経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

空と森と木と本屋

2006年11月30日 | Weblog
本屋へ足を運ぶと、自分が今、何を欲しているかよくわかる。それはおそらくは他の人もそうであるから、本屋のどのコーナーに人々がたかっているかをみると、大まかな世相、関心の向きがつかめる。以前、こうしたことをブログに書いた。

 だが、実はそのことが、たとえば本屋をして本屋という業種の衰退という危機に気づかない原因になっているのではないか。今度はそう思ったのである。
         
 最近、販売促進に関する理論書、実務書が、以前とは比較にならないぐらい多く並べられている。気を見るに敏感な、悪く書けば人のおっかけっこが好きな書き手が、売れない時代といったちょいと古くなった世相を受けてのことだろう。さらに悪く書けば、そのテーマに関心があるというより、売れるだろうと言うところに関心があり、これだけの類書が発刊された、ということだろう。今年は、同じ理由で大根、ピーマンが廃棄された。それに本には必要な時と必然的にズレが出てくることで、これらの多くが大根、ピーマンと同じく廃棄されることになる。

 ところで、理論書は、高邁な理論、実務書は他一過性的、即効的ノウハウ書に過ぎない。しかもほとんどが、いかにして売り上げるか、という作り手・売り手側に立ったものである。
 
 だから、これらを自社で取り込んで実行しても、たいてい期待を裏切られる。それは当然である。どの本も、売上げは、お客が買ってナンボ。買っていただけるには、という本来の立場と視点が欠如しているからである。つまり同じ本を買っていることと変わらないことになる。
 この向こう岸のお客から、こちらを考えるということは、改善ではない。改革ではない。手直しではない。プラン・ズー・シーではない。向こう岸へ立つという、敵が味方に、味方が敵に変わるような一種の革命なのである。

 既存を維持するのなら、何も既存を維持しているそうした本を買って学ぶことはあるまい。否、読んだとしてもそれらはタイトルに関わらず、表現にかかわらず、内実は既存、旧体制、現状維持、保守のもの、といってよい。

 たとえは適切ではないが、火事は発生も、その鎮火も現場で、である。いかなる火事であろうと、その発火も鎮火も、現場以外では絶対にできない。革命、革新も、その契機、兆しは、コトの始まり現場から発されるものだ。 以上は「消費者からみた経営」という私のかねがねからの個人的な視点、関心、持論だ。後ほど述べる「木をみて森を見ず」の「木」に過ぎない。(続く)

うなぎのぼり

2006年11月27日 | Weblog


長野・飯山市のうなぎの専門店、「本多」にいった。

 平日、しかも昼食時間のピークは過ぎた時間だが、ひっきりなしにお客が入る。営業時間が午前11時から午後2時、午後3時から午後6時半であることからも、時間に関係なくお客が来店する店であることが伺える。

 けして安い店ではない。鰻丼で2200円、鰻重で2700円。見回して、お客をみても普段着のお客。庶民だけだ。高級店でみられるハイ・クラス、通ぶった客は見あたらない。

 明治37年操業の老舗、著名店にしては、店内は質素といってよい。それに演出がない。店員もいるのかいないのかわからないぐらい静かな立ち振る舞いである。

 最近、店員が活気作りかどうかわからないが、我こそお店の主役と、元気はつらつ、目立つように動いている店員をよく見かけるがとんでもないはき違えである。

 お客さまにとっていかにいい雰囲気の空間をを作ってあげるかが本来の店員の務めであるのに、お店や、経営者、上司の喜ぶ、あるいは自分の点数を稼げぐための動きをするお店や店員が目立つ。接遇教育をするものが、本当の接遇をわかっていないためであろう。

 ここでは店内にとけ込んで、黒子になっている。ちなみにここに案内くださった、新潟・十日町、小林 均さんの 越後蕎麦小嶋屋本店の店員さんもそうである。

 女将の手作りの漬け物が付く。季節ごとに変えているそうだが、この期は白菜漬け。出てきたどんぶりには、どーんと一匹分の鰻。あっさりした味付けである。鰻の温度を押さえ、ご飯を熱くしているさりげない配慮もさすがだ。柔らかい。とろけそうな感じ。これだけの量のものが胃袋に入って、満腹しているのに、もたれがなく、もう少し欲しいといった感じだ。

