経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

23日の、つれづれ

2007年12月31日 | Weblog
23日のこと。22時から、「嫌われ松子の一生」をみた。原作とは、大きく違う描き方だが、原作者の伝えたいことをよく捉まえて脚色、演出してあるな、とつくづく思った。中島哲也監督作品を見るのは、初めて。原作のこらえられないぐらい暗い話を、喜劇化し唄と踊り、それにあでやかな彩色でさらりと触れる手法はお見事。若い人でなくとも受け入れられる。 それにしても映画はええがぁ。

 只、私は、直前に原作を読んでいたから、よく理解できたが、いきなり映画をという人には、何が何だかわからないシーンは相当にあったのでは、と思う。

 昨夜が遅かったせいか、6時半過ぎの起床。10時半から、散歩を兼ねてクリーン作戦。空き缶拾いに出かける。どうせ散歩するなら、ボイストレーニングを、ということで続けているのだが、なにせ田舎のこと。「大声で、気でも狂ったか」といわれないように、場所を考えなければならない。それで、缶拾いもまた、散歩との兼用に加えたということだ。だが缶拾いは、毎日は出来ない。過疎地ゆえ、自分で缶を捨ててばらまかない限り、ひらう缶やゴミの在庫がなくなるのだ。で月1回ぐらいでせいぜいだ。

 今日がその日、としたのは単に思いつき。朝、原稿を書いていて行き詰まり、気分転換をしたかったからである。
それにしても、1時間歩いて3歩(サンポ)とは。

洗濯物は洗濯を選択した結果

2007年12月30日 | Weblog
妻が、洗濯をしてくれたお陰で、昨日の散歩で汚したトレーナーが、綺麗になりました。
どうしてでしょう。竿にかかっている洗濯物を見ながら、考えました。

 洗濯したから。そうです!。洗濯をしょうと、妻が選択したからです。洗濯しない選択をしたならば、この青空の中で、竿にかかったトレーナーの存在はなかったのです。
珍しくも真新しくもない、無名人が主宰する、おびただしい数の無料グループメールの一つにすぎない「 売れて儲かるシクミ研究会」を目にするかしないかは、砂漠で粟粒を見いだすに等しい。ましてやそれを見ても、登録するかしないかは、これまたおびただしい選択の中の一つ。それは恐らくはたいしたこともない、力むことも考えることもない、迷うこともない、どっちでもいい選択の一つに過ぎません。
 どっちでもいい選択の対象は、どちらが選択されるか以前に、まず間違いなく「無視、見逃し」されることになります。

 私たちは、たとえば起死回生を念じるときに、奇跡を期待します。そうして九分九厘その奇跡は起きず、これまでが続くことになります。奇跡こそは、これまた砂漠で粟粒を見いだすに等しい確率しか、発生しないのですから。

 ですが、前者、無視される方の確率はとてつもなく高い。
 みなさん。
「ここ」なのです。多くの方々が見誤るのは。

 上にたとえで挙げた、起死回生もまた、日常の中の、それほどたいしたことのない選択の組み合わせで計られている。つまり「無視、見逃し」の範疇に所属するのです。人生の織りなしも然り。
 もう一度、つまり、と申し上げます。
 つまり、「無視、見逃し」の範疇に所属する判断の積み重ねで人生も企業もその盛衰が決まっている、ということです。このことをまず断言しておきます。このことは脳力開発を深く体得した方なら周知のことだろうと思います。

 ここから手前みそ。
 その意味で、 「売れて儲かるシクミ研究会」にご入会の意志決定をしていただいた、皆様方に心から、ウンの言い方だな、とお慶びし、また御礼を申し上げます。
 もっともこれは、将来(さき)の手形で、ほんとうに良い選択だった、という結果を得て、皆様方に喜んでいただける現実にする。これが私の仕事ということになります。それを私の仕事として、私は「選択」した、ということです。

そこで、この会の意義について、2点だけ触れておきます。
 1に、この 売れて儲かるシクミ研究会に登録くださった方が、良い選択の一つであったと、という結果を生み出すこと。これが主宰者の私の務めであるし、この会の目的です。
 これは上に述べました。

