経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

メダカ捌くに太刀いらず

2010年08月30日 | Weblog
今、「新規事業計画書」なるものに目を通している。

たくさんの経営用語をちりばめ、マーケット理論を下敷きに、
聞いたような文章の羅列で書かれた文章。

それをエクセルとパワーポイントを使ってのカラーフルな図表やデーターで
ダイナミックに表現された60ページ余の創業計画書を拝読。

色をつけようと、グラフを縦横で表現しても、
その事業がうまくいくかどうかには、まったく無関係なのに、
と苦笑しながら、ペンを入れはじめた。

我ながら、レフリーとしては不謹慎極まりないが、
鯨を小刀で捌くのも大変だろうが、太刀でメダカを捌いているのは、
失礼ながら、子供達が思春期に近づき、突然大人の言葉遣いを始める。
あのおかしさと重ねて、どうしても笑ってしまうのだ。

作成者は夫、元銀行員、妻は公務員で、ふたりとも30代前半。高学歴者。
そのふたりが癒し系の会で知り合い、共通のその趣味に興味を持ち、
一念発起、退職。都会生活を捨て、妻の実家近くに、
癒し系の事業を立ち上げるという。

その計画書の冒頭のごく一部。以下抜粋。
                *
現代はストレス社会といってよい。
とりわけ講じて精神疾患者等が増加ということになれが、
これは社会問題になる。
そうした風潮を背景に、近年『癒し』という言葉が、トレンド化している。
そうした潮流に、当店の存在が・・・・・。(中略)
 一方、とりわけ地方の市町村を中心に、少子高齢化の進行も深刻化、
その過疎化による地方郡部における経済のひっ迫は、
今や放置できない状態まで深刻化している、と考える。
こうした社会現象は、国全体、国家的課題として、
その対応、対策が講じられなければならないことは当然であるが、
それすら期待できない状況に際し、いわゆる民活に依る以外にないと考え、
私たちがこのたび、この打開のため新しいコンセプトの元に、
妻の実家、やがては自分の故郷となるこの町の発展に寄与すべく・・・・・」。
                     *
書かれている高説や指摘には異存はない。
それこそ過疎化の町のためにもぜひ
成功して欲しいと思う。思うが、今すぐにでも二人に会い、
「もう少し、自分たちの町を知ってからでいいじゃない」、
と言いたい気持ちに駆られているのだ。

現実は、言葉ではない。
こうした借り物の言葉で、他者を動かすことは難しい。
また顧客が求めるニーズもまた美辞麗句的な言葉ではない。
そのことをわかってほしい、とおもうのだ。

もう一度つぶやく。
「メダカを捌くに、太刀はいらない。」



後の祭で得るもの

2010年08月28日 | Weblog
「この指に止まれ」は、専門性、特異性を極めるといった
沿い工面があり、特定業種を間口狭めて絞り込み、
かつ奥行きを拡げるありかたである。

小さいお店が限定商圏でやれる、
ということは全くの誤解である。

むろん、ここでこんなことをやりはじめますよ、
といったアピールには、効果があろうが、
鋭角化することで、理論的商圏を拡げることで、
遠いところからでも聞きつけて消費者を常連客化する、
というところに本来がある。

それに品揃えの底を深九する必要があるから、
一定以上の店舗スペースが必要だ。

専門性があれば小資本、小さなお店でも大丈夫、といった教えは、
まさにまやかしなのである。
もろにつまり規模、資本力の大小、強弱に左右されるのである。

さらに、こうした誤解、あるいは創業・起業を指導する人たちの、
認識、定義の曖昧さが、立派な起業プランはできたし、
講師から褒められた。銀行からも無事に資金も借りられた。
そしてどうどう新規オープン。

