった仮説を描くといったことは、まずは希有であろう。

当然といえば、当然である。である。
検証も反省も修正も、企業の論理の範疇で行われているのだから。
その意味で、汚水の入ったバケツをかき回して、
真水に変わることはない,ことに等しい。

P→D→Cサイクルが、なんど繰り返されようと、無意味である。

外の世界を、内で議論して変わるはずがない。
外の世界にいる消費者を、内の論理でコントロールした時から
外の消費者は、背を向け始める。
その姿は,内にいる者には、
売上の減少という結果がでるまで、みえない。

対策は過去分析、後手、後の祭りに終わる,
その理由が、ここにある。  

縛られ、カミソリで

2010年10月22日 | Weblog
業界、そして自分の仕事、やっていることの特性を
本質部分で捕まえ、その中の普遍性部分を、自分に置き換える。
これが進歩発展、学ぶということだと私は思っています。

そこで1つのケースとして、理髪業を採り上げたい。
理由に他意はない。


長崎の理髪組合傘下の理髪業皆さん達に、
毎月一回脳力開発ゼミを1年に渡って行ったこと。
その御縁で各地の理髪業皆様方との御縁を頂き、
理髪業の学会の全国大会で基調講演をさせていただいたこと。
そうしたことで、S62年に理髪学会の全国大会の基調でお話した
ことを思い出しながら、書き進めています。


利発な皆様方には、申し上げなくても良いことですが、
別に理髪業の話をしているのではなりません。
例に採っただけですから、養豚業の方も印刷屋の方も、
公務員さんも、運送業の方も、区々自分の仕事に置き換えて
考えていただければ、と考えます。


自分の店舗の中で、理髪を目的に来店したお客の、
体の一部分である頭だけに関わる仕事、これが理髪業です。

しかも使用する道具は、主に鋏とバリカン、それに櫛、この3つ。

休みの日を別にすれば一日中、この極く狭い世界で、
限られたお客さんの、身体のごく一部分を、
大抵は夫婦ふたりで、ちょきちょきやっている。

このことから、どうしても視野、思考が狭くなる。

このことに気が付いたのが、
長崎県の理容組合の佐藤理事長(当時)。
そこで、私に声をかけていただいた。

理髪には、1人に当たり1時間~2時間の時間がかかる。
一席当たり概ね5回転程度が限度ということになる。
これもお客が来れば、の話。


これを利用者から見るとどういうことになるか。
お客からみたらは、1時間~2時間の間、
拘束されていることになる。
しかも手錠をはめられて、剃刀などの刃物を持った人に。
上から見下され、唾を浴びながらる

理容師の多くは、こうした利用者の苦痛がイメージできない。
なぜか。

理髪店を利用していないNO1は理髪師。
床屋さんは、他の床屋を利用したことがない。


1-世界が狭い。
2-関心が一部分である。
3-客体験を持っていない。

だからです。

これが、佐藤さんに、提出した提言の結論です。


そとから見て

2010年10月20日 | Weblog
「そのことは、お客さまからみてどうか」、
という自問自答を常になし、その問をクリアしたことだけを実行する。

これを組織に徹底させない限り、知らずして消費者からの厭われ、
企業は自らの発展が阻害されることになりかねないのである。

売り手の事業は、購買者の購買活動によって成り立っている、
という両者協力関係にある、ということを考えれば、
せめてその協力者の協力を問いかける言葉、
「そのことは、お客さまからみてどうか」、
を自らに問いかけ、検証することは、
我が身を守る意味から積極的に励行されて当然と考える。


仕事は組織内だけではなく、組織外の人たちとの協力関係が不可欠。
そうした考えを組織内に取り込んで、徹底浸透させてこそ「仕事」、

いわばこれまでの、仕事の定義を変えるところまで
踏み込む必要があると考える。

人はとかく、相手様の都合は忘れる。
特に自分が忙しいときには、人の忙しさに気が回らない。
その上に自分たちの段取りで仕事を進めて、
それを「効率的」とか「段取りよく」とか称している。


それをさらに確実化、実効性を上げるために、
セミナー、研修会を受講し、専門書を読み、
コンサルタントに学んできたが、それらのなかに、

「お客様からみてそれがどうなのか」、

という、消費者を中心に置いた思考が希薄であった。
私たちは、こうした反省をしておかねばならない。


部屋の掃除とは、内のゴミを外に掃き出すことである。
節分に叫ぶ、おなじみの「鬼は外、福は内」の意味は、
いやなものは外へ出し、良いことは内へ、といった
まさに自己中心敵発想の象徴的な言葉である。
 
