経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

今、おもしろい会社

2005年03月31日 | Weblog
 これまでのADSLからヒカリに変えた。NTTから8キロの山奥では、ISDNよりは勝るもの鈍くてもなっていた。ニフティ&NTTのヒカリは、ヤフーより千円は安い。
 それでもヤフーを継続したのは、この会社ととことんつきあってみたい、という気が第一。そのいきさつはHPに書いているので割愛するが、サービスのことで徹底的に喧嘩したいきさつがある。

 二つめはNTTへの不信感は、ヤフーのケースとは性質が異なるものである。だからヤフーとは喧嘩したが、こことは喧嘩もしたくない。一言で言えば傲慢さが体質化している。NTTにはもえらいさんになった同級生や、ごく親しく交流している友人も結構いる。そうした彼らの問題ではなしに、元国営事業であった、そして今も、といった体質が依然残っている。これもここでどういうことだ、といったことを解説する気はない。だから肌が合わない、とでも理解してもらえばいい。

 三つ目は、継続することで私が仕事のこと、とりわけ専門にしている「サービスの本質」、「大企業の本質的問題点」といったことに対して、「図体が大きい恐竜でも、赤ん坊は赤ん坊」のヤフーは、実に多くの事例を提供してくれるからである

 たとえば最初の頃と違うのは、「サービスセンター」の対応が改善されている。改善と書いたが、良くなったというレベルではない。ひどい無頓着なこれまでの対応が、少しだけ改良されたというレベルである。

 一例は、サービスセンターへ問い合わせるごとに、翌日アンケートのメールが来る。こうしたこと。アンケートは消費者にとっては手面倒である。だから書くのは、何かメリットがある場合である。ところがヤフーにはそれがないばかりか、「このアンケートは集計もしないし、回答などぢないよ、とご丁寧に明示してある。空気の逃げ道だ。
 多分に、消費者が苦情を書きたくなるような腹立つサービスだ、ということを認知しているか、アンケートなど最初から形だけ、こなくてもともとといった考えか。どちらかであろう。

 ちなみに私は丁寧に記入し、コメントも添えている。

 さて、ヒカリ、工事も終わりスタートOKも出た。モデム設定もなれたもの。インターネツトはスイスイ。感動的なスピードだ。ところがモデムのランプを見て驚いた。BBフォンがうまくいってない。ここだけ点灯していないのだ。

 そこで期待に胸を躍らせテクニカルサービスセンターへ、電話をする。

 結論はヤフーのデーターの切り替えが出来ていないのだ。「なら、なんでスタートOKをだす」といいたいのだが、ヤフーはおびただしい会社の集合体。完全縦割りなのだ。これぐらいは目をつぶらねばつきあえない。

 最初に「まだデーターの移し替えができていませんので」と云えばいいものを、「これからもうしあげる質問にお答えください。ハーイ。まず1に、電源入ってますか」、「あほか。電源入ってなかったら、他のランプが何でつく」。こんな調子だ。

 最後が以前と違う。「私の言葉足らずで、お客様には不愉快な思いをさせましたこと、お詫びします。お客様の担当はヤフーテクニカルサービスの倍登 猛でした」。まさに明るく楽し口調で締め切る。吹き出してしまうぐらいおもしろいので、一度試されたらいかがであろう。

 まだある。データーの差し替えは、早くて1日後、おそければあと2日はかかる、の回答だったが今日31日、朝10時ランプがつく。期待は、早いほうに裏切れだ。

 ね、みなさん、つきあいがちのあるおもしろい会社でしょう。

 ちなみに私は野球の贔屓も、巨人から、ヤフーに今年から変える。王さんにはこのやりとりみたいなおもしろさは期待できないが、そのうちアホーの坂田さんタイプが監督になるかもしれないし。
 



お祝いの言葉

2005年03月27日 | Weblog
 若い友人が、創業する。お祝いに次のメールをお送りした。
          *

 創業案内、いただいています。いよいよですね。

現実はこれまでと変わらない。これまでどおりでいいし、それが一番。でも経営は、これまでどおりではいけない。この二つをきちんと分離することが、大切です。

 私はよく言うのですが、
 「会社は君を必要としていない」、嘘だ。そういっている人が会社の名を借りて、そういっている。わかりますよね。

 「会社が困っている」、これも嘘だ。「会社がうまくいっている」。コレも嘘。
 会社も事業も企業も、人格があるわけはないのです。だからバーチャルな法人格をもたせた。

 ですから、1に、両者をきちんと分ける習慣を付けること、2に人にとって、会社は自分の考えで動かすツールであること。3,としたら、人対人の関係にすぎないから、すべて人の問題として対応すること

