経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

音速を超えたとき

2006年08月29日 | Weblog
 古い西部劇の映画を見ていて思った。

 ガンマンが、獲物の逃げる方向と距離瞬時につかみ、今の獲物の位置(的)ではなく、弾が到達するまでの時間に、獲物が逃げるに違いない位置(的)に狙いをつける。これと同じことがこれからのマーケティングの主流になる。

 こう書くと、「予測学ではないですか」と思われるかも知れないが、私はそうではないと考えている。

 ガンマンが狙う先が、現実の位置、すなわち実であり、今見える位置は、過去いた位置、虚という理解をしているからである。
 
 こうした現象はどうして起きるか。これも映画を見ていて、ヒントを得た。
カナダ映画「アルマー」という映画で、初めて音速を上回る飛行機の実験中、操縦士は、今まで聞こえていた音が全く聞こえなくなり、驚く。

 理由は単純である。このとき初めて実験に成功したのである。飛行機はマッハを超えた。それで音は、飛行機を追いかけているのだ。

 これまでは、変化を追いかけることが対応だった。だが変化のスピードが早いと、それではとうてい対応できない。
 経営には、まさにこの現象が起きているのではなかろうか。

 これは私の仮説である。

「売れないと「売れる」を解する

2006年08月28日 | Weblog
今や、もう顕在ニーズを押さえ、それにいかに敏速に対応するか、といったスピードを争う時ではなくなった。断定が極端といわれるのであれば一歩下がって、今、潜在ニーズを先取りしないと、これを企画し、生産し、店頭に陳列して販売する、その流通タイムの間に、消費者の関心は喪失、あるいは次に転じた、ということになるからである。
いわゆる「買わなくてすむ」、「興味を示したが、違うものに関心が移った」、「次にしようか」という消費者たちが、もしそれらを購入したならば」というものを、機会損失として、金額に概算したら、私はとてつもなく大きなものになるのでは、と考えている。

そのためには、これまでのマーケティングのあり方を変えなければならない。いや必然的に変わってくる。

 こうしたことを詳しく、私のメルマガ「白圭通信18-13号」に掲載する。ぜひご一笑ください。

マーケットの悲劇

2006年08月26日 | Weblog
 ニーズに言葉をあわせるのではなく、消費者の潜在ニーズをくみ取り、それにどう対応するか、ということで、ものが作られ、新たなサービスが構築され、それらを販売、提供するのであれば、作り手・売り手はただ消費者の購買行動を、待ち受けていればいい。これがマーケットの本質である。
 それが、うまくいってないから、皮肉なことに、おびただしいマーケット理論や手法がちまたに姦しいぐらい氾濫している、といってよい。
 
 その証拠に、売れない時代には、そうしたたぐいの本が売れる。
だが、それは本質へのアプローチにはほど遠く、むしろ本質に逆らうことになる。

 だから、こうであると私は仮説、思うのである。
1に、消費者の潜在ニーズから外れていた。これではいくら待ち伏せしていてもこない。
2に、待ち伏せの時間が早すぎた、あるいは場所が遠すぎたのである。

1は、笑えない悲劇である。翌檜が檜を目指した、あの愚である。
2は、超天才に多くみられる。モーツアルトが然り。ゴッホが然り。待ち伏せしていた本人が死んでから、消費者が到達する。

 いずれにしても、当人にとっては悲劇である。
これを避けるためには、消費者のニーズに無関係に作り、売る努力をする。これが現実だが、1と2が個人の悲劇であるのに対し、こちらは大仰に言えば人類の悲劇だ。
 
 マーケットの幸せは、生きている間に、待ち伏せしたところで、おびただしい消費者の到着を、こちらも大喜びで迎えることができることだ。
 あの松下さんみたいに。あの井深さんみたいに。あの本田さんみたいに。