 老舗には、長く続くことがどういうことなのか、よくわかっている。今売れている店には、今売れている理由はあっても、長く続く理由が見あたらない。否、長く続く理由を担保に、今を売っているのである。この視点で、お店や企業を見ると、30年先に残る企業とそうでないところが、だれにもわかる。いわゆる「うなぎのぼり」のお店や企業が、必ずしも老舗になるのではないのである。

 庶民の視線に、長く、長い耐えられる店、企業こそ、真の意味での企業、お店なのだ、と私は思う。

読めない地名

2006年11月26日 | Weblog
長野・飯山の馬曲温泉へいった。日経で、「露天風呂日本一」に選ばれ,またこのすぐ近くに、映画「阿弥陀堂だより」のロケ地にもなったことで、全国的に著名になったところである。

 北信州の中心、飯山地帯は、上げればきりがないぐらいの観光スポットのあるところだけあって、観光マップやガイドなど、実にわかりやすく、こなれている。

 だが、1点、気になることがある。

 馬曲温泉の馬曲を、なんと読むか。

 道を尋ねるのに、「お巡りさん、馬と書いて次に曲がりとかいた温泉、これなんと読むのですか」とまず、切り出すのは気が引ける。

 マグセとよむ、と案内してくれた小林さんから教えてもらった。この温泉のことは知っていたが、なんと読むかは知らなかった。

 ここだけではないが、こうした観光のガイドやパンフで、ふりがなをほとんどふっていない。交通標識も名刺もしかりである。こうしたことをひっくるめて「自分中心主義」、相手の立場からの思考が欠如している象徴である。なにも目くじらを立てているのではない。相手に理解されてナンボ、といった観点から、観光を見直してしてみると、莫大なロス(その最大のものは機会ロスだろう)があることに驚くであろう。これを観光客の視点からを再構築すれば、これまで程度のコストで、驚くほど振興を図ることが、できるのである。

  高知県に、馬路村というゆずで全国的に著名な村がある。この人口1300人足らずの寒村は、ユズを売り、それで観光でも著しい成果を上げている。

 先日、著名な評論家がNHKで、「バジムラ」と紹介していたが、ウマジムラの人たちは不本意であったろう。この村の、ほとんどのパンフなどには、ほとんど「ウマジ」とふりがなをつけてあるのだから。

 難しい読みの名前は、逆に注目を浴びるし、印象にも残る。また会話の題材にもなろう。だが、読めないではどうしょうもない。このことは、白紙の名刺を交換して、その後の商談になるか、を考えたらわかること。このわかることを、きちんとやる。ここで自分の名刺を眺め直してみる、こうしたことが観光でも大

おきて

2006年11月25日 | Weblog
JR浜松駅を下車、モノレール直行ではなく、貿易センターへ向かって階段を下りる。左側にパーラーがある。20人も座れるかどうか小さな店である。この入り口からは紫煙が漏れている。スタンド看板に「全席喫煙」と表示がある。周囲の店がすべて禁煙。もちろん通路も。たばこ好きは喫煙する場所がない。それを狙ったものと思われる。入り口からは店内が見えない作りである。

 私は現在たばこを吸わないが、中を見たくて入ってみたくなって、ランチボックスを注文。14時過ぎということもあってお客は3人。女性2,男性1人。いずれも気兼ねない顔でもくもくたばこを吹かしていた。

 ところですぐ近くに明治パーラー がある。ここはたばこを吸わない人で、半分の入り。テイクアウトベーカーリーを兼ねているので、これまで何度か立ち寄ったことがある。実は最初にここに入った。ほとんどのパンが品切れ。仕方がないので気が進まないアイテムを3つと、360mlの明治牛乳を取り、レジに持って行った。

