経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

もったいない

2007年11月30日 | Weblog
畢竟、接点、つながり、ふれあっていること。身近な空間や場の共有という、人と人との接点、これらが経済行為の根本にある。

 このことを忘れ、企業の発展にといったことを夢描き、夢中で邁進している。
 このことを忘れ、欠き、信用・信頼をバーチャルの世界に押し上げてしまっている。

 空理空論をいかに力説しても、実態、現実になるわけはない。現実は変わらない。信頼は、あくまで人と人との接点を通じての、相互交流、行動を通して形成される「実感」なのである。

 だから起業活動とは、「人と人の信頼関係」を構築する行動をいう。それが本来になければならない、と考える。それも企業の主体的象徴たる経営者の人間的側面が最重要視される。それを一言で言えば、経営者が信頼できる人であるかどうかが、企業の盛衰に決め手になる、ということである。

 そうなると、経営者の顔が見えない、触れられない大企業は、俄然、土着型中小企業と比べて不利になることは否めない。だからそれを補完するためには様々な補完業務が必要になる。放置したままでは、消費者の選択の蚊帳の外に置かれるからである。

いっぽう顔が見え、日常、触れることができる生活空間内にいる地場の中小企業のおやじなどは、近いということ自体、俄然、有利である。そのままでの強みである。

ところが、かねてから弱者意識や被害者意識をすり込まれていることもあり、その強み、、優位性を、肝心な経営者が自覚していない。それどころか、こんなことなど「経営に関わりあることといった認識がない。だから、これを持って企業転換の礎にし、企業活動に活用することもない。

なんともったいないことか。
活用しないだけではなく、経営とは直接関係がない私生活のことなどで、よからぬことがあると、近いがゆえに丸見えになり、それために不利になるといった諸刃の剣のマイナス面だけは、被っているといった事例が多いのである。

ああ、もったいない。嗚呼もったいない。
大手企業にあるもので、自分がもっていないを求めて大手に準じ、大手がうらやむ自分の持っているもの、得手に気がつかない。活用しない。そして自分は、何ももっていないもっていないと嘆いている。

こんなもったいないことがあろうか。

ぬかった大臣の「点と線」

2007年11月29日 | Weblog
 先週2日連続で、TV放映された松本清張原作「点と線」の重要な心中の舞台は、福岡・香椎の海岸である。

 9月から11月にかけて、3回シリーズの「商人塾」の講師にお招きいただき、でこの香椎にきて、初めてこの「点と線」の舞台がこの街であることを思い出した。
 ドラマに昭和35年当時の駅舎が出てきて、今のモダンな香椎駅と比べて、見たこともない此方の方が、懐かしい気持ちがした。

 11月1日、香椎駅の近く商店街の一角に香椎商店街(香椎商工連盟 秋丸晃廣会長)が、「点と線ギャラリー」を開設したということで、市の和田さんがご案内して下さった。

 そのことが頭にあり、この朝日系列のドラマ放映日を24日、25日を楽しみにしていた。
 原作もさることながら、このドラマはみせてくれた。ビートたけしの鳥飼刑事もすさまじい演技で、それにも堪能した。

 他の刑事達が、「アリバイがあるから犯人ではない」、と考えるのに対して、この鳥飼刑事は、「犯人にアリバイがあることがおかしいではないか」という論で、ついにアリバイを崩す。

 ぬかった大臣と自民が、「アリバイがある」と主張し、この大臣は、宴席に同席していないとして、その「点」の証明として、2点の写真などを提示している。
 たいして野党側は、「商人喚問で証言した低級官僚の証言が正しい」とし、ぬかった大臣を参院での証人諮問する決定した。鳥飼刑事に倣ったのか、「アリバイがあることがおかしい」という主張である。
 そっくりは双方大臣の収賄に絡む事件ということ。まるでこの「点と線」そっくりではないか。

 点はドッド。このドッドが積み上げられて線となる。清張は、点ではアリバイにならない。線となって初めてアリバイになる、ということで、「点と線」というタイトルをつけたのだろう、と改めてこの偉大な推理作家の慧眼に感服した。

