経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

はた、と困った

2010年04月30日 | Weblog
はたっと困った。

私自身には手持ちの「喜び」の手持ち在庫がない。
どうするか、ということだ。

以前書いたことがありますが、
はたっと困ったときに、思い出したのが、
商人のほとんどは最初から販売する商品を
持っているわけではない。だから仕入れる。

手持ち在庫+仕入ー売上=期末在庫

在庫がないのなら、自分以外の人のを仕入れればいい。
商品と違ってその気になれば只で仕入れられる。
他の人の喜びを仕入れて、頭の中に在庫する。

これだと「世界人口-1」の数の人が
1つずつ喜ぶ材料を持っているとしても凄い数になる。

脳の中とか心の中のことはわからないが、
仕入れた喜びは自分のもの。
いや自分のもの、他人のものとの区分などあるはずがない

それは山田さんが作って、木下さんという八百屋さんが販売した人参を、
私が食べて胃に入れたとして山田製造、木下販売と
レッテルがついたまま血肉になることはない。

中に入れば、これまでの主語が抜け、
だれの喜びでも、私の脳に入れば私の喜びとして感じることができる。
自分の喜び自体が少なくても他の人の喜びを一緒に喜ぶことで、
簡単に自分の心の在庫となる。
自分の脳のが喜び、として取り込まれる。
しかも繰り返すが、ほぼ只(タダ)。

これ、大袈裟かも知れないが、
生き方の根本ではないか、と思った

思い出した。
胸のレントゲンを撮るとき、技師さんから
「ハイ、大きくって。はい、そのまま止めて。・はい。はいて」

案外、こんなところが下敷きに
手持ち在庫+仕入ー売上=期末在庫
が、できたのかも。

そもそも生き方という原点にあってこその経営のあり方、
商人の仕事はではないか、と私の妄想はドンドン拡がる。

人の喜ぶこと、ものを仕入れ、それを人に売り、
人を喜ばすことで、自分に利が入り喜べる、

妄想は良い妄想の時点、都合の良いところでストップしたがいい。

これが「商人の仕事」。
なんともうらやましい仕事ではないか。
そうおもったら、私は商人をうらやましくなった。
そうした商人に倣いあやかろうと、今も商人を求めて旅を続けている。


あれあり、これあり

2010年04月28日 | Weblog
ある時、なんでも楽しいふうに考えていくと、
何が仕事か、何が趣味なのかが、楽しければ
区分が付かなくなることに気づきました。

そのきっかけは、新聞の広告。
なんの広告だったかは思い出せませんが、
下のようなことがコピーが記載されていました。

プロのゴルファーはストレス解消に、将棋をする人が多い。
プロの棋士はストレス解消に、ゴルフをするする人が多い。

原文はたしか上の「多い」のところに「○%」と数字が入っていた。

それをみて、私は脳力開発の習性と、性格上のひねくれだから、
私ならゴルフで楽しみ、将棋で楽しみ、仕事で楽しみ、
と欲張りを狙うのだが、とそんなことを考え
コラムに書いたことがあります。

そして書きながら、それとは別に思ったこと。
ゴルフや将棋自体にストレス要因や楽しみ要因があるのではない。
そう思った人が、そう感じ思ったからである。これは明白だ。

ゴルフをやらない私にとっては、
ゴルフはストレスにも楽しみにもならない。
しかし将棋は趣味のひとつだから楽しみだ。
だからといって、これが仕事となると・・・。

仕事というレッテルを貼ったら多くの人にとって、
ゴルフも将棋もストレス要因になる。

ということは、自分の仕事に「仕事」というレッテルを貼れば、
ストレス要因になる。
「楽しい」というレッテルを貼ったらどうなるか。


仕事を楽しい仕事とそうでない仕事に分けて、
仕事自体を選択する方法もあることはあるが
これはどうだろうか。

あるいは「仕事」というセットの中なら、
楽しい部分だけをつまみ食いをするというのはどうだろう。

あれこれ、あれこれ・・・・・・・。

それを私がやれている、と言いたいのではありません。
みなさんにやって戴けたら、と言いたいのでもありません。

自分の今の考えに囚われず、あるいはそれを外してみて、
様々な選択肢があるよ、といったことを、
無理矢理そう思うのでもなく、軽い思いで
あれこれ、あれこれ、これある。あれあると
思ってみることが必要なのかな、
ということを提案しているのです。

