経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

四面楚歌と人間学

2011年11月27日 | Weblog



経営学のない時代でも、劉邦は自分と組織がわかっていた、

否、というより人間を知っていたというべきであろう。



購買対消費、消費者対八百屋、買い物客対店主・・、

ここまでは「対(たい)」の関係。



これがこのお店の親父は同じ自治会の役員、同じ地区の住民、

ゴルフ仲間、同じ男性・・・、と並べれば、

「対(たい)」の関係が薄れて、「対(つい)」の関係になる。





同じ論理で、経営学、組織学など学問として学んだことのない劉邦が、



~「(彼は)おのれの能くせざるをところは、人にまかせる」、

この一事だけで回転してきた~



といったことができたのは、

まさに人間を知っていたということに他ならない。





経営学を不要というのではない。

経営を知り、学ぼうというものは人を知れ、人間学を学べ、

ということである。





「おいらたちが、支えなければ、この人、どうしょうもない人だ」



と部下から言われ、その部下達がよだれを出しながら、

その彼を支えて国王までした。この彼とは・・・・

中国、春秋時代の人「重耳」、のちの晋の文公である。



劉邦、文公に限らない。

いわゆる「他人のふんどし(消費者の購買)で、事業を栄えさす」、

人間学、これこそ商いの根本にある、というのが私の確信でもある。





繰り返すが、

自他共に認める力と才能に恵まれた項羽はそれが故に、

「人の心、部下、民心を活かし、その支持、支えで大業を成す」

という基本戦略が毛頭なかった。



経営者にも、俺が、俺が、俺が中心、俺がいなければ、

私が先頭に立たねば、といった人は多い。



自分の才が優れ、豊かである、ということを山とすれば、

その高さに応じた深き谷、謙虚さが不可欠になる。



常に水は、上から下に流れ込む。

力も、富も、情報も、エネルギーも然り。



謙虚は、礼儀作法と言うより、

こうした法則を知る者に共通した自然の知恵といってよい。



項羽が、このことを、ないがしろにしたことに

気づくのは、自決の直前。

有名な「四面楚歌」のシーンである。



力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)

時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)

騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 如何すべき)

虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を如何せん)



と、彼は唄、舞ながら自刃する、

という劇話を歴史に残すことになる。

範増の慧眼

2011年11月25日 | Weblog
歴史は長期視野と長期間を経ないと定まらない。
その証と評価の倉庫といってよい。


自分の自己欲求具現に熱心な人の落とし穴は、
他人のそれを陥れることを無意識に、
時には意識的にやってしまうことである。

項羽が自刃することになる根本起因は、
人の心を分かっていないことにある。

だから他人に対するもてなし、心配りの類を、
ないがしろにした。ここにつきるのではないか。

対して劉邦はどうか。
劉邦の心配りを、人づてながら見聞きした範増は、
そうした気配りができるのは天下取りの大望があるからだ、
と、看て取ったのである。

範増の人物眼の物差しが、何にあったか、どこにあったかを
うかがい知える話である。

武と人望、その行方を彼は、見通し、項羽に諫言したが
叶わなかった。結果は、範増の見立て通り歴史はなった。
もっとも、そのときには範増は失意の内に亡くなっているのだが。



ここで、項羽に、人の話を聴く耳があったなら、
愛妾、虞姫と愛馬騅との別れを唄ったあの歌も生まれなかった・・・。

ここは、映画では涙する場面である。


それまでおもてなしとか心配りは礼節、倫理の世界と思っていた。
また私は柄と行儀が悪いせいか、講師業が生業なのに孔子嫌いだった。
余計なことだが、劉邦が儒教嫌いと知り、我が意を得た思いがした。

それが、今や、これは人間学、いや心理学、卑近な言い方をとれば
出世、成功、繁栄といったことを目指し追い求める人たちにとって、
それを極める根本要件の一つ、と確信しているのである。