 60歳ぐらいのシルバーの店長がいて、「お持ち帰りですか」と尋ねるから、「ここで食べるんだけど」といったら、「お客さん、なにかドリンクをご注文いただかないと、なかでは召し上げられません」。「これドリンクじゃないの?私は、明治の牛乳が好きでね。これではだめなの」。「あいにくドリンクを何か一品取っていただかないと」。

 むろん、その理由も事情もわかる。わかっていても、「そうしたルールはどこへ書いてある?」、「社内規定をお客に強要するの?」と、以前なら一言は嫌みを言っていたものだが、私も少しは大人なった。、

  私は、黙ってトレーの商品をもとに戻し、この店を出て、喫煙パーラーへ、というわけだ。

 掟を作って、売りにする方法もあれば、お客に背を向けさせる方法もある。自分があの店長なら、それを売りに転換させるとして、どういうほうほうがあるだろう、と、真向かいの美女のはき出す紫煙に、むせながら考えた。

格ってなんだろう

2006年11月23日 | Weblog
高い、高級、格、とはどういうことだろう。新潟・長岡ニューオータニに宿泊し、考えてしまった。

インターネット全室完備とあり、部屋にはそれらしきコードがある。ところがどうしても私のパソコンに接続できない。デスクを捜しても説明書もないから、フロントへ行った。「インターネット接続プラス525円」といったサインボードが出ていた。

昨夜は同友会の皆さんに3次会までやっていただき、0時過ぎにしたたか飲んでホテル入りし、チェックインをしたから気がつかなかった。このホテルは、これまで5回ほど宿泊している。昨年9月に、実践経営学会で利用したときには、確かケーブルをフロントが貸してくれた、と記憶している。

それが全室取り付けのケーブルになった。それはいい。だが525円プラスしないと接続できない。そのことは部屋のどこにも案内がない。ケーブルがある。これでは泊まった客は混乱してしまう。とらすいみにたかが525円の話だが、ほとんどのホテルが無料接続を当たり前としている今日日(きょうび)、高い、高級、格、とはどういうことだろう、と考えこんでしまった。

高級なりの節義やサービスが付加されれば、それなりの納得もしようが、それはない。ただ「オオタニ系」であることだけで高い宿泊代、加えてプラス525円。笑えるのは、「ただし、特別室は無料」と、そのサインボードには書いていてあることだ。

落語「ざこ八」の雑穀商「ざこ八」が、大繁盛したのは、庶民には米の秤加減を山盛りにサービスし、殿様など金持ちにはきりきりで売ったことにあった。それは庶民を背につけると、井戸端会議で宣伝してくれるというしたたかな計算の上である。特別室に泊まるような客が525円分サービスして感謝するものだろうか。
経営者だろうか、総支配人だろうか、しらないがITに関しての時代錯誤、サービスの何んぞやを聞いてみたい気がする。彼らが誇りたいであろう「格」とはなんなのだろうか。

15時、十日町市の定宿「原田屋」について、その「ニューオオタニ」に、ワイシャツ
をわすれたことに気がついた。昨夜の縁をつくってくださった
池津さんにお願いしホテルに連絡を採ってもらった。ホテルニューオオタニ長岡フロントの即答、「忘れ物の連絡は入っておりません」。
忘れものを見つけてほしいという願い、依頼に対して、「リネン係からフロントへの“届け”は入っていない」という回答である。部屋を調べることもなくリネン係に確認するでもなく、即答である。考え違いも甚だしい。
格ってなんだろう。高級ってなんだろう。価格ってなんだろ。ホテルのサービス、接遇ってなんだろう。

井戸端会議の議題が、押し上げてくれるよき議題になるか、引き下ろす悪しき議題になるかは、経営戦略なり、経営姿勢に如何である。こうした認識をどれだけの経営者が認識しているだろうか。

全部原価方式的生き方

2006年11月18日 | Weblog
時間を掛けたからっていいものとは限らないが、得られるものに関係なく、これを読んでくださった経営者が、実践し、成果が上がる。確実にあがると自分が納得できる報告書を作る。そうしたあり方の仕事をしている。誇りたくて述べているのではない。

