経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

名刺と名士

2012年06月28日 | Weblog
勝組だの負組だのと、区分し話題にして、人に語ったところで、あなたの事業に何か役立ちますか?
ひょっとしたらあなたを物知りの一人として、そうした話を聴いてくれる人がいるかも知れませんが、中には「なんだ、偉そうに。物知り顔したがって」と思う人もいるかも知れません。

会などの挨拶で、それが理由で目を通した本の文章や、有名人の受け売りの言葉をそのまま話すその土地の名士の話には、まったくうんざりです。名刺交換して、その名刺を見ると、またコレ凄い。裏も表も公職の肩書きずらり。

こうした人たちが、地域を仕切っているのでは、この地域の衰退、さもありなん、と思ってしまうのです。

問題は、これは私の独断偏見と解していただいていいのですが、どうも大きな補助事業の受け皿のところに、こうした人が多い気がしてなりません。つまり、名刺の肩書き引く自分の仕事の数だけ、そうした公的資金が流れているということです。中には自分の仕事に流しているという人がいるようで、新聞など賑わせていますが。

 先日行った1300人の小さな村の川に、700メートルの橋が架かっていました。ここにM県の知事で多選で問題になった人の大きな石碑が建っていました。そこに工事費133億4000万円かけて、この立派な橋を造ったんだと。その説明の文字の大きさより、M知事の自筆の文字が大きいのです。

 一例です。

 国民や県民の税金をたくさん使った人が、名刺にたくさん肩書き載せている地域の名士。そしてそうした名士が、国から表彰を受ける。まさに「公費の浪費は美徳で表彰もの」。

 ですが、こうした名刺の持主である名士だけを責められません。彼らを選んだ県民、市民、町民、村民、組合員、つまり民、私たちに問題がある。それはそうした人を名士に押し上げた体質的な問題。それにそれが繁栄、地域活性化に是、貢献するよといった思いこみ、意識の問題。この二つに分けられる。私の仕事に関わるのは、主として後者なので、自分なりに「そうじゃないんだ」と、説いてきたわけですが、これがクチコミになり、実に評判が悪い。つまり呼んでくださるところが希有になり、説く場がなく、説く相手がない。

 というわけで、この仕事は長い間、事実上、開店休業でしたが、少し手応えを感じる切っ掛けを得ましたので、またボツボツと腰を上げたところです。

それでも続けますか

2012年06月25日 | Weblog
やらなくても良いことを、ドンドン外していっている。

TO・DOなんて、それだ。手帳に予定書いてパソコンに、PADに転記もそう。


几帳面なことも一切やめた。頂いた名刺に御礼状書くのも。
そうした律儀さや几帳面で欲しかったのは、
おれはこれだけ几帳面だと演じる自分への評価であって、

この世のことには何一つ役に立たないことなんだ
ということが、少しわかってきた。

そう考えると、
これまでよくも役にたたないことばっかし、やってきたものだ。

 どこからか、したり顔の声が聞こえるよ。
「世の中には、無駄と思えても無駄なことなどありやしませんよ。
第一無駄の効用ってこともありますから」って。

俺は、そうした人に言っても無駄だから言わないけど。
思ってますよ。
「だったら、あなた、うんと無駄したらいいじゃない」。
 
俺の言う無駄はね。自分の無駄をはぶき、その分がお客様へまわること。
かっこいいねぇ。でも真意はちょいと違うよ。

そうしたらお客喜ぶ。お客は自分を喜ばせる人を好きになる。
自分の無駄が、お客に役立って、回り回って自分のところへ来たらいいな、って。

このことで真の営業理論つくるっというのが俺のライフワークなの。

このこと、何度か書いたらね。
「ごもっとも。我が意を得ました。私やってます。」
ってメール来るんだよね。

でもどうだろう。

疑ったら申し訳ないけど本当だろうか。
それでふつーは会社赤字になるよ。
俺、長く体験しているんだから。
なんでかいうと、
理論上は回り回って自分ところへ帰ってくる数なんだが、
それが現実は帰ってこない。