しかし待てど暮らせど来店者来ず、1年も経ず、閉店、
といったことは現実、珍しくはないのである。


この案件のその後で、少し具体的に例示しよう。
それは、既存同業者が、すでに「この指に止まれ」で、
そうしたお客をつかみ、時としてセメダインで
指と指を接着している事実を見逃してしまうことである。

あるニーズを持つ消費者が、一定以上いるところには、
そのニーズを狙xって充足している既存店が必ず存在しているだ。

近くに住んでいる消費者にしたら近くに店ができたこと自体は
[近くて便利]だろうが、遠くのお客にしたら、そのメリットはない。

近くだけのお客だけでは成り立たないので、
広域商圏を採用しているのだから、
これでは最初から目論見が建たないことになる。


「理論と現実は違うんだよ。だから現実をさきにみること」
「理論に現実を合わすことを対応、対策といった誤った考えを払拭」

といったことを後の祭りではなく、
先の祭りの場と機会でしっかり学んでおくべきなのだ。
 
学ぶことが理論に偏りすぎていると思う。

創業者に限らないが、先人に学ぶ。消費者に学ぶ。
地域から学ぶ、そして何より現実から学ぶ。
そういったこと、そうした姿勢が、
とりわけ新規創業者には不可欠な条件だと思うし、
自分の持っている強みを活か社長、うまくいくと考える。



よろづやの話

2010年08月26日 | Weblog
なぜ30坪程度のお店が百貨店と名乗ったお店があったのか。
万屋(よろずや)が多かったのはなぜか。

それは地域住民の日常生活に必要ものは一通り、幅広い品揃えでもって、
地域に役立とうという地域商人としての意気、
誇りから生まれた知惠の創造物だと、と私は思うのである。

周知の通りコンビニの原型を仕入れて、
日本型コンビニとしてスタートさせたのはイトーヨーカドーだが、

原型は、米国やオランダの政教にも飲めなくても、
必要な物はなんでも揃えますよ。ないものでも
万承(よろずうけたまわり)ますよ、という意味での
よろず屋として、古来、日本にあったものである。
そういう意味では、ヨーカードーは高い買物をした私は思っている。

ちなみに百貨店の場合。
これはこの米国のデパートメントストア(部門別のお店)を翻訳して
百貨店と名付けたのだろうが、明らかに誤訳である。

デパートメントは、部門別という意味であり、
いろんな業種で構成された1つの店舗、といった業態のことを指す。

その意味で、100(多くのと言う意味)アイテムを品揃えする業種店
という意味での日本の百貨(アイテム)店とは、似て異なる物、
区別されるべきもの、というのが私の解である。


それはともかく、
やがて、その田舎の百貨店、よろず屋の多くが消えたのはなぜか。
それは道路・交通事情による制約から解放された
消費者の日常生活の知恵、買い場選択の意志決定の結果、
これが一番大きい理由ではなかろうか。
行動範囲が拡がると、選球眼が厳しくなることで、
競争関係が熾烈化してくる。

競争の中に、価格以外に品揃え、その組み合わせ、幅とが
含まれ、それが次々、新しい業種、業態が作られる理由になる。
となると当然規模の差別化といったことも顕著になる。

こう考えると、いかにも 売り手の思惑で「この指に止まれ」で、
流通革命や新業種・業態をの創成、集客戦略を講じている要に見えるが
実は来店し、買い物してくださった消費者がその成り立ちから生い立ち、
行く末までを握っていることになる、

また、お店のメインターゲットや品揃えなども
決めてくださっているのである。

とすれば業種も業態も消費者がその方向、形を決めて、
それに流通関係のコンサルタントなどが米国西海岸などへ行って、
似たものを探し、横文字を翻訳した、と言った方が近いのではないか。

当たらし物のコピー屋にとっては、米国のコンビニストアを、
よろず屋とは命名することは、低い鼻のプライドが許さず、
結局、そのまま「コンビニストア」ということになったのかも。