「過去から、今、私の思うこと」

2006年08月25日 | Weblog
 かつて、「小さい店は大型店で全滅する」、と言っていました。
いまでも言っている人がいます。人は、皆自分を被害者におきたいし、経営コンサルタントは、危機感を前提にものをいいたがります。
だから、
「大型店の、あの値段ではお客を取られるのは当然だ」
と、商店主の多くはため息をつきました。
「小さな店ではね」
と、身の小ささを不振の理由に挙げました。
 しかし、コンビニが各地に出店し始めた頃から、そんなことは表向き言うひとが少なくなりました。
 大型店が、次々倒産し出すと、
「あんな大きな店もつぶれる。ましてや吹けば飛ぶよな私の店は」、
と言う人もいました。でも中には、「おできも店も大きいほど、潰れるのが早い」、という人も出てきました。

そのころからです。国や経営コンサルタントは、「郊外店舗時代、中心商店街は閑古鳥」と言い始めました。その流れが、今も続いています。

 それで街作り三法、変えることになりました。
15日間連敗した小柄な力士が増えた。それで体重性にと、柔道みたいにルールを変える。
力士自体ではなく、制度やルールを変える。ことの是非を問うているのではなく、なにか違う。

         小さい店でも繁盛している
         安売りでなくても、売れている
 
 こうした事実から、私たちは無視してきました。小さい例外は大勢に影響がない。マクロは小さなミクロの異分子を消してしまいます。無視しました。そうしなければ、論理が通らないからです。

 でも、それは、

         小さい店でも繁盛している
         安売りでなくても、売れている

 その事実が存在していない、ことの証には絶対にならない。
それはなんで、だろう、と小さな事実の中に、大きな本質を掴むことを、怠ってはけしてならないことだったのです。

否、とてつもなく重要な事実を、私たちは確認しておくべきでした。
それは、

 これだけ多くのお店があって、しかもあなたの店よりはるかに立派な、大きく、値段も安い、さまざまな店があるなかで、こんなちっぽけな店に、わずかばかりかも知れませんが、お客様がきてくださる、という事実。
 「田で食う虫も好き好きよ」
と、自嘲しないでください。

自嘲はいけませんが、実は、その通りだと私は思うのです。
だって、不思議に思いませんか。

          わざわざ、お金もっていらしてくださる。
          他に、お店がいっぱいあるのに
          どこで買い物してもかまわないのに

          この事実を、見逃していませんか。
          このすごいことに感動していますか

ここのところを考え得る方へ、私たち自身の考えを変えていく。この今から、私たち商人がなにを考え、なにをすれば小さくても胸を張って堂々生きていけるか、まずここからだ、と私は思うのです。

注)この原稿は、思うことあって、私のブログのいくつかに重複してUPすることをお許しください。

設問の外

2006年08月24日 | Weblog
  急に、雨が降り出した、とする。
 
 A店頭にはみ出した売り台を「早く中に入れよ」と店員に指図している商店主。

 B「早く店頭に傘を出さぬか。チャンスやで」と、店員に指示している商店主。

 C「また雨か、こうも雨が続くと商売あがったりや」とぼやく商店主

 D 「雨で売れへんとあきらめず売れる手を打てや」と店員を鼓舞する商店主。
 
  賢い商人、小賢しい商人、だめな商人、いろいろいる。同じ雨に対しても、それぞれ反応や対応が違う。

 あなたはA~D、4人の商人のどれを支持するか、と問われれば、B、いやDかな、と考えるであろう。

 子供の頃から、「次の中から、一番正しいと思われる答えを選びなさい」と、設問式の問に答えて、大人になっている。
 だから多くの商人もまた与えられた問題から、選ぶ習慣が抜けきれない。だから自分で新たな課題を見つけて、取り組んでいくといった革新型の商人をみに出会うことが少ない。私が長い間、経営指導をやっていて、実感することだ。

 A~D、いずれの彼らも、自分中心の範疇を脱していない。

 真の商人は、「急な雨で、お客様は、お帰りに難儀されるだろう。小僧さんや!用意してある内の傘を、お貸ししてあげなさい」、と指示しつつ、自らも、軒下で雨宿りしているお客さんに、「よろしかったら、お遣いになってくださいまし。いえいえい、お返しはついでの折でも、よろしゅうございますよって」、と傘を渡している。

