経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

めでたし、めでたし

2010年06月28日 | Weblog
日本全体の景気といったマクロ、全体的様相に関し、
「不景気で大変だ、大変だ」と自分のところで全体を背負って
自分のことだけを考えて、対応してもその状況からの脱皮は図れない。

ここは「消費者はさぞ大変であろう」と思うといった
消費者との五感の共有があってこそ、
消費者の支持、喝采を得る対応が図れると考える。

つまり消費者、それも手近のお客観の「大変」を
解決するためには、私たちは具体的にどう動いたらいいのか、
何を成すべきなのか、といったこと。
もっと卑近にお客が得になることを考えやればいいである。

それを「この不況、我が社の危機、その起死回生は・・・」
と我が社、自分を中心に置いて、自分を主語にアプローチする。
だから、どうしても自分が得することになる。
自社の得を考えても、消費者が支持する形にはならない。


買上=売上の等式は、
買う人がいての買い上げ、その結果の売上である。

舟木一夫を主演に1964年に東映が作った映画に、
「君たちがいて僕がいた」というのがある。

まさに企業の存在認識も、消費者がいて自社があるのである。

買上=売上 この等式が成立することを条件として、
契約が成立。モノとお金が交換されるという形で動くのである。

ならばこの動きを活発化することが、売上拡大のための要諦になる。

例えば、
中心街では突然の雨。しかし郊外は晴という状況を考えみる。
こうしたとき中心街では傘を店頭に出すと売れる。
消費者の中で傘を一本も持っていない。
それで行列してでも傘を手に入れたい、といった今時皆無であろう。
にもかかわらず売れる。

結果から見たら店の売上は、ものである傘から得た物である。
だかお客は、ぬれる惨めさから免れるために買ったに違いないのである。
一方、晴れている郊外店では出す必要はないし、出しても売れない。

それはなぜか。大きく理由は2つある。
1に、売る人と買う人に、雨が降っているという共通認識がある。
だから傘という商品が動くということ。
つまり、売る人と買う人の立場・心が一緒になった時に
初めて等式が成り立ち、売る努力とは無関係に買ってもらえるわけである。

2,買った物、売れた物はハードとしてはモノとして、
そして結果的に見えるものとしての傘だが、
ソフト的には困っている事を解決し、喜んでいただく、
という売り手の思いという見えないものが、結果がでる前先に
存在しているといった事実である。

この2つがあって、ハード的には、モノが売り手から買い手に、
金が買い手から売り手に動くことになる。

そしてソフト的には、
買い手の「困ったところを解決して貰った。ありがとう」
売り手の「お客様にお金を頂いた上に御礼まで」

めでたし、めでたし。

みんな良し

2010年06月26日 | Weblog
誰しもと言っていい。
お客様は自分が得することは歓迎する。

それでお客が得する状況を考え、つくること。

そのためにあれこれやる。そのあれこれが「手段」、「方向」。
金を蒔け、値引きせよといったことも、
お客は得するから、その手段の一つに違いない。

最初は、ブレーキを踏まずに、自由に突飛もないことも含めて
思いつくままできるだけ多く手段を書き出す。
これが重要だ。


たくさん羅列した手段を、金がかからず、即できる順に並べ、
実践する、といった考えからで実践する順を決める。

金を配ったり、大幅な値引きをしたり、
といったことはお客は大喜びだろうが、
これは大金持ちならともかく長く続かないし、
また大資本ほど有利になるから、
中 小企業が真っ先に実施する手段ではない。
要はやることで苦痛なことややりにくいことを優先ということはない。

例えば、頭を 10 度下げるのと 45 度下げるのとでは、
かかるお金には違いが出ない。
しかしお客はどちらを気分良しと、受けとるだろうか。
こうしたような考えで、お客の方に価値を付加する手段を実践する。


要するにお客様の方にプラスになる価値を付加する。
これが付加価値。
ところが多くの企業では、自社の粗利益が余計に乗っかるモノを
「これいいぞ、付加価値が高い」といったことを言っている。