 一番わかりやすい例が、運転手と車の関係。「車が人を乗せた」。こんな馬鹿なことないでしょう。
 擬人化はとかく判断を狂わせます。会社が金を借りた、こんなふうにおもうから、借金が恐くなる如し。

 社長なんて人どこにもいない。社長という人形を、これから動かていくのです。人形が勝手に動くことはない。

 これまでと変わらないと言うことは、そういう意味です。
 これが新規創業される、あなたへの贈るお祝いの言葉です。

明暗を分ける

2005年03月26日 | Weblog
 どこにも必ずといっていいほど、「良きリーダこそ地域活性化の決め手」とか「うちは,良いリーダーいないからだめなのだ」といったことをしたり顔して言う人がいるものだ。つまり自分をあっちに置いてといての「リーダー待望論」なのである。

 彼らは,自らリーダーになることなど、微塵にも思ったことはない。謙虚さからではない。常に傍観者でいたいからである。批評だけしていればいい評論家はいごこちがいい。
 いや地域や自社のことすら他人事としてかみない、某政治家Hの如く、帳客観者といっても過言になるまい。彼らは,どんな話にも理解したかのようなふりはするが、所詮他人事。自分が関ることは一切ご免である。

 だからそうした人たちにとってリーダーは,常に自分以外の他人でなければなならない。こうした、各地,各所には必ずいるといってもよい他人依存,無責任の体質こそ,地域活性化にとっての隠れ癌、と考える。
 
 仕事がら、いろんな会社の朝礼や会合に出ることがあるが、どの会社も社長が判で押したように自ら暗い話題を積極的にしているのに驚く。
 当人は、危機感を煽っているつもりかもしれないが、聞かされている社員は、そうは受け取らない。「なんと暗い社長だ」と思うぐらいならまだまし。大半は「こんな先々見通し暗い、しかも社長自ら潰れそうだといっているような会社はごめんだ」と、まず先見性のある優秀な社員から率先して、リストラの対象となっている。
 
 微かな明かりをもつ一握りのリーダーをも失った職場は、より暗くなり、ますます業績悪化してしまうのは当然である。
 
 今必要なのは、先へ向けての「明かり」を掲げることである。周囲が暗ければ暗いほど,見通しがきかないところほど、小さな明かりで明るくなるのではないか。
 明るい所ではろうそくの明かりは目立たないが,暗闇の中では力強い光明になる。人々の希望になる。チャンスなのである。
 
 小さい明かりが目立つということは,地域社会にとってチャンスである。それはまた中小企業のチャンスなのである。
 だから暗いからといって誰かが明かりを灯して呉れるのを待つといった他人頼りでは、だめである。誰も示してくれなかったらどうなるのか。死して待つというのか。
 明かりを灯すことを他の人に期待してはいけない。リーダーは何処の誰だろうかと、キョロキョロ周囲を見回しても駄目である。リーダーは他人ではない、自分自身であることに気付き、自ら明るい光明を掲げることなのである。
 
 主体性を確立しているリーダーであるか、そうでないかが、地域、企業の活性化の明暗を分けるといってよい。

売れない努力

2005年03月25日 | Weblog
 過日、仙台からの友人を出迎えに、空港へ行った。

  空港のお店を見て、いつも思うことだが、どうしてこんなに大勢の役に立たない店員を抱えているのだろうか。お客に声をかけて、近寄らないように一生懸命の努力している店員、試食しようとすると、蠅を追い出すみたいに近寄ってくる店員、おしゃべりに夢中で、お客が声をかけると、素っ頓狂な声で、「いらっしゃい」ませと、声をを上げる店員。通路をふさぎ、お客が店に入れないようにしている店員、台車を走らせ、お客をよけさせている店員。

 一部ではない。ほとんどがそうなのである。だから私は空港での待ち時間は、写真を撮るのに忙しい。 いや、私は意地悪を言っているのだ。これはすべて経営者が、そのようにさせてせているのである。ぜひ経営者の顔を、写したいものと、ねらっているが、現場に顔を出す経営者は滅多にいない。