刷り込み

2010年04月26日 | Weblog
なんで飽きっぽいのか。

私のことである。
ひとつのことが5分も持たない。

たとえば、長文を書く場合など1~2行書いては、
間に新聞のスクラップや読書やメールチェックを挟む。
読書の本も7-8冊、あれよみこれ読みしている。

次の文章が出てこないために、そうするということではなく、
すらすら調子よく行くときでもそうである。

時には、やっている仕事から、やってもやらなくても良いような
片付けに取られて次々やることが変わり、
元に戻らないまま1日が終わることもある。

1日と言っても永年の習慣として夜9時頃から、
映画を見るようにしているから、ここまでを指しているのだが。

その映画。映画ぐらいは最後まで見終えるまで集中するだろうと思われるが、
そうしたこともないことはないが、やはりそうではないのだ。

昨夜も、「風のガーデン」を見ていて、
画面がちょっと凍り付いたことを契機に、パソコンの掃除に転じ、
そこからあれやこれや気が映りとうとう映画に戻れなかった。

映画でおいしそうにインスタントラーメン繰っているシーンがあると、
とたんに画面を止めてインスタントラーメンを作り食べ始める。
画面に気が引かれたパソコンが出てくると、
それをインターネットで調べ始まる。

こんな具合だ。

だからといって、そのことをどうのこうのということではない。
飽きっぽいとも言えない。
永く続けていることは、結構あるからだ。
映画、メルマガ、ブログ、歯磨き、洗顔、将棋、この仕事、等々。

悪い性格だとも思わない。
けして良い性格だとは思わない。
だが、これが[俺]だとは思う。

これも無理に力を入れて思ったことではないが、
倦いたりおもしろくなったりしたらそれを避けて、
楽しく良い気分のことに手を付ける、といったことを
自己逃避的だと悪い風に思ったりする向きがある。
現に時として私自身、そう思うこともなくはない。

だが、そこで私は何が仕事か、何が趣味なのかを、
楽しさという概念で括り付けると区分がなくなるのではないか、
と、あえて自分に都合の良い論理をこじつけて、
「これぞ自分」と言い聞かせるようにしている。

そうすることで悪い解釈、自己逃避者の汚名から
逃れようと努めてきた。

それには、次のようなきっかけがある。


動けば揺らぐ

2010年04月24日 | Weblog
駅の途中、SCに立ち寄る。

今日は、隣のケーズの駐車場に停める。
時間が許す限り目的建物から離れたスペース、
それも場所を変えて停める。
遠い場所だと空きスペースを探す必要がない。
なかなかウオーキングの時間を確保できない私には、
この遠いところへ停める、といったことは貴重なこと。
もう何十年の習慣となっている。

さらに駐車場を変えることで、お客様の流れやそのお店の人気を
別の角度から押さ得られる。これまた貴重な情報源だ。

軽い弁当を買って新幹線に。
本も2冊用意したが、食事後眠くなり、ほとんど睡眠学習。
目が覚めたら、そこは小雨の博多だった。

2時間30分の旅だ。
昭和40年代の8時間。半分新幹線までの4時間半が懐かしい。
これで節約した私の時間はどこにいったのだろう。
ひょっとしたらJRに節約分の割り増し料金を支払いながら、
無駄にしているのではないか。
4-8時間かかった頃の方がもっと楽しめた気がしてならない。