これでは、付加価値がつけばつくほどお客は逃げてしまう。


こうした「自分良し」の手段が、企業では困る。
ところが案外に、喝采を浴びるのはこうしたアイデアなのだ。

そこで妙案提示。

「これ自分良し」は「それお客良しか?]と問い返す。
「これお客良しか」は「それは自分良しか?」と問い返す。


こうして両面思考で、「お客良し、自社良し」
の両者良しの考えで手段を選択していく。
当然のことだが「自社良し」の中には、従業員も取引先も含む。


値切らない人

2010年06月24日 | Weblog
私が心服した、
故西端行雄さんのことに触れておきたい。

大学時代、様々なバイトをした影響で、
中小企業に強い関心を持っていた私は、公務員の父の意思に逆らい、
鹿児島市の中小商店に就職した。
大卒只一人。役職者は全員、社長の親族。
自分の生意気さで、浮いたことにも気が付かず、
結構楽しく働いた。

23の時、公開経営指導協会の喜多村先生(理事長)が、来社。
どうしたわけか運転取り立ての私が、車でホテルまでご案内することになった。

その時、車の中で先生を通じ、当時ニチイの社長、
西端行雄氏の経営のあり方を知り、矢も楯もたまらず、
今度は父母にも相談せず、入社後6ヶ月の10月、
大阪のニチイの途中採用の試験を受け、11月30日退社、
12月1日付でニチイに入った。
楽しかった。

お店の二階の在庫置き場に寝泊まりし
1日18時間も、残業代の申請もせず働いた。
月二回の休みが辛いぐらい、仕事はおもしろかった。
私だけではない。みな同僚もそうだった。

それが西端さんが、57年だったか、死去。
氏の徳の考えは払拭され、力の経営に代わった。
変わったのでなく、徳の人から力の人に代わったのである。

西端さんは、秒弱であった。まだ50代半ばというのに、
車いすで、といったこともしばしばであった。

元教師の西端さんは、教え子を戦争に送ったことを悔やみ、
教員を辞め、行商。そして天神に小さな衣料品店を開いた。
[はとや]という。損得を考えない商いは、消費者の支持を生み、
一世を風靡するほどの繁盛店になった。
彼の

徳と力を対比しながら話を進めている。
話の本筋から外れるが、私が心服した、
故西端行雄さんのことに触れておきたい。

大学時代、様々なバイトをした影響で、
中小企業に強い関心を持っていた私は、公務員の父の意思に逆らい、
鹿児島市の中小商店に就職した。
大卒只一人。役職者は全員、社長の親族。
自分の生意気さで、浮いたことにも気が付かず、
結構楽しく働いた。

23の時、公開経営指導協会の喜多村先生(理事長)が、来社。
どうしたわけか運転免許取り立ての私が、車でホテルまでご案内することになった。

その時、車の中で先生を通じ、当時ニチイの社長、
西端行雄氏の経営のあり方を知り、矢も楯もたまらず、
今度は父母にも相談せず、入社後6ヶ月の10月、
大阪のニチイの途中採用の試験を受け、11月30日退社、
12月1日付でニチイに入った。
楽しかった。

お店の二階の在庫置き場に寝泊まりし
1日18時間も、残業代の申請もせず働いた。
月二回の休みが辛いぐらい、仕事はおもしろかった。
私だけではない。みな同僚もそうだった。

それが西端さんが、57年だったか、死去。
氏の徳の考えは払拭され、力の経営に代わった。
変わったのでなく、徳の人から力の人に代わったのである。

西端さんは、秒弱であった。まだ50代半ばというのに、
車いすで、といったこともしばしばであった。

元教師の西端さんは、教え子を戦争に送ったことを悔やみ、
教員を辞め、行商。そして天神に小さな衣料品店を開いた。
[はとや]という。損得を考えない商いは、消費者の支持を生み、
一世を風靡するほどの繁盛店になった。
彼の商いに賛同する3人の経営者と協業、合併。それがニチイである。
個性の強い小さなお店の経営者達は、西端さんを社長、