2に、一人一人の人間の脳力は凄い、それも天井知らずだ、と思います。ですが、その脳力は、どう考えても有機的システムの中にあって、発揮できるものである、というのが私の確信なのです。だからグループメールを活用したこのあり方を選択したのです。

 端的に言えば、どんなに凄くても一人では生きられない、ということです。またそれぞれ違いがある。だからこそその違いを持ち味、得意として社会システムや組織の中で存在し貢献していける。例外なしに、ということです。
 他にもありますが、この2点が、人生、企業の盛衰の根本と考えるにいたり、この会の立ち上げの動機、理由というです。         


本屋は不滅。そのその訳

2007年12月28日 | Weblog
お寺さんに法事の予約をとって、叔母のところへお歳暮を持って行った。二人とも留守で、時間が空いたので古本屋と本屋へ寄った。

 高松の雅さんがブログでかいているように、本屋は人の関心が何処にあるかを掴むのには、欠かせない場所である。

 本自体は、インターネットで買うか、古本屋。前者は目的買100%。本屋回りはそのための下調べという役割もある。なぜなら、一堂に並べてあることと、平積みといったことでその本の「存在的地位」を確認できるからだ。これは、「この本を買ったことのある人は、こんな本も読んでいます」と、余計なお節介などの多いWEBショップなどが追従できない本屋の良さである。

 古本屋に行き始めたのは、学生時代に神田の古本屋によくいった時代を別にすれば、ごく最近からである。ここも情報収集にうってつけ、ということを実感し、頻繁に足を運んでいる。

 同じ本が何冊も安値であれば、それはある年のベストセラーで、他者に引っ張られ購入したけれど、読んでみたら蔵書にするほどのものではない、といったことで、古本に並んだ、といったことだろう。

 この視点で、著者ごとにみると、ある特定の著者の固有名詞が特定でき、これを始めるとやみつきになるぐらいおもしろい。自分の仮説の当たり外れの確認も出来て、悦に入ったりまだ人を診る目の甘さに反省もするといったこともある。

 逆にベストセラーになりあれほど売れたのに、何処へ行っても在庫がない。こうした作家もまた特定できる。たとえば旧いところで、松本清張さん、新しいところで宮城谷昌光さん。ないということではないが、少ない。それに宮部みゆきさん。新作が出るたびに、旧い作品の在庫もなくなっている。

 さらにおもしろいのは、経営関連の本だと、それが顕著、かつ明快に出ていることだ。一世を風靡して、末路を汚したり経営者のだした本、その関連のよいしょ型の本は、105円コーナーにだだっとある。 赤線やカキコミしたものは、古本屋では仕入れないから、そうしたことをする値打ちもない内容だったと、購入者が買ったことを後悔したのかも、自分の体験と重ねて、憶測したりする。
 
 私は、そうしたことで古本屋から、どの著者が時間の変化にたえ、また変節しない人なのか、どうした著者が短絡、短期的な思考しかできない人なのかを掴んでいる。そうしながら、過去も今も、そしてこれからも変わらぬであろう本を見つけたら、これはまさに掘り出し物。即買う。普遍性あるものは、旧くなった分内容の価値は変わらないから、値が下がっている分、解読になるからだ。105円コーナーでそうしたものを見つけた日には、私は1日中嬉しい気分に浸れる。

 だが、ちょっぴり後悔もするのだ。なんでこんな良い本と、早く出会えなかったのだろう、と。またちょっぴり苦い思いもするのだ。あのとき、高いと思ったとしても、買っておけば良かった、と。

だから、古本屋には本屋にない、自分のこれまでの人生への哀愁が漂っている。


今日は、幸あり

2007年12月27日 | Weblog
 朝、メールの返信とブログの原稿を書いて資料作り。使っているスキャナーは薄ノロなので、スキャンしている間、手近の本を読んだり、机を整理したりしながら、ながら仕事ができる。

 午後、コーヒーを飲み終え、パソコンをテグラグにセットし、外出。
 まずは小城製粉の小城さんに、前日約束した本を届けに行った。国道三号線の拡幅工事のため、これまでのオンボロ建物が撤去され、大きくセットバックした所へ新築完成したばかりだ。

