経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

飯食うに、それいるの?

2011年05月31日 | Weblog

最初は、
田上か一度体験した人が3時間ほどの
他の研修の中で、同時並行の形で研修する。

つまりわざわざこの技法習得の研修は、一切不要、ということだ。

経営革新のセミナーでMMAPを習得できる。
創業塾でMMAPも習得できる。
経営計画を作成するときに、MMAPを習得できる。
社員教育、就活セミナーでMMAPを習得できる。

 それで、その日からやれる。
 http://jatsudon.in.coocan.jp/page003mmap.html
 
インストラクターだけがやれる。
インストラクターがいなければやれない。
そんな物ではない、ということだ。
一度やったら皆やれる。みなインストラクター。
飯を食うのにインストラクターは必要ない。
普段呼吸をするのに赤ん坊はインストラクターから学んだか

普遍性とはそういうものだ。

ところで、
なぜこのMMAPが出てきたかというと、
私は師 城野 宏の提唱した脳力開発の指導者である。
情勢判断学の指導者である。

この2つをひとことで言えば、「脳の回線づくり」
といってよい。そのためのツールとして創案したのがMMAP。

言い換えると、脳の働きをモジュールしたのがMMAP。

つまりMMAPをやると、脳の新しい回線が創れる。
その意味で脳力開発と
素情勢判断学を習得したことと同じことになる。

脳力開発の創案者、師の城野 宏は、
脳力開発のアプリケーションツールとして護身道を創った。
私はMMAPを創った。
いつかと向こうへいったら、
師匠に褒めてもらおうと考えている。


脳の働き、動きだから普遍性がある。
あれに使えてこれには使えないと言うことがない。
諫言すれば、手法(戦術、ツール)ではない、ということだ。

このことは、極めて重要なことなので、
稿を改めていつか触れてみたい。


自画自賛ながら

2011年05月29日 | Weblog
自画自賛。MMAPの話を続けたい。

35年、ずっと仕事の場で使いながら試行錯誤、
仮説、検証を繰り返し進歩発展させてきた。

その過程での最高の発見は、一人でやるより
グループでやる方が、はるかに楽しい。
はるかにおもしろい。
はるかに有意義である。
といったことだ。

情報は共有してこそ活きる。活かせる、
といったこれまでの漠然とした仮説が
現場で大勢の人に、このMMAPをやっていただく中から、
再確認できたのである。
いける、


情報は共有してこそ活きる。活かせる。
このことの普遍性の検証は、MMAPとは別の
新しい私の楽しみになった。


いろいろ工夫し育んで、
今の形で公表したのは11年前。 
当初は、私のイニシャルから採り、YT法と呼んでいた。
 
MMAPには特許や商標権などない。
実践経営学会で公開したあと、
その評価を得てから希望者には公開している。

ツールは市販のコピー用紙(A-3)と,赤、青、黄、3色のポスト・イット。
それに鉛筆以外の筆記用具があればいい。

やり方は、実際やりながら場面、場面で簡単な説明をする程度。
一度やれば誰でもやれる。
1人から、上限なし何人でもいつでもどこでもやれる。
パソコンや企業内の行動予定表、手帳いったものと
自由に連動もできる。
パソコンに取り込む、コピーを取る、といったことで
共有ができる。

しかも応用は広い。
経営革新、経営計画、人事考課、作業・進行管理、
商談記録、営業日報、はては行動分析、心理分析、
情報収集。問題解決。会議、企画、遊び事、子供の勉強
など、など何にでも使える。
それが行動プログラムになり、効果測定、進行管理にもなる。
転記一切不要で。

だから、あえて「マルチ」を付したのである。
(続く)

脳回線つくりツール

2011年05月27日 | Weblog
私の考える情報管理の中身としては、
情報の収集、取捨選択、共有、公開性、継続性・・・、
そしてtodo ,PDSである。

これら、脳力開発でいう「脳の回線づくり」を包括した
「MMAP」(マルチ・マネジメント・アクション・プログラム)
の原型を考え始めたのは、サラリーマン時代の後半。
中小企業診断士資格取得の年である。


その頃は、KJ法がブームであり、
また他の○○法と言われるものが、巷には数多くあった。
そうした手法に共通なことは、
それらがシートとかラベルといった
使用するツールが指定されている。