あとそれぞれ新会社の取締役、本部長等の役職に就いた。
その後もニチイは合併を重ね、業界3位の売上まで達した。
彼の生存中は、派閥などの動きもなかった。
何より社員は、それぞれ力を発揮し、業績は良かった。

西端さんが亡くなり、社長が代わった。
力ずくの後任者で職場は荒さみ、業績も落ちた。

豪腕力の世界には、私は適応できなかった。
その年、私はニチイを退社。
退社10余年後、当社は倒産した。

志の規模

2010年06月22日 | Weblog
志を果たすために大きくする。



この場合、大きくすること、大きくなることは手段である。

だがこの手段が、「大きくしたい」、「大きくする」といったように

目的にすり替わり、反比例的に「志」が希薄化してくる。



その大きくするということに力みが入り、

大きくすること自体が目的化したあと、

そのプロセスで生じる他との摩擦、軋轢といったものが、

正比例的に増加してくることになる。



劇画風に言えば、

「人と人の欲、組織対組織の野望のぶつかり合い」といったことか。



こうした企業の経営とは本来関わりの薄いことが厚みを増し、

組織が肥大化、それで志が埋没、あるいは隅に押しやられ、

組織に様々な病気を生じさせる諸悪の根源になっている

というのが、私の考えていることである。

 



大きくなることを非難しているのではない。

人でも組織でも、現状維持は死を意味する。

消費者の支持が増えれば、

それに応えるべく組織も大きくならざるを得ない。

このことは大きくなることを目指すといったこととは

まったく別のことである。



また現状に満足し、それを守ろうとした時点から衰退が始まる。

その通りである。このことは、既に触れた。

だから、「前進あるのみ!」といった意気込み自体を

否定しているのではない。



だがその過程で、組織と己の欲を達成せんと、

他者と利害を争い合うことで、個々の心と組織風土を荒ます、

こうした事態を招く風土に問題ありといっているのである。



さらにそうした経営の本来ではないこと、関わりの薄いことで

組織が肥大化、活動が鈍化、さらに経営者が心身的にも、

経営以外のことに囚われている、ということである。



このように、いわば「大きな身体に小さな心臓」状態での弊害に、

今多くの企業が陥っているというのが、私の実感である。


志と目的

2010年06月19日 | Weblog
志と目的は違う。


どう違うかは、おいおい触れていくこととして、
大きくなった組織の挫折を見ると、
意外なことに目的は明確だが、経営者の志が組織が大きくなっていく過程で、
希薄ないしは消滅してしまい、どこを探しても見あたらない、
といったことが多いのである。

巨大化は、孤立を招く。
巨大化は個体そのものの巨大化と、
子会社、グループ会社といった「繋がっての巨大化」がある。
そうしたネット-ワークはいわばオール身内。
いずれにしても、その巨大化、肥満化ということは、
その組織の中心にいる経営者が、ぶ厚い身内の壁に囲まれ、
埋没し、外部との距離を物理的にも遠くしていることになる。

志が見えない、ということはこういうことではないか。
 
そうした意味で、巨大でなくとも、大きくなくとも、
大きな志を持つ者は、ことの立ち上がり時点で、
組織そのものは志が希薄化、風化かさせるもの、ということを
予期し、その対応を考えておくことがもとめられる、と考える。

「初心忘るべからず」。
これは世阿弥元清(能役者・謡曲作者)の言である

「常に志した時の意気込みと謙虚さをもって
事に当たらねばならない」(広辞苑)