 線として繋がって(ドッドが積み上げられて)線になる。2点の写真が線になるか。
 
 点でアリバイを主張する自民側。線の仮説を立ててアリバイにならない、という野党。小説&ドラマでいえば後者の勝ち、となるのだが。

 問題は、民主が点を積み重ねて、線にできるか、ということだ。が、この点は 小説&ドラマでは、証人夫婦の自殺により生き証拠が消え、線がここで途絶え、大臣に結びつけられなかった。
 たが、今回は、同席したという証人が、証言台で証言しているし、先ほど逮捕された。以前、当時の官房長官のことで、つっこみ過ぎて、えらい目にあった民主。同じ鉄をふむことはない、と考える。独房で、自殺者が出れば別だが、まずは原作&ドラマみたいに、迷宮入りにはなるまい。 悲劇までドラマと同じ通りにならないことを祈る。

信頼がキーワード

2007年11月27日 | Weblog
毎朝、新聞に折り込まれるチラシは、中の表現の違いはあっても、ほとんど「今、うらんかな」型である。DMも然り。

 数日前に投資のMというところから、DMが来ていた。その場で封も切らず捨てた。
 今日、仕事中に、事務所の転送電話から転送された電話が携帯に入った。「先日、DMをお送りしましたので、お読みいただいたと存じますが・・・・」。「みてない。捨てた」。ガチャン、である。


 「大感謝祭」、「大蔵さらえ」、「トクトク市」、「こだわり市」、「大創業祭」、「びっくり市」、「クリアランスバーゲン」、「買わなきゃ損、損」等々、表現はさまざまながら、みな即効性を期しての、ぎんぎん、ぎらぎら、自分の欲をちりばめた、きれいごと、うまいことばかりのチラシやDM。これで集客が高まるから、やっている、といった見方もあろうが、実際の所、どうなのだろう。                  
 
 永田町、霞ヶ関、大手著名企業など、国民や消費者の信頼を大きく裏切るようなことが、毎日のように報道されている。これにより、国民、消費者は詰まるところ、ことごとく不信感を抱いている、といってよいのではないか。

 これをもうひとつの側面からみると、「信頼」、というこの2文字の中に含まれる、重さが、企業を支え、少なからず繁栄に貢献をしている、と言えるのではないか。

 つまり信頼が積み重ねられて(老舗として)繁盛していた。だから、積み重ね(老舗)自体がより、重要なキーは「信頼」の方である。だから老舗といえど、信頼が損なわれると、この積み重ねが崩れる。それだけではない。
それだけではないところが重要である。売れる、繁盛するといった根底が崩壊することを意味するからである。
その証として、国民、消費者は、自らの生活周辺におけるあらゆる“もの”や“こと”に対して「不信感」を募らせ、疑いの目でみる。消費に躊躇を見せ始めている。

こうしたとき、従来の販促、イベントや上に挙げたようなDM、チラシのありかたでいいはずはない。

 チラシを撒き、それによって消費者に、こちらの情報を伝えている。これは同時にそのチラシを通じて、その撒き手の、たとえば陳腐化した、大仰なチラシを通して、その根底には軽薄、かつ惰性的、学ばない、愚鈍な、企画者担当者の存在があり、そうして輩(やから)に給料を払い、存在を許す、少し遅れた経営者がいる、ということを、消費者に垣間見させている、ということを、多くの経営者は考えてもいない。そしてこうした自ら流す内部情報が蓄積された結果、これがその企業、その商品を、消費者が経営し、選ばない理由になっている可能性もあるのだ。

「あんな大企業ですら、そうなのだから、こんな低俗なチラシを蒔いている企業なぞ・・・」といったことで、消費者がその企業に背を向けた例で、わたしが強い印象を持つ事例として、「カネボウ」を挙げたい。代々の経営書の不祥事。伝統的な労働争議の繰り返しは、ファッション、化粧品を主力とする当社のには致命的だったと、思う。
今、カネボウにそっくりな企業は、あの航空会社。またそうしたイメージやブランドを自ら破壊する体質を持つ業界として、私は銀行業界を挙げておきたい。この法律的制約の多い業界に、異業種からの参入がみられても、たいした危機感がなく、ましてや預金者などへの横柄なありかたでは、いかに革新を図らないことによって消費者から法外な利益を得られるか、という証といえる。

