経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

思いもかけないこと

2011年01月31日 | Weblog
自分のものを生み出す、創る。
それは、人から聞かされていたほど
難しいことではなかった。

師から学び、教えられ、得た脳力開発(脳開)に、
自分の個性、アイデンティティ、これまでの経験を加えて、
大鍋で煮ながらかき回しているあいだに、
それこそ北は旭川、秋田、宮城、岩手、南は鹿児島はもちろん、
福岡、愛媛、高松といった感じで、大勢の人たちが、
「田上脳開」(皆さんがそう呼んでくださった)
なるものが、全国区に広がった。

全国区、これが自慢風に伝わることを、恐れる。
それででもあえて、使ったのは、鹿児島・川内市(当時)、
それもわずか26世帯の田畑に囲まれた田舎に住む私が・・・という話を
自慢ではなく、微力でも、無名人でも、どんな田舎にいても、
人のご縁、人の褌、人に持ち上げていただけることで、
まるでタンポポの種みたいに、あちこちに広がる。

これって、なんだろう?

そうしたことを考え始め、積み重ねてきたものが、
私の経営、営業に関しての考え、理論、経営指導なり指導の根本に
ある。そのことをお話したい。
それで自画自賛に受け取られるきわどさを案じながら、記している。

先に、横道にそれるが、そのきっかけ、動機から。

そのきっかけは、地元の有志達による「千脳会」を別にすれば、
小田原・岡田屋においての高松の尾崎さんとの出会いである。
以後、何かのきっかけを作っては高松で脳力開発セミナーを主催。

また仲間と一所に愛媛の「宇和島脳開」にの参加くださった。

ちょうどその頃、広島のYMCAでも、広島・井辻食産の井辻さんの
それは、それは大きな力添え、お口添えで脳力開発ゼミを開いていた。

当時の状況をメモしてみる。
川内から、鹿児島へ。そこから九州高速道路にのり、縦断、
開門海峡を渡り、山陽高速で広島へ行き、その夜はYMCAでセミナー、
その後夜半まで懇親会。定宿ホテル ユニオで、しばし就寝。

朝、夜が明けない3時半には起きて、三原港へ。
そして始発の5時に出るフェリーで松山港に渡り、
そこから宇和島での13時からの脳力開発ゼミ。

それを終えて、今度は愛媛の八幡浜港から夜間フェリーで、大分臼杵へ。
そこから山並みハイウエーを経て、久留米から、元来た九州高速へ。
朝、8時前後に帰宅、といったことを月一回では、1年続けた。

ちなみに、この間の走行距離は一回で1000キロを超えていた。

この当時の忙しさで、自分の仕事が軌道に乗ったことは実感できても
それが、大勢の人の支えであり、人たちが、なぜ支えてくれるのか、
といったことを、考えることもなかった。

このおまじない

2011年01月29日 | Weblog
企業や経営者など上位者の代行者の、
意向を汲んで言動する従業員、イエスマンに給料を払って、
雇用している企業は大きな無駄とリスクを抱えているといってよい。

それはそうだろう。
組織は、区々個々異なる違いある人間がその違いがあるがうえに
組織を構成することができるという組織としての役割があり
それでこそ組織としての機能を果たせるからである。

まあ、こうした理屈云々より、大至急、
消費者の味方、お客様の代弁者となって、淡々と、あるいは堂々と、
企業内の化石人間たちに意見、考えを言える組織風土、
言える従業員を培い育て上げなければならない。
これを急ぐことである。

理由は明快である。
前者は、企業を消費者から切り離し孤立化させ、企業を持って危険にさらす。
後者は企業が組織を消費者に支持させることで、
経営者が楽をして、企業を豊かにすることになるからである。

なぜか? 理屈も簡単。
自分の荷物を運んでも金にならないが 、
お客様の荷物を運ぶことは、お駄賃をいただけ、
いわゆる仕事になるからである。


ところが実際、企業現場を見みると、
お客に関係のない前者で、忙しがっているところが実に多いのである。

これを後者、すなわち消費者を中心に据える。
そして企業なりお店なりの物事の判断一切を、
より直接的にお客に貢献する順に優先順位をつけて行動することで、
組織は活性化、勢い生産性を帯びてくる。
なのに、もったいない話である。

