経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

政局を読む-1

2007年07月31日 | Weblog
 選挙では、リーダーが戦略に長けた人か、そうでないかが勝敗を決める。
民主が勝った。自民が大敗した結果は、そこだけを見れば国民の支持が民主へ、ということに見えようが、そこへ持って行くための流れ(理由)の存在がある、ということだ。

戦略はいわば風。ただフア、フアと漂う空気に流れが加わると風になる。流れだから方向性がある。

 この風を活用するには2つある。良い流れなら乗る。これは楽ちんだ。
 もうひとつはいやな流れ。これには乗らず、新たな流れる創ることだ。
 こうした見極め。いわゆる流れを読める力が、小沢さんにはあり、安部さんには乏しかった、といえる。さらに流れを創る力も然り。

 空気は見えない。風も感触は空気に勝るが、直接には見えない。見えないものを見える形にもっていく。これでなければ、人(国民)は判断できない。この風を見える形にすることを戦術と呼ぶ。

 小沢さんは、地方行脚に力を入れ、いわば個別接触し、熱い風を、手と足と口を使って説いた。一方、安倍さんは、壇上から「皆さん!」と声を掛けた。世の中には、個々人は存在するが、「皆さん」は存在しない。ここでも形づくりの差が明瞭であった。
 だから、民主の勝利と言うより、小沢さんの戦略の勝利。

 前者をみて、うまいな、と私は思った。
 後者をみて、下手だな、と私は思った。

 政治の世界で、うまい人は、もうひとりいる。小泉さんだ。
 こともあろうに、自民をたたきつぶす、と絶叫。アンチ自民党である都市部の無党派層
を背につけた。それで大勝。だがこれは自民の大勝ではない。小泉さんの勝利である。

 その意味でも、今回の選挙は自民にとっては難しかった。安倍さんが、無党派を背につける材料もないし、性格的にも無理だし、加えてボーンヘッド続きだったからだ。

 無党派層は無党派。当てに出来ない。小泉さんの時と違い、自民を押すことはない。としたら組織票固め。組織票は都会にはなく、地方だ。それで小沢さんは、地方行脚に徹した。 見事な戦略の読みと、戦略の大家、師の故 城野 宏に代わって、私が、絶賛したい。

 今回の選挙は、民主の勝利と言うより、民主に大勝をもたらした小沢さんの属人的戦略、そして、自民が向かい風を、追い風に出来ない処か、押し流されるという戦略的ボーンヘッドに助けられたことによる。
 だから、次の選挙では、このままでは民主の大敗を、私は予測している。理由は、今回の自民大敗と同じだ。

 戦略は、人柄ととか他の要件で不利、劣勢であっても、勝てる流れを創ることができるのである。戦でいえば、勝てる戦を負けるのも、負けそうな戦を勝てるのも、運不運ではなく、戦略力の差である。

 いい人だから、勝てる。悪い人だから、負けるは講談の話。

 個人の戦略で、組織が動くのは、まだ組織の本来ではない。
だが自民にしろ、民主にしろ、組織の勝ち負けは、個人に依存している。
これは政党という組織の戦略機能が、脆弱である証と、私は見ているからだ。

 現実は風で動く。その風を支配しているのは、庶民である。今回の選挙を材として、経営における戦略の重要性を書いている。
 
 戦略に乏しいリーダーが率いる組織は、大きければ大きいほど、愚鈍。
 小さい組織でも 戦略に長けたリーダーが率いる組織は、精鋭化する。

だが個人的要素で、組織の盛衰が決まるというのでは、組織体としては未成熟と言わざるを得ない。 

 こうしたことを裏付ける典型的なケースが、今回の選挙である。

自民大敗をよむー速報版

2007年07月30日 | Weblog
 予想通りの自民大敗である。民主大勝の要因を、一言で言うと、小沢さんと安倍さんの戦略力の差、といえる。

安倍さんの政権続投は、既定路線。それでいい。国民にとって、この状況こそ、国が政治面からの押し上げで、ますます良くなることを、担保したようなものだ。理由は、言わずもがな。つぎの衆議院選挙で自民が敗れたとしたら、自民は恐らく二度と立ち上げれないようなダメージを受けることは、自民の議員がみな承知していること。だから第二次安倍政権は、必死で、良いことを実践する確実だ。