 ほんとに私にとってはわからないのだ。皮肉などではない。どの経営者も売上げは上げたいだろうに、どうして、なぜ手暇と金をかけて、売れないように勤めているか、ということが。

地震と自信

2005年03月23日 | Weblog
やっと事務所のレイアウトをなおした。これまで高く積み上げていた壁面やデスク周りを、低く抑え揺れても机の方へ倒れ込まないようにするのが目的だ。これまでと目的が違うから、使う頭も違ってきて、その点で苦心した。

 うずたかく積むことをダメ、という条件を付けると、モノが収まらなくなるからだ。すでに捨てれるモノは捨てた後だから、この手は使えない。

 はてどうするか。
そこで考えたことは(といってもあれやこれや動かしながらだ)、1に、机の向側へ倒れてくれるのなら高く積んでもいい。2に、上に高く積むものは軽く、破損しないものであればいい。3に、破損はかまわない。しかし人災には絶対ならないこと。つまり人の頭に落下物が当たらなければ、それ以外は落下してもやむを得ない、といったこと。

 ここで、1.2.3.と条件、制約要件といっても良いが、これを加えると、逆に選択肢が広がるということに気づいた。

 なんでやろ。なんでやねん。なでーぃーや。そうか。そうか。
まてよ、似たようなこと、見たことあるぞ。そうだ。高速がそうだ。事故で3分の一がふさがる。これを全面通行止めにせず、50キロ規制の制約と一車線規制ををかぶせて、通すことが出来る。コレだ。

 制約上条件は、全面制約を否定する機能を持つ。つまり「あかん」、「できへん」と全面否定してしまったら、一歩も進まないが、「これは譲れんが、これはゆずってもかまへん」と条件闘争に持って行くと、道は細くなるが通れる。

  それからのはかどること。
 小さな制約条件を積む重ねることで、全面制約を解除できる。なんてことない。会議や交渉事で使われている当たり前のことことなのだが、地震のおかげで体をうごかして、再認識でき、頭にあった理屈に、自信が付いた。 
 
 しかし震度3の地震でえた、このことで自信過剰にならないよう、戒めるべし。

「それやめ。これやる」

2005年03月22日 | Weblog
「皆さん、景気は戻ったと言われているのに、内はここ2、3年前から店は下降線ですわ。観てくれないか」とHさん。知り合いのHCの社長である。
 「2、3年頃、つて正確にいつからですか」
 「その頃、何か変更とかなんかやったことありますか」 
 「下降線って、全部門ですか」


 この3つの質問をして
 後は売り場に出た。10分もかからず理由がつかめた。

 1日指導してもらえると思っていた彼は、30分で帰ろうとする私に大いに不満顔。

 不振の理由は景気でもない。努力不足でもない。店頭の花売り場が、入り口を塞ぐようなレイアウトだからだ。また店内通路ははみ出し陳列だらけだからだ。

 売上げの90%以上を店内で稼いでいるのに、花売り場がはみ出し入り口を塞いだため、入店客数が減少。通れない通路では、お客は買い物できないから、それが買上点数の減少理由。それだけのことだ。  
 
 買えない状態を作っておいて、売れないの理由を別のものに求めてと、多くの人は努力する。この場合の「努力」は、無駄である。努力は、通常忙しさを生む、いらつきを生む、無理を生む、こうした派生的にものまで巻き込んで、「無駄」である。
 やらないでいいことをやって、何の成果も生まないのであるから、その損失は大きい。

 入り口がふさがれば、そうなることは誰しもわかる。わかっていてもその入り口を観ること成しに、経済学、経営学的、マーケット理論的に、考え込んでしまう。

 売る立場の人は、売る立場からものを考えることをいっさいやめ、買う立場から、自分の店を診る体質を作ることだ。難しいという人がいるが、トンネルは入り口から入っても、出口から入っても、難易度が変わるわけはない。その労力も時間も掛からない。
 はやい話が、この場合、店長か誰かがショッピングカートで、お客と同様、外から入り口、各通路を通り、レジ、そして出口へと、1日一回でもやるだけで、とっくに解決していたのだ。
 