信頼を得る、信頼を蓄積する、ということを命題に販促、PR,、CM、コピー、ブランディング、POP、ショウカード、といった細々(こまごま)もそうだが、根本的に経営のあり方、とりわけ消費者へのアプローチを構築し直さねばならない、と私は考えている。
今、私自身もその重大性に気づき、様々な実験を始めた。

そうしたことを「売れて儲かるシクミ研究会」で、皆さん方と討議し、煮詰めていきたいと考えている http://jatsudon.in.coocan.jp/newpage4uresiken.bak


百円玉と式と三田牛と等式に共通するものは何かを考える

2007年11月23日 | Weblog

 15年近く私を知る同業の知人から、「どんな内容かもっと詳細を教えて欲しい」、とメールをいただいた。それを私流に裏返して読むと、「この15年、交流してきたが、おまえさんは信用ならん」というメールに等しい。
 
 これは、事実自分が信用されているかどうかの問題である。
 たとえばあなたのお客が、「これ、ほんとに三田牛?、ミタ目は、普通の肉と変わらないね」と質問されたということは、どういうことか。「信頼・信用されていない」という証である。考えてみたらわかることだろう。

 すべからく会は、1に、会は、入るか入らないかの自由な択一の選択で、入会した人で構成される。2に会はお互いの信頼関係で構成される。
 自分の戦略を決めず、先に戦術を求めてくるような人は、少なくとも経営の会にはそぐわないのでは、とおもう。

 私は、この会を会員個々の企業に、未来永劫の売れて儲かるシクミを構築したいという戦略を持っている仲間の会にしたい、と考えている。これが私の戦略だから、それに賛同されるのであればたら入会できる。
 
 一言、「入りたい」と、メールいただければ、「登録完了」のメールを出す。あるいは内容について、熱っぽく書き、返信する。
 だが、「入りたい」か「入りたくない」のかを、ご本人が決めないでは、私はやりようがない。 だから、そのメールには、返信をしなかった。しようがないのだ。。
 
経営の根幹は、企業外部のエネルギーを取り込むことである。取り込むためには、此方が先に吐かねばならない。欲で器を満タンしたままでは、外から取り込めないからである。
 こうした外部との接点を担うのが、企業における販売機能と考えたらいい。

 なんども書いているが、販売の機能の命題は、「繰り返し買うお客を永続的に増やしていくこと」にある。
 キーの1は「繰り返し買ってくれる」という点である。このことは呼吸になぞらえたら即、理解できよう。消費者の購買行為が途絶えたら、どうなるか。自明の理である。

2に、「永続的に増やす」である。これが充足できて初めて、企業に置けるゴーイングコンサーンが確保できるのである。これが出来ていないと、常に不安定、不安にさらされることになる。この2点を具現するところに販売が存在しなければならない。

 だがおおかたの企業では、いわゆる売上予算を達成するための売上確保が行われており、そのためムリが繰り返され、蓄積され、息切れする、息が続かず、それが一定を超えると、企業は息絶えることになる。

 こう考えたら、今の経営、販売、販促のあり方は、本質からずれている。あるいは間違っていると言えるのではないか。
 と、ここで気が付けば、チャンスである。気がついたら、このままでは息絶え絶えになるから、改めよう、と言う気になるから経営革新を計ることになるからだ。
 
 何を言いたいか。間違った考えの範疇・範囲の中で、経営革新を図ったり、努力をすることは、地獄道を駆け足することになる。つまり息が止まるのを、早めるだけだ、ということだ。

 だったらどうしたらいいか。
 そうしたことをみんなで議論し、研究し、おおむね私の腹づもりでは、1年で130%UPで売れ続け、儲け続ける企業体質を構築しましょうと、言うのが、「売れて儲かるシクミ研究会」ON WEBである。