またそれら、シートとかシラベルが結構高価で、
そこらの文具店で手にいる物ではなかった。


KJ法を始めた頃、私は群馬の伊勢崎市に住んでいた。
KJ法のラベルを入手するために、
東京・丸の内の丸善に買いに行ったことを覚えている。
それだけ魅力がある証でもあるのだが。

しかし情報を管理するのに、
こんなに厳かでかしこまらねばならないのか
と皮肉な思いをぬぐい去ることはできなかった。

その意味では、こうした手法は、学者や一部の専門家といった
特殊性の範疇に属していて、普遍性を欠いており、
封鎖的・管理的であった。

情報の本来は開放性、開示にある。
だからこそ機密性、隠匿性を帯びるのだが。

しかし情報を活かすツールは、権威的、封鎖的で
あって良いわけはない。

日常、繰り返し、継続して使うツールが割高。
これでは一部の人でしか、継続しないではないか、

こうした思いが、
MMAP考案の不純、かつ単純な動機である。
(続く)


赤ちゃんの赤面

2011年05月24日 | Weblog
掌の中の10円玉をふって,表がでるか裏がでるか
振って、手を広げてみなければわからない。
やらなければ、結果はでないのです。
結果は,表か裏か。この2つしかないのです。


たとえば人が喜ぶことの実践、
という命題を立てたとなれば日常、なんでもいいので、
あれこれを実践するのです。

それも軽いノリ、気楽な気持ちで実践。


結果は2つしかありません。
うまくいったか,うまくいかないか。
どちらかです。

結果は相手の反応で、即わかります。
このことは実際にやったことのある人は,わかります。


その相手の人の反応とは
,嬉しそうな反応を示すか、無反応か、
どちらかです。


こうしたことを繰り返すこと、
すなわち試行錯誤することで、
確実に良い方向へ脳の回線は創られていきます。


小さなエラーを沢山出す。そして
エラーがでるたびに、1つグレードアップしたと、
大喜びをし、その喜びを実感する。


これがコツです。

赤ちゃんは、それを実践し
脳の回線を創って大人になりました。

それなのに大人になったら、
どうしてエラーを怖がるのでしょう。

エラーくなったら,どうしてエラーを恥じるのでしょう。

赤ちゃんが,エラーしたらえらいことしたと
赤面しもう赤恥をかくのはやめ、と断念しますか?


軽い気持ちであれこれ試行錯誤、エラーを怖がらず
うまくいったら、ひとりで大袈裟に喜びをかみしめる。

これです。


では、また

禍根を残す

2011年05月22日 | Weblog
我が国における労働力需給不足は、
恒常的な本潮流である。
このことは、人口減少、少子化、高齢化等々の
社会現象によって裏打ちされている確定的事実である。


そしてその潮流自体は、
景気がよかろうと悪かろうと、変わるものではない。


繰り返すが、
現状は退職勧告レイオフ、新規採用者手控え、
その結果失業率が4.9%といったことまで含めて、
これが景気低迷の現象であろうと、
あるいは構造変革であろうと,
長いスパンで見たらなら、
一過性的現象であることには違いがない。

このことに対し、「人が企業の盛衰を握っている」
ということは、不変の基本原理であり、
経営戦略の根幹間題である。


さらに付するならば、
政治家、経営者が口癖のように言っている
日本での少子化、高齢化、そして出生率の低下などを
素因として労働人口逼迫が
主流、深刻な長期課題なのである。


太陽が雨でみえないことを、
太陽が喪失したと見るような本質を忘れての対応、
そして人を幸せにするという企業存立の本質に逆らう
この有り様は、近い将来マクロ的な日本経済にとっても、
ミクロ的な個々企業にとっても、
間違いなくまく大きな禍根と残すもの考え、
危惧しているものである。