 それを経営者も、店長も、現場を読まず、「不況の時代の売上げ不振脱出法」といった本を読んでいるのだから、あきれる。

「それやめ、これやったら間違いなく3週間で上向きますので」と失礼した。

 別に忙しいわけではなく、ここで暇つぶしするより、帰ってビデオをみた方がいい。
今晩は、21時からTVで「青春の門」2部、観なければならないのだから。

本屋にて

2005年03月17日 | Weblog
 久しぶりに、本屋で1時間ぐらい楽しんだ。立ち読みのためでもない。買うためでもない。
どんなタイトルが多いか。どんなジャルに、消費者が興味を示しているか。さらに自分の足と目が何に惹かれるか、といったことを感じて、楽しんだ。

 本を大きく分けてみた。1は、即効タイプ、2は未来永劫型。
なんと成功に関する部類まで前者なのだ。

 次にまた2つに分けてみた。1は手直し、あやかり、手軽。2は、根こそぎ変える体質転換型。
なんと1の前者が、ほとんどなのだ。

  私の関心は、企業の増収増益の体質構造づくりにある。ここで言う構造とは「永続的に増収増益を生み出すもの」と理解して頂きたい。だから一過性の増収増益には、あまり関心がない。しかしほとんどの経営者は、「先のことより、この今」と、即効性を求める。そうした彼らには私は不評で不親切である。だから私ではなく、他の方へということになる。

 それで最近は起業・創業には大いに力を入れている。なぜかといえば、当然のことだが、最初に増収増益の構造を組み込んでおけば、その事業は増収増益の途を歩まざるをえないからである。これが私の理想。つまり、この時代は手直し、修正、やり方を変える、といったことでは対応できないのです。スイッチにはオンとオフがある。オフをいく押し直そうと電気は入らない。ことは簡単だ。オンを押せばいいのである。石油を濾して水にする苦労など必要ないのである。水を得ればいいのである。映画「キャストアウエイ」の主人公みたいに、木と木をこすり併せて火をおこすことは、まず不要なのだ。将棋のソフトを囲碁のソフトに作り替える必要はないのだ。
 同様、「繁栄しない」液体の入ったカセットを、「繁栄する」液体の入ったカセットに入れ替えればいい。

既存企業が、一過性の売上げや利益を求めて、散々カンフル注射や精力剤を打ち込み、荒れた体質を持っている既存企業を未来営業的な増収増益に持っていくことは、手直しでは実に難しい。
 それに一過性なるものは、いわば30分テープ。これをエンドレステープ、すなわち永劫的な繁栄へ改善などでは得られない。

 このことはみな承知はしているものの、それを「やらないこと、止めること」を恐れる。 そして絶え間なく一過性的なるものを打ち続けることで、死期を早めている。
            
 販売促進に関する理論書、実務書はかなり出回っている。ところが理論書は、高邁な理論、実務書は他一過性的、即効的ノウハウ書に過ぎない。しかもほとんどが、いかにして売り上げるか、という作り手・売り手側に立ったものである。

 売上げは、お客が買ってナンボ。買っていただけるには、という本来の立場と視点が欠如しているのである。

 この向こう岸のお客から、こちらを考えるということは、改善ではない。改革ではない。手直しではない。プランーヅーシーではない。向こう岸へ立つという、敵が味方に、味方が敵に変わるような一種の革命なのである。

 既存を維持するのなら、何も既存を維持しているそうした本を買って学ぶことはあるまい。
 人は新しいことを求めている。刺激を求めている。それを充足する場とモノがない。

 ブックセンターの台頭を契機として、本屋は画一化され、その刺激を消費者に提供するという機能を失った、典型的事例であろう。

営業と私

2005年03月16日 | Weblog
 今の考えに至った経過ですか。難しい質問ですね。
 実は、、、。そうですね。

 あっちこっちで繰り返し書いていますが、 わたしは、まったく外交販売や営業がだめなのです。学生時代、アルバイトで営業やったことあるんですが、いつも売上げゼロ。3日で首でした。
 
 それはそうでしょう。訪問ができずに入り口でうろうろし、誰かが声をかけてくださるのを、逆に待っているのですから。

 ですが、たまたまアルバイト先の渋谷東横百貨店で知り合ったマネキン界のエース、細谷さんに誘われて、派遣マネキンをやる事になったのです。それが3月もやらないうちに本職を押さえて常にトップ。大丸、三越、松阪屋、近鉄、伊勢丹、高島屋等々著名百貨店で引っ張りだこになりました。