もちろん、表と裏がワンセット、諸刃の剣であるという意味に置いて。


四面楚歌

2011年11月22日 | Weblog



経営学のない時代でも、劉邦は自分と組織がわかっていた、

否、というより人間を知っていたというべきであろう。



購買対消費、消費者対八百屋、買い物客対店主・・、

ここまでは「対(たい)」の関係。



これがこのお店の親父は同じ自治会の役員、同じ地区の住民、

ゴルフ仲間、同じ男性・・・、と並べれば、

「対(たい)」の関係が薄れて、「対(つい)」の関係になる。





同じ論理で、経営学、組織学など学問として学んだことのない劉邦が、



~「(彼は)おのれの能くせざるをところは、人にまかせる」、

この一事だけで回転してきた~



といったことができたのは、

まさに人間を知っていたということに他ならない。





経営学を不要というのではない。

経営を知り、学ぼうというものは人を知れ、人間学を学べ、

ということである。





「おいらたちが、支えなければ、この人、どうしょうもない人だ」



と部下から言われ、その部下達がよだれを出しながら、

その彼を支えて国王までした。この彼とは・・・・

中国、春秋時代の人「重耳」、のちの晋の文公である。



劉邦、文公に限らない。

いわゆる「他人のふんどし(消費者の購買)で、事業を栄えさす」、

人間学、これこそ商いの根本にある、というのが私の確信でもある。





繰り返すが、

自他共に認める力と才能に恵まれた項羽はそれが故に、

「人の心、部下、民心を活かし、その支持、支えで大業を成す」

という基本戦略が毛頭なかった。



経営者にも、俺が、俺が、俺が中心、俺がいなければ、

私が先頭に立たねば、といった人は多い。



自分の才が優れ、豊かである、ということを山とすれば、

その高さに応じた深き谷、謙虚さが不可欠になる。



常に水は、上から下に流れ込む。

力も、富も、情報も、エネルギーも然り。



謙虚は、礼儀作法と言うより、

こうした法則を知る者に共通した自然の知恵といってよい。



項羽が、このことを、ないがしろにしたことに

気づくのは、自決の直前。

有名な「四面楚歌」のシーンである。



力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)

時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)

騅不逝兮 可奈何 (騅逝かざるを 如何すべき)

虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を如何せん)



と、彼は唄、舞ながら自刃する、

という劇話を歴史に残すことになる。

劉邦のご挨拶

2011年11月19日 | Weblog
範増の、
「うまく活かすのは人の長短の組み合わせ」
といった、人の関する考えと戦略眼は、
今も組織にも色あせず通用する


いずれにしても、武力的には他に勝る者なく、
個々の戦には、圧勝する項羽。

対し、範増は、もとより武力はないが、
長けた人物眼で、人を見、戦略思考的物差しで先を測る。

この両者揃えてワンセットで、ここまで連戦連勝したことを
項羽は、「俺の力、自分の強さ」としか思っていない。

項羽には、韓信のような戦略眼がない。
また、劉邦の謙虚さ、人の話を聞くといった人望がない。

だから、範増は、この二人を配下にするか、
それができないのなら、直ちに殺せ、と進言した。
それに対し、項羽は「この爺、なにをほざく・・・」と、
範増の諫言を鼻で嗤って退けた。

他者の意見に耳を傾けもしないという傲慢さと、

俺の力で連戦連勝、それでどうして他の助けがいろう。
結局、項羽の命取りになった。

人は、これまで成功してきた理由で失敗する、


謙虚さ、人の話を聞くといった点が、
唯一の取り柄だった劉邦に、天は、最終的勝利を与えた。

だが、それは幸運でも偶然でもない。
歴史的事実として、庶民、土匪から史上初で。
漢の皇帝となった劉邦は、配下に就任のご挨拶として、
こう述懐して述べている。

耳を傾けて、聞いてみたい。

~項羽にあらゆる面で劣る自分が、今この地位にいる。
そのただ一つの理由は、項羽が範増一人すらも使えなかった。
対して、私に・・・・~

ここのところを作家の司馬遼太郎さんは、
~「(彼は)おのれの能くせざるをところは、人にまかせる」、
この一事だけで回転してきた~(  )内は私
と、その著書「項羽と劉邦(上巻P39)」(新潮社)に記している。


