経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

考える人

2015年02月28日 | Weblog




ふと考えたことだが、
人は「ものを考える」といったとき、
どういう姿勢をとっているのだろうか。

ロダンの「考える人」のように、顎に手を当て
額にしわを寄せて。なんだろうか。

私はあれは「嘘」に思える。
人は、困ったとき「頭を抱える」といった言い方をするが、
どうだろう。

私の体験、記憶でいうなら、
自分がひとりで悩んでいるとき、顎に手や、
頭を抱えた経験も記憶は全くないのだが。

事実、ここのところ、多忙でたくさんの処理を
同時処理しなければならない。追いつかない、
といった状況の日が続いている。

列車ではメールしたり、書類を読んだりするが、
車もときはそうもできない。
では、問題を考えているかというと、
まったくそうではない。
要は、ぼーっとしているのである。

事務所ではどうか。
確かにばたばたはしているが、
やらなくてもいい部屋のレイアウトをいじったり、
急がなくていいホームページの工事をしたり、した。
あまりたまっていないのにスクラップもした。
眠たいのに夜更かししビデオもみる。

これは私の場合だけかもしれないが、
あるいは私の癖であろうか。

考えるときは、決まっていろんなことを、
並行してやることで体を動かしているのだ。

ふと、そう考えた、というかそのことに気づいた。
人は人に見せるポーズと、自分だけの時のポーズは
違うのではなかろうか。

だから映画や舞台の俳優さんたちみたいな言葉や動作、
たとえば大きく首や手を動かし、
顔の筋肉を振るわせて言動をする。
たとえば「考え込んでいる」という姿を、頭を抱え込む、
小走りで部屋をせわしく動き回る。

これらは見せるポーズであり、
まず私たちの日常生活では、
普段見られないものではないか。




守成の本質

2015年02月27日 | Weblog



「消費者接点」を
語る経営者は多いが、実際面はどうだろう。

とりわけ大企業では、
その接点に「企業者」がいることはまず希である。

消費者から見ての「企業者接点」は、
零細中小企業にしか存在していない。

しかしその零細中小企業にも「いない」
といった例は、けして珍しくはない。
ときには自動ドアや自販機が店主に代わり
挨拶するお店もある。


ここで「企業者がいる」という意味は、
そこに実際に「いる」ということも含んで、
広義の意味で、
1に経営者の理念、戦略が組織の末端まで浸透していること。
2に消費者の視点から戦術が行使されていること。

この2つを加えてみて、いかがであろうか。
やはり、ノウ。これが大半、というのが私の実感である。

ノルマや地位保身にまみれた現場においての
「企業者接点」、「消費者接点」。
これがおおかたの現状なのである。


そもそも経営の盛衰は何も難しい経営理論で決まるのではない。
消費者という個々の人間が自らの選択により、
お客になるか背を向けるかといった、
単純、かつ普遍性ある分岐で決まるのである。


だから、消費者との接点、消費者生活の共有、その中での経営。
つまり、「日常の中の経営」がことの中心になる。


日常の生活は、ある意味で、繰り返し、といえる。

その日常の繰り返しを維持し、望むらくは彩りを添える
ことに、資することが、経営。それを担うのが企業。

こう考えれば企業経営の本来は、繰り返し購入してもらう
というというところあり
経営の本質は「守成」にあり、ということは
自明の理である。

人の心を奮わせる理念、それを突き進める戦略、
それを形化する現場、消費者接点。

それらを繰り返すことと、その過程で進歩発展すること
その姿勢を守成するという側面を事前に内包した戦略、
そしてそれを具現し、消費者を購買行動に走らせ、
背についてもらうための様々な戦術、
この三つを有機的に結合するための人間的側面の如何。

こうしたことが企業の存亡を握っている。
そのどれが欠けても、企業が存続し続けることは難しい。


予測のこと

2015年02月26日 | Weblog



予測について考えていることを書いてみたい。

予測、予報を仕事として人はたくさんいる。
専業のそうした職に就いている人以外も、
予測といったことを抜きに生き、生活している人はいない。
 
だから経営指導ともうひとつの私の看板としての、
脳力開発&情勢判断学が、求められるのである。

予測が重視され、必要なのは、
1に、通常では予測し得ることを
予測し得ない人が多いことである。
前者を9,後者を3としたら、その6の差が、
プロの存在価値ということになる。
 