可笑しげ

2011年05月20日 | Weblog
少数精鋭主義を目指して「少数精鋭」になる、
といったことなら、わかる。

だが従業員が辞め、あるいは辞めさせておいて
人数が減ったから、「少数精鋭」はなかろう。

そもそも、人減らしと少数精鋭は次元の違う問題で、
話は別なのだ。


経済のセオリーに「量が質を決める」というのがある。
これを逆にいうと、少量では質の向上は望め得ない、
ということになる。

つまり、
人材が量的に確保されて豊富であってこそ、
質の確保、向上が望め、少数精鋭体制が可能になるのである。

少数精鋭には、
質の追求にはより高質の人材をあまねく求め、選りすぐる。
それに徹底した教育、人材育成を施す、
この2つをもって具現する、と考える。

現況が大変だからとか、
こうした状況を乗り切るためにとか、
そんなことから、少数精鋭の話がでて来ること自体
おかしげなことと言わざるを得ない。

少なくとも今の損益に一喜一憂し、
損益のバランスを人件費の調整で図ろうといった
安直な経営者に少数精鋭の言葉を発する資格など
あろうはずがない。


ともあれ、
近い将来のための人材を育てない、
あるいは失うといった意志決定は、
戦略的に見てまさに愚かな判断といえる。

それだけではない。
我が国における労働力需給不足は、
恒常的な本潮流であることは、
人口減少、少子化、高齢化等々の社会現象によって
裏打ちされている確定的事実である。

そしてその潮流自体は、
景気がよかろうと悪かろうと、変わるものではない。

少数精鋭、ありか?

2011年05月18日 | Weblog
「少数精鋭主義」という言葉がある。

最近、経営者が人減らしするときに、よく使われる。
そこから垣間見えてくるものは、
人の力を量、質とも低下させつつ、
さらに、なんらかのがんばりで売上を上げようと
果敢に取り組む、涙ぐましい姿である。

こみ上げてくる同情心を一切無視し、
冷めた言い方をするならばそれはまさに

「マッチ&ポンプ」。


人の力が量、質とも低下させる決断、
そのことはその少ない量で、その低下した質で、
やっていく、あるいはやっていけるという考え
これが彼らの言う「少数精鋭主義」と言うことになる。

では、問いたい。
その根拠は?
その勝算は?

あるのか。ないのか。


すべからく戦略的に、かつ科学的計算性に基づいて
行われるはずの戦に、一か八か、当たって砕けろ、
いざとなれば神風が吹く、といった
愚かな軍人幹部達の虚しい粋がりが、
この国を戦いに引き込み、この国を敗戦に追い込んだ。


私には、そのことと同じ論理が、
彼らのいう「少数精鋭主義」のように思えて
仕方がないのである。
たしかにマクロ的には消費量の拡大に
限界が見られる今、付加価値追求のためには、
質への転換は必須課題になる。
人の問題もその例外はなく、従業員の質が問われる
これも急がれる重要命題になる。

しかし、そのことと人を減らすこととは、
話は別なのだ。

少数だから、精鋭であるということはあり得ない。
少数だから、精鋭でいこう、いうことはあり得ない。
精鋭であるから、少数で良し、も疑問である。


「人財」が消えた

2011年05月16日 | Weblog
そもそも今の、不景気の本質的理由には、需要低迷にある。
だからその一義的な対策は売上げ向上のはずだ。
それをいとも簡単に脱帽し、「売上げ増は見込めない」ことを
前提に人員削減へ走ることは間題のすり替えに等しい。

それは「今を採り,将来(さき)を捨てること」を意味し、
自らの資質と姿勢が問われるべきものを覆い隠すことにもなる。

今、手元にある数社の平成6年頃の長期ビジョンや長期経営計画をみると、
一応に人材を「人財」と当て字した記述が散見される。

それが今は人減らしである。
「人財」の当て字も、それを言う経営者もいなくなった。


経営者がいかに流行の言葉をもてあそび、
他者追従型、または言葉の持つ重さを知らないかの
典型的事例であろう。

いうまでもなく「人の問題」は企業の根幹であり、
経営ビジョンに基づいた長期戦略に属する不変の課題である。

「戦略は譲らず、それに従属する戦術は状況によって変える」
というのが戦略論の原則である。

それを戦術のために戦略をいともあっさり覆すありかたに、
この国の経営者の未熟さを感じるのである。


これに対し、経営者にも、
これまで企業が窓際族まで養い国の雇用安定施策に協力してきた
とか「数より質の少数精鋭主義に切り替えた成果だ、
といった言い分があることだろう。

