経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

政治家の自殺。

2007年05月29日 | Weblog
 「死んでお詫び」ではなく、生きていて、わびて欲しかった。ちょいと調べただけだから、全部とは言えないが、政治家の自殺の場合、「死んでお詫び」ではなく、「死んで自ら深層を闇に葬る」がほとんどのようだ。
 亡くなった人のことを冒涜と叱られるかも知れないが、言いたいことは死人にムチうつ、そんな不謹慎なことではない。

 与党はもちろん、野党も、警察、検察も、メディアも、否、世間も、死者に対してはその後の追求が、とたんにトーンダウンしている。そうした風潮にもの申したいのである。 当人が死ぬことで真相解明どころか、真相解明の声も、避難お声もたちまち、立ち消え、死者はたちまち過去の人。事件はたちまち過去のこと、になっているのである。

 これでは死んだ人は、浮かばれまい。死を懸けて、守秘したいこと。事実を、国民に明らかにしてこそ、死者の「死」」に報いることが出来るのではなかろうか。
 
そして、彼(ら)をして、そこまで追い詰めたものは、何だったのか。純粋に当人だけの固有、特殊問題だったのか、その原因を風土や体質的な分野まで、専門家グループを編成してでも、きちんと押さえておくことが不可欠では無かろうか。次の不幸を生まないためにも。

 このことに何処まで踏み込んだ対処が出来るかが。国民の最大の関心であろう。
ただ、「心痛の思い」、「二度とこのような」、「多に代え難い有能な人材を」、といった型どおりのセレモニーで、幕を引くようだと、国民は安倍政権を見限るだけではなく、与野党、マスコミにまで不信感を持つことになる。それがどんなに怖く、不幸なことか。
 今後に注目したい。」

松岡農相自殺と政局

2007年05月28日 | Weblog
 闇という語は、不透明でくらいことから、何か不気味な感じを抱く 。闇に葬るとかけば、本来、不審なこと、疑惑は、明るみに出すことで、不審も疑惑も晴れるという期待があることに対して、これを何者かが、多分に恣意的に、闇に持って行く。これを闇に葬る、という。

現職の大臣が、自らを、否、自らとともに葬ったもの、葬ろうとしたものは、あるのか。ないのか。

こうした場合、なお疑惑は、闇から闇に葬られるこの可能性が高い。死者に対して、とやかく言わないいうのが、とりわけこの世界には強い。それはこの身内世界のことであって、国民は、なおいっそうのこと知りたいことを、知りたい。闇に明るさを通して欲しい、というのが大方の願いであろう。

 さて、安倍政権、どう動くか。これで疑惑が闇から闇だと、まず政権は持つまい。だが、s「それはそれとして、疑惑をきちんと・・・」といった野党を上回る姿勢に転じるなら、災い転じて、になろう。

 人情の問題ではなく、政治、政局の面から、国民の納得のいく対応を期待したい。これで、野党まで矛先を失い、矛を収めてしまうようであれば、これは国家に対して、国民がなおのこと不信を募らせることになることは確実だ。

 今後の警察の動きとともに、与野党の動き、政局の動きを、ここは冷厳に見守りたい。


入れたら消化し、出す。

2007年05月26日 | Weblog

入れたら消化し、出す。

出すから入れる。入れて、消化せず、戻すと、滋養にならない。

生きるために、食べ物は、この流れ。

入れた知識を、消化して自分お知恵となし、出す。

入れた知識を、そのまま出せば、知恵にはならない。ICコーダーは、いくら入れ
ても、知恵が付き利口になることはない。

本を読み、人の話を聞いても、そのまま口に出してはICコーダー

手持ち材料+当期仕入材料=現在手持ち材料

この現在手持ち材料を使って、私たちは話したり、書いたりしている。

話したり、書いたりして外に出せば、その分冷蔵庫に余裕が出るから、冷蔵庫に残っている材料をタンピンカンリして、欠けているものを仕入れる。

昔は良く勉強していた。食べ過ぎで消化不良になったり、不良在庫になったりで、どうも頭にはいらない。
 思い切って、本を持たずに旅に出た。5日間、本も新聞もTVも見なかった。帰ったら頭すっきり。そこで、頭も、お腹も同じことに気づいた。