大望を持っているか、
長期戦略を持っているか否か、
といったことが、人の運命を決めるといった教訓の他に、


1に、聞く耳があるかどうかが、歴史を変えている。
2に、先を俯瞰的、戦略的に観る者は、今なすことがわかる、

といったことを学ぶことができる。
まさに組織の本質、原点は、ここにありだ。

進軍ラッパ

2011年11月16日 | Weblog
繰り返す。

どうしてこうしたことが起きるのか。

こたえは・・・・・



花も嵐も踏み越えて♪♪

とおもっているかぎり、

花も嵐も踏み越える以外のこと、

やり方を考えることはしないからである。



この花はきれい、と手にしたことは、

他の数多くの花を、手にしていないと言うことだ。



コップに水が入っている限り、お湯は入らない。

お湯が入っているコップにミルクを入れることはできない。





花も嵐も踏み越えて♪♪

やらねば、戦いは勝ち得ない、と進軍ラッパのもとに戦った。

その結果は、どうか。

花も嵐も踏み越えて♪♪ 進んだ結果は勝てたか。



私たちは、戦争時の刷り込みを

まだ頭で繰り返し、それを、生き方、経営、営業、

と様々なところで再現しているのではないか



「先入れ先出し法」を見て見よ。会計書によると、

これは、先に取得したものから順に払い出されると仮定して、                棚卸し資産取得原価を払出原価と期末原価に配分する方法。

長所は、次の2点。

1-原価配分の仮定と物の流れが一致すること。

2-物価変動時(価格変動時)にも、期末棚卸資産が時価に近似すること。



対して、短所は、次の2点。

1-物価変動時には、期末棚卸資産の名目資本を維持するだけで、

  期首棚卸資産の保有損益が損益計算に混入してしまうこと。

2-その結果、同一物価水準による費用収益の対応ができなくなること





どこに、消費者のことが書いてあるというのか。まったく書い手無視、

言うなれば、作り手、売り手のまことに都合の良い論理である。



今も、多くの企業がそれを消費者に押しつけている。

そして、なんのおかしさも感じず、叫んでいるのだ。

社是として、唱和しているのだ。

名刺に、書き込んでいるのだ。



「顧客第一主義!」と。

花も嵐も踏み越えて

2011年11月13日 | Weblog
蠅を追い払うには、蠅たたき。

ごまの蠅には、岡っ引きが十手を光らせばいい。



お客を追い払うには、店員が売る気満々で近づけばよい。

ところが、上の2つの場合と違い、

売り手はお客に買って欲しいのである。

そのためには店に入って欲しいのである。

そして商品を見て惜しいはずである。

見ずに、目をつぶって買う人はいないだろうから。





それなのに、なぜ追い立てるようなことをやるのか。



戸別訪問も然りである。

「ウエルカム、ウエルカム」

「良い時にきてくれた。まああがってゆっくりどうぞ」

と歓迎された経験を持つセールスマンは希有であろう。



その証拠がある。

おとなしい子犬であっても「猛犬注意」

犬を飼っていない家でも「猛犬います」



子供が寝ていてもいなくても「子供が寝ています」。



最近は、もう露骨に

「訪問販売お断り」、「セール一切お断り」



この分かっていることを、なぜ繰り返すのか。



戦いには、抵抗は付きもの。そんなの、想定内。

花も嵐も踏み越えて♪♪



といった時代の刷り込みが、この膨大な無駄を生んでいる。



だってそうだろう。

嫌われることにコストとエネルギーを投じているのだから。



1日80件。年に2足は靴をはきつぶさないと一人前にならない。

いまでもこうした精神論が、行動に移され、

自社の将来(さき)を細くしている。

自分の家に、結婚したてのお嫁さんがいる。

そこに花も嵐も乗り越えて、来られたとしたら、

自分のそのお嫁さんは歓迎するのか。

自分の場合は例外、よその嫁さんは歓迎するとでも思っているのか。




「先入れ先出し法」をやっている経営者もその奥さんも

自分が飼うとき、古い方を選択していないはず。

なにやかや売り手都合の理屈をつけて、

「古いもの」を前に陳列したのも、売り手の都合。

お客は、お客の都合で、奥の方の新しい方を選択している。



繰り返す。
どうしてこうしたことが起きるのか。

ごまの蠅

2011年11月11日 | Weblog
売れないには、売れない理由がある。
売れるにも売れる理由がある。

これが私の持論。
このことは、実はお客様の方から見ないと、答えがつかめない。
ところがほとんどが、作り手・売り手の方から、
この問題を考えてしまう。

だから、答えがでないし、出たようでも、
真の回答にはならないのである。


通路がふさがっていたのでは、その売場に近寄れない。
だから買いたくても、お客は購買できない。
だからその分お店は売れない。
こうしてそのお店のは八方ふさがりになる。

商品が陳列してなければ、これもお客が
購買しようと思っても買えない。
これを欠品というが、欠品の多いお店が、販促をすれば
商品の販促効果ではなく、「欠品だらけのお店」を販促したことになる。

大根に「大根」というPOPをつけている。
これも紙代、マジック代、店員の手間暇が無駄になる。
投資対効果が期待できないからである。


「大根を知らないとでも思っているの」
「こんな馬鹿なこと書かず、大根おろしに使えるのかどうか教えてよ」
と言ったことになる」というのが、お客からみた本音である。


 お客からみた店員、あるいは従業員。
それをお店側は、販売員は、もっとすごいところは販売部隊
なんて命名。買おうと思って来店したお客様に、
「ないか、お探しでしょうか」。
「これがお勧めですよ」と
「売り」をやって追い出している。

お客からみたら、自分が蠅。店員が蠅たたきだ。
私など、店員が売る気満々で、近づいてくるようなお店は
次から、買い回りリストから外してしまう。
その点が、追い出されても又またたかる蠅との違いだ。
もっとも、人にも「ごまの蠅」、と言った人はいるのだろうが。

どうしてこうしたことが起きるのか。


野菜知らずとも

2011年11月06日 | Weblog
なにより、真のバックボーンが欠落している、と自分自身の
そこに自分で気が付く。
それだけでなかなかの人物、と理解できます。