2に、予測できないことが存在する、という前提で、
予測は成り立つということである。 

だが、この2の場合、その見極めが難しい。
いや怪しげすらある。

実のところ、後々になったら起こるべきして起きた、
つまり予測できたといったことを、
私たちは多く経験しているからである。 
 
私のパソコンひとつ例にとっても、
予測してないことが時々起きる。
パソコンだからまだいい。
これが交通事故であったらどうか。
考えただけでもぞっとする。

そしてその予測なしに発生したことは、
「なかったことにする」ということには
絶対に出来ない。
あり得ないことなのである。

起こったことは「なかったことにする」ことはできない。
しかし、そのことが起きることを予測し、
起きないようにすることは出来るのである。

100発100的中ではなくとも、
かなりの確率で当てることは可能である。
それが「予測」というものだろう。

例によって二つに分ける。
予測には、当たりと外れがある。

例のホリエモンで有名になった「想定外」でいえば、
1は、想定対象から外していた場合。
2に想定エリアにあったが予測力が乏しく外れた。



トンチンカン

2015年02月25日 | Weblog
とんちんかん


鍛冶屋の相槌(あいづち)の音は、
槌の音が交互にそろっています。
それが、交互に打たれず、
そろわなくなったことから、

「とんちんかん」という言葉ができたとか。

ここから、物事のつじつまが合わないこと。
行き違ったりちぐはぐになったりすること。
また、そのさまを、「とんちんかん」といいます。


たとえば。
米が売れないのはあの大きな米屋のせいだ、
という時代がありました。

食パンが売れ始めたらパンに食われた、
と言った時代がありました。


ですが今や、いやその頃も
ラーメン屋も喫茶店やお弁当屋、
外食・・・・やがて
それにコンビニもくわわりました。

ライバルは、どんどん増えます。


それにお店だけではなく、
旅行、ダイエットインストラクターも、
米が売れないライバルはいくらでもあります。


売れないのは、○○のせい。
この「せい」は、理由ではありません。

理由を、見つけようとせず、直視せず、
他に転換する便利な言葉が「せい」なのです。


売れない理由は、
消費者が、あなたのお店を選択しないことにある
お客にならない結果、「売れなかった」。

「売れなかった」、このことを
「(米が)売れない」と、微妙にぼかしていう。

こうしたことで、本当の理由を転嫁し、
さらにぼかすことで
対策を講じることから逃避する。

とんちんかん、とんちんかん。

こうしたことで、自分の気分は一時的に
楽になるかも知れませんが
経営は、絶対に楽になることはありません。

とんちんかんからは、なにも生まれない。



どっちっち

2015年02月24日 | Weblog
喜怒哀楽による感情の振幅は、
心の準備があればあるほど減じ
意外性があるほど増幅する。


畢竟
その期待を高い方に裏切られることで、
人は感動を覚え、感激する。


その期待を低い方に裏切られることで
人は落胆し、ときとして怒る。

その期待が、期待通りで、振幅が起きなければ
人は関心を示さず、無視する。


実施した売り出しは、上の3つのどれに当てはまるか。
そのイベントは、上の3つのどれに当てはまるか。
「超感動!の大感謝祭」と銘打った
売り出しは上の3つのどれに当てはまるか。