 無料というのが胡散臭い、迷う、どんな内容か調べてから、と少しでも躊躇されるのであれば、それは自100円玉を投げないうちに、表が出る、いや裏だ、と議論するのと同じだ。おおよそ実学・実践学である経営には遠いものである。

 式を眺めていて、答えは得られない。まずは解くことにチャレンジする。それは式には、必ず答えがある、という出す側と、答える側の信頼が前提にある。
 式を解いて得られる解は、2つある。正解か誤解か。正解ならシメシメ。
  後者の誤解という解を得たら、その時点で大いにこの私を疑い、胡散臭く思い、批判したらいい。
  
 ところが、ときどき式を解くことには、臨まず、「コレ、答えがあるの?」と、式を出した人に尋ねる人がいる。

  売上=買上、この等式「=」は、相互の信頼が交流するパイプと私は理解している。その意味で経済、経営もまた信頼関係を説く学問であり、信頼の上に成り立っている学問であるといえる。
 


欲についてよく考えてみた

2007年11月19日 | Weblog
朝、7時に、うえの自治会館(平屋の築43年のあばらや)へ行き、準備。
今日は地区のコミュニティ祭り、それと、うちの上野自治会では、道路清掃奉仕活動、久々の定例会、それに豊穣祭り、と行事が重なって、大忙しの日なのだ。

草刈り機を使っての2時間の作業は、けして楽ではない。しかも80代が3人、70代が11人といった高齢化集落なのだ。全25世帯の内、5世帯は上部団体の地区のコミュニティ祭りにも掛け持ち参加しなければならない。

みな、せっかくの日曜日を潰して、地域活動に参加して下さる。けして欲得ではない。いや欲としたら、大欲だ。欲もうんと俯瞰化し、うんと抽象化出来るなら大いに望ましいことだ。

落語に、「もう半分」、「五月のぼり」といった、ついつい欲をのばしたために、えらい目に遭うといった話が多い。
昔から、人の持つ欲には限りがない、というひとつの証か。欲はどんな人にも例外なく、これまでも、今でも、これからも、無くなることはないだろう。

自欲、個人欲ではなしにお国のため、地域のため、地球のためといった大きな欲になればこれは素晴らしいことだ。だから「欲」についての性悪説には、私は与しない。

だが自己欲、その欲の突っ張りで、これだけ失敗した事例が多いのだから、それから免れるためには、欲のレートを上げて、俺から、俺たち、俺たちから、地域、地域から県、県から日本、日本からアジア、アジアから世界、世界から地球といったように、うんと俯瞰化し、うんと抽象化するように努めれば、世のため、地域のためということで、歓迎されることになるとおもうのだが。
あるいは、いい加減、いい案配、といったように分限を守ることができれば、まずは幸せな人生を全うできると思うのだ。

もっとも後者の「いい加減」は、「おまえ、ええ加減な人間じゃな」といった表現があるとおり、何か手加減した、といった意味で使われるケースもある。
その生き見本、もりや元低級官僚の場合、全身を欲に冒され、いい加減、いい案配のたがを失ったケースといってよく、小ずるいさ、醜い姿がTVを通してもろに伝わってくる。ガラスのお巡りさんが、いつぞやカキコミされていたように、私も個人的に、この男には嫌悪感を感じている。

だが、肝心なことだと思うのだが、これを、個人の問題に終わらせてはなるまい。
こんな人が、信用されない人間が、霞ヶ関では、エリート官僚として信用されていた。それ押し上げた人がいたか、そうしたシクミの存在があったからだ、といったように俯瞰し、抽象化して、追求しないと、本質的な問題解決にならないと思うのである。

その意味で、欲の突っ張りといったことには、普遍性がある。普遍性があると言うことは、同じ床で同じ夢を見る、といった可能性がある、ということが出来る。
はて、そのこの元低級官僚と、同じく、同じ床で、同じ夢を見ようと思った主は、政治家ではだれだろう。

 もくもく奉仕活動をしている人たちを見ながら、彼らはあるいは、奉仕活動を「している」といったかすかな欲すらも思うことなく、為しているのでは、とふと思った。
 ならば、無欲は大欲に似たりも霞むな。彼らの境地で、永田町、霞ヶ関の人たちが、国、国民のため、働いたらば、どんな世界が描かれるだろう。

 発泡酒で、乾杯。「汗を流した後の、ビールは、うまい」と、ささやかな宴をめいっぱい喜んでくれる我が自治会の住民達。幸せあれ。この人たちに!