日本国民にとっては、これからもっとも望ましい形が、続くことになり、日本国家にとっても素晴らしい状況になる。

 政治的には、参院の実力者、改革派でありながら、古き自民党の権現イメージの強い片山虎之助氏が落選したことは、今後の自民にとっては、衣替えの意味からはラッキーなことである。ちなみに妖怪の権現主、青木某の力も削がれる。これ、自民にとっては幸運なことである。

 皮肉なことだが、今回の参院での大敗により、次の衆院選の大勝が保証されたのが自民。
参院大敗が、自民を救う。そのあおりを受けたののが、自民と民主以外の小政党。
 続きは、次に掲載する。

暑さを楽しむ

2007年07月29日 | Weblog
近年にない暑さで、36度を毎日超えて、パソコンが狂い出す有様です。突然、画面が勝手に動き始めます。ポインターが触れたところが次々開き始める。また突然、シャットアウト。それに電源が切れる。昨日も、今日も、こうしたトラブルが。まるで妖怪です。暑さのため、と断定は出来ませんが、夜は今のところ起きていないので、たぶん。
 正直なところ、原因がそれであったほうがいい、パソコン本体が原因だったら余計いやですから。

 人間の方は、昨日みたいに快適空間、歯科医院に逃げ込めるのですが、デスクトップパソコンは動かすわけにいきません。ちなみに今日は、歯医者というわけにはいかず、銀行にしました。

 銀行は落ち着いて読書できる場所じゃない。最低。ダメですね。長居しているとマークされるようで。またビデオとパトロールが気になってしょうがない。丸坊主頭ですから。

 仕方がないので、30分ぐらいで事務所に戻り、扇風機をパソコンに譲り、人間は、パンツ一枚、タオルではちまきで、黒石のヤキソバを応援するHPをつくったり、青森の若山経営のHP「今月の言葉」の原稿を書いたり、学会のコメンティターとしての対象の関連論文の読んだり、本を読んだり(13冊、読みさし中)、ブログを書いたり、依頼されている仕事の報告書づくりをまぶしたりと、小刻みにころころ、やることを変えて、この時間まで来ました。16時から運動の時間なのですが、外は辛い。映画でも見ながらアレイでもやろうか。あと5分。決めかねています。

 17時から、次のメルマガ19-13号の準備です。
 
 なぜやることが増えたかというと、以前書きましたが、仕事の量を落としたお陰です。量を負うという、あり方。そうした生き方、間違えた生き方のまま走り続けていると、一生が、いや生まれてきたこと自体が台無しになる、こうした大切なことに、最近気がついて私はラッキーです。ほんとについています。

 あと20年、そうした生き方を満喫できる、と思うと、ついつい気持ちも大きくなり、やりたいことが増えてしますのです。いえいえい、忙しさを誇ったり量を求めて、といった昔、通った同じ道は絶対に通りません。そのため、いろいろ楽しみを入れ込んでいるのですから。

 人生に彩りつけるたの、あれこれやりたいことをやる楽しみを、今後大金持ちになっても、たとえ一部であっても、秘書にやらしたくはありません。
 秘書には、事務所にハンモックをつり下げ、そこから、仕事を楽しむ私に団扇で、風を送ってもらう仕事をお願いする計画です。昨夜、見た映画「シマロン」(いい映画です)で南北戦争以前のアメリカの金持ちが、黒人の男の子にこの人間扇風機の仕事をさせているシーンあって、私はこれを美人秘書にやっていただこうと、すぐノウトにメモしました。楽しみです。 
 

友達の多い人~我が家の楽園

2007年07月28日 | Weblog
 映画は、私にとって師である。友である。父である。母である。妻である。別の人生である。そして単なる時間つぶしでもあるし、時には隠れ家、逃避先でもある。