では、実際どうしたらそうなるのか。

私の経験では、次の二段階の習慣作りが有効である。

まず企業内で、言動、判断する際、
「自分が買う場合だったらどうか」、
「自分がお客だったらどうだろうか」

と、問いかける習慣作り。これである。

私は売り手、消費者は買い手、この関係を入れ替えて考えてみること。
買うのがこの自分だったたどうするか、
子供さんがいる方は、
実際に、主語自分、自分の娘さんに置き換えて、
考えてみる、といったことである。

このおまじない、効きますぞ。

大中小とアイディンティティ

2011年01月26日 | Weblog
アイデンティティという言葉は、
日本語に訳しにくいとされ、
そのまま使われることが多い。

あれこれ考えていて、アイデンティティは
この唯我独尊にニュアンスとして同じではないか。


個性があるから存在価値がある。
個性が違うから、それぞれ持っているもので、
人様に役立て、社会を構成できる。

またそのために他者から尊敬されるのではなかろうか。

とすれば、いわゆる画一化とか人並みといったことは、
このシステムとしての社会にそぐわないものではないか。

手元に、父の代からの古時計がある。
もちろんアナログである。
裏蓋を外すと、大中小の歯車で構成されている。
これは1つのシステムである。
こうした大中小の歯車の組み合わせで動いているわけである
時計が動くのは、大だけではない。
中だけでもだめ、小だけでもうごかない。

この場合、大は大きいことを誇るか。
この場合、中小は大を目指すか。

しかるに社会はどうか。

唯我独尊を知らないはずがないお寺さんは、どうだろう
お寺さんがどこでも、駐車場経営などやる。横並び。
おみくじの値段がみな同じに値上げされた。横並び。

お店のこと、あなたの街のこと、どうだろう。
どこにもある店、どこでも同じような街になっている。
それをどう思う?
大を目指すことは、
中小企業は、大に劣る。
だから大きくなることを目指す。
これをどう思う?


もちろん、小の選択肢は2つある。
1つは、小は小なりに小としての役割を果たすこと。

そんなんじゃしょうがない、という人は、
もう一つの選択肢、大きくなることを目指すこと。

そしてめでたし、大きくなったとしても、
大は、大なりの役割、それも他の多くの大と異なる
アイデンティティを発揮しなければ、存在を許されない。

このことは小の場合、中の場合となんら変わりがない。

ならばどちらの選択が、自分として、自棄業として
唯我独尊であられるか、
そしてアイデンティティを発揮できるか。
しかと、考えて選択する。
これが人生、あるいは事業における根本戦略となろう。



情報の達人

2011年01月23日 | Weblog
少し情報と偏りの話をしたい。
情報など本や資料などでも得られるじゃないか、
と思う人がいたら、遅れている、と皆笑うだろう。
インターネットで、という人がいたら、それもあろうが、
それよりも、と云いたくなる。

本にしろ、インターネットで得る情報にしろ、
それは他者を通しての情報である。その分角度も鮮度も落ちる。

対して散歩、人に会う、

つまり自ら手と足とクチを使って、動くことで
得られる情報は、自分の五感で直接、ビビットに得るものであり、
その量は比較にならないぐらい多い。

人をとおしての情報には、意図、恣意があろうがなかろうが、
間違いなく確度、鮮度、純度は確実に劣化する。

それだけではない。
その多くは、とおした人の数が多いほど、
歪み、ひずみ、偏り、不透明さ、といったものが
含まれることは避けられない。

どんな時代であろうと、これからどんな時代になろうと
動く、行動するものが、情報の達人でいられることは変わらない。

愛を乞う

2011年01月21日 | Weblog
賛成の人が、この指にとまる。
反対だったら止まることはない。

商品、サービス、そうしたものを提供する企業、お店など、
みな、この「指止まれ」的ではないのだろうか。

いろいろ考察した結果の私の想いで、楽しい仮説になった。


世に生まれた意味は、この世に自分しかいない。
自分しかやれない「役割」を持っている。
だから最低でもこの自分は自分に尊厳を持って自分を慈しむ。

自分がそうした思いで満たされていてこそ、
他者にも、同じ気持ちになれる。
なぜなら、他の人それぞれが、この自分と同じ「自分」であり、
その存在は唯我独尊なのだから。

