はたっと困った。
私自身には手持ちの「喜び」の手持ち在庫がない。
どうするか、ということだ。
以前書いたことがありますが、
はたっと困ったときに、思い出したのが、
商人のほとんどは最初から販売する商品を
持っているわけではない。だから仕入れる。
手持ち在庫+仕入ー売上=期末在庫
在庫がないのなら、自分以外の人のを仕入れればいい。
商品と違ってその気になれば只で仕入れられる。
他の人の喜びを仕入れて、頭の中に在庫する。
これだと「世界人口-1」の数の人が
1つずつ喜ぶ材料を持っているとしても凄い数になる。
脳の中とか心の中のことはわからないが、
仕入れた喜びは自分のもの。
いや自分のもの、他人のものとの区分などあるはずがない
それは山田さんが作って、木下さんという八百屋さんが販売した人参を、
私が食べて胃に入れたとして山田製造、木下販売と
レッテルがついたまま血肉になることはない。
中に入れば、これまでの主語が抜け、
だれの喜びでも、私の脳に入れば私の喜びとして感じることができる。
自分の喜び自体が少なくても他の人の喜びを一緒に喜ぶことで、
簡単に自分の心の在庫となる。
自分の脳のが喜び、として取り込まれる。
しかも繰り返すが、ほぼ只(タダ)。
これ、大袈裟かも知れないが、
生き方の根本ではないか、と思った
思い出した。
胸のレントゲンを撮るとき、技師さんから
「ハイ、大きくって。はい、そのまま止めて。・はい。はいて」
案外、こんなところが下敷きに
手持ち在庫+仕入ー売上=期末在庫
が、できたのかも。
そもそも生き方という原点にあってこその経営のあり方、
商人の仕事はではないか、と私の妄想はドンドン拡がる。
人の喜ぶこと、ものを仕入れ、それを人に売り、
人を喜ばすことで、自分に利が入り喜べる、
妄想は良い妄想の時点、都合の良いところでストップしたがいい。
これが「商人の仕事」。
なんともうらやましい仕事ではないか。
そうおもったら、私は商人をうらやましくなった。
そうした商人に倣いあやかろうと、今も商人を求めて旅を続けている。
私自身には手持ちの「喜び」の手持ち在庫がない。
どうするか、ということだ。
以前書いたことがありますが、
はたっと困ったときに、思い出したのが、
商人のほとんどは最初から販売する商品を
持っているわけではない。だから仕入れる。
手持ち在庫+仕入ー売上=期末在庫
在庫がないのなら、自分以外の人のを仕入れればいい。
商品と違ってその気になれば只で仕入れられる。
他の人の喜びを仕入れて、頭の中に在庫する。
これだと「世界人口-1」の数の人が
1つずつ喜ぶ材料を持っているとしても凄い数になる。
脳の中とか心の中のことはわからないが、
仕入れた喜びは自分のもの。
いや自分のもの、他人のものとの区分などあるはずがない
それは山田さんが作って、木下さんという八百屋さんが販売した人参を、
私が食べて胃に入れたとして山田製造、木下販売と
レッテルがついたまま血肉になることはない。
中に入れば、これまでの主語が抜け、
だれの喜びでも、私の脳に入れば私の喜びとして感じることができる。
自分の喜び自体が少なくても他の人の喜びを一緒に喜ぶことで、
簡単に自分の心の在庫となる。
自分の脳のが喜び、として取り込まれる。
しかも繰り返すが、ほぼ只(タダ)。
これ、大袈裟かも知れないが、
生き方の根本ではないか、と思った
思い出した。
胸のレントゲンを撮るとき、技師さんから
「ハイ、大きくって。はい、そのまま止めて。・はい。はいて」
案外、こんなところが下敷きに
手持ち在庫+仕入ー売上=期末在庫
が、できたのかも。
そもそも生き方という原点にあってこその経営のあり方、
商人の仕事はではないか、と私の妄想はドンドン拡がる。
人の喜ぶこと、ものを仕入れ、それを人に売り、
人を喜ばすことで、自分に利が入り喜べる、
妄想は良い妄想の時点、都合の良いところでストップしたがいい。
これが「商人の仕事」。
なんともうらやましい仕事ではないか。
そうおもったら、私は商人をうらやましくなった。
そうした商人に倣いあやかろうと、今も商人を求めて旅を続けている。