そこで、私は、1テーマ800字原稿概算を毎日、2テーマ書くことを最低日
課にして、もう何年も続けています。

生きてきた証は、文字に残したいという気持ちもありますが、 なにより楽しいからです。
それに、1日も欠かさず継続し、書くようになったら、ネタを探すためでしょうか、本や人の話が、実に頭に集まる、といった望外の楽しみが加わりようになりました。



HP改築に思う

2007年05月25日 | Weblog
HPを大幅改訂した。案外簡単に済んだと思ったのに、結構手を焼き、時間を食ったのは、リンク切れ。コピー&ドロップで、前のHPから異動したアイコンが、いざクリックしてみるとほとんど切れている。外からはわからないから、なんどもなんどもやり直す。

 
 人はつながっている。つながりを求めている。つながりがなければ生きられない。だから、たかがリンクというなかれ。リンクこそ、他との接点、結びつき。これが切れると言うことは、外部の人との縁が切れることと同じこと。
 そんなことを考えながら、この面倒な繰り返しをした。

 HPのリンクは、切れたリンクを一括で接続する、ということは不可能なことのである。ひとつずつ、ひとつずつ、リンクしていくしかない。

 マクロ的には、大勢のお客が押し寄せた、といった言い方をするが、これを買い手から見たら、店の人に金を渡し、商品を受け取る。売り手から見たら、買い手からお金を受けとり、その手に商品を渡す。ここで初めて両者は、瞬時だがつながる。

 この行為はまさに一人一人がリンクされている接点なのだ。来店したお客、100人とお店の一括取引ではない。

 商人が、お客との信頼を、一人ずつ、コツコツコツと築き、こうした接点を得る。これが商い。そういうことなのだ。
 HPのリンク切れを、修復しながら、わかっていることを、実はかまけていた気がして、愕然とした。どんな精巧なHP、見栄えの良いHPであろうと、リンクがつながっているのか、切れているかは、見分けが付かないのだ。
 
 あわてて、長くご無沙汰している、高校時代の友人に葉書を書いた。

知恵と行動

2007年05月24日 | Weblog
知恵は、行動による試行錯誤(これこそ、「考えること」なのだ、と私はかってに思っていますが)」にはよって生まれるものなのだ、とおもいます。学んだものを知識、これを材料として、動くことで、知恵になす、というプロセスは、食材を、料理し口や胃、小腸などの活動で消化することで体に取り込み、血肉とする、ことかに倣ったことです。

ですから、繰り返しになるのですが、「考えること」は、動くこと抜きではできないのではないか。なぜなら考える材料は、これまで脳に蓄積された知識という在庫とあらたに外部から脳の中に仕入れ、取り込まれたもので成り立っていると思うからです。

そう考えると、誰かがいったこと、本に書いてあったこと、インタネット情報などを、口に入れ消化せず、そのままはき出すようなことでは、血肉にもならない。高性能のICコーダーから、素晴らしい講演が流れたとして、「このICコーダーは高性能だから、素晴らしい講演をしている」と、感服する人はいないでしょう。

でもこのコーダーと同じようなことをして、結構粋がっている人は少なくありません。聞いている人は、へきへきしているのに気づかない。立派なことを言った人が立派だということにはならないわけですから当然です。立派なことをして、なして、行動して、世間の人は立派な人だ、と人は認めてくれるのですから。

幼い子供ならともかく、きちんと自分なりに消化して、自分の知恵化して、自分の言葉でいう。これが大人です。

 しかし、ただむやみにそこらを動き回っても、かかるエネルギーが無駄になるばかりか、成果は得られません。上で、あえて「動く」と表現したのは、行く方向が定まっている動きである「行動」と区別するために、あえてそう表現しました。つまり行動は、「何かの成果を得るため」という目的志向的な動きです。

何をなすかわからないまま、材料を集めに動いても、料理になりますまい。インドカレーを作る、と決めたら、効率的に必要な者を求めて行動できますし、旨いか不味いかの差はあってもインドカレーができます。まちがってもオムレツができることはない。

「目的志向」の凄いところです。動きに目的を持たせると、行動になる。その目的志向をさらに強く打ち出すために、私たちは『戦略を確定する』といったことを、実は日常生活でも意識せず使っている人もいる。使わない人もいる。使う時もある。使わないこともある。これを意識して誰でも、いつでも使うようにしたら、すごく進歩発展するぞ、やろうじゃないか、ということで出来たのが、脳力開発なのです。ご興味ある方は、徳島や新潟・十日町市で年に何回か、不定期にやっていますので、ぜひ一度のぞきに来てみてください。詳細は、私のホームページ http://jatsudon.in.coocan.jp/
をご覧ください。