駅から天神のホテルまで、大回りしながら歩いた。
駅通り→住吉→渡辺通り→天神へ。

以前は市電が走っていた大通りを、それをなぞりながら1時間かけ歩いた。
これが新幹線代金分の時間節約で生まれた楽しみか、
とまだ、「なぜ、なぜ」にこだわっている自分を嗤った。

柳橋連合市場に立ち寄りたかったが、
時間をかけて見れる日に、又の日にゆっくり、
と自分に言い訳しながら通過。

ホテルでメールチェックを急ぎたかったのが理由だが、はて。


ところが、
部屋を見合わすが昔懐かしいFAXジャックはあるが、
インターネットができない。
フロントに尋ねると、インターネットOKということだが、
インターネットで申し込んだ私の格安部屋はインターネットができない、
とのこと。これが500円の値引き代か。


こんなことなら、柳橋市場を見ておくことだった。
「又の日にゆっくりの日」が果たしてくるのやら。


「今時、こんな宿も」と思う。
そうした経験もまた皮肉ではなしに大切な体験で得た情報である。

あれもこれもと書きながら、ふと思ったこと。
動くことでのゆらぎから感じることこそが
情報の本質ではないだろうか,と。



脳と行動

2010年04月21日 | Weblog
断定的な言い方をすれば、
脳を動かすというのは、「行動することに尽きる」といえます。

動けば、意識せずとも脳を使っていることになるのですから。
同じことの繰り返しですと、脳は、私と同様、
怠け者ですから、怠慢して動かずにやろうとする。

それで第一に、これです。
「できるだけこれまでと違ったことをやるように心がける」。

毎日の通勤もできれば毎日道を変える。
歩く。走る、車、自転車といったように方向も変えてみる。
それぞれを組み合わせて変える。

こんなぐあいに日常の中で些細なことでもいい。
いちいち意識して違ったことをやる。

まあここでその効能をいろいろ書くより、
ほとんどコストはかからないのですから、
実際に行動をしていただければ体感的にわかることです。


これはこれまで意識せずやっていた日常の何気ない行動を、
意識して、意味づけして行なったり、新しい行動を付け加えたり
することで脳の働きはうんと活発になる。
そうすれば「考え」は行動の後に必然的に出てくるのです。

こうした行動の積み重ねから生まれたものが、
脳の中でノウハウ化し知恵になるのだと
私は思っています。


しかし行動とはいえ、
むやみにそこらを走り回っても、無意味なこと。
大した成果は得られません。

今、無意味と書きましたが、
行動にいちいち意味を持たせることが、
とても大切なことなのだ、と思っています。

行く方向が定まらないと、あいまいなこと、
どうでもいいことに脳が反応することにもなり、
またすべてのエネルギーは分散し、ムダになるからです。

次に第二に『戦略を確定すること」。
そしてその戦略に関する「思い入れ、情念」の強弱の発揮です。

少なくとも行動の方向が決まらないと、脳は働きようがないのです。
脳力開発ではこの行動の方向を「戦略」、
そしてそこへ行くための様々な手段を「戦術」と呼んでいます。
どんな行動も、それぞれの場面での脳の判断、指令によるわけ。
その思い、指示、命令を3億とも5億ともあるとされる脳細胞が聞き入れ、
無限にもある組み合わせの中から、一つの組み合わせを選択する。
無限にある選択肢の中から、ですよ。

ですからそこに一定の目的指向がなければ、各細胞ばらばら。
脳はその分別に迷い、時として混乱し動けなくなります。
(パソコンでよくおきるフリーズ状態)。

それを避けるために脳の本質は戦略/目的指向
になっていると考えられます。
そこでここヘポーンと明解な戦略を入れてやると、
いきおい脳が活発化するというわけです。

3億とも5億とのある脳細胞、これだけの部下を動かすためには
それだけ大きな声で思いを伝え染み渡らせなければ、
末端では聞こえないとか、言うとおりしたくないとか、
といった分子がでてくることは当然予測できることです。