このことを、私(W)側からみて、数字を入れると、投下(OUT)50に対して、回収(IN)が1で差し引き49の赤字、といったことになり、子供でもやらない。

ここからいろいろな展開ができる。
その一つとして、私(W)がこのやりかたで生活していくためにはどうしたらいいか、と言うことがある。もし時間を制約やコストと見なさず、時間コストをゼロとしたら、この-49のほとんどは消えてしまう。パソコンを使って仕事しているからわずかの電気代、それにパソコン他の減価償却費の案分額程度は費用としてかかるが、どうせ仕事をしなくても雑文を書いてかかる費用だし、人件費といっても生きている限り何をしていようとかかるコスト。自分の命の維持にかかるコストを上乗せすることもない。だから限りなくコストはゼロに近くなる。ならば-49は、こうした仕事を50やれば1の黒字に持って行ける。この1で、夫婦二人が生活できればいい。これを全部原価方式の考え方である。そしてもう一つ。これは仕事をした方、私(W)からみた会計上の採算である。

経済行為には、必ず相手がいるから、今度は受診者(G)から採算をみてみよう。
1の投資で50の成果を得たとしたら、Gは49の得である。
Wは私だから1人、だがGはW以外だから、世界の人口-2(夫妻)いる。
そのおびただしい数のGは、1の投資で50の成果を得る経済行為に対して、投資をするかしないかの意思決定、すなわちどちらを選択するか。
これはGからみた会計上の採算である。

 家庭を忘れ、仕事の粗製濫造を厭わず、がんばってきた私が、そのあり方に疑義を感じ、このあり方に転じたのは、なにも殊勝なボランタリー的精神が芽生えたためでもないし、年齢を重ねて人間が変わったためでもない。
これは私のしたたかな野望と戦略、計算である。それが、私が提唱している消費者中心主義(G)から判断したらどうなるか)の理論の根本になった。自分でやらないことを自分の理論として人に説くことは愚であり恥である。

私は、仕事、時間や生産性、採算性という概念すら抱かない。だから1時間で仕上げても1週間掛けても、それは私(W)の問題で、Gには関わりないこと。Gの意思決定による私への投資が、Gの期待を高い方に裏切れるものを「創ること」。それが私の生き方である。そしてWの仕事である。これを全部原価方式が裏付けしてくれている、と確信している。Wをあなたの仕事、事業に入れ替えて考えていただければ、うれしい。


ITの与太郎

2006年11月17日 | Weblog
 やっと仕事ができる状態になったが、これだけ仕事から離れていると、ますます怠け癖がでて、なかなか波に乗れない。それに少しでもパソコンがおかしげになると、「スワー!またか」とおもったり、以前、再インスト後の未調整や積み残しが気になったりする。

それで昨日は、A―3の一枚、レポートを仕上げただけ。今朝は、ATOK変換辞書の作成をおこなった。これまでの変換辞書を見つけるより、これまでと、これからやる仕事に関連の文章から、用語を学習させた方が、急がば回れ、早いと思ったからだ。特に人名は入力に大変だから、これまでの名刺録からすべて辞書登録した。 これで仕事する気にさえなってくれたら、スイスイいくはずだ。
ただ問題はある。過去の文章に誤字があったら、それがそのまま変換される。学習といっても実は学習でない。同じ失敗を繰り返す、与太郎なのだ。

 笑えまい。定番発注を繰り返し、売れなくなったお店。P-D―Cを繰り返しおかしくなった企業、みな同じことなのだ。これは、1に世の中に変化するものに対応するという宇宙の法則に反している。2に、変化するものと、変化しないものが世にはあり、変化しないものは繰り返しが有効だが、変化するものには弊害が出る、という、2つの理由である。

11月3日の白圭通信で、嶋崎先生がP-D―Cへの疑義にふれているが、まさにこのことなのだ。だから私は、本来「螺旋状のP-D―C」でなければならない、と言っている。