似てくる街

2007年05月23日 | Weblog
今の街作りは、よっぽどの意志が加わらない限り、遅れの補完、先進地への横並み、モデルそっくりシヨーになってしまう。
遅れには、追いつけ、先進には、うちは遅れているから追いつき並べ、モデルにたいしては、そのままでは叶わぬ。せめて整形と、同じ洋服で、といったニュアンスがある。
先を行く見本があるわけで、その見本が真からの理想であるかどうかの論議はない。またその先進地のモデルの先に何があるかも考えない。ただひたすら、全国各地の商店街が、抜きつ、抜かれつのいたちごっこをやりながら、画一化へむかってまっしぐらで、到達したら、「みな同じ街化」いな、ということになる。

これでは、近代化、高度化とは名ばかり、ということになる。
街づくりがそうであったとしても、それを構成するお店がそれぞれ個性化なり、アイデンティティなりを発揮した店構え、品揃え、陳列、販売などなどをやれば、その器の画一化をカバーできるのに、そのお店がまた画一化を一生懸命目指して頑張る。それに最近目立つのは、全国的FCのフランチャイザー店や500メートルに一店の割で全国チェーンのコンビンがあるから、どこの商店街も同じお店で構成されることになる。地元の人たちから見たら、まるで身も心も異邦人のお店だらけ。発する言語もなまりだけは残してのコンビニ語。それでもかけ声は、流行にのっての、「オンリーワンの品揃え」、「地元企業御用達店」、「地産地消が売りのお店」、
 
 かつて、全国にたくさんの銀座通りと本町、元町ができ、本家本元、元祖を除きそれらが先頭を切って衰退したのと、また同じことになるシステムを、予約セットしているようである。

近代化なり、高度化なりした商店街とその構成員である各商店の、最大の問題は、これから、最低でも20年、箱に縛られ作り替えることがまずできないこと。新しくなった街は宿命的に、その日からもっとも保守性をおびる所以である。コンクリートと鉄で固められた箱に縛られ、借り入れに縛られると、苦難の始まりでもあるわけだ。

 それを、箱以外の手直しとソフトで対応するしかない。
 ところがそれらがまた、なんということはない新装開店の、「新装」という垂れ幕なり横断幕を外してしまえば、それ以前と何ら変わらないことになり、新しく作り直した負担分が事実としての残ることになる。

だが、自らの意志決定でやった本人は、まだいい。 
 今の街作りの問題の、第2は、コンクリートと鉄の型枠作りすることで、次の世代までその型枠でもって拘束してしまうことである。返済金と枠が、将来(さき)の人、後継者の夢、柔軟な対応力、選択肢をも縛ってしまう。このことにたいしてやるせない思いがしてならないのである。
 第3の課題として、スクラップ&ビルド、の考えはあっても、ビルドした箱をスクラップすることが、全く想定されていない街作りであることである。

 誤解して欲しくはない。上の3つの問題を指摘したのは、近代化・高度化そのものを誹謗するためではない。
物事にはすべからく両面性がある。だから、プラス面と、マイナス面を平等に眺め、プラス面だけに囚われるのではなく、マイナス面への対処を織り込んでおく、といった姿勢を問うているのである。

そうした思いから、これからの街づくりに関して、思いつくまま、3点ほど提言しておきたい。
 1に、新しいものは出来た瞬間から古くなる。固められたものは柔軟性に乏しい、といったことを、創る以前に想定し、それへの対応と覚悟を用意して、取りかかって欲しい。
2,課題のところで、触れなかったが、これまでの街づくりの大きな勘違い、あるいは錯覚、あるいは思い違いしてきたことがある。たとえば、に時として人より、車を優先してきた街作り、大きさと高さを誇る街づくり、自然発生的商店街を否定し買い物客から離れた場所での人工的な街づくり、いったもの。そうしたものをもう一度、消費者の立場から、ほんとうに是であるかどうか冷厳に査定し直す必要がある。
とりわけ、こんごの潮流として、高層型、郊外型、人工的なものは、首都圏など限られた大都市以外、人口的理由、高齢化の流れの中では、急速に時流不適応になると考えている。
 3に、近代化・高度化も、所詮数ある選択肢のひとつ、と考えて、それをやらない選択肢も公平にまな板にのせて惜しい。たとえば、最近少数派ながら話題になる例として、古いのならその古さを売りとし、古さに磨きをかける、といった街づくりといった逆の選択しもある、といったことだ。
 