だから経営者の思い入れ、情念が不可欠になるわけです。




枯れ葉に花

2010年04月18日 | Weblog
以上、4つ挙げた成功要因の中で、

特に第4に上げたことに内包された反作用 "アク"の堆積が、

いわゆる「バブル崩壊」を招く大きな要因となって、

今、日本の国はあらゆる点で莫大な「負のツケの支払い」を

余儀なくされている。



人はいつも、これまでの成功要因が失敗する。



今までの経済成長の立役者たちと成功した考え方、スキルなどが、

今の日本のかってない危機状況の元凶になっているのである。



さらにこの国にとって最大の悲劇的なあるいは喜劇的なことは、

その元凶たちが、改革に、大まじめに取り組んでいる事実である。



自らの存在と思考そのものが障害になっていることに

気づこうともしない頑強、図々しい彼らを見ると、

怒りを通り越して悲しさを覚え、

さらに笑い事でもないのに笑いたくもなる。



ことは簡単だ、といいたい。

旧い酒を入れたコップの中に新しい酒は入れることができない。

旧い酒を捨てればいいのだ。



思い出して欲しい。

戦後の急速な復旧の要因の第一に、それまでの経済人などを、

マッカーサーが人為的に追放したことを。



官僚がこれまでの成功要因を蓄積すればするほど、

保守、拘束、縛りの中に国民のはつらつさ、創造性、革新性などは

封じ込まれてしまうのである。



今の成功を構築し、国民より票田大事の政界の方々よ。

看板掛け替え革新を唱えるより、

看板を掲げる人たちを取り替えることだ。

それぞ革新だ。



国を守り過去と今を保守する方々よ

過去の延長線に未来があるのではない。

これから今になる未来は、これから描き創るもの。



将来(さき)のことより今、自らの地位維持のため

組織を硬直化させる人々よ、

過去と今の中に、将来(さき)があると思っているのか。



私利私欲の具現のため、

消費者第一主義を平気で唱えている厚顔者たちよ。

自分たちを支えてくれる消費者に詫びよ、正せよ。



後任が育っていない、後が心配といいながら

自らの席を立たない老醜の皆さん。

もういいではないか。席を辞したら心配は失せるのだから。

早く去って欲しい。



枯れ葉の後には若いたくましい花が咲く。

野焼きの後には、新芽がふく。



早くやめなさい。

枯れ葉に花が咲くのではない。枯れ葉の後に花が咲くのだ。

枯れ果てたこの地に咲き乱れる花々を楽しみに、

21世紀の日本は21世紀の大半を生きる人々に

委ねようよ。そうしようではないか。



保守、安定と言うこと

2010年04月16日 | Weblog
日本国家という企業の高度成長の理由

第3は、国民の教育レベルの高さである。

優良企業は質の高い優良な従業員によって支えられている。



国民が全員、読み書きそろばんができる国は希有といって良い。

元来、日本は江戸時代より、

藩では藩校、民間では塾、寺子屋がかならずあり、

読み書きそろばん等の基礎教育を中心に庶民も学べた。



これは、大河ドラマ「龍馬伝」でしばしばでてくる。

筆まめの龍馬が手紙を書いた相手の乙女も加尾も皆文字が読めた。

読めたから龍馬は手紙を書き、彼女たちだけではなく

私たちも情報の共有ができた、ということである。



これが、明治以降義務教育制度が導入され、

さらに高等教育が推進されてきた。

教育の裾野とレベルが上がることで、

当然国民は質の高い生活を望むようになる。



また教養に裏打ちされた文化やゆとりへの強い熱望は

働きへの意欲と生活に対するエネルギーを生む。

こうしたことが日本経済を押し上げるエネルギーになった。

このことも見逃してはならない。



第4は、その教育を受けた優秀な政・官・財・学の人材が

一体となって経済成長をめざして全力で努力してきたという点である。

大久保利通が布石をしいた維新後の官僚制度、組織は、