 設問の外、商いを外においての、心配り(こころくばり)がさりげなくできる。これが商人だと思うのだが。

ですから、だめですよ

2006年08月23日 | Weblog
 淘汰といえば、困ったことのように思いますが、淘汰され困るのは、淘汰されたところであって、消費者は少しも困らないし、ライバル店は喜んでいるかもしれません。
新しいものの台頭により、滅びているのではなく、自ら新しいものを受容しないか、あるいはお節介者が淘汰、脱落させないことだと思うのです。

数々の国家滅亡の歴史には、必ずこうした古い皮殻をあえて護ろうという(別の言葉で言うならば)排他性、保守性、前例主義等々の輩の蔓延が見受けられるのです。
 歴史的に外敵によって滅びたように見える例ですら、内実はこうしたことによる自滅が真因であるのがほとんどでといわれています。
 
こう考えると、あなたのお店の衰退理由がスーパーの台頭にある、といった論には、諸手を挙げて、そうだ、そうです、と耳を貸す気持ちにならないのです。
ズバリ、不振、低迷の要因は、日々の新陳代謝や変化に対応するということを怠ってきたところに起因します。新陳代謝と対応による不振がここまで至ると、次の手は革新、経営を蛻変させる、これしかありません。それには大きく2つあります。1に、経営者を交代する。2に、経営者自身が、考え方を変える。
 
 ご自分で勝算のある、自信の持てる方をお選びください。その上でまたご連絡ください。

 も一度念押ししておきますが、ライバルのスーパーが、あなたのお店に生き残ってもらおうと、自分の品揃えを悪くするとか、お店を撤去するとかしてくれることはありませんし、神や仏や日本の国家があなたのお店のために資金繰りの面倒をみてくれることもないのです。自分以外に経営不振の理由をもっていっては、自分で対応できなくなる。ですから、だめですよ。

意志決定の基準

2006年08月22日 | Weblog
このことは自分の事業にとって有益であるか無益であるかを判断の基準にし、考え、行うことは、世間からみた場合、有益が無益に、有害にといったように、まるで逆の結果を生じさせることが、しばしば起きている。

判断した当人は、「なんでだろうか」と不思議に思い、時には身の不幸を覚えるかも知れないが、その理由は、明快である。

2つある。
1に、そうした判断はこれまでの自分の小賢しい判断に過ぎないこと。
2に、評価も結果も、判断した当人ではなく、世間の人々の受けとった結果であること。

であれば自分の意志決定の基準をどこへおかねばならないかは、自ずから見えてくるはずだ。

真の経営者

2006年08月21日 | Weblog
真の経営者は、その志を得るのを楽しむものです。
そうではない経営者は事物を得ることを楽しむしかない。

志と違い、事物には限りがない。
限りなきものを、限りある人生を費やして追うことになる。

志は、理念・戦略に置き換えられ、
事物は戦術に置き換えられる。

志、戦略があれば、人も物も集まるが、
事物を得たいとする者に集まるわけはない。




歴史から学ぶ

2006年08月20日 | Weblog
経営者は、もう少し歴史から学ぶことに謙虚でなければならないのではないか。歴史は、人間の生き様の積み重ねである。
なにごとも特殊性と普遍性で構成されていることを考えれば、歴史を知る人とは、歴史の中から普遍性を看取り、それだけではなく今の生き方に活かそうとする者のことである。
若い経営者が、30代前後で功を成り遂げるような、今の経営の有り様(ありよう)に、思うことは、歴史から学ぶという謙虚さが欠けている、ということである。

規模の利益

2006年08月19日 | Weblog
規模の利益が出るあり方、やり方は、最初からわかるはずです。
先行利益は、より規模の大きいライバルがでてきたところで終わる。これも最初からわかっているはずです。

規模の利益とは、資本力のあるところが、後発しても凌駕できる。これはかって、「松下」が「まねした」と揶揄された、あの戦略です。

中小企業が、規模の利益がでるものでやるのであれば、先行逃げ切りではだめ。逃げるのにも金がかかって逃げ切れず、だめになる。だから先に織り込んでおく

「先行転換」が望ましい、その転換分野も想定し、織り込み済み。つまり身の小ささを活かして変わり身を活かすこと。それが織り込めないようだったら、規模の利益がもろに発揮される"もの"は、最初から避ける。