 最後に蛇足ながら、申し添えておきたいことがある。それは、「誰のための街づくりか」という根幹に関わる部分を徹底的に論議していただきたいのである。

商店街の盛衰如何は、唯一つだ。消費者がたくさんの買い場の選択肢の中から選択されるかどうかにかかっている。だったら消費者から選択される視点、ただ一筋、そこに視点をおいて、街は創られるほど、支持率が高くなるのは自明の理である。

現実は、どうか。自分の店作りに、自我の欲求の具現を通したがる商店主たちは、街作りもまた、その延長線と見ていないだろうか。隣の商店主の顔を覗き込む前に、自分の顔を鏡で見ておく必要がある、と考える。
 

高い席から

2007年05月22日 | Weblog
壇上から、会場を見ながら、一人一人の体の動きや表情が、一種の会場の雰囲気になって、下から吹き上げてくる空気が、話している私の頬に触れる。そうしたものから情報を受け取り、話の内容や話し方等を微妙に対応させて、話をする。書けば難しいようだが、壇上に立つ仕事のプロなら、皆やっていることです。

 とりわけ、その最たる人たちは、落語家だ。時間がないので、最近はCDで聞くことでお茶を濁しているが、本当はライブ、それが叶わなくともビデオで、その全身から学び取らなければならないと思っています。

 壇上に立つ人が、檀下にいる会場の一人一人の動きを見逃さないのはプロとして、当たり前のことである。だが、壇上に立つ者は壇上に立つ者を見ることは出来ない。会場の人は、壇上に立つ人の動きに対応して、自ら動いているのに、である。ここに第一の、壇上に立つ者の、大きな落とし穴がある、と思うのです。

 第二に、壇上に立つ者は、会場の者を見下ろす形になることである。高さが違う。これは怖いことです。

 だから私は、この仕事を始めた最初の頃から、可能な限り壇上には立たす、会場に下りて話すようにしている。それでも私は立っており、会場に皆さんは腰掛けておられるから、頭が高いことには変わりがない。ただ幸せなことに、私は、短身だからまだ恵まれているのです。そういう意味では、皆で和室で、というのはいいです。


 「接客の時は、目線を合わせて」とか「相手の立場にたって」といっている本人が、高い位置からでは、笑い話だろう。 少し横道にはいるが、小・中学校の教壇、あれは何じゃ、と私はかみつきたいのです。大きい大人が、子供に対して、さらに高い壇に、というのは明らかに教育を間違って解している、と思うのです。寺子屋を見習うか、教壇は、彼らのほうが背が高くなる高校から、と法律を作っていただきたい。

 それを大きい声で言えないのは、昨日ここに書いた次の3つが、まだ私には出来ていないからなのです。
 1-教えることから教わる立場への転換
 2-学ぶことが机に座って誰かの話を聞き、本を読み、頭にそれらを写し取るといったことから、現場で見聞きして学ぶことへと重心をシフトすること
 3-講演、研修というパラダイムを、語り合いの場へと転換すること

「落語家は、会場の一人一人と対話している」といったことを桂文珍さんから、聞きました。凄い、と思いました。 プロならここまで、行かなければ、と思いました。

 それで今、できるだけ壇下に自分を置いてみることに一生懸命努めているのです。
壇上に立つことが多い仕事を25年もしていると、壇下から人の話を聞くことが、少なくなっているのです。それが知らず、知らず、高い位置から、ということになっていないか。そのために、それでお客様が掴めなくなっている。あるいは乖離が生まれているのでは、と思うからです。

 やはり、これは正解でした。
「高い位置から」、はなはだ失礼ですが・・・」と言っても目線は変わらない。だが壇から降りたら、ずいぶんと目線が近くなり、はなはだ失礼がない状態になる、といったことが体感できたからです。