ドンドン拡げる

2010年08月24日 | Weblog
須く現実、実態、現場、消費者との接点から、ことが始まる。
だから、ここから創業・起業、経営の計画が
起案、創案されなければならないと考える所以である。

まずはだれでも良い。一人でもいい。
その人と自分なり起業なりの接点を作ること。

そして次にそれを普遍性の高い部分を膨らまして
他に置き換えてルール化し、少しでも多くの人たちとの接点を増やす。

地図を拡げ、想定した商圏からどれだけの消費者が見込めるか。
その想定内商圏で、その数が不足するようであれば、
想定する商圏を自在にどんどん拡げればいい。

その上で事業が成り立つに必要なクライアントが、
十分、有り余るぐらい見込めるまで拡げに、拡げ、
それを自社、自店の商圏に設定すればいいのだ。

後はその圏内の消費者との接点を作ることが可能になる
当社、当店の魅力、売りを具体的に何と何と、作り上げてく。

そうしたことを自問自答しながら、
おおざっぱでも形、あるいは数字として具体化していく。
とにかく一人でも多く来ていただくことよう楽しく柔軟に
あれこれ考え、形化、文章化していく。
そして、手を打つ。
これが事業企画を考え方、醍醐味だと私は思う。


とにかく足りない商圏で苦心するより、足りて余りある分だけ
商圏など鎖や鬼線で区切られているわけではないのだから、
ドンドンと、自分で必要なだけ、拡げればいいのである。
日本全体、いや世界全体を自分、自社の商圏にできるのだから。
それを何も限定商圏と自ら商圏を小さくすることなどまったくない。

広く商圏を取りすぎ、来店客数が多すぎて困るようだったら、
後日ゆっくりと、マーケティングの教科書を見ながら、
当店としてのターゲットを定めるてもよし。
お好きな、横文字、セグメントを考えてもよし。

かって地方、郡部、過疎地、田舎に、
なぜ30坪程度のお店が百貨店と名乗って、
どうどう存在していたのか。

万屋(よろずや)が多かったのはなぜか。

それは、薄ければ広く、またあまねく消費者に支持されることで
経営を成り立たせる、といった商人の生きる知恵、
商いの工夫の結果である、と私は、感服しているのである。

やがてその田舎の百貨店、よろずやが消えていったのはなぜか。

夢はバラ入りでいいけれど

2010年08月22日 | Weblog
続き。

脱サラ夫婦。妻の郷里へユータンし、レジャー施設開業のプラン。
ターゲットとかセグメントとか、どこかで聞いたようなキーワード
をちりばめて胸ワクワク、バラ色、夢の企画書の一例。
 
人口2000人の町、かりに700世帯全部をターゲットにしても、
とうてい事業存続のパイにならないものをさらにセグメントをする?

ターゲット 、セグメントが不要、まちがいといっているのではない。
そのバラ色と事業が軌道に乗ることとが結び付いていない。

夢はすばらしいこと。
しかし企画書は、その夢を実現する梯子かけだ。
その梯子がない。

そもそも夫婦二人で起業するような企業が商圏を自ら限定し、
枠を狭くはめた上に、さらにターゲットデ絞り込む、
といった論理自体は、700÷2、350÷2といった計算を
することと同じである。

それでやっていけるかどうか、だれでもわかることだ。
一握りのお客をさらに小さい一握りにする。

それでいいの?といいたいのだ。


お客なら誰でも彼でも欲しい。1人にでも余計に欲しい。
これが現実、実態であり、本心のはずだ。

すべからく現場、実態に合わせる、
そのための企画書でなければ事業にとっては、
むしろ危険なあり方になる。


夫婦で、ある指導機関が主宰した「起業・創業塾」で学び
さらに企画書について、指導を受けている。
だから、立派な企画書である。


それを指導したコンサルタントは、良い企画書ができたと
評価し、それで講師謝金が入ればそれで良し。

しかし、問題は企画書ではない。
事業が企業に載るかどうかなのだ。

経営者は彼らや教科書のいうとおりやっては存続できない。
こうした現実を優先、強く認識することが欠かせないのである。

映画、「踊る捜査線~レインボー作戦」のなかに、
[会議で事件は解決しない」と言ったセリフがあるが、
まさに、「踊る企画書、バラ色作戦」では、
事業は成功しないのである