  東京のデパートでで催事がないときには地方の著名老舗百貨店へ派遣されました。学生はデパートで一日8時間働いても640円のアルバイト代の時代。それがマネキンは売上げ歩合制ですから私は月に50万円前後稼いで、3年分の学費を貯金し、鹿児島の両親に送金したほどでした。
 でもある事件があって、すぱっとやめました。プロに恨まれて、日本倍三越本店の屋上で、袋たたきにあったのです。それはショクでした。彼らは殴りながら言うんですね。「おれたチャ、妻子養ってるんだ」って。

「あっ、うかつだった。おれは彼らの生活を脅かしたんだ」。
 若気の至りですね。そのことに、気づくのが遅かった。

 私が誘い、やはり売れっ子になった同級生、永原クンは大学を中退しプロになりました。「大学にいるのがばからしくなった」といった永原君の気持ちに同感だった。それが恐かった。鹿児島の親の眼も恐かった。それで、その事件を契機に私はやめたのです。

 このマネキン業、ほんとうに好きでおもしろかったですね。私が人のいないところで声を出して3分もしないうちに、それこそ黒山。10万の家具売れば、1万もらえる。それが1日10本売ったりする。当時大卒の給料が2万そこら。

 金になる天職、見つけたと思いましたよ。

でも訪問、営業はからっきしダメ。ふしぎなものですね。その私が、最初は鹿児島の専門店に就職しました。マネキンでのノウハウ使えると思って。
 ところが意に反して外商担当でした。それで1年4月でやめて、大阪のセルフストア、今のスーパーへ就職したわけです。

 今だから白状しますが、売らなくても売れた時代だった。船場の問屋へいって、棚を指さし、この列からこの列まで、即納品、といっておけば翌朝まで問屋が納品、売り場に陳列してくれる。夕方には売り場が空になっている。そんな繰り返し。商品さえ棚においとけば、傷物であろうと、ほっといて売れた時代でした。

 仕事しなくても売れるのに、会社みな忙しくしてましたね。やはり働いたフリでもしなければ給料もらうの気が引けるから、マーチャンダイジングとかなんとか難しい言葉使って会議と用がないのに出張ばかりやってましたよ。

 それが昭和52年ごろからでしょうかね。急に売れなくなって。「スタグフレーション」という言葉が話題になった頃です。
 
 そのころから、実は「売らなくても売れる方法」ということに、再び強い関心を持ち始めたのです。怠け者の27-8歳が、一応商品部の紳士外装のMDで傘下エリアの20店舗ぐらいを管轄しているわけです。

 自分でやると簡単にクリアできる数字が、他人を通じてだとうまくいかない。それで、やはり売れるノウハウみたいなものを作って、これを部下に伝授する以外ないのじゃないかと、テキストづくりに取りかかったのです。叱咤激励や会議で時間潰していても売れる時代は終わった、と実感しました。じゃ販売に関する手法みたいなものがあるかって本屋探したんですが、ないのですよ。

 時折人事部が研修会へ送り込んでくれるんですが「KJ法」とか「深層心理分析法」とか「リーダーシップとコミュネケーション」といったものばかりで教養は高くなるのですが。こちとらは「スーツが売れる方法」を求めているのに、そんなのばっかし。よく同僚と「カレー食べたいと注文したら、カレー粉が出てきた」と笑ったものです。
 
 それで自分でノウハウづくり始めたんです。それは枝葉。申し上げたかったことは、その折り、もう30年以上の現場体験をもとにまとめたノウハウが、今の売れるためのノウハウづくりに役立つた、という事実です。自分自身「ええっ」と思ったぐら変わっていないのです。
 