水と竿をさす

2007年05月21日 | Weblog
小泉政権の後半から、官業開放が話題になり、潮流になった。いわゆる小泉スタイルのひとつとして、「官から民へ」のキャッチフレーズを連呼することで、潮流を創っていくというやり方は、組織への理念や戦略の浸透に苦心している、多くの企業経営者にとって大いに参考になる。
 理念と戦略が、組織に潮流として流れている間は、その跡を継いだ安倍政権は、その流れに逆らわない限り、ラクチンこの上ないことであろう。後継者問題に悩み多き、企業経営者にとってこれまた大いに学びとなる。先代の創ってくれた流れに勢いがある間はそれに乗り、勢いが衰えたら、その流れを、勢いを付ける新たな課題を創出する。この2つを繰り返していけばいい。
前者は、囲炉裏の薪が途絶えそうになったら、新たに薪をたすやり方である。後者は、火力の衰えた囲炉裏には手を加えず、新たにガス機器なりを採用する。つまり、新たな自前の流れを創ることである。

 当然、前者の残り火があるうちに、後者に切り替えるのが、賢明なやり方である。この点、安倍政権のありかたを見ていたら、実に巧い、と感嘆している。
ただ惜しむらくは、これは個性の差だから弱点とは言えないが、やはりスローガンなり、キャッチフレーズは繰り返し、絶叫し、流れを大きくし、あるいは新たな流れを創る、といった点、弱い。それにまた仮想敵をつくり、国民を背に付けるという手法は、古今東西すべてのリーダーが試し成功してきた手法である。その点は、先代のまねではなく、普遍性がある手法であるから、もっと活用して良いのではないか、と考える。

 数の論理で言うなら、永田町に霞ヶ関を加えた数より、民の数が圧倒的に多い。この少数派、永田町、霞ヶ関が独占していた事業、名付けて「パブリックビジネス」を、後者の民に開放し尽くしたとしたら、なんとその市場規模はざっと50兆円とされるの(日経ベンチャー算出)である。

 「だからといって・・・」とここで私は、水をさし、竿をさしてみたいのである。
 1の竿。それは官より民が行った方が是だ、という前提で、その潮流ができている。それはマクロではいえるが、ミクロ、すなわち個々ケースごとに、冷厳に分析、吟味することが必要と考える。

個々に見たとき、官がなすことすべからくうまくいかず、といった魔女狩りになってはならない、ということである。
 ミクロで、個々に見たら、官でも巧い人もいるし、うまくいかない人がいる。民でも然り。ということだ。やはり、1に機能分担、2に適材適所という、大局から冷厳に見る必要があると考える。

2の竿。  だが、このパブリックビジネスは、果たして国民、消費者から見て、グッドチャンスというより、幸せを呼ぶことになるのか、という水をさしておきたいのである。
そもそも、私は、当初より、官業開放の論議に、サービスを受ける側、国民、消費者からみた らどうなのかという視点からのアプローチ、検証が欠如していることの問題性を、メルマガとブログなどを通して、すでに指摘していることである。

そもそも国民、消費者からみたら、官が主体であろうと、民が主体であろうと、 どうでも良いことなのである。あくまで、自分が出す対価に対して提供される質的内容がどうか、ということが本来の関心である。 

政治が国民の立場に立ち、民間の企業が消費者の立場に立つ、と言うのであれば、本来は官対民、どちらかという観点からの論議ではなく、国民、消費者といったサービスを受ける、利用し買う国民、消費者の立場からみて、どうプラス になるのかの論議でなければならないはずである。

そうした議論を引き起こすべきなのである。もちろん私とて、総じて、とか平均的には、といった見方からすれば、サービスに関して は官より民に軍配が上がる(このことは否定しない。その通りだと思う。

だが、それはなんとなくということでは、民に移行しても「なんとなく良くなった」とぼけてしまう。やはり個々のケースにおいてのメリット、デメリットを、一定のサンプル抽出し、検証しておくべきだと考える。この点がほとんど論議されていない。

以前の旭山動物園の低落時代は、官が運営していた。今はどうか、やはり官の運営である。こうした個別の事例は他にもある。そうしたらやはり、行きつくところ、人の問題ではないか、といった結論が出るかも知れないのである。  

また、官の事業を引き継いだ民の当事者が、これまでの官のレベルをほんのチョッピリ上回る程度で収められるのか、ものすごく良い業績になるのか、或いは官運営時より衰退するのか、そうした成果は、これから数年経て、追跡してみなければ判定できないのである。

もし、民への移行で、国民がこれまで得ていた、あるいは得るべき利益が減じたり、機会損失が生じたりとしたら、それは、官業開放の成果から差し引いて、国民に示されるべきである。