行き先なき車

2010年08月20日 | Weblog
早起きしてF県の創業企画書のレフリーをしている。

創業するのは難しくない。
存続し続けることが難しいのであるが、
たいていはこれを飛ばして、学ぶ者も時にして学ばせる方も、
いかに発展するかに心が飛んでいるのが、
「新規創業経営計画」の類である。

まず案じなければならないことは、
自分は何を持って、消費者に貢献できるか。
そうした人たち、すなわちお客がいるのか、来るのか。
どれだけ来ていただけるかであろう。

そして、
事業を支えてくれる消費者の存在が、事業を維持し続け
るだけ、どれだけ確実性を持って見込めるか。
そして足りないとしたら、それをどう補填するか、といったこと。
これが死活を決めるわけだが、その認識がない。

どの計画書を見ても、
開業したら、こちらの経営計画通りお客が来てくれる、
という想定で、数値、計画などが立てられている。

脱サラ組に、この世、自分を中心に回っているかのような
天動説論者が、とくに多いようである。

ターゲットとかセグメントとか、聞いたようなキーワードを
ちりばめて書けば、胸がワクワク、バラ色の夢が実現する、
そんなあどけない思いに浸って書かれた計画書を見れば、
この世、なんと楽観主義、夢想家の多いことよ、と思ってしまう。

それでいてこうしたレポートでの文章の書き出しは、
 厳しい経済情勢の折・・・
 円高傾向で・・・・
 バブル崩壊後、以前・・・
 少子化・高齢化に加えて競合の激化・・・

と、いった世の中、すべてマイナス要因、敵だらけ、といった
羅列をけして忘れていないことに、思わず苦笑してまうのだ。

私は苦笑で済むが、
これから創業、起業し、経営者になろうと言った人は
こんな創作物では,破綻は目に見えている。

雨の日も晴れの日も、曇っても雪降っても、進む、
後退をアクセルとブレーキを自在にこなしてこそ車の運転。

情報も、条件も自分の進歩発展に活かし、活用するためのもの。
このことをしかと意識していないと、おとぎ話か
地獄へのガイドブックかに、なってしまうのだ。

作文と事務手続きで、創業はできよう。
現に、そのことだけを内容とした創業塾、
夢と薔薇を散りばめた創業セミナー
売れて儲かることを説く創業ゼミ
が、巷で氾濫している。

それらに抜けているもの、
車を運転できることが目的ではない。
車を乗り回すことが目的ではない。
どこへ行きたいのか、ゴールは。

行き先を決めず車に乗って、どうするの?。

経営か企画書に目を通すのを中断しこの人たちの行く末を案じる。



鏡みて、あっはっは

2010年08月17日 | Weblog
来店した本人がリピーターとなるだけでなく、
その良きクチコミで、さらに新規客が増え、
結果として購買額が増えるという善循環システムが
構築されてこそ、事業の成長が約束されるのである。

これを換言、要約すると、
売上に一喜一憂することなく、
いかにしたらお客様に喜んでもらえるか、
ということをただひたすら実行することである。

その都度のお客の反応、表情で、どうしたあり方が
お客に喜ばれるのか、具体的感覚をつかみ、
自分なりにノウハウ化していくこと以外にない。

「あの人の店はすごい」と感激の沸騰点を越すお客が
一日何人おられるか、といったことを社内で、
わいわいがやがや楽しくその策を練り、
それを実践し、その結果、すなわちうまくいった事例と
うまくいかなかった事例を、またわいわいがやがや検討し合い
共有し合う、これが良き職場と、私は思う。