 毎日見る。見てから寝る。寝ていて夢でもう一度、見ることがある。

50年経て著作権の切れた映画が、ITのニフティやヤフーの動画WEBで無料放映されている。それまでは、ツタヤの店やWEBでレンタルする以外方法がなかった。ところが1930-50年代の古い作品見る人は、恐らく稀有なのであろう。よっぽどの幸運に恵まれないと見つけることができない。それが少しづつDVD化され、ツタヤなどの「名作コーナー」に並ぶようになった。

 嬉しかった。

 1週間レンタルで10本も借りて、睡眠を削って見続けた。それでもDVD化されているのは、当然のことだがDVDとして、数多く売れる作品だけである。やがて、それも底が尽きた。レンタルが止まったのである。
 
 前後して、ITでの無料放映が開始された。以来毎日、必ず1本は見る。急がねばならない理由がある。それは、放映期間に制限が付いているからである。せっかくリストアップ登録していた、「我らが町」など、無惨にもリストから流れてしまった。
 昔、一度見た記憶がある作品は、見ていない作品を優先するので、こうしたミスをやらかすのである。

 昨夜、1934年「或る夜の出来事」、1936年「オペラハット」に続き、1938年アカデミー賞監督賞を受賞したフランク・キャプラ監督の、「我が家の楽園」を、見た。

 この作品は1938年、第二次大戦開戦前夜の作品である。全篇を貫くヒューマニズム、おおらかな反権力性、等、アメリカの民衆の善意があふれている傑作である。
 何度もテレビ等で再放送されているので、過去、どこかで見たような、といった思いをする、といった人が多いのではないか。私も、そうした無意識に見たような、という思いで、昨夜ヤフーでみた。

銀行王カービー(エドワード・アーノルド)は、軍需工場拡大のため不動産屋に命じ地上げのため、用地買収しようとするが、ある一家の反対でうまくいかない。
 カービーのぼんぼん息子で副社長のトニー(ジェームズ・スチュアート)は秘書のアリス(ジーン・アーサー)に夢中で、親の仕事に無頓着。だがアリスこそ、その地上げをこじらせている一家の総領 ヴァンダホフ老人(ライオネル・バリモア)の孫娘であった。

金持ちと偏屈一家の交流を通して、笑いの中に人生の機微を見え隠れさせていく。人生とはそうあくせくするものではない。人生で、何が大切なのか考えてみよう」という問いかけ、そして、最後に「人生で一番大切なものは、友と家族」という、フランク・キャプラ監督の強い思いを打ち出す、といった主張は、「素晴らしき哉 我が人生」と同じである。
 裁判官が、被告となるヴァンダホフ老人に対し「実に友達の多い人だな」と、あきれつつ感嘆するシーンなど、思わず同調してしまう。

 例によって、悪人の出てこない、暖かい微笑ましいシーンが随所に盛り込まれ、2時間の間だけでも、楽しい気分に浸れる。
 ラストのハーモニカの合奏のシーン、表現は違うが「素晴らしき哉 我が人生」でのラストシーンを彷彿させ、わかってるのにジーンとする。
 最後は、銀行王カービーの巨体とこわばっていた顔が、まるで一変。柔和なお人好しのおじさんの顔、姿をUP。
 素晴らしい後味と余韻を、見る者に残し、エンドマーク。

 心の底に大切に採っておき、時折取り出して、我が人生を慈しみたい。そんな思いがする作品である。

我が避暑地

2007年07月27日 | Weblog
 猛烈な暑さである。
 これにパソコンが協賛して、我が事務所は冷房なしだから、40度近い。これはダイエットのチャンスと思って午前中だけは何とか過ごしたが、仕事にならぬ。

 それで、今、いつものM歯科医に予約の電話を入れた。ここなら読書空間としては最高だ。幸いに16時の予約が取れた。午後2時が午後の診察開始だから、さっそく読みたい本3冊を選び、ペットボトルに冷水を入れ、リュックにつめた。
 正直なところ、ここの待合室は仕事に最適の場所とおもうのだが、守秘義務のある仕事だから、仕事は外へ持ち出さないことに決めている。そこでもっぱら読誦。以前パソコンのDVD
で映画「避暑地の出来事」を鑑賞したことがあったが、他の患者さんが、「おもしろそうですね」とのぞき込んだり、干渉するので、落ち着いて鑑賞できず、以来やめた。