それは自分から見ての他者、相手も自分と同じで、
相手も自分と同じに唯我独尊なのだから慈しむ。

自分を尊ばないことは、他者を尊ばないことになるし、
他者もあなたをないがしろにする。

たまたまその頃、
映画「愛を乞う人」(原作下田治美、監督平山秀幸)を見た。

この映画は、母から幼児虐待を受けて育った娘が、母となり
自分の母と同じように、子供に虐待をする、といった
幼児虐待がテーマの壮烈な内容のものであった。

愛された経験を持っていない人は、人を愛することができない。
そうしたことで愛を欠く人は、他者の愛を欲し、
愛を乞う人人となる。
そして、愛を求めるために、虐待を繰り返す。


文章では伝えがたいことだが、映画ではその真実味が
臨場感をもって、自分に染み入ってきて、

考え続けていた唯我独尊と重なった気がした。

私に人を語る資格はない。
私が、唯我独尊のことを考えているのは
あくまで私の生業である「経営」のあり方に、関してある。


愛を乞うのは、愛が枯渇し、愛に飢えているから。
この指止まれが、できないのは、
この指にとまる人がないと思うから。

その理由は、自分を唯我独尊的存在である、
とわかっていないから。


唯我独尊を考えるきっかけは、
経営で、日常的に出てきて、
そして私も何気なく使っていたこのアイデンティティ。

日本語で言ったら、どういうことだろう。

と、考え始めたことに始まる。

この指止まれ

2011年01月19日 | Weblog
宇宙、天が動く(ように見える。
他の人の真ん中に、自分がいるようにみえる。

「天下天上唯我独尊」 、

なんと雄大な、爽快な快感であろう。

「天下天上唯我独尊」

この世の中で、この俺様はこの俺しかいないんじゃ。

これが、「俺様はえらいのじゃ」とここまでいくと行き過ぎ。
「天下天上唯我独尊」から、遠ざかることになり、
単に不遜、威張る人になる。

みなそれぞれが、各人 「天下天上唯我独尊」。
そのことは、自分は他の人にない、
他の人から尊ばれるものを持っている存在。
彼は、自分にない、他の人から尊ばれるものを持っている存在。
一人一人が、誰にも持っていない尊ばれるものを持っている存在。
だから、当然謙虚になる。