 何ごともそうですが、変わらないものと変わるものとが組合わさっているのですね。私がよくいう「本質」がこの変わらない部分なのです。
 
 皆様方からのメールを見ると、以前、販売が極端に落ち込み、売れない。これが経営者の切実な悩みだということがわかります。

 私と同じように、営業がほとんどできない、苦手といった人たちが結構多く、売ることに自信喪失されている方も少なくないようです。

 申し上げてたいことは、いわゆる今の、この「売れない時代」の意味することの本質は、従来方法、今までの押す営業手法では売れないよ、という前提がついてのことなんだ、ということです。
 ですから今までのやり方で努力を続けても売れないが、考え方を変えたら、売れるということなのです。ここのところをぜひご理解いただきたいのです。そうしたことを商業界やHP,メルマグで、事例としてご紹介していますので、ぜひ参考になさってください。


 何をいいたかったのかな。そう、そう。従来型の営業なら、苦手、下手の方がいい。そ冷痛かったんです。

逆さダルマ

2005年03月14日 | Weblog
個人事業,または事業自体がそれを専門にしている場合は別にして、会社より社長が有名になると、まず会社はおかしくなります。

 会社を有名にするのが社長の仕事なのに、社長や社員が有名になることは、ダルマが逆立ちした状態同じで、どうしても転びやすくなる。

 それに会社は、ちはほやされても慢心や有頂天になりませし、逆に落ち込むこともありません。人間はどうしても慢心します。私などひどいものです。だからこそ、そうした機会を少なくし、また意識して、自らを戒める必要があるのです。
 
 人の慢心が起因で会社がダメになった場合、当然のことですが会社に原因があるのではないのです。ところが、まったくおかしなことですが、企業の方の経営革新や再建を図る。
 万引きした子は隣の子なのに、うちの子が警察に捕まった、そんな馬鹿なことをやっています。
 だから、また同じ穴の狢、また来た道をどうしても通ってしまうのです。それが一番、恐いことですか、事例としても一番多いのです。
ら。
 それに会社は嫉妬しませんが、その会社の社長は、あなたが「はれやか」をすると、一緒の時はお世辞たらたらしますが、みえないところで悪口たらたら、足を引っ張っる人もでてきます。、
こうしてケースは多いです。

 私のHPのどこかに書いているとは思うのですが、経営者の勉強好き、講演好きが、会社は、上にふれた理由などで、ダメになる。

 会社は、経営で成り立っているのではありません。お客様の支持で成り立っているのです。なのに、経営者は経営に夢中になる。これもおかしなことです。経営とは、消費者の支持を得て、外部から「経(ここでは、単純にお金と解してください)」を得る「営」みなのです。
 これでは本末転倒(さかさダルマ)なのですが、やはりまた新しい経営のやり方を仕入れてきて。巻き返しだ、ってがんばってしまう。だからがんばった分だけ加速が付いて奈落へ落ちてしまうことになるのです。

 さらに経営を勉強するのに忙しく、肝心なお客さんを経営という色眼鏡を通してがみるから、常に消費者との乖離が開くことになる。
 消費者が経営の勉強をして、企業を選んでいるわけではないのに、その彼らに対応しなければならない方が、経営で対応する。おかしなことだ。消費者は人間である。こちらも人間である。

 人対人、この関係作りこそ事業の本質である。


1通の手紙

2005年03月13日 | Weblog
 パソコンのハードデスクの掃除・整理をしていたら、自分の書いた手紙が出てきた。8年前か、K先生から、大学教授の席を用意していただいたとき、悩みに悩んで書いた手紙である。私のわがままは通ったが、このため一人の大切な友人を失うことになった、私にしたら痛恨の思いの手紙である。固有名詞を除き、そのまま、掲載したい。

                 *
○▲先生

 おハガキに続いて長いお手紙を戴いています。すばらしい機会のお話、有り難く、そして何度も繰り返し読み返させて戴いています。ご好意、本当に嬉しいです。過ぎたるご評価とはわかりつつ、やはり感激しています。

 世の中にはいろんな考え方があって、これ正しいと主張すれば、反対する人はいるでしょう。それでまたいいわけです。いわゆる正義あるところに乱あり、です。すべて世のあらゆる具象に良い悪い、善悪の分別を行うのは、神ならいざ知らず人であるわけですから。またすべての具象にはすべて善悪、良い悪い、といった両面性があることもおっしゃる通りだと思います。