繰り返すがどうせお客に喜んでもらうのなら、
ビックリさせるくらいやる。
それをおずおず中途半端、小出しにやるから
効果が薄く、あるいは結果として経費の無駄使いになる。

お客の予想を高い方に裏切ることだ。
感動という沸点を大きく超えることだ。


自社や自分のことを書かれた新聞などのスクラップを
貴重な人件費をかけてやらせて、何になろう。

その時間を客先の記事や、知っている人が喜ぶ記事を
即、ファックスやメールで送ることだ。

どうしてもスクラップを作りたかったら、
自分、辞書のではなく、客先別のアルバムを作り、
何かの折にプレゼントしたらいい。

自画自賛のパンフレットや社内報を
発行して喜ぶのは誰だ。何になろう。

私の友人のS社では、取引先の職場の紹介やスナップで
満載の社内報を出して、取引先に配布して喜ばれている。

新聞を開いた時「この記事みたら何々様が喜ぶなあ」
と無意識に思いをはせられたら、商人として一流と
一人、部屋で鏡に向かって「わっはっは」と自画自賛すればいい。

自分の喜び探しではなく「お客様のよろこび探し」
これをやるのが商人。これぞ仕事なのだ。

本来に欠ける

2010年08月15日 | Weblog
昔々。昭和30年代。米国のどこかで、
商人が言うことは信用できないという声あり。

それが広がり、店員はいない方がいい、というニーズが生まれ、
「セルフ」がサービスのひとつになると考えた、人がいた。
それが新業態セルフ店。

こうしてセルフサービスの店が増えたと私はまじめに考えている。

つまり店主や店員がいると、やたらと売り込まれ煩わしい。
自由に買い回りができないし、何も買わずに店を出るときの
気まずさがいや。店主の顔をみたくないし声も聞きたくない。

こうした多くの消費者のニーズがセルフサービスという
新しい業態を生んだのではないか。


もちろん通説は、販売員をなくすことで人件費を削減。
その分商品を低価格で提供すれば、もっと売れるぞ、
といった極めて売り手都合でできた業態には違いないが、
何事に付け売り手都合だけでうまくいくことない。

上に掲げた価格以外に、「店員などいない方が良い」といった
消費者のウエルカムがあったに違いないと私は確信している。


ともあれ事業をどうしたら軌道に載せ、存続し続けられるか。
ゴーイングコンサーンに持っていけるか。
そうした思いのプロセスの中で、
新業態が次々と生まれてきたに違いない。

ゴーイングコンサーンを具現するにはいろいろあろうが、
1つに絞れば、「売れ続けること」に尽きる。
売れ続けるということは、お客が繰り返しきてくれること。

しかし現状では今日のための売上努力が原因になり、
明日からのリピートが切れてしまう、といったことが多いのである。

つまり売上を上げたいという欲が、ギンギラギン、
光る釣り針になることで消費者を警戒させている。
買い物を疑心暗鬼にさせている、といったことを招いている。

これが現状である。


ならばどう考え、どう対処したらいいのか。
来店した本人がリピーターとなるだけでなく、
その良きクチコミで、さらに新規客が増え、
結果としてねずみ算的に客数が増え続ける善循環システムを
構築することである。

そのためには
来店した一握りのお客が、あることで喜び、感嘆し、
その思いを、友人なりにしゃべりまくりたくなる状態が
恒常的に発生する、そうした状態をつくることである。

新しいものの向かう先には、これが新業態づくり、経営革新、不振対策、

なんであろうと、そこに目指すところの本来のものがなければならない。

にもかかわらず実態は、という思いで、本稿を書いている。


看板に偽り

2010年08月13日 | Weblog
「どうしたら売上を上げるか」、「どうして売るか」
の苦心、努力ではなく

「どうしたらわたしの店を選んでもらえるか」
「どうしたら購買して貰えるか」

という問いかけとそれに応える対策、
これらを組織全員に徹底させることだ。

道徳、倫理的な意味合いで、繰り返し申し上げているのではない。
そうしないと、消費者に購買してもらう、
という協力関係が確保できないからである。


「「これ本物?」と尋ねられたら、
「いいえ」と答える店主やスタッフはいまい。
ならば、南魚沼郡のコシヒカリが生産量の90倍も
販売されている現実はどう見たらいいのだろう。