 幸い、社長は事務所にいて、2台の携帯でなにやら遊んでいる風。
「届けに来ただけだから」といったが、上がり込むことになった。
 新家屋と貯蔵庫などを案内いただいたが、これは貴重な勉強になった。さっそくそのときに感じたことを 「売れて儲かるシクミ研究会」のタノメール10号に記して配信した。

 双方多忙な身、年末でもある。もう少し見たかったが、小城さんにメモが入ったのを切っ掛けに失礼し、ツタヤに向かった。久々だ。というのも今、100円レンタル期間。この間に、見れるだけ見ておこうと思ったのだが、じっくり選ぶ時間がない。大急ぎで「嫌われ松子の一生」など、3本借りる。

 この「嫌われ・・・・」は、今古本屋から上下巻210円也で購入した文庫を読んでいる。なかなかおもしろいので、映画の方も、というわけだ。

 3時ぎりぎり。農協へ。集落のおばあちゃんからの頼まれの入金である。「いつでもいいから・・・」と頼みに来るのだが、すぐ入金しないと、何やかやとクチコミがうるさい。
 こちらから、「入金やったげる」、といっても知らん顔しておいて、あとからばらばら頼みに来る。「まだええかい?」
 
 うかつに、「もう締め切ったよ」といって断ったとしたら、「田上さんは、オミヨさんの頼みはニコニコ聞いたのに・・・」と、クチコミになるのだ。「いいよ」と言わざるをえない。それに私の自宅に、秋の収穫の野菜や芋などをそっと置いていってくれる犯人がわからない限りは。

 まあ、そんなせこいことでも考えて、貸借を合わせないと、やっておれない。
ぎりぎり16時帰宅。大急ぎでパソコンでTVを立ち上げ、「相棒」の再放送を観る。一度観た記憶があったので、念のため録画設定し、散歩に出る。

 夏の散歩は、サウナ効果を期待して、と理由ずけでもしないと、暑くなり過ぎ大変なのに対して、冬の散歩は、歩いている内に身体が温まり、だんだん心地よくなるからお勧めだ。それでもボイストレーニングをやりながら散歩するので、汗びっしょりになる。

 夕食まで、執筆の素材整理。久々に「ラーメン」についての原稿依頼が来ている。締め切りは1月いっぱいなのだが材料集めは、早めにやっておきたい。

 21時。映画、「武士の一分」を観ながら、徳島の福原さんから、毎年送っていただく博多の喜久屋の「大吟醸喜久屋」を頂く。久々、自宅での至福の愛飲日だ。
 「うまい!」

揺らぎ

2007年12月26日 | Weblog
人は揺らぐ。これを常とします。
 前に進もうと、右足を送れば、その瞬間は身体全体は傾き、揺らぐ。それで安定を図ろうと左出しを送ります。この繰り返しで、人は歩くという行為が出来るのです。撒き餌をし、釣り糸を立てる。その瞬間は赤字です。何匹か釣れてバランスがとれる。これが事業です。


 ちなみに、「揺るがない」とはどういうことか。一歩も進まない。畢竟、揺らぎを恐れて、何もしない、これは人で言えば「死体(シニタイ)」。事業でいえば休眠企業。

 生きていて、したいことをしたい、というかぎり、揺らぐのが必然、当然ということになります。死体になったら、揺らぎもない替わりにしたいことも自分では出来ない。

 揺らぐにしても、人に揺らがされていては、人のしたい放題に、我が身を委ねるようなもの。楽ちんかもしてませんが、これもまた死体(シタイ)。自分意志でしたいことをする。これが本来。

 その意味で、シタイという気がある人は、その気がある限り生きたい人といえましよう。
若い女性の肢体を見てときめくのも、屍体をみて驚くのも、生きている証であります。何回も書いていることですが、私は感動を実に重く重要な言葉として用いています。感動は、感じと動くです。自分の五感で感じ(心の揺らぎと解しています)、それを受けて動く(身体の揺らぎと解しています)。

 どきどきするのも感動ですが、それでは生産性がない。人の言葉に感動したら、行動する。素晴らしい景色に感動したら、それを筆を執り、絵にします。絵描きさんです。それを写真にする。カメラマンです。うまい芋を食った。これを使ってうまい酒を、と思った人が焼酎製造業に、、、と考えてくると、商いの根本が、何処にあるか理解できます。
(後略)