 繰り返すことで、うまくもいく。失敗もする。それで次には工夫を加えよりうまく、よりミスを減らす、こうした繰り返しで進歩発展するのを、ヘーゲルに倣い「螺旋状のP-D―C」とした。
 そう考えると、この辞書を学習機能というのは、与太郎の学習機能。それをわかって使っている私もまた、与太郎なのだ。笑えまい。さらにインターネットエクスプローラー17は他のソフトの関わり、という点では、1から16までのP-D―Cを繰り返しており、バグが外部ソフト外車とユーザーに振っている。最先端企業でも発想的には、与太郎なのだ。

認定農業者研修会

2006年11月15日 | Weblog
 1時間の講演に、車で往復7時間。久しぶりに大隅半島の果て、元 高山町、今、肝属町へ行ってきた。いつもの通り2j時間早く行き、町を見て回った。ここは、鹿児島三大名門の一つ二階堂家がある。あの故 二階堂 進副総理の実家である。以下、ウイキペディアの引用。
「二階堂家住宅(にかいどうけじゅうたく)は鹿児島県肝属郡肝付町新富にある江戸時代の民家。国指定重要文化財。
建設は1810年(文化7年)頃と思われ、木造かやぶき屋根寄棟作り平屋の建物が2軒屋根をつなげて雁行型に連なっているように見える形式である。これは鹿児島県でも南部の民家にのみ見られる特徴であり、客間とおぼしき「オモテ」と日常の空間である「ナカエ」の建物から構成される。武家の屋敷らしく造りがしっかりしており、保存状況が良いことから昭和50年(1975年)6月23日に重要文化財となった。
ちなみにこの住宅の持ち主であった二階堂氏は鎌倉幕府の御家人発祥の薩摩国北部の豪族であったが島津氏配下となりこの地に移住させられた。最後の住人は衆議院議員であった故・二階堂進である。」

 
 ちなみに、他の二つは、祁答院住宅、と伊集院住宅である。

 役場の周辺を中心に、古い、そして広い民家が多い。明治時代の民家、それ以前の石塀、門の外から、中を除くと例外なしに、黒ぬりの3ナンバー、時には高級外車が玄関口にあるのは、何かしら異様ではある。中心部は、見事なぐらい越えた田畑、国見山の麓には、牛や豚の牧場が散見され、人家はいずれも和風建築の豪邸である。要するに、農家が裕福なのである。牧場まで牛の面倒をみるために、黒塗りの外車で通う人も珍しくはないという。

 今日、視察にいった養牛場では、牛150頭、犬2匹、猫1匹、家族4人にそれぞれ自家用車。別に一台は高級外車が、入り口に無造作に駐車していた。江戸時代の士農工商が、人家同様、そのまま残っている感じである。その割には町役場も、JAも古くオンボロであり、この点救われた思いをする。

 講演、どんぴしゃり1時間で終わる。自画自賛の甘さを許していただくとして、自己採点で95点。間違いなく参加者に喜んでいただけた、と確信。これはこれまで10年間の農業関係の新聞スクラップをきちんとチェック、また参加者の主要生産物などをきちんと押さえていたこと。事前に2時間、農家を見て回った成果だ。マイナスの5は、かねがね椅子に座ることの少ない参加者に、どうしたら笑いながら聞いてもらえるか、ダジャレを入れたのだが5打席中1が空振り。それと来賓挨拶の話が5分の予定20分。それをやんわりと皮肉ったのだが、話の長さには無頓着の彼らも、こうしたことには敏感。ビーンボールのつもりが当たったみたい。これは投げた私が悪い。大反省。


穏やかな旅の中であったからこそ

2006年11月11日 | Weblog
人は自分の意志や力で生まれてきたわけでもなく、自分だけで生きてきたわけではない。こんな当然のことを意識しないまま生きてきた。そして組織の重要性を、説いてきた。
 いな、それ以前に自分の生き方は、どうだ。「俺が、俺が」で通し、それが通らない場合には、人を恨むか挫折感を味わい、落ち込む。誰のことでもない。それがアバウトな自分のである、ということだ。
 