命という観点からは、動物も、植物も同等である、としたら動物を殺すことも、花の枝を織ることも同等になります。人が動物であるが故に、動物の命をいとおしみ、植物の命を軽んじる、というのもおっしゃる自己矛盾になりましょう。  分別はこのようにさまざまな矛盾を生じさせます。この矛盾故、古来から人は煩悩に苦しむことになったのでありましょう。が、しかしこの分別のおかげで、人はまたここまで生きてこれたし、これからも繁栄し続けることができるのも確かです。分別の根元は「自我」であります。我欲です。

 おおよそ坊主は我欲を捨てるために修業するわけですが、我欲を捨てたい、という欲求も、また我欲であります。
肉が悪いという決めつけもあります。また良いという主張もあります。ある人にとっては、確かに肉は悪食でありましょう。また別のある人に取っては肉が不可欠というということもあるかもしれません。このことを主張し、論争し、傷つけ合うことがあるとしたら、その方が、むしろ大きな問題だ、ということもまたあります。

 何が正しいか、何が誤りかは、すくなくとも凡夫の私には、今判断し得ないことです。 食べ物については、身体が求める物に素直にしたがうよう私自身は努めています。でも現実は、欲の深い私は身体が求める信号に従わず、欲(食欲)に任せて食べることが多く、無様な体型をさらしています。お笑いください。

  この仕事は、組織に縛られることがいやで、一応の高給と安定を捨て、自分から望んで飛び込んだ世界ですから、できるだけ縛られない形で好きな仕事だけをしたいと思っていますが、恥ずかしながら、金欲に流されることが多いのが実状です。私の好きな仕事とは、他の先生方が見向きしないような零細企業を中心として、商人道に沿った生き方をしている人との出会いを求め、彼らの生業が立つよう一緒に考えることです。

 しかし理想を求めると、食えなくなる。これが現実です。それでお金の入る仕事を欲しがってしまい、ここでも自分の持つ我欲(金欲)に負けてしまっています。

 皆様方の中には断食をなさる方がおられると思います。おなじように、私も、金にとらわれないよう生きるために、じっと仕事の断食です。4月、5月、ほとんど収入がないのです。妻が作る料理の皿数も量も日に日に少なくなって参ります。が、じっと耐えています。これが私の断食です。ここでひもじさに耐えかねて、金欲を満たす為の仕事に手を出してしまったら、自分の存在価値はない、とやりたい仕事が降ってくるまでじっとしているのです。

 過去、脱サラ直後から3年近く仕事なして過ごしたことを考えれば、まだ楽です。6月になればささやかですが、仕事がまっていてくれるのですから。こんな嬉しいことありません。

 これ私の自慢ですよ。意気がってこんなこと書いているつもりはありません。こんな生き方が良いということでもありません。それどころか、つくづく変な性分だなあ、いやだなぁと思います。お金も名誉もほんとうはいっぱい欲しいのに。表は繕っても内心では、それを否定できない。実にいやらしい。

 ですからいつもジレンマです。良い子ぶっている。かっこつけている、その通りかもしれません。むしろこんな形で金儲けの下手さをごまかしているのかもしれません。でも仕事のない、つらさがわかるから、あった時の嬉しさは爽快です。これ断食と同じ経験ではないでしょうか。

 仕事そのものも嬉しいですが、その仕事のご縁をくださった、直接、間接の方々に対して、あふれでるような感謝の気持ち。どんなに嬉しいか、言葉ではいえないですよ。その有り難さは。俺にも先生のように心にかけてくださる人が居てくださる、俺はそんな人とのご縁があるっていうことがたまらないほど嬉しいのです。

 「俺、この仕事やってよかったなぁ」って真から思います。またその日は自分が偉くなったような気がしましてね。本当に嬉しいんですよ。たまらない気持ちですよ。

 事物の存在そのものが、じゃまやゴミだったり、悪だったり、その意味で迷惑を掛けているという、御説にも賛成です。あらゆるものが不完全で、また正邪両面を合わせ持っているのですから、それはまちがいなく正しい見方です。

 だからこそ、何一つ完全な物がないからこそ、お互い補完し合って生きて行かなければならないのではないか、と思います。大豆は貴重な蛋白源ですが、これだけを食べ続けると確実にガンになるそうです。しかし、ワカメと食べ合わせると、その心配はないとのことです。私は味噌汁から「もの」の本質を教えて戴きました。余談ながら味噌汁、だけでなく昔からの料理はまさに英知の権現のように私には思えます。