以上、 売れて儲かるシクミ研究会に今朝UPした「タノメール」の一部です。

 これだけでは理屈に過ぎませんから、この研究会(グループメール)では、会員登録をしていただくと、私の各地での講演録、また実際、こうした考えを活かして成果を上げた企業のチラシ現物などを、公開しています。
 私のHPをご覧の上、「登録して欲しい」とメールを頂くと、私の方で登録でき、いつでも見ることが出来ますし、忙しくて見ることができないときには、そのまま保管も出来ます。 

 現在経営指導員、経営者、学者、経営コンサルタント、ビジネスマン、公務員、様々な方々、31人の方が登録されています。一次募集は100名限定。あと69名。

「ジョハリの窓」づくりへ

2007年12月24日 | Weblog
 実践経営学会の副会長 田中 道雄先生(大阪学院大学教授)から、また著書を寄贈いただいた。著書名は「フランスの流通」(中央経済社)である。

 3年ほど前だったか、お贈りいただいたのは「中国の都市流通」(税務経理協会)。先生は街づくりと流通がご専門である。以前から、大変親しくご指導を頂き、さらには先生に声をかけていただき、神戸市での商店主の勉強会にお招きいただいたこともある。
 とりわけこの3年は、実践経営学会での常任理事会や関西支部会など、ご一緒する機会が多く、そのたびご啓示をいただいている。

 著書「フランスの流通」の本の帯びに、「フランスの流通事情から我が国流通の未来を考える」とある。あらためて先生の思考視点と手法の有り処を教えていただいた感がする。
 というのは、上掲の「中国の都市流通」で、共産主義国家における流通や商店街のあり方を押さえることで、我が国の商業的課題を浮き彫り化し、読者に問う、という先生のスタイルに感嘆したからだ。

 私たちは、この私を、私という立場から「私」の存在を、他者に認知させている。「私はね、こう考えるんだよ」といったように。

 だが、自分は一人。その人をみる、その他の人は無数。その一人一人がみる、この「私」は、この私が見る「私」とは同じでないはずだ。そしてそれは、私にはわからない。
 こんなことで、自分探しをしても一生も二生かけても自分の大づかみすらわからないだろう。
 
 そこで、 「ジョハリの窓」だ。

 自分自身を大きな窓だと仮定する。
 そこには、次の4つの窓が存在する、と(便宜的に考える。

 A:自分と他人に分かっている部分
 B:自分には分かっていないが他人に分かっている部分
 C:自分は分かっているが他人には分かっていない部分
 D:自分にも他人にも分かっていない部分

 ジョンハリの窓は、4つの窓の内、どの窓が大きいかを考えることで、私の現在と、将来(さき)の生き方を垣間見ようと、というものだ。

先生の試みは、これだと私は(かってに)思った。
 中国からみた、日本。それはまず中国を知るという研究から始めなければならない。
 フランスからみた、これからの日本。それは今のフランスを考察しなければ始まらない。
国連加盟国だけでも192か国(2006年現在)ある。彼らの日本を見る視点は、それぞれ違うはずだ。

 私たちは、よく「誤解」という言葉を使う。だが、いつぞや触れたことだが、私にとっての誤解は、相手から見たら「正解」だ。正と誤のレッテルは、択一統合できない「ジョハリの窓」なのだから。

 ひょよっとしたら、いや多分に、恐らくは、田中先生は街づくり、流通、商業における、この 「ジョハリの窓」づくりへ挑戦されているのではなかろうか。
 
 今、私は、ほぼ同じ年齢の先生に、強い刺激を受けている。


永かった

2007年12月20日 | Weblog
 JAが統廃合を重ねて、うちの地域にはなくなった。年寄り達の預金通帳は
100%農協だ。7キロ先に遠くなった農協に、金の出し入れにいけない人がいる。足がないのだ。バスだと1時間1本もない。乗り継ぎの上、さらに歩かなければならない。