それでも船場商人か

2007年11月18日 | Weblog
 思い(思想)の革新を図らねば、高邁な戦略は台無しになる。また、戦術が目的化しそれがために企業全体が、崩壊しかねない、といいった事例を、メディアが私たちに知らせてくれている。船場吉兆など、まさにそれだ。

 人は考え込むと、動きを止める。いろいろむやみに動いていたのでは、ムダ、無意味と思うから、方向が見えるまで止まってしまう。
 これが「迷い」、その結果の「躊躇(ちゅうちょ)」である。

 偽装は、通常の人の神経なら、ためらうことだ。
 それを躊躇なく行動できる、行動させた、というのだから、それは経営者の思い自体が狂っていたからだと、断じ得る。だから「仕入れだ、パートが勝手にやった」と、これまた平気で、偽装出来るのである。

 中部大学の大島俊一教授から、私の配信しているメルマガに関して、ご好意溢れる、しかも長いメールを頂いた。
 そして、先生が、大学院で「実践経営思想」の講座を開いくことになり。その講座の根底なる思想を一枚の紙に纏めたので、見て欲しい、と付してあった。

 私には、少し重たかったのでしばらく考えることにし、とりあえずその図形を、手帳に挟み、、私なりの新たな思いやヒラメキをMMAP化し、そこから頂いた大きな示唆を加えて、今朝一番、遅れた返信をした。

 私は、生来から、この「図案化」が苦手で、冗長な文章で思いを現すことしか表現の術(すべ)を持っていないのだが、一方、自分が考えるときには、こうした図形が、ヒラメキ、示唆になる、といった経験は結構ある。
 それであらためてその貴重な体験を実感した。

 その図形の柱が、「民話」」

 民話といえば・・・・。
 ほとんどのものが時間軸で、ふるい落とされ、消えて入っていく中で、残るものがある。その大きなひとつが、先生が着眼されている民話。
 
 たまたま、5年ほど前か、那須大学での学会のおり、同宿した、大阪学院大学 田中道雄先生から、彼の師、宮本常一先生の話を伺って、偶然その頃、私が宮本先生の本にかぶりついていたこともあり、我が意を得た思いをしたことを思い出した。つまり、両先生とも、経営の底に「民話」がある、ということだ。
そうだ、身近な、福井の嶋崎喜一先生も、地元の民話の再現に取り組んでいるではないか。

 私は、これはなんども、このブログに書いたことだが、ある時から経営の本を捨て、歴史、といっても小説、それも宮城谷昌光さんの著書、小説の中から、経営の本質、普遍性を取り出す作業に転換している。

 世の中のすべてのものは、時間軸、歴史の篩(ふるい)の上で、生きているといってよい。栄枯盛衰は、戦略ではなく、ましてや戦術ではなく、この篩が決めている、と私は思っている。

 その篩のふるい落とす基準こそ、大島教授の言う「実践思想」にあるのではないか。
 人の思いが、実践活動、実践行為として具象化され、その結果が自分、自分の企業の栄枯盛衰を決める。こう考えたら企業犯罪の、根本にある犯人の隠れ家が明確になる。
 