一種の流れに巻き込まれ、民間移行のプラス面を強調する余り、マイナス面を示す者を、それ、「水に竿を差すこと」として、排斥する風潮は、けして望ましいことではない。嵩じれば歴史にみる魔女狩りは、少数意見を圧倒する流れに始まっていることを、あえて指摘しておきたい。企業におけるいわゆる暴走も、必ずしもワンマン経営者によるものではない。感情という流れを、理性という竿で止められなかったということではないか。

こうした希有は十分起こりえる。なぜなら、官業を引き継いだ民間事業体が、一種の独占的利益を得るという形になりかねないからである。これが1つ。
明治維新後、こうしたことが、今の財閥を形成することになったことを考えれば、あながち私の杞憂では無いと考えるのだが。

2に、個々 の事業毎に、官によるサービスのどこに問題があったか、これをほんとうに分析 し、抽出し、しかっと抑えておいたうえで、「これをこう改善すれば、これだけ サービスの質が上がる」というものが確保されていない、というリスクは、その受け皿である民の主体が、撤退、縮小、挫折と言ったことになれば、サービスを受ける国民、消費者の大きな機会損失になる、といった不安を、筆者自身の体験から払拭できないからである。

3に、本来なら国民にとって不要な業であったものを、民に渡すことで、ビジネスの延命策が図られる、といったことがないのかどうか、やはり十分に個々に検証される必要があるのではないか。

 企業における後継者もしかり、ひとつの大きな流れが出来たとき、それに水をさし、竿をさす少数派を、諫言者といて、排斥してはならない。むしろあえて聴き耳を立てるといった姿勢こそ、将来(さき)の安泰を約束するものではないか。私はそう思う。


ミスの是非

2007年05月20日 | Weblog
 何が是か非か、ということは、なかなか判定できないものだ。またそのときは是でもあとから非になることもあるし、その逆もある。見逃せない、見逃してはならないミスもあるし、見逃してもかまわない、むしろ些事に囚われることの方が問題だ、ということもある。
 
今月だけでも、何回となく「二度とこうした同じような過ちとを発生させないように万全の対策を・・・」といったセリフとバッタのお辞儀をとメディアを通して、私たちは見聞きしている。

 それらは、組織の体質性から、ある意味では当然発生したものと思われるばかりであり、同じような過ち(以下、ミスに置き換える)、その組織の一個所だけ、あるいはその企業固有のミスということはまずない。このことから多分にミスには、同質性、同根的な面があるとみてもいい。

 その証として、同じようなミスが横軸と縦軸に繰り返されている。ちなみにここで横とは他でも、という意味。縦とは、過去にもあり将来(さき)にもという時間軸をいう。

 それでも皮肉なことに、「二度も三度もこうした同じような過ちを発生」させているのである。

なぜか。それは言葉尻を追うと、「二度とこうした同じような過ちとを発生させないように」につづく、対策が、1になされていない。2になされたが効果がない、のいずれかである。

 ミスが発生した場合、急がねばならないことは、袋の穴をふさぐか袋を取り替えることである。ミスによる延焼を防ぎ、出来ればボヤ程度に止めるために当然のことである。
 だがそのことでミスを矮小化したり、包み隠したり、といったことであってはならない。
「ま、起きたことはしょうがない。これから頑張ってとりもどせばいいや」では、対策にならない。問題の先送りは、何も対策しなかったこと。
 「こんな小さなミスで、何を大袈裟に」と思われている間に、火は広がり、火元も原因もわからず、それをただ消火して終わらせる。非も火も「もみ消す」と、火種が残る。
これがのちのち大事を興し、禍根を残すことになる。

 対策を講じるにしても、それは過ちを発生させた企業、あるいは起こした事業部、さらにあるいは起こした当人に限定されて、それ以外は、「我、関知せず。隣の人の事よ」で終わらせてはならない。

 もしこのとき、それは過ちを発生させた企業固有の問題ではない、あるいは起こした事業部だけではなく他の部署でも考えられることだ。さらに起こした当人だけの問題ではない、と組織全体で対応をする。すなわち、「我、関知せず。隣の人の事も、みな、関知せよ」としたら、どうだろう。