戦勝国米国から排除されない、戦前から温存された

唯一のものといってもいいのではないか。



この官僚組織・制度に、戦後主として米国から輸入された

「組織・管理理論」が巧妙に取り込まれ、

この国の経営をここまで成長させてきた。



政争に影響されない官僚組織の成果は、

その功罪はともかく、日本経営にとって大きな成果を上げた、

と高く評価されてよいのではないか。



政治も、組織拡大と本能的に保守性をもつ官僚が

リードする形で、反共の大義名分で国民の後ろ盾を得る手法を採った

自民党一党の安定した政権が続くことになる。

合併により党名が変わろうと首相が入れ替わろうと、

このあり方、システムは変わることはなかった。



このことのプラス面、保守、安定といったことが、

国家経営にとっては長期戦略が構築しやすく、

長い目で見た経済成長が図られた結果になった。



また自民党は、基盤整備(インフラ)と経済の波及効果を表看板にして、

その実票田づくり、集票マシン化を裏看板に、

いわゆる箱物公共事業に力を入れ続けた。

ことの是非はともかく、

そのことが経済成長に貢献してきたことは事実である。


ないからできる

2010年04月14日 | Weblog
日本は基礎資源が「ない」。

これまでもそうだし、これからもそう。

だから、材料を仕入れ、製品化して付加価値を付けて売価で売る。

それも今は、製造すら中国海外に委托し、

その工賃格差等による儲けで経済(なりわい)を立てる

国自体がいわば知識産業国家として、世界有数の経済大国として成長してきた。



これからも疎の根幹は変わることはないのである。

そのための国家的経営戦略は、2つしかない。

資源ある国を併合(A&M)するか、仲良く交流、取引関係を深めるか



2の1の択一である。

戦前は前者を選択。それで朝鮮半島、満州と次々併合(A&M)を図った。

これで失敗した。猫の喜び、鼠の不幸。

鼠の不幸を救おうと欧米諸国の猛反発を買ったからだ



戦後、戦いの論理では幸せは得られぬ。

その反省から憲法でこの選択をできないように明言した。

残る戦略は後者。



如何に「仲良く交流、取引関係を深めるか」に切り替えた。

そのため世界中からより安い材料やモノをフリーハンドで輸入できたのである。

傍系会社から仕入れたのでは、仕入価格は甘くなる。

ということで自国の資源に拘っていたら絶対に発展はできなかった。



また併合(A&M)戦略では、太平洋戦争の二の舞。

もっとも世界中が許してくれるはずがない。

これが、そして見事な戦略転換が、

日本をして戦後著しい発展なさしめた第一の理由である。





第2は、戦後日本は世界に比類のない平和憲法持っていることである。

とりわけ第9条により戦争を放棄し軍隊をもつことを禁じている。

このことは軍事費に関わる膨大なコストが軽減され、

その分を経済投資へ回せた、ということである。

このことの経済的効果は大きかった。



後日、世界情勢の変化の中で自衛隊をもつことになったが、

それでも軍事費の割合は最小限に押えられている。

すなわち少ない投資負担で日米安保条約により安全と平和が保障され、

その結果日本はただひたすら経済成長に関わる分野へ

集中的に投資を集中でき、国家的生産性と売上向上が

具現できたのである。



限られたお金をもっとも成長する分野に集中投資する。

これが企業経営のセオリーの1つであるが、

まさに日本国家はその模範的なことをなした。



これが日本国家という企業の急成長、2つめの理由である。


ない、ということ

2010年04月11日 | Weblog
中小企業の経営者と関わっていると、「ない」という言葉がよくでてくる。



人口が少ない。人通りが少ない。金がない。時間がない。

能力がない。人手が足りない。売上が少ない。

利益が出ない。後継者がいない。仕方がない・・・・、