自分の存在そのもの。
個々の存在そのものが「天下天上唯我独尊」
価値ある存在である。
価値ある存在とは、それぞれの役割を持つ、と言い換えられる。

八百屋は八百屋として。それを経営するAさんは、
Aさんなりの価値付けをしてその八百屋を営む。

八百屋は八百屋として。それを経営するBさんは、
Bさんなりの価値付けをしてその八百屋を営む。

だからいくらや八百屋があっても、
全て、個々「天下天上唯我独尊」であることが本来なのだ。

その本来を全うすることで、存在できる。
その本来を失うことで、滅する。

こんなことを考えて、あて自分の生き方、
生業、事業のあり方、街作り、そういったものの

本来は、「天下天上唯我独尊」 で、
あるべきではなかろうか、と考え始めた。

換言すれば、「この指止まれ」

自分の「存在」を自分で認識して、じっとしていたら
周りの人がその存在、価値、役割を認知し、それに惹かれて
この指にとまる。



ゴキブリはなぜ捕まえにくいか

2011年01月16日 | Weblog
周囲が動いている。他の人も動いている。

その動きがわかるのは、自分が動いていると
捕まえにくい。とりわけ同じ方向に動けばわかりにくい。

このことを縷々述べてきた。

これを逆に言えば、固定費がわかると変動費がわかる。
自分を停めて見なければ、相手の動きは捕まえにくい。

あたふためいていては、状況は掴めない。
右往左往するな。落ち着け、といったことになろう。


当然、相手だって動いている自分はわかりにくかろう。
ゴキブリが捕まえにくいのではない。
動いているから、捕まえにくいのだ。

その証拠に、死んだゴキブリは簡単に捕まえられる。
理由。動かないからだ。


「私は、こういう人間だよ」
と説明しているときは、一時的に自分を止めた時点をいっている。

五代目古今亭志ん生だったか、[お直し]のアタマにこういう話がある。
ある男が健康診断にいった。医者から[百歳までは生きられる]
と太鼓判を押され、有頂天で病院を出た。
そのとたん、車でひかれて死んだ。

何とものやるせない話だが、この男、医者に文句は言えない。
医者のその時点の状態からの将来(さき)の診断であり、
将来の情勢変化を診断したのではないからである。

これは損益計算書、貸借対照表なども、
決算日における状況に過ぎない。

過去は未来を約束しない。
今もまた将来(さき)を約束していない。

理由は、「変化」するからである。

となればせめて、この今時点をもって、
将来の変化を可能な限り、読み、対応するしかない。

それは、可能か。
どうしたらいいか。

私がよく口にする「情勢判断学」が、その方法である。

その根本は、世の中には、動く物と動かない物がある。
経費には、変動費と、固定費がある。

このことは、片方を押さえればあとは掴める、
ということである。

畢竟、不動のものを持たない者が、
変化を読めるはずがない、ということになる。

断定できること

2011年01月14日 | Weblog
自分が乗っている列車が走る。
走っているはずのない景色が、反対に走る。
そして列車の中の自分は、あたかも一定値に留まっている。
並列して走る列車があったとしたら、
双方とも動いていないように見える。

動くということは、動いていないものがあってこそ。
止まっているということは、動く物の存在があって
初めて認識される、という、この当たり前のことを
私たちは、意識しない。


自分が唯我独尊的存在であることを意識している人は、
他の人もまたも区々唯我独尊的存在である、と
認識する人であろう。

区々全てが、みな唯我独尊。
だからこそ、存在価値がある。みなみな例外なく存在価値がある。

その存在価値を、役割分担ありと置き換えた方がわかりやすかろう。


この俺は、唯我独尊。だから俺なりの役割分担がある。
その役割を果たさない。もしくは他の人と同じであれば、
存在価値も役割分担も与ることはない。
ならば、この俺のやるべきことはなにか。
唯我独尊を極めること。すなわち自分の役割を突き詰めること。


八百屋は八百屋としての役割がある。
だから八百屋としての役割分担を果たさないとしたら、
存在価値がなく、物理的存在の八百屋の看板も消えることになる。
ならばこの八百屋は、どうしたらいいのか。
発展するためにはどうしたらいいか。

なぜ多くの八百屋が、スーパーにより消えたか。
そうした中で、少なからずなぜ八百屋が生き残っているのか。

答えは簡単である。
役割をスーパーに取って代わられたのである。
役割喪失でその存在価値を失ったからである。

ではなぜ生き残っている八百屋があるか。

答えは簡単である。
「天下天上唯我独尊」 、
この世に俺は俺しかいない。

ならばこの店とておなじこと。
八百屋としての存在価値を、
八百屋としての役割を徹底的に究める、

と、この八百屋のおやじが難しい理屈をこねて、
決意したからである、とは言わない。
彼にアンケートもヒヤリングもしたこともないから
知るよしもない。

しかし、これだけは断言できる。
地域の消費者は、このお店にここしかない価値を
見いだしているからこそこのお店を選択し、購買する
ということで、支えているのだ。

その行為は、八百屋のためではない、
消費者各人の生活、家族のための選択なのだ。



人がいる

2011年01月09日 | Weblog
林檎の隣に梨が陳列してある。
なして梨なんだろう。
なして柿でもなく牡蠣でもなく、
なして花器でもなく、火器でもなく、梨なのだ。
なして、なして。なんでだろう。