 ここで、物言うようになった姫(病院の受付のお嬢さん)が、コーヒーでも入れてくれたら最高なのだが。高い診療費を取っている病院こそ。しかもホスピタルを謳っているのだから、「コーヒー∪テー、どちらにしますか」ぐらいのサービスをやって当然と思うのだが。
 
「猛暑時の、我が避暑地、医院なり」

1年従のサンター後編

2007年07月26日 | Weblog
 鹿児島は、35度を肥える猛暑が4日続いています。この馬鹿暑い夏にサンタさんはないだろう、と思われるかもしれませんが、今しばらくおつきあいください。

昨日の続き。
 最後の所を再掲します。
 だからこそ、それを意識して、他人有利、他人の得、他人都合に合わせる、相手の喜ぶ方へウエイトを懸ける。こうした考えに立てることで、圧倒的支持を、一握りの人が得られることになる、と思うのです。 (後編に続く))

 この反対をすればダメになる。ダメになった企業をみる仕事、再生の仕事は、企業の経営以前の問題として、経営者のあり方如何を、見るわけです。結論的にいえば、経営者が、経営を確実にダメにする要素を、人一倍多く持っておられる。つまり、会社を大きくしたい。よくしたい、カネが欲しい。カネが惜しい。偉くなりたいなどといった、意欲が強く、かつそのために一生懸命努力されたいる。その結果、支える人たちが離れていく、といった孤立化現象が見られる。
 大きくなることを目指し、小さくなっている

 「人様のお役に立てる人になりなさい」、などといったことはわかっていることなのです。多くの人がちっちゃな頃から、そう言われてきたと思うのです。
 だが、聞き逃している。いや、そのことがとても重要な定理であることなど、考えもしまかった。私も、サンタさんは、クリスマスにかってに来るものだと思っていました。

 行動して、カタチにしなくては、「わかっていない」「知らない」と同じこと。
 自分の会社を、心の底から発展させたかったら、そんな「わかってることなんですがね」といった、のどかな受け取りではなく、他の方が支えてくれる条件作りを、せっせとやる。あれこれと考えずに、今やれることをやってみる。

 これは私の経験でもあり、やった皆さんの実感でもあるのですが、そのうちおもしろくなる。だから夢中になる、我を忘れて打ち込む。人から、「助かったよ」、「うれしいよ」といわれたら、たまらなく自分がいい気分になれる。嬉しい。快感です。

 だから、世界自由で一番幸せなのは、実はサンタさんご本人。ですからあんなに高齢でも、自分でソリをあやつり、世界中を回れるのです。しんどくて、おもしろくもなく、世界中の子供達が、一人も喜んでくれなくては、いい年して赤い服来てあほらしくて、あんなことできますかいな。 

 ただサンタさんは、年に一度だけ。たぶんにプレゼント代は馬鹿にならないかも。上に述べたように、彼の得る喜び系の見返り、自己充足感は大きいのでしょうが、それはお金じゃない。お金がなければ仕入れも、トナカイを食べさせることもできない。この現実がサンタさんの頭の痛いところ、と思う。

 でもこれは浅はか。
 サンタさんの考えに賛同し、多くの人たちが応援してくださる。配達も代わりにやってくれる。だから、サンタさんは、「やれる」のです

 この偉大な成功事例の考えを、かっこつけて言えば、ビジネス・モデルに、というのが、せちがらい、単細胞の私の考えなのです。 

 だから、まずは自分一人から。金がかからないこと。すぐ出来ること。ちっちゃなことを毎日やる。そこから始めましょうよ、と経営者の方に声をかけます。
 
 普段の日常生活の場を、その練習、稽古として、ちいさなことを気軽に、やってみる。そうした積み重ねで、習慣が付く。身につく。組織風土になる。それが広がって、広がって、広がって、そうなったら、世界中に、一年中、サンタがうようよいることになる。
 これが世界がよくなった、ということだと思うのです。