ねっ。それでもやり続ける?
続く


今と未来

2012年06月22日 | Weblog
未来というあるべき理想の姿を設計図として、

その完成に向けて,この今ことをなす。





将来(さき)の「もの」をくっきりと描き、

ものづくりとして、そのあるべきものの具現に、

向かってひたすら,この今精進する。



この今姿を描く。

このことこそが、今を生きていく上の礎として、

どこかになければならないではないか、

と、私は思っています。



未来志向というより未来から今を俯瞰にみる視点で、

これまでの自分の生き方を見詰め直してみると、

ことごとく過去の延長線上にある。

そこからはみ出していない。

すなわち、類型化、画一化した「もの」、

人並み志向にすぎないことがわかり、

唖然としてしまうのです。





自分だけではない。そうした視点で自分の周囲を見てみると

それらの悉くが、いかに斬新さをアピールしていようと、

も消費者志向を唱っているかに見えても、

そのほとんどが、過去の,縛りに拘束されていて、

作り手の論理であり、また売り手への阿(おもね)りに

満ちていることも見えてくるのです。



それはとりもなおさず、今の消費者に対する媚びである、

ともいえるのではないでしょうか。



そうした今への阿り、媚びこそが、未来のあるべき姿具現の

阻害要因、とすら思えるのです。





未来が、こちらに向かってくる。

そしてやがて,その未来が,この今になる。



その未来を迎えるために

この今、考え、やらねばならないことは

何だろということを考え、そのことを一歩ずつ

一口ずつ,行動に移していくことである、

と私は自分に言い聞かせ、実践している。

信頼と絆

2012年06月19日 | Weblog
もの不足時代は

作り手・売り手が強い。

で、売上=(売上は・・・) と売上を主語に持ってきた。





今は、もの余り時代は、消費者が強い。

売上は10億に、と目論んでも売り手の願望通りにはならない。



だから、購買=売上、である。



購買の主体者は購買者、消費者であるから

「消費者は・・・」とこちらを主語にして、

経営を考えないと,うまくいかない。



ここから、次の3つのことが云える。



1に、消費者の協力なしでは作り手・売り手の取引関係は成り立たない。

2に、左辺の「購買」という行動が先にあり、

その結果として,右辺「売上」が,存在するということ。



3に、左辺なき右辺は存在しないし、右辺なくば左辺なし、



といったことで、この取引関係は、

作り手・売り手側が、右辺側の主体、購買者の協力関係を

取り付ける、ということになる。





そこで、まず、購買する方からみて、



購買者が、作り手・売り手に協力する関係に至るには

何を重視しているのであろうか?



といったことが、作り手・売り手の命題になる。



取引関係、協力関係、いずれにしても人間関係である。



消費者と企業の関係、消費者と商品の関係というのは、

文字や言葉では存在するかも知れないが、

企業やお店、物と人とが仲良く信頼しあって、

ということはあり得ないから、そこの人たち、

とりわけ経営者に対する人間的側面の関係ということになる。



つまり、小さい企業であればあるほど経営者が信頼できる人である、

といったことが,購買するかどうかの、

一次的な、判断の基本になる、ということである。



この料理が、おいしいか,安全であるか

いちいち確認できない購買者としては、

それを提供する料理屋が,信頼できるかどうかで決まる。



その料理屋が、信頼できるかどうかは、

そこの経営者、マスター、女将さんが信頼できる人かどうかで決まる。




行と動

2012年06月14日 | Weblog
「現状打破が不可欠だ」とか、「経営革新を計らねば」

といったいい方をします。



これは一言でいうと、「行動パターンを変える」ことです。

現状打破にしろ、革新にしろ、突き詰めれば、

これまでと異なる行動をなすこと。それ以外にないのです。

考えを変えても、行動を変えないと結果は変わらないからです。





行動は、「動く」と「行く」の2つの動詞の組合せで出来ています。

「動く」とは人や動物が生きることの本質です。

動いていれば生きている、動かないと死んでいる、

動けば生きられる。動かないと生きてはいけない。

生きていると言うことは動くということ。

死と言うことは動かないこと。



ということになります。

 

諸行無常という言葉がありますが、一言で言えば、

万物は常に変化しており、一時も止まっていない、といったこと。



これは反面、自分の最適空間を確保するためには、

自分が対応して動くことが、生きることの本質である、

といっている。私はそう理解しています。

 

子どもを見ていると、そのことがよくわかります。

よく動くから関心も変化する。

あるいは見るもの、聞くもの、すべてが関心ですから絶えず動く。





これはまさに、関心の変化という心の動きに応じて、

身体もまた動かしていることの証です。

見事なまでの心身一如、そのものです。



またこれこそ、私たち大人が見習わなければならないこと。

学びの基本,モデルだとおもいます。

 

人間喪失

2012年06月10日 | Weblog
会社が悪いといういい方がある。
 組織が悪いともいう。
 上がわるい、と発言した人がいた。
 規則が厳しく、遅刻は許されない、という声もあった。
 社員教育の徹底を図りたい、と力をこめてTOPがいっていた。
 置き石の可能性あり、を早々と発表していた。
 社内連絡では、踏切事故、ということだった。
 「結果的に、そういうことです。」、といったいい方がやたらと使われた。