まさに「志」こそ、「初心忘るべからず」でなければならない。

それが私の強い、思いである。


志がなければ組織内では個々がばらばら。
組織外では、他の個体から孤立する存在になる。

日常の生活や消費者から孤立したところに、経営は成り立ちがたい。

表向きはともかく、本意は大きくしたい、
日本一にするといった「こと」を具現したいということであったら、
もう最初から、「志」の希薄化が始まっている、といえる。

大きくしたい、大きくなろう、先頭に立とう、といった意気込みは、
その過程で他と競い、他との摩擦、軋轢を生むことは避けられず、
志以外のことに埋没されかねないからである。

流されない情報

2010年06月17日 | Weblog
流されてくる情報の確度に疑いを持つ余裕すら
与えられていない現状について言及した。
しかしそのことよりもっと大きな問題がある。


それは、流されてくる情報には敏感であったとしても、
流されない情報に対してはほとんどが無関心。
よって無防備であることが恒常的な現実である、ということ。
いや流されない情報の存在すら思ったことがない、
というのが事実に近いのではなかろうか

しかも、流す、流さない、と選択の判断が、
第三者に委ねられているのであるから、
そこに情報保持者、提供者の流す、流さないという判断自体に、
恣意性があるのかないのか、それすらわからない。
当然、判別しようがないのである。

このことは、ある意味では流される情報の小細工より
大きな情報操作であるとみることができる。
知れば個々対応の機会と余地が与えられるが
知らされなければ、それがまったくできないことになるからである。

そもそも知り得た情報がすべてであるのか、一部であるのか、
といった疑いが起きること自体、流れくる情報の真偽が問われることになり、
いわば疑心暗鬼の世界に生きていることを意味するからである。


知る権利がことさら強調されている背景には、
知らされないことによる情報操作の存在があり、
それがいかに大きいものかを裏付けている、といえる。

長くなった。最後に整理しておきたい。
私たちは、
1に、こうした情報操作の世界の中で、生活している、ということ。
そうしたことを認識しておくこと。
2に、情報には常に発信者なりの立場、意図の存在がある、ということ。
3に、流されてくる情報と流されてこない情報があるということ。

私の情勢判断学ゼミでは、畢竟、情報とはこういうものだ、
ということを常に意識し、その上で、次の3点を心するように話している。

1に、表を見せられたら裏を見る、裏を見せられたら表を見る、
という両面思考を習慣づける。
2に、情報の確度を高めるために可能な限り、
自らの手と足と口を使って検証する。
3に、情報は、自らが生きるためのツールと考える。
そのためにより充実した人生のためにどう活用するか、
という視点で捉える習慣を身につけること。