 それで私が代行してあげることにした。ばあちゃん達は、時間があるが足がない。私には足があるが、時間がない。全然、利害がかみ合わないこんなことは、人から言われたら馬鹿らしくてやれることではない。だから頼まれない前に、「やってあげる」と、足のないばあちゃん達の家を回った。

 お金を預けることを警戒しているのか、遠慮深すぎるのか、昨日は佐多さん1人。旦那が目の手術で入院。にわかに足を失って、っているだろうと山下さん宅へよったが、彼女はなかなか決めてくれない。「おとうちゃんが、退院したら一緒にいくから」という。だんだん自分が金銭詐欺に思えてきた。


 親切の押し売りを、80歳前後の婆ちゃん達にしてもいいことはないから、昨日は佐多さんの共済金の掛け金、1800円の入金のために、遠くなった農協まで出かけた。

 今朝、7時、電話。山下さんのばあちゃんだ。「おとうさんに相談したら、いってもらってもいいだって。それで取りに来て」。

 お父ちゃんの承諾を得るために、入院先まで、嫁に行っている娘に頼んでいったらしい。ならば、そのときついでに、といいたいところだが、わざわざ1日かけても、この私に声をかけてくれるようになったことを、実は私はとてもうれしかった。
 
 26年、この集落の中に入れなかったが、なんということはない。私が自ら選択して地域とは無関心時代を24年送っていただけの話だったんだ。

 積み重ねを始めるのは、早いがいい。だが遅いスタートでも、信頼は積み重ねで得られるのだ。自分の意思でそれをやめない限り。



「忘年会 皺の拍手で 夜が更けて」

2007年12月17日 | Weblog
自治会のモードの3日を過ごした。
 
 そして昨夜は、常会と忘年会。25世帯、80歳超7人、うち3人入院中といった状況で、18人の参加。事前に申し込みをとったら12人だっただけに、嬉しかった。
 人、こんなことで嬉しくなれるのなら、旅費と時間を使って、チルチル&ミチルみたいに、遠くに青い鳥探しの旅にでることもないな、と思った。

 さらに嬉しいことがあった。この5月に交通事故で亡くなった新田さんの長男が。東海からユータンしてここへ帰ってきてくれたのだ。彼を、皆さんに紹介すると、一斉にしわくちゃな手を、一生懸命叩いての拍手。 
 その拍手は、先日でたある会合でのそれとは全然違った。皆、嬉しいのだ。
 
 私の試算ではあと10年で、この集落は10人を切る。みな、どこかにこのことを恐れているのだ。
 人は自分が死ぬことで、家族もふるさとも失うことを知っている。だが死んだのちのふるさとは、あって欲しい、と思う。願っている。
 だからこそ、自分の生きている内には1円の価値にもならない、集落所有の荒れ山の下刈りにも精が出せるのだ。ふるさとは、命でもある。
 皆さんと飲みながら、そんなことを考えていた。

 22時終了。19時から始まった忘年会、1つとして唄も出なかったが、いつもは19時半には就寝する老人たちを、「おしまい。おしまい」と追い出すのに手を焼くほど。
 一人のこり、後じまいをしていて気づいた。残った料理と半分ほど残っていた一升瓶が消えている。
 「きっと、誰かの家で二次会をするんだ」。

 寒い夜の、暖かい小さな忘年会の、あの皺の音、忘れまい。

売れて儲かるシクミ研究会ON WEB発足

2007年12月16日 | Weblog
売れて儲かるシクミ研究会の、正式スタートの12月15日が近づいた。
 
 今朝、朝一番に「タノメール8号」の原稿を書き、先ほどUPした。登録して下さった方々の大半を、名前とお顔が浮かぶ。もちろんまだお会いしたこともない方々もおられるのでが、そのすべての方が、これまで配信し続けてきたメルマガを読んでくださっている。顔が浮かばない分、イメージは広がる。

 自分が事前に想像していた以上に、このことの意義は、私の心の中で大きいことを知る。これがまず最大の収穫、喜びである。正直言って、ここまで(ウーンうまい表現ではありませんが)心わくわく、胸はずみするなんて、思いもしなかった。
 それに実利的には、文章が書きやすい。これは講演するときに、人がいない場合を想定していただけたら、わかるが、断然、「ノレル」のである。
 