そこには理由があるはず。
そして林檎も梨も、自ら選択し、自ら動き、
ここに並んでいるのではない。

この八百屋の親父かおふくろさんか、店員が、
ここに梨、ここに林檎と並べたに違いないのだ。
それにも、彼らなりに理由がありで。


17年間流通業界にいて、ひとかじり、経営の勉強をして、
経営指導、今は経営支援と呼ばれるが、この道を歩み始めて、
何年か経ったある時、本当に偶然に、店舗診断に行った
八百屋の店頭で、そんなことを考え始めた。


かねがねから経営の専門書、簿記、財務諸表
といった本だけではなく経済の本、マーケティングの本にも、
人のことがほとんど出てこないことに
疑問を感じていたことがある。

誰しも思われることだろうが、
そもそもそうした本には、
人という「主語」がないこと。
かろうじてマーケティングや心理学の本には、
単語として「人」は出てきても主語は、街であったり、
店舗であったり、クライアントであったり・・。

流通業で17年間働いた、と書いた。
私の実感としてはその世界は「流通の世界」ではなく
「人のどろどろしたうごめきの世界」であった。
そうした支店から、専門書を見ると、それはまるで機構の世界。
現実は、そんなものではない、という気持ちが今でも強くある。


ここに梨があれば、ここに並べた人がいるはず。
仕入れた人がいるはず。この梨を買う人がいるはず。

ここに八百屋があれば、それを経営している人がいる。
経営している人が生計を立てるためには、買う人がいる。
否、買う人がいるから、この親父は八百屋をやっておれる。

人がいる。人がいるからこそではないか。
こんなことを、真剣に考えて見たくなって、
「唯我独尊」の話になった。


明日は、その唯我独尊の話に戻したい。

両面思考

2011年01月07日 | Weblog
主観を立てたら、客観で検証し、双方成立したら是と判断。
客観を得たら、主観で検証し、双方成立したら是と判断。

主観だけでは、片面思考。その考え、一方的なり。
客観だけでは、片面思考。その情報は疑うべし。

これが両面思考である。

自分が、この両面思考を成しているかどうかを、
そして、この両面、主観と客観を対等に、偏りなく採って
初めて、正しい判断ができるのである。

そういう意味で、判断は冷厳であり、利であり、
情の入り込む隙がない、というのが本来だろう。

本来だ、と言う意味はそうでなければならないのだが、
現実はそうはいかない、といった苦みが含まれる。

だから人は、公私を対比させれば、「私」を、
情と理であれば、「情」を押さえつけることができない。


もちろん人によってその差はある。
その逆という人もいよう。

だから自分がそのどちらの傾向が強いか
そしてこの場では、そのどちらが強くでているか、
といったことを、少し立ち止まってみてみる。

そして、それが自分にもある、ということを
ことの折々に、思いを馳せてみる。
そうしたことが、大切なことになろう。

冷静にとか、心に余裕を持って、とは、
そのことをいうのではなかろうか、


最近、宮城谷昌光さんの「古城の風景」を読んでいて、
氏が、小説を書くに当たって、歴史上の事実と真相を
押さえるのに、こうしたやりかたを採られていることを知った。

歴史家としては当然の手法かも知れないが
(単に文献の記述だけで決めつけている歴史家もいる)

小説家が、かなりの些事にい一つ一つその矛盾などについて、
妥協、曖昧さを許さないで、こうした検証を積み重ねておられる。
このことを知り、これは凄いと驚嘆した。


ちなみに、ここで検証とは、簡単にいえば、
歴史上の勝者が記した記述と、
敗者が記したことが一致したものを事実とする。
そして、それ以外は捨て空いた空間を創造の世界に委ね、
小説家としての腕をふるう、ことを言う。