 組織上に起こりえる様々なミスを未然に糺すのは、この今しかない、と考えて即、検証にかかり、問題があれば、その抜本的改善を行ったとしたらどうだろう。

 ミスは、むしろ経営者にとって貴重な情報である、と理解し、小さいうちに「因を突き止め、除去せよ」という警報ととらえる。また他社発生のミスも、自社点検の機会としたらどうだろう。

 人も組織も、こうした試行錯誤を続けることで進歩発展する、と考える。


習慣を読む

2007年05月19日 | Weblog
 習慣は、意識してやることを、無意識で出来るようになることをいう。それは上達ともいえるが、マンネリズムでもある。時にはその馴れが思わぬ(意識せずしての)トラブルを招くこともある。

 呼吸は、誰でも無意識に出来る。ところがこれを腹式呼吸に、となると無意識にするようになるには、なかなか。

 以前、愛知県・刈谷市の自動車メーカーで1年間の長丁場で幹部研修会をやった。始まる前に、皆さん方に自宅から会社までの通勤する道を尋ねたら、全員が毎日同じ道を通っている、と言う。そこでこの研修の1年間に「毎日、変えるよ」というのをやった。

 それでも3回目ぐらいまでは、「うっかり(無意識に)いつもの道を」という人が、三分の一ぐらいいた。が半年も経たない内に、「いや、毎日、発見や気づきがあって。街がこんなにおもしろいものとは」といった、感想を全員から頂けるようになった。

 無意識にやっていることを意識して。意識していることを無意識に。なんでもいい。この二つを3ケ月も続けたら、工場などでのミス率は、間違いなく減る。

「ほんとかいな」と尋ねても、私が「嘘なのですよ」と答えるはずがない。嘘か本当か、確認したかったら、なんでもいい。上のことをやってみることだ。

 道路が少ない田舎のことだ。散歩を25年も続けていると、どの道を通って、どう組み合わせても飽きが来ている。だが、そうした同じ道でも、自治会の仕事をやり始めてから、その見飽きた、通り飽きた道が、違った道に見えることに気づいた。見る視点や角度が違うからであろう。
 今度飽きてきたら、小遣いをためて、自転車で通ってみるのもおもしろいな、と思っている。

 ちなみに、私は60歳を期して、
 1-教えることから教わる立場への転換
 2-学ぶことが机に座って誰かの話を聞き、本を読み、頭にそれらを写し取るといったことから、現場で見聞きして学ぶことへと重心をシフトすること
 3-講演、研修というパラダイムを、語り合いの場へと転換すること

 の3つを、意識して行うことに決めた。恥ずかしながら 2を除き、まだまだ意識することすら忘れて、届いていない。

 2は、MMAPなどに取り入れ、50点ぐらいは付けられそうだが、1は、不合格だ。以前より遙かにお年寄り(大先輩)や、これもまと違う世界の方々に接することが増え、教えてもらいたいことがいっぱいあるというのに、教える習慣が抜けない。30点は甘いところだ。

 警察官は、私服を着ていてもわかる。銀行員にそうだ。商人もわかる。
 私が店員をしていた頃、同業者が視察に来るのだが、いくら化けてもすぐわかる。だが新人は客と見分けが付かない。だから他店視察の役割はたいてい新人だ。ちなみに顔を知られている、いないで、判断とは、まったく関係のない話をしている。
 私はスーパーをやめて25年以上経つが、一昨年、旧い同僚に、島根のSCであったおり、「まだ、君はスーパーの歩き方をしている」と言われたことがある。
 
 では俳優はどうか。地方の人は、共通語を話していてもどこかにお国なまりみたいなものがあるのだが、俳優はそれを売りとしていない限り、なまりのない共通語だ。同様、歩き方にもクセがない。それになにより服装などが、個性的だ。だからこれもすぐわかる。
 だが、警官役になったとたん、警官の習慣(くせ、しごさ)を盗む。次、強盗役になったら強盗を盗みなる。だが、それらは彼の習慣や体質になることはない。なっ手、いつまでも役を引きずるようでは俳優の技量が問われる、ということで刑事役、悪役とはまり役や役が固定化することを、彼ら(もちろん女優も)内心嫌っているという話を聞いたことがある。

 街の出で、ベンチでもあればしめたもの。そこに座って、通る人の仕事を当てつこするのもおもしろいものだ。人はむろん、見慣れた景色も、日常性の何気ないことも、意識して観察してみると、人生の醍醐味、おもしろさ、教訓など学び、遊びをいいくらでも見つけることが出来るのである。