 お客様第一主義には、私はもともと否定的な立場をとっています。その理由は先生がお書きになっている理由に尽きます。真の顧客第一主義があるのかどうか、今の私にはわかりません。帰納法の立場しかとれない私には、経験と行動範囲が狭いためかもしれませんが、今だ事例が僅少なのです。そのわずかの事例にしても実際の所、その人の心の中をえぐりだしてみなければ真意かどうかということはわからないので、皆無と同じかな、とも思います。

  ずいぶん前のニュースですが、ボルボ社が前代未聞の広告を世界中にメッセージしたことがあります。それは簡単にいうと「車は悪だ」という自己否定の宣言です。それについてはさまざまな評価と論評がありました。私みたいにかっこづけ、と見る人の方が多いようです。本当のことは、発言や言葉や文字になることではなく、何を成したか、にある、というのが常に私のスタンスです。ですから私自身もそうあらねば、という自分の呪文に拘束されている、と言われればそのととおりだと思います。
 
 おっしゃるとおり、今あろうがなかろうが、あるべき姿、理想、ここでは先生のいわれる真の顧客第一主義に向かって努力をしていかなければならない、と考えます。
野草であろうと、犬であろうと、子供であろうと、大人であろうと、著名人であろうと、無名人であろうと、正しいことは正しいし、誤りは誤りである、というのが自明だと思うのです。ところが、著名人がいうから正しい、という虎の威を借りたフォロアーが、あまりにも多すぎます。

 水飲み健康法があれば、水飲まない健康法があり、それぞれ支持者がいます。それは別に悪いことではありません。いろんな考えがあることはむしろ良いことです。いろんなことを試して見る柔軟な心と、腰の軽い行動力はむしろ賞賛に値します。困るのは、自分の主義を人に○○先生が言われたから、といった形で他人に勧める人です。

 もちろん100%の善意であることはわかっていても、です。
 あるハガキやりとりしている人が、あまりしっこく某先生が推薦している○○法への参加を勧めるので、「たとえば、どうしてとなりのおっさんの風邪が、Aという薬で直ったからといって、なぜ腹痛の私がその薬を飲まなければならないのでしょうか。風邪を引いたときはお世話になるかもしれませんが」といった御返事しましたら、次には「田上さんはマルマル法を嫌いなんですか、それとも○○先生をお嫌いなのですか」といったお葉書をいただきました。

 「必要であれば、○○先生が勧めようと勧めまいと自分で判断して参加させて戴くし、必要でないなら、誰々先生が利くといおうと利かないといおうと私には関係ないのです」とお答したら、それっきりおはがきがとまってしまいました。
 少し、後味の悪いといおうか、大人げないと反省はしました(ときどき、むきになるのと、意地悪が好きなのも私の悪い癖です)。
 が、私のスタンスはそんなことです。素直でない、頑固、ということです。

 もう少し自分のこと書くことをお許しください。今、家事以外すべてのことを一人でやっています。 これでも昔は、職員を抱えて大きな事務所に、と念じ試みたこともありました。が、ある時人生観が変わり、「所詮一人ができること知れているからこそ、一人でやれる範囲でやれることをやろう」と、決めたんです。

 これからも一人でやります。妻も別のことをやっていますし、やっていなくとも手伝わせる気はありません。後をどうしようか、後継者をどうしようなど関心はありません。顧問先も原則として持たないようにしています。(これば、ときどき例外があります。経営者の人間性に私がぞっこんほれこむことがあるからです)。

 せっかくの先生のご好意をお断りする結果になりましたこと、伏してお詫びを申し上げます。
 ここにくどくど書きましたとおり、しばられたくない、というのがすべての理由です。縛られないと自分の良さがでるし、縛られると、自分の力がでない、ということが、わかっているからです。
 先生の情熱こもったお誘いとおしかりのお手紙、学長に掛け合ってさらに高額な、何というのでしょう。給料にしてくださった先生のご好意を思うと、ぐらぐらっと来ます。
 でもなんども申し上げたとおり、もとよりお金に不満、ということではけっしてないのです。
そこのところが、辛い。妻にも言わずに、自分で決めたこと。ほんとうにごめんなさい。


 お忙しいのにお目通し頂きありがとうございました。いつまでも良き友人としておつきあいいただければ、嬉しいです。 田上 康朗 拝