 自分の太平洋に粟粒にもならない仕事の意義に、こんな大きな夢を乗っけるだけで、気分良くなれる、単細胞の自分を、ほんの少しでも好きになれるから不思議です。 
 

一年中のサンタさん

2007年07月25日 | Weblog
 一人一人の欲しいものを押さえて、用意する。個別対応です。これと子供達の期待を高いほうに裏切ることで、サンタさんは世界中の子供達から支持されてきたのでは、と考えてみました。

 サンタさんから頂いた袋を開けて、兄弟皆同じだったとか、期待していたものではなかったとか、お粗末なものだったとか、そうしたことでがっかりする子供が増えたら、サンタさんはとっくに失業していたに違いないからです。
 
 「皆様方が期待されている以上のお話が出来たのか」。
 「その話で、皆様方が、実践されるのか」。
 「それで経営が良くなるのか」。

 この3つが、講演やセミナーが終わったとき、自問自答していることです。

 きれいごとを言っているようですが、この仕事は、怖いところがあって、どんなできであろうと、まずは拍手をしてくださる。加えて、司会者が、「センセーにもう一度、盛大なる拍手を」と、催促してくださる。

 こうしたことが何十年も続いたら、人間、いや私なぞは、とんでもない人間になる。それを防ぐための、私のおまじないなのです。

 今回の名古屋・カムサ経営塾スペシャル版は、主催してくださった、カムサの朴 寅鎬 さんと相談し、参加者を少数にしてもらいました。可能な限り個別対応にしたかったのです。 客数×単価ですから、単価が一定なら、客数が多いほうが、有利、というのは主催者と講師側の思惑。受講者は、個別対応が一番いい。

 それでもご期待以上のものを、差し上げられたかどうか。忸怩たる思い。多分にプロである私が、私の出来を採点し、そう思うから。

 ここで過去、2回。それも5回コースをやっています。参加者はほぼ同じ人。以前にお話ししたことが、皆さんが実行され、カタチになっているのか、自分がためされる「場」出もある。また自己採点する思いで、今回はドキドキしながら、やらせていただきました。

 「わかった!」といったレベルでは、わからないのと同じです。行動する。行動が出来る。そして自然に出来るようになる。それを皆様方の仕草、言動で、はっきり確認できてこそ、私は、お役に立てた、ことになる。

 自分中心、自分がかわいい。目先の計算をし、今の得を考える。自分都合、自分有利を優先する。人はみなそう。もちろん私もそうです。

 だからこそ、それを意識して、他人有利、他人の得、他人都合に合わせる、相手の喜ぶ方へウエイトを懸ける。こうした考えに立てることで、圧倒的支持を、一握りの人が得られることになる、と思うのです。 (後編に続く))

感じてこそ、動く

2007年07月24日 | Weblog
感動を 感じることなくば、動かず、と、こじつけの解をしてみた。

 もし、高齢化による五感の衰えが、マクロにあるとしたら、それに対して売る側は、手をこまねかず、対策を講じる必要がある、と思うからだ。

 もし、画一化、均一化、合理化といったことで、消費者が五感を通じて、ワクワク、ドキドキといった感動をすることが少なくなっているとしたら、それに対して売る側は、手をこまねかず、対策を講じる必要がある、と思うからだ。

  次の2つのことを確認しておきたい
 感動の感。 感じることは、五感の役割であろう。
 感動の動。 これは、手と足と口、体の各部位の役割。


 うなぎの蒲焼きの匂いをおかずに、飯を食って、金を貯めた話が落語にある。これを頭にイメージしながら、話を展開してみたい。

この主人公は、鰻は見えなくても、過去の記憶に蒲焼きのことは、記憶されている。それは食べたことがある、という体験がある、ということである。
 
 その体験を分解する。
 五感の1、 聴覚
  久しぶりに訪れた主人が、「お土産に鰻、かってきたよ」とかいいながら、お妾さんい声をかけた。その声が、主人公に聞こえたのかも知れない。
 この落語の時代背景は、多分に江戸時代。舞台は長屋かも。鰻を焼いているという人が住んでいるのだから、根岸あたりかもしれない。それも焼く音が聞こえたのであれば、この男の家は、お囲いさんの家の近くかな。

 五感の2,嗅覚
 匂いを感じる嗅覚が、飯をのどに駆け込むという動きを促進した、といえなくもない。
人が求めているものは、鰻というモノ(ハード)ではなく、唾液など消化促進の効用といったソフトだ、と解することもできる。