それが会社という組織を離れ、脱サラこの仕事を始めたことで、知らずして社会という組織に身を投じることになり、しかも仕事上、たくさんの組織をみてきたことで、「そうか。組織って一人で生きられない事を前提に存在するんだ」ということがわかるようになってきた。
 その視点で、企業を見るとその現在の問題点、行く末まで見えるし、人の場合でも組織を活かせる人かそうでないかもわかるようになった。その分、自分の我が儘も受け入れてくださる周囲の方々の好意も見えるようになったし、そうした中での自分の役割もまた認識できるようになった。

 お互い様、個性を発揮する、役割、分担、使命、仲間、社会、などなど、みんな「組織」の存在を前提として、存在する言葉だ。こう考えてくると逆にそうしたことを否定する在り方、言葉こそ、「生きること」にとっては、危険な、災いを招くことになる。

社会組織(社会システム)の中で、企業組織は存在している。このことを活かすか、否定し孤立して存在するか、あるいは反逆した存在を採るか。このことは、人の体を社会組織とし、正常細胞とガン細胞に置き換えられよう。
 
 後者に属し、がんばっている企業、組織ほど、彼らが頑張ればがんばるほど、自らの組織の死期を早め、人体組織を崩壊させることになる。
 そうした企業が、今朝の新聞にも、いくつかか載っている。

 今回の旅で、青森の緩やかな流れの下で、唐突のようだが、改めてそうことを考えた。そして、ガン細胞組織体が、やる気あるリーダーのもとで、報・連・相強化、一致団結、内部体制固め、ガンバルゾーなどをやっている怖さを覚えた。
 あえて難しく言えば、「社会システムとの有機的結合」、このことを経営理念なり、生き方の柱に据えることは欠かせない、と痛感した。
 穏やかな旅の中であったからこそ、こうしたことが透けて見えてみえてきたのかも。

胃は痛いが、心は青森の空

2006年11月09日 | Weblog
青森・八戸の南郷商工会館で、青森商工会連合会傘下の経営指導員の「経営革新指導技法セミナー」をやっている。この地は八戸の郊外、リゾート地で、地上は紅葉、空は抜けるような晴天下。窓の外が恋しい気がしないでもないが、参加者の熱心さに気負けしないように、私もがんばりたい。

 それにしても夕べは飲み過ぎた。皆さんとわいわいがやがや、6時から0時まで、少なく計算しても5合は飲んでいる。それも予想以上に参加者の皆さんが、「よかった、よかった」と喜んでいただき、酒を勧めてくださったお陰だ。
 それに宴席の私の鍋の肉は、鶏ではなく豚に変えてあったこと。この感激が、私が急に酒に強くなった理由かも。
 でも、今朝は、さすがにいつもは楽しみの朝食が重かった。
 
セミナーはMMAPで、ケーススタディという、初めての試みへの挑戦だ。思っていた以上に「使える」と実感した。参加者の皆さんが、各班長を中心に、個人作業―会議を繰り返しながら、問題点→整理→対策→整理→意思決定、これを経営計画に落とし込んでいくのだが、明るいやり取り、つっこんだ語論、笑い声から確かな手ごたえを感じる。

 14時には、各人の経営革新計画書が完成できるだろう。残りの時間で、経営革新企業の取締役会で、診断班がそれを報告、説明。擬似報告会を相互に入れ替えながらやる計画だ。これは当初考えていなかったこと。予想以上にテンポよく進んだことと、いわゆる教える形の講義をやめ、メンバーの欲することを抑え、それに対してワンポイント指導する方式をとった。その成果だ。
 
 経営革新に原材料となる問題点の採取自体を実際に実技で行う、この新たなやり方は、対象が参加経営者であれば、なおさら威力を発揮できそうだ。だから、今回参加いただいた経営指導員の皆さん方の実務に直接貢献できる。自分に対して、自画自賛を何度もやりたいぐらい、上手くいって、胃を除き、窓からみえる青空の気分である。