こうした「ない」は、ないこと、少ないことが不利、マイナス要因だ

といったニュアンスで使われているようである。



 ちなみにその反対、「ある」はどうだろうか。

これも拾ってみようと、書きながら思い出そうとしているのだが、

「借金がある」、一つで止まってしまった。



なぜか。

そこでさしあたって私の机の上に「ある」ものを書き出してみる。



キーボード、マウス、パソコン。書類、千枚通し、爪切り、

コップ、本5冊、時計、ボールペン、コード、デジカメ、

CD,はさみ、ホッチキス、郵便物、USBスティク、クリップ・・・・・。



ないものが見えて、あるものがみえない。

これを「盲点」という。



人口減少、少子高齢化、低価格・・・・・、

斯うしたものをマイナスという側面からみる。

これをなんと言おう。



戦後、ものが溢れたところからスタートし、今を得たのか。

何もないところから、今を得たのか。



以下、国の発展と企業のそれと重ねながら、考えてみたい。



1945年、日本は世界大戦に敗戦し多くの町々は焼土と化した。

その廃虚の中から立ち上がり日本は高度経済成長をとげ、

「経済大国」と呼ばれるまでに復興、その後も発展し続け、

物質豊かな、そして世界有数の長寿社会を構築してきた。



なぜ日本は、戦後これだけの発展をとげてきたのだろうか。

その理由は大きく4つに集約できよう。

まず第1点は、日本は敗戦したために「何もない」状況から

再生をスタートしたことである。

戦前の日本経済を支えてきた偉い人々は財界パージや何かで追い遣られた。

また戦前の思想、技術すら否定され、断ち切られた。



これはまさに「ない」状況である。空っぽだからコップは使える。同様「ない」から入れる必要性に迫れるし、空っぽだから入る。

ということで新しい考えや技術がどんどん入っててきた。



もともと日本は石灰を除いて基礎資源がない国だから、

これらを材料として仕入れ、製品化して

付加価値を付けて、売価で売る。

その儲けで経済(なりわい)を立てる経営的シクミの国なのである。


対、つい、対

2010年04月08日 | Weblog
言葉は動く。文字も動く

発せられた言葉や文字がもつ最大の力は、
それらが「受け取る側の心の中で動くこと」にある。

感動とは、感じたことが、心の中で中で動く、
その心の持ち主が自分であろうと、他者であろうと
その動きはまずは止められない。

発する側には、発する意図があろうが、
それはともかく、受け取る側がそれをどう受けとるかは、
受け取る側の問題である。

発信者はいったん発した限り、
それを自分の意図通りに限定し止めおくことは出来ないし、
そうしたことを強いては実にもったいなかろう。
広がりこそ新しいご縁、創造や革新へのステップだからである。

よく受け取る側が、「その言葉に感銘を受けた」、
といった言い方をするが、それはその広がりの中に、
受け取る者が既に内在していた「もの」との合致
すなわち両者の共感の結果、と考えたい。

その意味で、「俺の言葉に感銘を受けた」と、
発信者が真に思っているとしたら、
それは甘いうぬぼれになる。

感銘は、発する者と受け手の合作(共感)である。
だから、「ああ、この自分と同じ思いを理解してくださる人がいる」と、
むしろ感謝するのは発信者の方である。
これが謙虚さ。この謙虚さがまた新しい広がりを創る。

すべからく売る人対買う人、雇用者対被雇用者、巨人対阪神、男対女・・・、
この両者を結びつける「対」は対等であり、お互い様の関係である。
巨人が勝つにしろ負けるにしろその相手の存在は不可欠だ。
男だけでは、あっというまに人類は滅びる。

私たちは、自分を中心において、相手を図るものであるから、
ついつい「対(タイ)」でみる習慣に凝ってしまいがちである。

そのことを、「対(タイ)」ではなく、「ツイ」の関係こそ
本来であることを、意識して相手との関係を見てみることで、
新しいものが見えてくるのではなかろうか。