ガラス腰し

2010年06月14日 | Weblog
私が思うに、

問題は、私たち国民が、知り、見え、聞こえるものの

ほとんどは、ガラス越しであるということ。



多くの場合マスコミを通してであり、直接ステークホルダーたちに

見え、聞こえる形、シクミにはなっていないのである。





ましては一般の国民は如何。

大会社のトップに入る情報は、

平社員→主任→係長→課長補佐→課長→副部長→部長→本部長

といった電話ごっこを経て情報が伝わる、と揶揄されるが、

私たち主権者国民に入る情報は、マスコミが流される以前に

こうしたプロセスを経ている、とみても、けして大袈裟ではない。

極端ないい方をすれば、噂話を元にそれを野次馬的立場から

あれこれ感想を、といった状況下にあるといってもいい。



少なくとも自分の目や耳で直接的に確認した、

確度甲の情報には遠いところに置かれている。

まずこのことをしかと認識しておくことである。



発信者が流した情報に対して、直接に反発を避けたい、

といった意図的であるかないかは別にして、

往々にして当事者より先に、情報が第三者に流され、

その第三者を通して、伝えられる。



これではその伝えられたものが事実であるかないか。

原型であるか変形されたものかの判断がつかない。

そうしたもどかしさが、さらに不安なイメージを膨らませている、

といったことになっているのではなかろうか。



発信者にそうしたことに対する意図があれば、

その結果は発信者としては、「しめしめ。してやったり」である。

国民からみたら見事にだまされたことになり、

しかもだまされたことにも気が付かない、といったことになる。



だが仮に発信者に意図がないとしたら、

そうした影響を及ぼすことに対して、人間として無神経すぎる、

リーダーとしては心配り、配慮がないという誹りは免れまい。





こう考えてみると、私たち国民は流されてくる情報を、

右に左に分別、仕分けすることに追われ、

その流されてくる情報の確度に疑いを持つ余裕すら与えられていない、

というのが現状ではないか。



しかし、実はそのことよりもっと大きな問題があるのである。




もう過去の人の話ですが

2010年06月12日 | Weblog
某国の元首相について。
彼は
1に決断を長引かせること。2に、期限を設けたこと。

この2つを成した。成したのはそのメリットは大きいと考えた結果だろう。

が、はて、デメリットに関してはどこまで考えたろうか。

いかがであろう。
答えは、次の2つのどちらかである。

1に、それを知らなかったか、軽く考えたか、
2に、知っていて無視したか、
のいずれかだ。

では・・・・・

決断したら、片がつくのである。
片がつくその後、その片に、当然の如く賛否両論が発生する。
賛成だけのことも希有。反対だけのことも希有。

多くの場合、その賛否両論、賞賛と非難を決断前にイメージ、
それも決断した自分に向けられる非難を先取りし、
決断に踏み込めない、といったことは人誰しもある。
そうした傾向の強い人のことを優柔不断というが。

畢竟、そのまだ起こっていな非難を前撮りして怖いとは、
立場もあるがメンツ的にも、一国の首相&人間として公言できないから、
気遣い、人に優しい、思いやり、といった

オブラートで包んで外へ出す、こういうことではないか。

繰り返すが、
ある人への気遣いは、ある人を無視、傷つける。
ある人に優しいは、ある人には冷たく、
ある人への思いやりは、別の人にはそうではない、
といったことは、相手にそれぞれの思いと立場があるのだから、
あって当然、ないのがおかしいのだ。


避けられない。避けておおれない、と割り切らねばならない。

決断に至る直前まで、これまでの密室であったものが、
ガラス張りどころか、逐次実況中継されるということは、
それを見聞きする人、とりわけステークホルダーの心を、
一喜一憂で揺るがすことになる。

この心理状況は、けして快感ではない。むしろまな板の鯉であろう。



あるステークホルダーの方が、マスコミからマイクを向けられて、
「踊らされているような気持ち」といったコメントをしていたが、
まさにそうした気持ちであろう。



踊るのは楽しくても、踊らされてはおもしろくない。
歩くのは気持ちが良くても、歩かされると不快
走るのは好きでも、他の人に走らされるのはいや。

ましては自分たちのこと、将来(さき)まで関わることを
他者にゆだね、それが長期化することの苦痛は、
誤解されそうだが、スパッと決断の場合より、辛い、痛い、苦しい。



優しさは、時として残酷さを生む。
かといって一国の首相を密室で決める、ブラックボックス活用の
自民風の方が良いといっているのではない。



閉塞感の因

2010年06月10日 | Weblog
私の感じである。
今、日本はなんとなく閉塞感が強く漂っている。
このわけのわからない天気も、それを後押ししている感すらする。

決断は、ものごとに白黒を付けること。
択一を行うことである。

極端に言えば、を許して貰えるなら、
その間のプロセスはどうでもいいこと。
むしろそのプロセスが長いことは、優柔不断、決断ができない人として、
それを見る人に、良くない方の憶測とイメージを持たれることは避けられない。
リーダー失格だ、と酷評されるのは、こうしたケースである。

当人は、誰に対しても心配りを、とか、プロセスの透明感を、
ということだろうが、そのことと、決断とは別のこと、
ということがわかっていないのではないか。

よかれと思って、言い、やってきたことが、
外から見ているものにいらだちを覚えさせる理由は、
おおよそ本質とはかけ離れたそうしたことが、
断片的に、かつ脈絡なしに、国民に流れてくるからだ、
といっていいのではないか。
少し、その根拠に触れておきたい。