 TVの人気ドラマ「相棒」の主人公、右京ではないが「船場 吉兆」の親子に言いたい。
 「立場の弱い者に振るその態度。商人として恥ずかしくないのか!船場がなくぞ」


ぬかった!久間を凌ごう

2007年11月16日 | Weblog
昨日の国会での証人尋問のこと。

 何処からか、「ぬかった!」と言う声と、「きゅうばをしのぐため、入院していてよかった」という声が、聞こえてきた。

 メルマガやブログの不特定多数への配信は、山のてっぺんで、大声で叫んでも、まったくこだまが帰ってこない一種の不気味さがある。
 モリヤ低級元官僚の証人諮問を、ラジオで聞きながら、そんなことを考えた。

 国会の室内という特定少数だけではない、自分の発言を全国国民が聞いている。その「こだま」は自分には帰ってこない。だが、自分の頭の中では、自分のことを悪し様にののしる声が聞こえる。もちろん幻想なのだが。

 そうした中で、同じことを、実は微妙に角度を変えながら、質問される。とくに一問一答は、答える。イエス、ノウ、短いフレーズの中の具体的単語が、特定化される恐れがあるからだ。それを免れるには、「記憶がない」という答えでにげるしかない。
 
 ここにも罠がある。(そのことに関しては)記憶がない」ということであれば、
 1に、この返答が連発されることで、受け取る側は、メッセージとして「記憶があり、知っているが言えない」と理解してしまうからである。だからこそ、質問者は繰り返し、繰り返し、「記憶がない」といった答弁を引き出させ、白ではなく灰色に持って行こうとしているのである。
 2に、たとえば「一切ありません」といった言葉との矛盾である。 「一切ありません」という言は、明瞭に記憶しているから、否定している。それなのに、もう一方では「記憶がない」と力を入れていうのは、明らかに矛盾なのだ。この矛盾が、第三者に理解されれば、責める側は、「うまくいった。これ灰色」ということにある。

 彼ぐらいの低級エリートだと、逆にその落とし穴に、自分が進んでいることがわかるから、後は、1に、何処を落としどころとするか、2に、これを認めて、此方へ振り、こちらへ火の粉が飛ばないように、と流れを自分の思うつぼへ持って行こうとする。3に、俺は小物。俺の上に巨悪の根源の存在がある、といったやり方で、この場合だと政治家に振る。 私たちが、日常何気なくやっている、「話をそらす」、「話を取る」、「話をふる」をやっていることになる。
 
 今回は、後見人が、うたた寝をしていたから、じっくり戦略を決めて、多分に涙を流すシーンまで、コンテを練り上げ、作り上げたシナリオ通りに、演じたにちがいない。それでないと、あのど真ん中で、昼寝は出来まい。
 
 二人の政治家、(わしの記憶によると)「一切無い」が、いつしか「記憶にない」、そして「すぐ帰った」(ことだけは記憶している)と、微妙に変化させている。
 この微妙な変化こそ、そこに「大きな疑惑がある」ということを、国民は知っている。
 
「だから時間の問題だ」
 だとしたら、単に先延ばしの茶番劇で、無駄な税金を使うことについて、国の金庫を握る財務大臣、どう思われますか。「ぬかった!」と臍をかむか、「きゅうばをしのぶか」、どちらでしょう。

骨の髄まで

2007年11月14日 | Weblog
 グーグルのサービスを使って、「売れて儲かるシクミ研究会」ON WEB を介し始めた。
 
 なにも、これまでの私の考え、もてるもの全面情報公開にブレーキをかけるのではない。何度も書いているが、不特定多数に一方的に流す、やり方は、これからも続けていく。

 それにもうひとつ加えて、会員登録した人と相互に何かを作り上げていくやり方をやってく場を作ったと言うことだ。会員になるのに、「無料」が胡散臭いと思われる人がおられたら、参加を見合わせて欲しい。私は、私を知る人なら、ころんでも只では起きないことをご存じのはずだからだ。会員の、パソコン用のIDを通じて、個別対応、対面、交流接点をもち、私の足りないこと、知らないこと、誤り、能力不足などをカバーしていただこうという、私なりの魂胆がある。

 これが有料以上の、私の「売れて儲かること」なのだ。そのシクミを、お互い研鑽して、確固たるものにしていこう、というのが、この会の狙いで、私の夢実現の一端なのである。http://jatsudon.in.coocan.jp/
 