人は期待(予定稿)を高い方に裏切られて感激、
その低い方に裏切られて、落胆するのである。



しかし、売り手側は、
しばし、いやほとんど消費者に高い期待を抱かせ、
低い方に裏切理、消費者を落胆におとしめる。

それで、「今度の企画は当たらなかった」。
とは、なんと脳天気。


人をクレーンで、高く持ち上げておいて、
そこから落っこちさせて、
「今度の企画は当たらなかった」はないだろう。


オオカミと少年を体感した消費者は、
こぞって背を向ける。


なんということはない。
高いコスト、手間暇をかけて、
消費者に不評を買ってもらっているのだ。


プロは、常に期待を裏切る。
そのプロの中で、その期待を
常に高い方に裏切る人が真のプロ。
低い方に裏切る人は、詐欺師。

その詐欺師でも、
相手にその裏切りを気づかせない人がプロの詐欺師。


大きな期待を抱かせ、現実は実績が小さい
そうした経営者は、失格者。

小さな実績を大きく見せれば、粉飾。


歪む事実

2015年02月23日 | Weblog
歴史は、その後の者によって微妙に歪められる、

ということも、あって当然。


とりわけ、信長が短気であったとする説は、

私が今更検証するまでもなく、後世の俗説、作文である。


徳川の時代に生きる者が、どうして徳川の悪口を記せようか。

ヨーロッパ中世期時代の肖像画に描かれている人物は、皆美男美女である。

当然である。

生活の面倒を見てもらっていたお抱え画家達が、

そのまんまを描くことは生活基盤を失うことになったろうから。


家康をあがめるには、信長を遠回しに落し、

家康を婉曲によいしょした苦心の表現といっていい。



否、そもそも現象的なみて、短気とか長気とか判断し、

それを全体的かつ固定的な「性格のせい」である、

と決めつける見方こそ、間違いである。


それは短期戦を用いる武将を、短気。長期戦をなす武将を

気が長い、とレッテルを貼るに等しい。


性格如何に関わらず信長、いや彼らは、短気も、中気も、長気も、

時と場合で、使い分け、戦略の具現のための戦術として使う。

それでないと、生死をかけた戦に望めるわけはないのだ。


当時の武将だけではない。

だれしも性格は、固定的なものとせず、

どこかで意識し、あるいは無意識に使い分けをしている、

といったところがある。


子供の頃には、「うつけもの」を装い、

成人してからも奇行で知られる信長だが、

それはすべて戦略に基づく、科学的計算性に戦術の表れであった。


それは先に述べた桶狭間の戦い、武田の崩壊の切っ掛けとなった

長篠の戦いなどに、明確に見ることができる。


当時としては、あるときは短気に、あるときは気長に、

あるときは不遜に、あるときは謙虚に、大願成就のために

自在に使い分けた信長は、ことの是非、好き嫌いは別にして、

まさに戦略家の典型といえる。



いと おかしげ

2015年02月22日 | Weblog
「いと おかしげ」


創造には目的(意図)がある。

朝の出勤の近道となる公園の広場に
1円玉、5円玉、10円玉、
500玉、千円札、2千円札、5千円札
1万円札が無数。そして落ち葉、鼻紙、ゴミ、端切れ、
おがくず、宝くじ、おみくじ、木片、数珠玉、花、鎖、
爪切り、輪ゴム、・・・
とにかくいろいろ散乱している、とします。

どれを拾います?と問われたら、頭の中で考えます。
どれを拾うかは、「選択」。
これには意図が不可欠です。

洗濯するにも意図があります。

ところで、公園を通りかかった殆どの人は
1万円札を拾い出した。
猫ババの意図があるからかもですね。

Sさんは、どうせ自分のものにならないから、
時間の無駄と考え、遅刻したら出世の妨げと考え
迷いながらも、素通り。これも意図ありですね。

Gさんは、宝くじを手にしました。
当たったら大もうけ。宝くじなら、猫ババ許されるかも、
と考えてのこと。意図ありありです。

Yさんは、なんと木片を手にし、鞄にいれましました。

なんでやろ。
訊かねばわかりませんが、
やはり意図あってのこと、ということは
わかりますよね。


物事を考え、なすには何気ないようでも
意図がある。
いや、意図があってこそ想像したり、イメージしたり
ものや考えが創造できるのです。

ここにある机は、様々な部品で創られています。

部品があったから机が創られたのではない。
机を創ろうという意図があって、
その材料が集められたのです。

意図を人生の目的に置き換えたら、
人生の目的を決めないで過ごすことの空しさがわかります。

意図を経営の目的に置き換えたら、
経営の目的を知らされず働いている
パートさんの虚しさがわかるはずです。
その虚しさが、経営に響いてくる。


目的、意図がなければすべてが虚し。
経営も、いとおかしげになる。


創造の制約

2015年02月21日 | Weblog
消費者から見てマイナスを減じ、プラスを加える。
といったようにプラスとマイナスの両者を活かし、
新たな物を創生することを創造物、という。

もし創造物が、そうではないとしたら、
人類は時が経つごとに、滅亡に向かうことになり、
この今に世を謳歌できるはずがないのだ。

その意味で、この世は想像のたまものと言ったら、
寛容力のない神なら、怒るだろうか。


ところで、創造性には
次のような条件、制約がある、と考えてる。

それは、「 創造には制約がある」、
そして、その制約の範囲での作業であること。

このことは前に触れたが、
ルールのないゲームやスポーツはありえない。成り立たない。
あっても、なりたっても、おもしろくもおかしくもない。

第一どうしたらいいかわからなくなる。

赤、青、黄の信号機に、なんのルールも
付いていなかったら、どうなるのだ。

この世は、制約がなかったら存在できない。
命あるものは死ぬ。生きている人から見たら、
この制約こそ、取り除きたいものであろう。

晋の始皇帝もそう思った。
彼は、自分だけは得家員に生き続けたいと
思った。それで晋は滅びた。
もちろん、当人も。
なんと皮肉なことではないか。

そもそも始まりだけがあり、終点はないとしたら、
地球は生命体であふれ、食べて胃に入った動植物が
胃の中で生き続ける、
といったとんでもないことがおきる。
3度のs食事の度に、胃袋は膨らみ
やがて破裂する。