理由は、簡単です。

特殊性、専門性を追求していけばいくほど、
そこに、血の通った人の営み、といったことが希薄になります。
なんであろうと、所詮「人」がやっていることなのに。

学問的に言えば、人間学がわかれば、否、わかってこそ、
それらが活きてくるもの。


これが正論、正道であろうと思いますが、ほとんどの人、
とりわけ学者、経営コンサルタントたちは、
学ぶ方向が、より専門性、より特殊性へ向かっています。
このことは、大きなマーケットから遠ざかることと同じ意味。



八百屋を知るには、野菜、果物よりさきに、「屋」、
それより先に八百屋の「親父」、
その親父より先のその人、その先の人間、といったことでしょうか。


怨念と200年企業

2011年11月03日 | Weblog
あくまで例示的に挙げているのだが、

約束を守らない、人を待たせる、

ドタキャン、中抜け、早退、中座・・・・



こうしたことを、「いつもは律儀な人なのに珍しいことだ」

と、周囲が受け取ってくれる人は、過去にこうしたことを

なしたことがないという実績が「信頼・信用」を培い、

そう言わしめているのである。

いわゆる実績がものを言うのである。



だから、単に、道徳的理由といった程度の受け取り方で、

失敬、失礼、ちょいと、といったことで、軽く流してしまうと

今度は、周囲に、「不快」といったことを、

感じさせる実績が積み重なりその効き目はじわじわ、

そしてあるとき突然といった現れ方をするのである。



そのときの思いは、当人にしたら、

「えっ、何でぇー」

「そんなことがこんなに大きなことになるの?」

といった思いなのだ。



こうしたことは、大なり小なりこれまで殆どの人が

経験しているのではないかと思う。



歴史にでてくる人物で、裏切られ人が発する最後の思いで

一番多いのは、この「まさか、そんなことで」、

と言ったことではなかろうか。





茹でカエルの話を知っている人も、その茹でカエルが

自分自身であることには気がつかない。じわじわ・・・・

そして、突然、それは、いきなりやってくる。



だから、それがそうしたことが理由で、おきたことも気がつかない。

普段の不養生がこの病の根本にあると実感するのは、

死のベッドの上である。





先祖の祟り、といったことがあるとすれば、

まさに、些事の積み重ね場怨念を呼ぶ、といったことで、

このことを言うのかも知れない。



だが通常は、長期とはいっても、次の代以降に怨念が、

ということより本人の生存中にその帰り矢は戻ってくる。

これが圧倒的に多いと考える。



対して信用、信頼の積み重ねの方は、その本人の死後も

後継者が創業者の思想を継続する限り、さらに積み重ねられる。

このことは日経が今特集中の「二百年企業」を見ても明白である。



そのことが、長期戦略的にものを見る人には、見えるが、

短絡的、短期的指向者には、容易に見えないということだ。

予測法

2011年11月01日 | Weblog
信用、信頼の積み重ねの方は、その本人の死後も

後継者が創業者の思想を継続する限り、さらに積み重ねられる。



こうしたことが、長期戦略的にものを見る人には、

見えるが、短絡的、短期的指向者には見えないということ



ではどうすればいいか。

やはり「おけいこ」だ。



財務諸表で言えば、

バランスシートの方に重きを置き、過去の10年ぐらい並べてみる。



で、どうするか。

そうした流れの中での経営者の意志、決断を、

イメージし再現してみるのである。



ここで売上が下がっているが、

それはどうした経営者の意志決定が起因したのだろうか、

といったように。



もちろん想像でいい。そのときの経営者のみになって、

その意志決定に至った思考プロセスを再現してみるのである。





財務諸表などではおもしろくない、と言う向きは

手始めに、小説でやってみよう。

1頁めくる前に、1頁呼ぶ度に、

1に、先をかってに想像してみる。

2-に、結末を予測してみる。



次に、同じことを、映画でやる。





また、将棋が好きな方なら、将棋はお勧めだ。



先を見る。相手の立場で考える。俯瞰的みる、

という感覚を身につけるには、

将棋はとても役立つと、実感している。





上に上げた例示での方法は、私がやって

それをタノウエ脳力経営塾の塾生に試みてもらい



さらに、私自身、こうしたことから身につけたお

一種の物差しとして、経営と経営者を見てきた。





要は、結果に一喜一憂と言うことではなく、

その結果から、その結果に至ったこれまでの数々の意志決定を

できるだけ臨場感をもってよみがえらすことだ。



それにより、その結果に至った、

いわば思考プロセスの「くせ」を掴めるはずだ。

次に、その経営、その経営者の、今後に置き換えてみる。



この手法は、ものの見事に当たる、と断言できる。