 五感の3,視覚
 この男。間違いなく鰻を見たことがある。でなければ、見てもいないものの匂いから鰻だ、と思い出すはずがない。それも昔、長屋仲間と遠州に旅をした折り、いけすでうようよの生きている鰻をみた、といったことではない。通りすがりの飯屋で、鰻丼の並でも食った客体験を持っていると思われる。


五感の4,触覚

 「ヌル、ヌル、って感じだよね。鰻は」と言った人がいるとしたら、それは、1に鰻をさわったことがあり、その触感を実際に体感した人である。または鰻以外で何かヌル、ヌルとしたものを、実際に体感した経験をもっている人なのかも知れない。
 触感は、実際に触れたときの感じである。さわったことのない人には、触感力はあっても。それがどんなものなのか、表現は出来ないからである。
 
 
五感の5 味覚
食ったことのないものの味は、わからない。いや食わないと味はわからない。だから、落語の主人公は間違いなく鰻の味を知っている。だから匂いで、それを再現し、飯を書き込んだのであろう

 よって、五感は、いずれにしても実際体験が伴うものであり、これをもって「感動」と言える。

 だから、、「言葉」が、その言葉を発した人の、自らの行動から創出されたもの(体験からでたもの)ではないと、人は感動しない。動かない、ということが出来る。人の感動の下請けでも、孫請けでも、コピーでは感動しない。

 感じる方もまた、「言葉」に込められた、人それぞれの過去の思いがないと、その言葉は感動とはならない。

 となると、底には作り手・売り手と、買い手に、共通する体験がある、ということが理解できる。これ、共感という。共感とは

 「おいしいね」、「ウン、おいしいよ」
といった感じか。
 
それで、あなたのお店の、接客を点検してみよう。・・・・どうだろう、
それで、あなたのお店の、チラシを点検してみよう。・・・・どうだろう、
 それで、あなたの会社の企画書などを点検してみよう。・・・・どうだろう、
 
「まぁ」、この鯛は、おいしそうたいね」と、思わず人が感動するのは、どういうときなのか。これは自分がいっぱい感動した経験を持っている人がわかるはずである。

 鮮魚売り場のテープレコーダーに、「トレトレだよ。感動の旨さだよ」といわれても、それに感じ(共感し)て、動く(購買する)はずがないのだ。だから、購買に結びつける役割をこのレコーダーに期待しているとしたら、それは全くのムダ。投資対効果はゼロ。
 明日、すぐ外し、どうしたら感動してもらうか、考えてみよう。 

 アパートで、インスタントラーメンばかり食っている生活体験の乏しい若い男が、青果や精肉、鮮魚といった食品売場の責任者をやっているようなお店は売れない。
 明日、早速配置換え。主婦の経験豊富な、パートのAさんに、やっもらおう。


五感を使っての実際感動経験のない人が、感動を作れるはずがない。テープレーコーダが感動を作れないのと同じだ。

にべもない&「個別対応」

2007年07月22日 | Weblog
私は、「これから個別対応が、存亡のキーになる」、としきりに申してきました。
それで、よく質問があるのです。
 
 それで、「あなたが買い物するとき、個別に対応されるのと、そうでないのとどっちが良いですか」と、切り返す。個別、とたいていお答えになる。
そして「でも、高く付くからな」と、付け加える方もおられる。

 ここからがおもしろいわけです。高く付くのなら、対策は大きく分けて2つある。1つは高くても売れるようにする。もう一つは、高く付かないようにする。そうしたことに挑戦する。それが経営だろうに、と思うのです。ですがそのことには、ほとんど気づかれない。問題があって、対策も見えている。それを解決したら、カネになるビジネスモデルになる、と自社や自分に取り込む、といった考えが希薄なのです。それでカネになるビジネスモデルは、ないかいな、とギンギラギンして探している。それは出来合い。既製品のビジネス・モデル。要するに手間暇は懸けたくない。玉暇がかかるものは眼中にない。経営者こぞって出来合い探し。