 昨晩、グーグルのサービスを使って、「売れて儲かるシクミ研究会」ON WEB から、タノメールのベーター版2号を、すでに入会していただいた皆さんに配信した。

 以下、その一部。
                       *
 約束の時間より、早く着いたので、時間調整もあり、外回りを写真を撮っていたら、工場の方から、大柄な作業服の人が、こちらに近づいてくる。

 挨拶もしないで、この人は、いきなり竹炭について話始め、私たちをどんどん促して、熱っぽく話ながら、次々作業場を案内する。これまで見たことのない作業場、工場である。汚いといえばきたない。荒れていると言ったら荒れている。これまで見たこともない奇怪な機械が、工程など世にナシ、関係なしといった感じで、無造作に並んでいる。それもすべて廃品回収から拾ってきたようなオンボロの機械である。それらが、建物の中ではなく、外に、ぽつぽつと捨ててある、といった感じである。
 異様としか言いようがない。
 
 最初は、酷いところを訪問したもんだ、と思って3人で顔を見合わせた。
 
(中略)

 扱っているのは竹だけ。日本一の竹の生産地 鹿児島は、日本一の竹による公害被害県でもある。鹿児島県が、本年度からかなりの予算を割いて、このやっかいもの竹を処理し、活用する事業に取り組んでいるが、当社は、この厄介者を、捌くことを10年も前からやっている。やっかいものを退治し、感謝され、それも、竹の骨から、随までしゃぶり、当社は太る。
 帰りの車の中で、私は、竹のことではなく経営ってこんなことか、と考え込んでしまった。
 

今日は、19年11月11日(日)

2007年11月11日 | Weblog
これは、自分の土地だ。自分の庭だ、と思うことにしている。
 自我を押さえるよりうんと広げ、より抽象化すれば、我が集落のどこにポイ捨てのゴミがあろうが、我が庭。気になり、自分で始末が出来る。自分の庭だったら、ぶつぶつ言いながらでもそうしているのだから。
 
 なかなか自我や自意識が強くて、それで抵抗があることも、その自我の欲求の対象範囲を広げることと、俯瞰的視野からみてぼけさせ、抽象化することで、対応すれば和らぐ。そのことを、知る。

 今朝、7時半からリサイクル日である。決まりとしては8時から8時30分までなのだが、そんなことにはお構いなしに、皆さん、自分の都合で持ってくる。

 だが、私は野放しにしている。
「時間を守って下さいよ」というエネルギーより、此方が合わす方が、はるかに楽だ、ということがわかってきたからだ。私が、私自身に納得させれば済むものを、23人に働きかけることに、無駄なエネルギーを費やすことはない。

 経営に関わるこの生業(なりわい)に恵まれ、ほんとうに有り難いと思う。そこで学んだ素地があればこそ、日常の風景の中でも学べるのだ。

 自治会のことをしていて、その折りの自分の心の微妙な動きを見つめると、「あっ、組織ってこういうことか」、と、教科書では解けなかったことが解けるときがある。
 それでまるで禅の公案の解け口が1つ見つかったような、嬉しさを感じることができるのである。

 当日ではなく前日にこっそり持ってくるKさん。時間が大きく過ぎてから、持ってくるMばあちゃんは、人に会いたくないということが、わかった。
ゴミ出しが終わっても、なかなか帰らず、うるさいぐらい話かけてくるSさんは、一度聞き手を見つけたら、隙間なく話し続ける。他の人が聞いてくれることが楽しみで、このゴミ出しに来るのだ。 今日は、話が尽きるまで、聞いてあげようと思った。なんと9時半。1時間余、やっと「しょんべんしたくなった」といって、やっと帰って行った。

 最近、引っ越してきたNさんがライトバンにいっぱいのゴミを持ってきた。1時間30分も超過している。理由は、Mばあちゃんと同じで、まだ集落の人となじみがないので、多くのゴミを見られたくないので、人目を外してくるのだ。