だが最近の企業の決算書をみてみると、
ほとんどの企業に「教育・訓練費」といった費目自体が
見当たらないのである。

このことは、教育・訓練を怠る、ということより、
新規採用自体がないから、というのが実情であろう。
これは諸教育機関が実施している「新入社員研修会」を始め、
さまざまな社員セミナーも定員割れが多いことからも裏付けられる。

いずれにしても、このことは質の向上を図らないまま、
量を落としていることを示している。

これはどういうことになるか。

脳を創る

2011年05月14日 | Weblog
「継続は力」と、言われている。

 これは、「やろう」といった計画自体は
いくらでも立てたり、口にしたりできても、いざ実行しない。

やっても続かないではなんにもならない。
逆に自分や自社の評価を落とすことにもなりかねない、
という含蓄が背景に込められている、と理解している。
 継続は難しいことである。
が、それだけに継続をなしたものは評価されるし、
そのことが力となる、ということであろう。

 つまりこの「継続は力なり」の意味は、
1にどれだけ継続出来るかどうかが本当のその人の実力だ、
という意味と、2に小さなことでも一歩ずつ一口ずつ続けていけば、
成果という意味での力を得られる、
という2つの意味がある、と考えている。

 逆に言えば多くの人が、
なかなか物事を継続ができないということだ。
そうした人間の持つ弱さ、だめ加減を背景にしている
といった皮相的な教訓とも受け取れる。

「継続」が、どうして重要かというと、
1に、人にしろ、企業にしろ、信用・信頼は時間を
経てこそ蓄積されるからである。

その意味で、思いつきにきわどさがあるのは、
こうした時間軸という意味での試練に耐えていないことである。
だから何事でも、「継続」が出来ない人は、
約束や時間を守れない人と同様、周囲から信頼、信用されない。
これは古今東西の定理といってよい。

2に、人間だけではないが、
一定のことを意識して継続することで無意識に出来るようになる、
私は、これを脳の回線作りといっている。
古い習慣を改め、新しい習慣に置き換えていく、
これを習慣の改更という。

企業でいえばこれまでの悪しき組織風土や体質を改めること
すなわち経営革新になろうか。

脳力開発でいえば、
継続できない人、企業は進歩発展出来ない、
ということになる。
継続が脳力を創る、と私が言う所以である。


守成の本質

2011年05月12日 | Weblog
「消費者接点」を
語る経営者は多いが、実際面はどうだろう。

とりわけ大企業では、
その接点に「企業者」がいることはまず希である。

消費者から見ての「企業者接点」は、
零細中小企業にしか存在していない。

しかしその零細中小企業にも「いない」
といった例は、けして珍しくはない。
ときには自動ドアや自販機が店主に代わり
挨拶するお店もある。


ここで「企業者がいる」という意味は、
そこに実際に「いる」ということも含んで、
広義の意味で、
1に経営者の理念、戦略が組織の末端まで浸透していること。
2に消費者の視点から戦術が行使されていること。

この2つを加えてみて、いかがであろうか。
やはり、ノウ。これが大半、というのが私の実感である。

ノルマや地位保身にまみれた現場においての
「企業者接点」、「消費者接点」。
これがおおかたの現状なのである。


そもそも経営の盛衰は何も難しい経営理論で決まるのではない。
消費者という個々の人間が自らの選択により、
お客になるか背を向けるかといった、
単純、かつ普遍性ある分岐で決まるのである。


だから、消費者との接点、消費者生活の共有、その中での経営。
つまり、「日常の中の経営」がことの中心になる。


日常の生活は、ある意味で、繰り返し、といえる。

その日常の繰り返しを維持し、望むらくは彩りを添える
ことに、資することが、経営。それを担うのが企業。

こう考えれば企業経営の本来は、繰り返し購入してもらう
というというところあり
経営の本質は「守成」にあり、ということは
自明の理である。

人の心を奮わせる理念、それを突き進める戦略、
それを形化する現場、消費者接点。

それらを繰り返すことと、その過程で進歩発展すること
その姿勢を守成するという側面を事前に内包した戦略、
そしてそれを具現し、消費者を購買行動に走らせ、
背についてもらうための様々な戦術、
この三つを有機的に結合するための人間的側面の如何。

こうしたことが企業の存亡を握っている。
そのどれが欠けても、企業が存続し続けることは難しい。