人は、大きく2つに分けられる。
それは1にステークホルダー(利害関係者)、
2にそれ以外、それをここでは野次馬と呼ぼう。

1は、それ自分(たち)にとって利、プラスになると考える人と、
不利、マイナスになると考える人に分けられる。

利害が違う人たちの、利害の一致はあり得ない。
それではつれないと言うことで、多数決の原理とか、
リーダーに一任とか、調整といった方法が採られているのである。

多数決の方は、公開性が高いのに対して、
後者の「一任」や「調整」は、人の心の問題だけに
ブラックボックスになり、胡散臭さが漂ってくることがある。

さて、問題は2。なぜこれが問題なのか。
直接的に利害関係がない「野次馬」も、
1の利を得ると考えている組と不利を被ると考えている組、
いずれかに組みするからである。
サポーター、応援団がつく、ということだ。

1のステークホルダーは、それぞれ自分たちの組に、
組みするよう、野次馬達に働きかけるから、
賛否両論、喧々こうごうの論争となる。

これが、今の普天間問題を巡る現状だ、と私は思う。
決断の保留、決断するまでの時間が長ければ長いだけ、
こうした問題が大きくなることはリーダーとして、
承知しておかねばならないことである。

とすれば、首相は
1に(まずないと思うが)それを知らなかったか、軽く考えたか、
2に、知っていてあえてなしたか、

のいずれかだ。

もしもし亀よ

2010年06月08日 | Weblog

次の目標は、次の高い山にある。

それ自体は問題はない。

さらにその山を目指す人がいても良い。

いなくても良い。

いずれにしても、この山を下りて、いったん谷底に下り

里で、考えて決めればいい。

そこからさらに次の山の頂上、次の目標へ向かう、

これもいい。里でゆっくりする。これもいい。

だがみんなで次の山を、と強いることはない。

みんなでゆっくりと、と強いることもない。



とまあれ、その目標は、次の山の頂上にあるのに。

この山と次の山の間には谷があるのに。

それを下ることを厭い、上がる姿勢で前に進んだら、

谷底に転げ落ちるのは当然ではないか。



みんなで、歩いて行こう

みんなで、上を向いて、立ち上がれ!

みんなで上を向いて、次の山まで走れ!



ともかく、「みんなで」といった、こうした時代は終わった。

終わった、良き時代のイメージを元に、

終わった人たちが先頭に立ち、この国の百年の大計を担おうと、



「上を向いて走ろう。たちあがれ、日本」、

「俺たちは、これで日本をトップにもって行ったんだ」



下り坂を、下を向いて歩いている国民に向かって

檄を飛ばしているのは、噴飯ものだ。





なにもあの新党云々を言いたいのではない。

政治を例に引いているが、政治のことを言いたいのではない。



「歩みの鈍いおじいさん達が、先を塞ぐから走れないんだよね」

「おじいさんたちが、どいてくれたら私たち、普通に歩いても

おじいさん達より早いのだから」



細い道を、千年も生きてきた大亀たちが先頭を走る。

後ろの若々しいウサギたちは、そのカメが道を

ふさいでいるために、先に歩めない。



これがこの国の、経済の閉塞感の因ではないか。

それを言いたいのである。



誤解して欲しくない。

そこどけ。おっちゃん。コギャルがお通りだ。

年寄り排除、年功序列断固撤廃、といったことを

いいたいのではない。



走ることを当たり前、普遍的姿勢と思いこんで疑いをもたない。

それに疑問を感じないことを、おかしいのではと思っているのである。





どう考えても、生活の根本は、「走る」ではなく、

「歩くこと」が基本、こちらが当たり前ではないか。

それも競歩みたいに歯を食いしばるのでもなく、

歩き方のインストラクターの指導を受けなくても、

普通の生活の中での「歩くこと」。





追われて走ることなく、慌てず急がずで、穏やかな常性を営める、

そうしたものが政治や経済の本来の目指す目標ではないか、

と言いたいのである。