このように私たちは、常に自分(内)を中心に、
物事を思考する刷り込みの中で育ち、教育を受けて生きた。

だからこのまま、「しかたがない」では、
事業が潰れても仕方がないことになる。
仕方がない状態にしないために、仕事をするのだ。

お客様からみてそれがどうなのか
消費者を中心に於いてものを考える習慣
意識して外から組織内をみる習慣、
仕事の概念、定義を組織の外まで拡げるること

こうしたことを組織に培うことが必須になると考える。

これが、私が提唱している「消費者中心主義」。
先に触れたが、これは自分をこちら、中心において、
対岸の相手にお客様第一主義、顧客志向、といっているものとは
似て非なるものであることを、最後ここに確認しておきたい。

3つの戦略

2010年10月16日 | Weblog
戦略」には、元来長期、俯瞰的側面がある。
長期戦略ないところに短期なし、中期なしと述べた。

ゴール、目的があってこその戦略。
だから終点の明記が絶対不可欠。

これで始めて戦略のもつ「方向性」が出てくる。
ゴールに向かうに際し、「勢い」も生まれてくるというものだ。


上に述べた「戦略」のあり方に即しているか、
していないか。

そうした検証は、通常何かトラブル、事件などが
発生してから、すなわち後の祭り的に行われることは
あっても、事前に行われることは、まず希有である。
要するに、不整備状態の車で見切り発車したようなものだ。


だから結果的にうまくいったケースを振り返り、検証を加え、
このありかたで、これからもいいのだろうかといった、
かすかな良心の呵責と素朴な不安をかき消してしまい、
逆に成功体験として上書きされることになる。


こうしたことが何年も繰り返され、
その間蓄積されたマグマ、消費者の不満が、
これ以上は我慢ができないといった沸騰点に達したとたん、
企業にとっては「予期しない出来事」が発生することになる。

しかし、かねがねから、こつこつ、あるいは一生懸命に、
墓穴を掘っている彼らを端から、外から、俯瞰的に見ている人たちにしたら
それは「予期しない出来事」ではなく、
「起こるべくして起ったこと」なのである。

それでは 端から、外から、俯瞰的に見ている人たちとは、
具体的にどういう人であろう。

それは3つの要件を備えた人だと考える。
1に、歴史から学ぶ者である。
2に、終点(ゴール)から始点までを俯瞰できる人である。
3に、「そのことは消費者からみてどうか」と常に自分に問う人。


企業の大小の選択、意思決定に、あらゆる答えは
上の3つ、少し言葉を換えて再掲するが、

歴史から学ぶ。
ゴールに立っての俯瞰的視点、思考、
相手の立場から自分を見る

この3つが、
戦略問題であろうと、戦術に属する問題であろうと、
組織の問題であろうと、個人の問題であろうと、
不可欠であると私は考えている。
     (続く)      

諸悪の根源

2010年10月13日 | Weblog
日常生活の中では、取り立てて戦略、戦略と意識することはない。
それは無知といったことではなく、そうする必要を感じていないか、
無意識になしているからであろう。

しかし企業経営において、戦略を意識もせず、考えもせず、
判断、決済を無邪気にと言うわけにはいくまい。

ところが現実的には、そうした「無邪気」を
行っているところが随分と多いというのが
私の体験上からの実感である。

確かに経営会議などでは口泡を飛ばした激論が
戦わされたとして、その節々に「戦略」の単語は頻繁に発せられる。
が、その中身は極めて情緒的、短絡的、思いつき的なものである。

その典型的な例が、組織を挙げて、
あるいはトップ指示の偽装事件の類である。

長期戦略にもとづく思考、長期戦略にもとづいてこその会議、議論
長期戦略にもとづいての今の判断、決済、今日の為すこと。

こうしたことは知らずして自分と自社の「あやうさ」の要因を
コツコツと日々蓄積しているのことになる。

俗にこれを「自ら墓穴を掘る」という。
当人はまじめに墓を掘っているのだが、
それが自分と組織の骸を納めるためのもの、
ということがわかっていない。

その墓穴を掘る行為を、「会社一丸になって頑張ろう」と
シュプレヒコールし、上は配下の尻を叩いている。

まことにはたからはみると滑稽、かわいそうなことでもある。


「戦略」には2つの側面がある。
1つは「長期」という主眼。短期戦略があるじゃないか、
と反論もあろうが、それは違う。
長期があってそれに即した一里塚的なものが、
短期、中期の戦略の位置づけである。