ものすごい痛みであろうが、
それでもその胃の持ち主は、死ねない。
自殺をしても死ねない。

そのうち地峡は生命体であふれ、
その重みで地球は落下、破壊するが
それでも、生き続けることになる。

始まりがあれば、終わりある。
終わりを想定して、今を生きる。

こう考えれば
制約があるから生きられる。創造ができる。

制約こそ、我が命、ともいえる。


隠匿と開示

2015年02月20日 | Weblog
30余年ほど前。
異業種交流会が通産の肝いりで各県にできた。
タケノコのように生まれ
タケノコのように消えた。
そして、やがて廃った。

なぜか、

当時、彼らの指導役、カタライザーをしていた私は考えた。

自分の情報は隠し、相手にはそれを求める。
つまり、自分は覆面で、相手には素面を求める。

名称を変えたせいではない。
      これが工業倶楽部として、発展的解消され、
そこのところが概ねわかってきたようだ。

概ねと書いたのは、以前消えていく会もあるからだ。
それを調べると、やはり覆面会員が多い会である。

そもそも覆面をして、
「私を信用しなさいよ」。
「私の言うことは正しいよ」。

といっても無理だ。

なぜなら信用され、正しいことを言う人が、
通常、覆面をするはずがないのだから。

隠す人ほど、うさんくさい。
隠す企業の事件発生率は高い、

では、これはどうだろう。

       「おまえ、あほか!」

これは、最近見た映画のセリフの一部。
若い女性が、恋人の彼に言っている。
怒っているのではない。その逆。

こうしたことが判るのは、
洞察力があるからではない。
映画を、私が見たからである。

音だけではどうか。
文字だけではどうか。
このシーンだけを見ている人はどうか。

言葉は、怖いのである。
ニックネームだけといった、
悪口雑言のカキコミも、
美辞麗句のカキコミも、
文字の羅列だけでは、同じことである。

煎じ詰めれば、
    隠すは、他者に不安、胡散臭さを、
開示、繋がりは、安心と信頼を
     与えることになる。
    
     畢竟
隠すは、孤立、滅びの戦略。
開示、繋がりは、繁栄の戦略。08.6.16

畢竟
隠すは、孤立、滅びの戦略。
開示、繋がりは、繁栄の戦略。


組織の閉じこもり

2015年02月18日 | Weblog


内部体制固め、情報の不開示といったことで、
対応を組織内でとどめ置くと、
逆に外部との情報乖離が開き、
同じ問題が繰り返されるだけでなく、
問題が大きくなる、といったことはしばしば発生する。

考えればわかることである。
100=10,逆の10=100、といった状況はあり得ないから
必然的に、いずれにしろ 55=55に落ち着く。

その場合、
最初に左辺と右辺の数字の大きさが違うほど、
つまり、落差が大きいほど、その勢いは激しい。
当然だ。

正しい対応は、
最初から、左辺と右辺の差が起きないようにすることである。

具体的には、
外部との打ち合わせを密にする、
外部との情報交換を随時やる、
外部との交流を積極的に行う、
外部に社内の温度を合わせる、

こうしたことで、
外部の風を入れて風通しを良くすることが、
効果的な対策となる。


良く、「社内の風通しが悪い」といった言い方がされるが、
より大事、優先すべきは社外との風通しである。
しかし「社外との風通しが悪い」といった言葉を、
これまで聞いたことがない。

密閉度の高い組織は外部から孤立し、やがて内部崩壊する。
そうした事例は枚挙に暇がないのに、あまりにも外部との「差」
に関して、関心がないことに驚かされる。


東北の大震災以来、東電の隠匿性が、しばしば話題になるが、
これは報道されたから大きな問題視されているわけで、
実に多くの企業が、大なり小なり、内部可愛さ、
己可愛さゆえの隠匿性を強めることで、
外部との落差を自ら構築し、それでもって、
やがての崩壊を予約している。

これを私は、「組織の閉じこもり」と呼んでいる。
この閉じこもりにより、社会システムから分断された状態は、
数珠のヒモが切れたことをイメージすればわかりやすい。

組織の本質は、他との関わり。したがって情報の公開、共有
が本来であり、それを隠匿することは、
自ら社会的組織の一員から切り離される暴挙であることを、
そののちのち気がつくことになるだろう。