 これでは、にべもないので、この人手不足時代に、人件費をかけて、手間暇なことを、なぜ、といった疑問について、私は、個別対応が本来だよ、という前提に、以下の5つを考えています。

1-人件費などコストを懸けることで、売上がいっそう上がる、ということになればどうか。さらにより利益も出る、ということを確実にしたらどうか。
2-個別対応は、個々計算では、高くなっても、シグマ(総和)では、安くなることがしばしばある。だから意識的にそうした方向へ持ってゆく。そうすればこれがまた新たな自社、あるいは中小の強み、として加わることになる。
 たとえて言えば、全部の魚が、千円札を好むとしてこれまで対応していたのを、鯛は10円玉が好きだ、鰯はゴカイが好きだ。アジはミミズが大好きということがわかれば、
個々対応した方が、トータルのえさ代としては、安上がり、といったケースはいくらでもある。

3-人により、合理化によって、失っていた、夥しい見えない売上、機会損失を取り戻す
ことを見込む。

 人を懸けたといった側面を、人件費という側面からのみ見てはいけない。「ここのスナックの自販機を気に入った」といって、スナックに通いだす人は、余りいないと思うのですが、「この子 かわいい」と通い始める客は、私も含めてたくさんいる。

 自販機が安上がりかも知れないが、自販機は人と違って、自らの判断で対応したり、愛想を振りまくなど工夫をして、客接点を増やしたり、信頼・親密関係を高めるといったことはまず出来ない。人はこうしたことまで含めて、トータルでみると、人手をかけることが遙かに安上がりにもっていける。

4-出来合い(既製品)より、個別対応、すなわちオーダーメイドは、高く付きます。 出来合いですませればそれでいいし、そレガやりたくてもやれない私みたいな、チビ、小太り、ちんちくりんの体型は、個別対応してもらわなければ、下着で、結婚式に出なければならなくなる。

 オーダーメイドの服でも、生地は多量生産されている、ボタンもそう。つまり、両者を組み合わせて、そのお客様にとって、幸せ、喜ばれる状態を創って、あげられるか、ということが、私は個別対応の思想だと思うのです。

 これは、家庭でお母さんが創ってくれる夕食と、出来合いの総菜の取り合わせの夕食との違い。

 幼いときから、鶏が嫌いな私たった一人のために、母は個別対応してくれ、私だけ鶏ではなく、私の大好きな冷や奴にしてくれました。これは母の愛。でも手間暇をかかるが、材料代は豆腐が安い。それに私のご機嫌も良くなる。こうしたこともコストに含めれば、母のコスト的判断は、正しかった、といったことは、大人になり計算高くなった私の解で、母はしていないと思うのです。

 私たちも、個別対応を理想に於いて働くことの前提に、こうした「愛」がある、それが出来るのが人、それを仕事にしている商人の自分もまた、幸せなんだ、と思うのです。

5-どうしたら、この人に喜んでいただけるか、アレコレ考えることは楽しいし、それをやって相手が喜んでくれたら、これまた嬉しい。こうしたものが仕事の本来。個別対応こそ対応の本来、私はそう思いっている。

 ですから、これはコストとか売上云々とは、別の概念かも、といわれたら、私は否定しない。そうした経営こそ、本来ではないか、と頭の片隅で考えている。

 「考える」というその概念の中には、「計算」が含まれる。この計算は、貸借対照表ではなく損得計算書の方。儲かるか、損か、といってよい。それを判断の基準において、結局たいていは、やらない。やらないから実際のところはどうか、という真の解は得られない。

 それで、ここは計算を捨てて、「ええい」と実践、実行すること。それで真の解がでて、それが増収増益、ということになると、どんどん広がる。その「ええい」を自分でやれる人が真の経営者、人がうまくいったのをみて、二番煎じ、三番煎じするのが並の経営者。
 これまでは二番煎じ、三番煎じまで、生きられたが、最近では、消費者は一番煎じ以外は見向きもしなくなってきた。これが巷で言われる、勝ち組と負け組の話。勝ち組以外は価値がない、ということになった。