 ブログにしろ、掲示板にしろ、メルマガにしろ、読んでいただける方の中には、たくさんの見知り合いの方がおられるし、そうした方々、ときには固有名詞を頭に浮かべながら文章を書いていた。

 だが、それとはまた少し、微妙に違うのである。
 やはり、私が、かってに送信している、という気が引ける気分がどこかにある場合と、たくさんの文章が溢れている中で、自分の文章を選択くだすった、というのでは、当方の気分がまったく違うのである。

 売って売りまくって稼ぐ商人と、お客様が自らの意志で「良い店だよね。お宅なら安心だよ」と声をかけてくださって売れる店の、差は大きい。大きいと確信するが、もう以前から、大半の商人は、その違いすら気がつかないどころか、後者をもって、良い経営者とみてしまうぐらい、堕落しているのでは、とそんなことを思った。

 「売れて儲かるシクミ研究会」とは、露骨なネーミングだな、と多くの方々はお思いだろうが、私の思いは、後者の商人、経営者になれる「シクミ」を、ご一緒に考えて旅をして、生きていきたい。その思い。それでネーミングしたものだ。

よかった。
 いつも思いつきで駆け出して、ちょんぼの確率の高い私だが、この思いつきは、良かった。スタート前から、こんな良い気持ちになれるのだから。

 年明け早々4日から3日間、まだお会いしたこともない、東京の小川さんから、「売れシクの会」の登録のメールあり。それと前後して5年ぶりに再会したような懐かしさを込めて電話あった。
 しかもその場で「MMAPで経営革新」のご依頼があった。航空券確保が出来ず、苦慮しているが、私は行く。

 この成果などと、こじつける気はないが、素直にさい先の良い新年にある、という希望を持つには、十分すぎる出来事である。素直に大喜びしている。

銃撃事件、私の推理

2007年12月15日 | Weblog
悲惨な事件が起きた。亡くなられたおふたりのご冥福と、負傷された方のご回復を心よりお祈りしたい。

事件発生から6分以内で、逃走していることから、犯人は目的ある殺人で、その目的を達したと推定してよいだろう。

 亡くなられた男性と犯人は、中学時代の同級生でというから、動機はわからないが、加害者と被害者は、接点があることは明快だ。

 では亡くなられた女性の方はどうか。
  1に、巻き添えが考えられる。ところが報道によると、子供をかばい逃げる途中、加害者と鉢合わせだった、という。射殺されたのは事務所に避難してからだ。犯人は、事務所に
逃げ込んだ被害者たちを、わざわざ後を追って、という点が引っかかる。

 となると、被害者二人が近くにいた場合を除けばが単に偶発的、たとえば流れ弾があたって、とは考えにくい。二人が被害にあった場所は、離れていることから、多分に偶発ではなく、意図を持って引き金を引いた可能性が高い。そしてその流れ弾で、子供達がも巻き添えということが推察できる。

 となると2に、このインストラクターの女性は巻き添えではない。つまり意図ないし動機があり、狙われた可能性が高い。

 これは、2つの仮説を生む。

 A:この女性と面識があった。
 B:顔を見られたのでは、と少し経過してから気づき、追っかけていった。

 この施設には銃を乱射して入ってきている。報道には顔を隠しているともいないともないが、顔を隠していたのなら、Bは起こりえない。顔を隠していないのなら、なにも見られたということで、追いかけて射殺することはない。

 としたら、A、両者は面識あり、偶発殺人ではない、といった可能性が濃厚になる。

 それに犯人が、この施設に会員登録していること。しょっちゅう出入りしていることを考えれば、一度もお互い顔を見たことがない、ということは考えにくい。

 
 3に、犯人は、自宅近く、教会の敷地内で、自殺した、ということ。それに狂信的、発狂とかの無差別殺人ではないこと。

 こうした状況と合わせれば、おぼろげながら、この痛ましい事件の概要が見えてくる。

 これ以上、ここに書き出す必要はあるまい。日本の警察は優秀であり、犯人が死亡したとしても、事件の全容を解明してくれるに違いないから、素人の私の推察の結論は、ここには書かず、ここで留め置く。