「これ、新鮮?」と問われたら、
「いえ、古いです」と応えるお店はあるまい。

A店頭に「毎日新鮮、とれとれ活魚」の看板を取付けている魚屋さん。
B魚市場が休みの日はお休み、としているお店。

A、Bともに、私の住んでいる町にある実在のお店である。
どちらが支持されているか。
その理由は?

Aは、昨日入荷の魚も、とれとれ。まさに看板に偽りありだ。
Bは、「その日に取れた物しか売りません」
これが消費者の圧倒的に支持している理由である。

ちなみにAは、私がユータンしてきた頃は、漁師上がりの
店主のお店と言うことで繁盛店であった。
しかしこうした看板に店主自身は、なんの疑問も抱かないが、
消費者は徐々に看板に偽りありが浸透したのか、
お客はここの店主やお店に不信感を抱くようになったのか
今年になって毎日休業している。看板は相変わらず、
「毎日、新鮮とれ、とれ活魚」のまま。


消費者は今や「本物」、「本家」、「揚げたて」、「手打ち」
といった言葉に不信感をもっている。
だから本物を「本物」と接客しても信用しない。

接客する人、商人を信用していないからである。
接客もチラシも信じられない。
そうした不信感を与えたのは,誰でもない商人自身である。
信頼を与えるのも、誰でもない商人自身である。

戦略の本質

2010年08月10日 | Weblog
事業の盛衰は、つまるところ人との関わりできまる。

戦略もまた人の関わり、関係づくりで成り立っている。
そしてその関係は、自分の利を主張した途端に崩れ、
相手に利を与えつづけることで継続する。

だから事業として継続しつづけるためには、
どうしたら自分、自分の事業が儲かるかではなく、

どうしたら自分、自分の事業をお客が支え続けて下さるか
そのためには、経営をどうした形、シクミを作り上げるか、

この命題に応え、考え動くか、
これが「経営」である。そして経営者の仕事でなければならない。

その意味では、この経営者は、経営以外のことに
必死に頑張り、大変な努力をして、コストをかけて
さらに消費者に背を向けさせていた、ということになる。

企業の増収増益を実現するためには、
企業の増収増益を求めて頑張り、努力することが戦略ではない。

戦略とは、その目指すことの具現のために、
他の人たちが自らの意思で、当方の目標なりに協力する方向で
動いて貰う、ということにその主眼がある。

ほっておいたら消費者が、企業の増収増益を実現のため、
協力してくれるはずがない。
だから、「戦略」が不可欠なのである。

お店を儲けさせるために来店、購買される消費者はいない。
その「いない」ところに頑張りや努力、コストを傾注すれば、
収益が落ちる。こんな誰でもわかるバカなことは即やめること。

そして、
企業の増収増益を実現するには、
消費者が、たくさんある企業、お店の中から
我が企業、お店を選ぶ理由を作る、そのシクミを構築すること

これが戦略であり、企業、お店の苦心、商人本来の業務である。

お客が来店する理由、買う理由を増やせば、
客数が増加し必然的に売上は上がるのに、多くのお店は
自分の店の売上や利益を出すことに熱心、頑張る。
このことが実はお客がその店に背を向けている
根本理由になっていることに気づいていない。

ガソリンスタンドのKさんの実例は、
ガソリンスタンド固有のことではない。
Kさんだけのことではない。

畢竟、戦略は人と人との関わり、関係づくりに
根本があること。これを外してはなるまい。