だから長期戦略ないところに短期なし。中期なし。

2つ目は、ゴール、目的があってこその戦略ということだ。
ゴールがあるということは起点と終点が明確である、ということだ。
これは絶対不可欠なことである。

ところが、手元にある何十社かの経営計画書をみても、
始点はあるが終点がない。

このことは「方向が決まらない」と言うことを意味する。

「方向が決まらない」、このことこそ組織が機能不全に陥る、
そして諸悪の根源なのである。


それいけドンドン

2010年10月03日 | Weblog
経営者が戦略的に自社の行く末を、
ゴーイングコンサーンに目標を置いていたら
今のために将来(さき)を担保にしたり、今の業績確保のために、
将来を危うくしたり、といった短期的な判断は取らない。


社員が「背を腹に替えらる」といったやり方、
今のために将来がどうなろうと、知ったことか、
といった類のことを、一切やらせないであろう。
 
しかし現実は、今の飯食えず、将来が食えるか、
それいけどんどん、さぃを心配する暇あったら
今、電話しろ。今、はんこ押させろ。
朝駆け夜がけ、それでおまえらの死活が決まるんじゃ、となる。


長期戦略、長い目で物事を考える。俯瞰的思考は、
大陸ではない、島国に住む日本人は苦手、というか
そうした考えすら欠如しているとされる。

さもありなん。
「やあやあ、我こそは・・・」といった一対一の戦い、
すなわち戦術レベル、技の競い合い。これが長く続いていたのである。
あるいは感じように任せて、将来(さき)の見通しもなく発作的に
戦いを起こして、自滅した明智光秀の如く「思いつき」か。
いずれかが主流だったと言える。

そうした時代に、桶狭間の戦いに見られるような、
[戦略にもとづく戦術の行使」を実践で自在に行使した織田信長は、
まさに傑出した人物といえよう。


経営者がゴーイングコンサーンを選択しているにもかかわらず、
配下が後者的行為、すなわち「その場良し、後わからず」
といった仕事をなしているのであれば、
それは戦略が徹底されていないことになる。
だから、その点を反省、徹底を図ればいい。これが対策だ。

だが、経営者が、「いけいけどんどん」を組織に命じているのなら
それは事業にとって死の選択を自ら採っていることになる。

その場合そのことに気が付いた者が諫止できればいいが、
そうした経営者はたいてい聞く耳持たず、諫言を嫌い甘言を歓迎
といったタイプがほとんどであるから、まさに粗指呼の不幸である。

良識あり将来が読める者は。その組織を去り、
甘言を弄して身の出世、身の安泰を図ろうという取り巻きが、
組織に残ることになる。

そして、タイタニック号の悲劇で見られるように、
船中でゲームに勝った者も負けた者も、船もろとも滅びる、
といったことは、古今東西の歴史の中にはごまんとある。

いな、歴史上の栄枯盛衰は、この2つの路線の織りなしで
綴られているといえる。(

社長様おられますか。

2010年10月01日 | Weblog
事務所に、電話が入る。


「お忙しいときに、恐れ入りますが、
私、マーケットアホンダラかぶしきがいしゃの売上減水と申します。
失礼ですが社長さまは、いらっしゃいますか」。
 
こうした類の電話が,近年増えた。
せっかくの機会なので,その背景を調べてみた。
以下、その報告。


 1年で見れば4月が一番多い。
これは新入り社員に,会社がダメもとで特訓教育でやらせているためだ。
つまり,消費者を実験台に使っていることにある。


時間で言えば、11時40分から13時、17時前後に集中している。
これは外回りが帰社し自分のデスクに帰ってきて、、
あるいは,喫茶でも入って携帯から、かも。

いずれにしても昼休みまでの時間を、
ダメもとで、やっているからと思われる。


ひと月で見たら月半ばから月末が多い。
販売計画未達成を恐れ、ノルマ稼ぎにダメもとで電話勧誘をするからだ。

ちなみにこれが月末になると、18時以降の電話が増える。
このままではノルマ未達成野可能性が高い連中が、
他の社員が退社後残業で勧誘しているためと思われる。



「そのことは、お客さまから、みてどうか」を考えて実行する。
この問いかけをしながら仕事をしている人は少ないであろう。

このことは単に心配りとかおもいやりといった問題ではない。
「お客さまから、みてどうか」の問いの答えが、
「実に不愉快だ。迷惑だ」であったら、
そのなした仕事は経費をかけて、お客を怒らす結果しか得られない。
つまりえらい損になるからである。

つまりこうした手法をとっている会社は、
そう遠くないいずれは消滅するのである。
潰れるために,今の売上を作る。

それでも後を絶たないのは、
一時的、短期的にはそれなりの成果があるからだ。
これは事実だ。

だからこそそれが魔物の魅力で、
わかっていても飛びついてしまう。

後の祭りでいうことは「背は腹に変えられなかった」


ここに長い目で見てと言う「長期戦略」、別の言葉で言えば、
企業にゴーイングコンサーンが求められる所以である。