 それで私が、まだ残っているのに、驚いた風。
 積み卸しを手伝っていたらNさんが、一生懸命言い訳を始めた。次から「時間通り来るから」と自分で言って、帰っていた。18日の定例会で、皆に紹介し、豊穣会でいっぱい飲めば大丈夫だ。多くの若い人たちが入りたがらない自治会に、自ら入ってくれたのだから。

 企業に置ける組織なら、怒ったり、叱ったり、注意したり、命令したりして、人を動かす。むろん、こうした自治会でも、そうしたツールを使えないことはないが、それを使わずうまく活かせる方法はないか、と自分に課題を与えてみたら、それは実に新しい学びが得られる。師の城野先生が、「人は」思うようにならないもの」、といった言葉の意味するものが、こうした場面ですーっと理解できる。

自治会館から、自宅に帰る途中、芋畑の中から、Fさんに声をかけられた。「おぃ。芋、もってかえらないか」。
 以前、このブログに書いたことがあるが、そうしておいて、「田上さんは、袋まで用意して、芋をいっぱいもらって帰った」と、世間中にクチコミするのだ。これが60近くなっても一人暮らしの、彼の楽しみのひとつなのだ。

 「また、私の芋好きが、有名になりますね」と、遠回しにチクリしておいて、今回はFさんが用意してくれた大きなビニール袋に、いっぱい芋をいれ、帰宅。 
 
 今日は、19年11月11日。行くとし、いいツキ、いい日、あと11分で11時、いい時だ。
 風は少しあるが快晴。 のどかな日曜日になりそうだ。

ドタキャン

2007年11月10日 | Weblog
突発事項も含めて、何やかやと起きるものである。

 予定がドミノみたいに繋がっていると、突発的事項が入ったとき、予定が次の予定に次の予定が次にと、次々ドミノしていく。それは相手にとっては、突発的なドタキャンということになるから、ことの始まりが、自分のせいでなくとも、その次の予定から、自分がお詫びしなければならなくなる。何で自分が、と思うが、これはまだ人のせい、という思いがあるからいい。

 偉そうなことは言えない。私も今月、大切にしている会を泣く泣く飛ばした。理由があるのだけど、その理由がどうであれ、他の人には迷惑、不快なことであるには変わりがない。その証拠に、その理由をつけてお詫びのメールを記しながら、いつのまにか、自分自身いやな気分に陥ってしまうのである。

 これを防ぐためには、連続して予定を入れない、ということをきちんと守れば、ほとんど防げるのである。嘗ての経験から、私は1日、1つの仕事しか入れないことに徹している。かりにそれが2時間の講演であろうと、だ。
 
 時には2時間の仕事でも、1日かける、といったらかっこいいが、早めにその町へ行き、街をみたり、時には早くホテルにいり、早い風呂にいり、残りの時間を読書で過ごす、といったことだ。

 いつもドタキャンで困ってた、と愚痴している知人に、上の話をしたことがある。もっともこの友人、スケジュールを詰め込まないと不安でたまらないらしく、相も変わらず自分がドタキャンを発生させているのだが。
 
 これが、一番怖いのである。理由、大きく3つ。
 1に、ドミノの先が自分には見えない。影響する数も量もこちらからみえない。2に、それに先には理由が伝わらない。だから釣り馬鹿の浜ちゃんならずとも、親戚一同を殺しまくって理由を作ることになるのだが。

 3に、ドタキャンには、これを破棄してこれを取る、という取捨選択の結果起きている。その基準は、往々にして「欲」である。つまりより経済性が高い、ところをということだ。繰り返している内に、相手にそれが見えてくる。そうなると当然、相手は自尊心を傷つけられることになる。それがどういうことになるか。

 まだまだあろうが、ドタキャンの影響は、此方が1人、ドミノの先は、波紋の広がり、ということで想像を超えた影響を及ぼす。1万の損失が100万の損失を発生させていることは珍しくないのだ。

 ならば、先に1万を取らず、余裕を持って100万の損失を防ごう、というのが、数々の苦い思いをした、私の述懐なのである。