 乱暴な言い回しですが、個別対応といったことは、ええい、と目をつぶってでも飛び込まないと、やれない。やらないから実のところ損なのか、得なのか計れない、といったことはある。
 高ですからこそ、やる。うまくいったらシメシメ。どんどん進める。うまくいかなかったら、続けるか、やめるか、そのとき考える。これ経営者。

 それを、こう。「それ、やったら間違いなくうまくいくのですか」
 それに対して私は、こう。「やってみなければ、わかりません。それにやらない人に答えてもしょうがない。」 

あの「きざし」

2007年07月19日 | Weblog
恐竜も三葉虫も見たことがない。見たことがないのに、巨艦店舗(GMS)が恐竜、コンビニが三葉虫に思えててしょうがない。
 あるいは見たことがない古代の生き物を、GMSやコンビニを通して垣間見ているのかもしれない。事実、そうした目でみると、マイカルやダイエーが、なぜ消えていったか、私なりの理解である。

 ここで、楽天に頼んでいた本が、近くのCVSに届いたとメールが入った。近くといっても、歩いて40分。リュックを背負い、台風一過後の集落を点検しながら、ファミリーマートまで散歩。

 途中、竹林を抜ける。先にコンビニを竹になぞった。こんなに増え続ける竹が衰退することはあるのだろうか。あるとした天敵はなにか。

 ファミリーマートから200メートルも離れていない至近距離にローソンがある。こちらの方が先に出店したのだが、今あえいでいる。理由は明らかだ。従業員の躾、マナーが悪い。 そもそも経営者がいけない。

 ここで、ひらめいた。コンビニの天敵はコンビニ。竹の天敵は竹。三葉虫がそうであったように(←これは定説ではない。私の思いつきにすぎない)。
  このことは、この頃から急激に伸び、そして昨年あたりからかげりが見え始めたCVS業界を考えれば、ぴたッ。ピンポーンじゃないか。
それはまたは、自業自得、奢り・・・・、ともいえるのではないか。
 巨艦店舗にしろコンビニにしろ、人が創ってものである。だから当然、これは人のおごりの産物。
 過去の成功要因が、次は失敗要因になる。コンビニの成功要因で、コンビニは敗退する、これも奢りの現れ、といってもよいのでは。ファミリーマートの中で、メモをした。

 規制緩和や街づくり3法の改正で、ずいぶんと出店しやすくなったはずの大型量販店(GMSなど)の進出や海外からのカテゴリーキラ1などの進出が、めっきり減少したのは、こうした業界自体が円熟期、飽和期を過ぎていることの証でもあるが、付け加えるなら過去の成功にしがみつき、革新を怠った、自らの奢りではないか。

 しかしこのことは、新規出店し続けることで資産インフレのレバレッジ効果を見越して延命を図ろうという、これまでの自転車操業と揶揄されてきた戦略(?)を放棄せざるを得ないことを顕している。 そこへきて既存店が軒並み前年割れ。
 そうなると、どうなるか。自明の理である。

 なぜ既存店が前年割れするのか。これは考えるまでもない。もうずいぶん前から、例えば消費者のニーズの多様化・高度化による商品のライフサイクルが短絡化し、きのうまでの売れ筋商品が明日からも売れ筋商品であるという確証はなくなってきている。こうした兆候は、多量仕入れによる原価低減、そして多量販売によるオペレーションコストなどの削減といった大手の得手が生かせなくなったこと。
 ここで、再掲。
 同じような店が、同じような商品を、どこでも売り出すと、価格だけの勝負になり、競合が増えるたびに疲弊する。

 周囲を見たら三葉虫だらけ、
 何処を見ても、三葉虫。
 どこへ行っても、三葉虫

 三葉虫は、まわりが三葉虫だらけにへきへきしたに違いない。

 見たくない。殺したろうか。
 最後の一匹は、水に映る三葉虫を見て
 言ったに違いない。
 みたくない。殺したろうか。
 
 街も道路も宅地も、コンビニ
 何を買うにも、コンビニ
 どこへ行ってもコンビニ
みたくない。殺したろうか。

「開いていて良かった」、のあのワクワク感はもう感じない。

これまで長い間、こぞって経済を押し上げてきた功労者、 画一化様、同質化様の終焉を予告する兆し、前触れではなかろうか。