 まだまだ、あろうが上の例の共通点は

1に、問題は自分にはなく、他者あり、と責任を振っていること。
2に、主語がないこと。
3に、人間でないものを擬人化していること
4に、固有名詞が出てこないこと

 これまたまだまだあろうが、この4点を1つにまとめると、彼らには「人間性がない」ということだ。

 人間でないものが、人の命を預かる乗り物を動かしていることは、猿が運営するいりあぶない組織ということだ。人は人を生むが、人でないものは、人でない物を生む。恐ろしい、不気味なことだ。
 
 いかに大事故であろうと、社員がかってに持ち場を離れて、現場に集まったの
では別の問題が起こる。それぐらいは国民は理解できる。国民は、そうしたところまで感情的になるほど、バカじゃない。
 
 だが、ボーリングに飲食となれば、ことは別だ。彼らの中には、元総理が、ハワイ沖での宇和島水産高校の事故の折、ゴルフを続け非難されたとき、顔のしかめていた人もいるはずだ。
 
 さて、自分の家族が事故に遭っても、ボーリング、2次会の飲食やるのか。
 
 組織に転換、会社へ転換、教育問題へのすり替え、気持ちはわからぬことはないよね、といった助け船を待つような問題のすり替え、責任転換では、また同様のことを生む。人間が作ったもの。擬人化して他者への責任転換したら、本質的な対応は出来ないからである。
 
 会社や組織をここまで腐らせたのも、また人間そのものである事実。腐って人間性を喪失した人を生んだのも人間であるということから、目をそらせてはならないのである。
 


熱く語れ!

2012年06月07日 | Weblog
多くの人を動かしてなんぼ、である組織、
そのリーダーは、なおさらのこと。

にもかかわらず、なんで無味乾燥の言葉が
組織上に氾濫しているのだろう。
人の言葉、借り物の言葉。聞いたような言葉、
それも強調、形容詞だらけの言葉の氾濫。

自分のところの社内文書を見てみたら、然り。
メールでも然りだ。
そこに人を動かしめる「感動」(感じて、動かしめる)ものがあるか。
公文書はともかく、社内通達、社内文書は、
どうしてそうしたものを抜いてしまい無味乾燥な文にするのだろう。
だれが、あんな感情のない文書にしろと宣(のたま)うたのか。
その実、公文書に倣っただけではないのか。

熱い思いで口泡をとばし激論して会議の結論が、
なんであんな冷たい議事録にばけたのか。
誰も懐疑をいだかない。

主語も、時として動詞もない、抽象語、形容詞だらけの文章で、
どうして人が感じ入って動くというのか。
誰が縛りをかけているのか。
本来組織は、もっともっと合目的的なものであるはずである。

言葉は、その本来組織の目的具現のために組織を円滑に、
伸びやかに動かす主たる媒体であるはずだ。

こちらが動いたか、相手の動きに合わせたか、
によってのみ変化はあらわれる。
7が10に増加したとしたら、これが変化である。
期間中、どれだけの人が、どう動いたがが変化の内容であり、
その結果が、3つだけ業績がアップした、ということだ。

繰り返す。
人は自ら、感じて動く。相手を感じて動く。
感じて動くを、つづめて、「感動」と言う。
だから真のリーダーの吐く言葉には、相手をして感動させる言葉を
吐くことを心がけなれば、言葉自体が意味をなさないだけではなく、
組織の衰退を招くのではなかろうか。

とりわけ、これからのリーダーに望まれることは、
これまでの人間、組織、経営などなどに、
既存、現存する様々な縛りやこだわりや因習を、破壊し、
まずは組織における「言葉」を、本来の人間の持つ言葉に取り戻すこと、
にある、と考えている。

燃える集団、組織は、熱いリーダーの思いが、熱い言葉で
語られてこそ、と叫びたいのだ。

言葉と感動

2012年06月06日 | Weblog
「言葉との出会い」といったことはある。

人が真から発する言葉は、生きているといってもいい。



その言葉に触れることによって何らかの感動を受けた時に、

そのことを強く感じた、といった経験は誰しもが、

もっているのではないか。



だがその「言葉」が、その言葉を発した人の

自らの行動から創出されたものではないと、人は感動しない。

人が、感じ、動くには、体験に裏付けられた言葉にまさるものはない。



感動の下請けや孫請けでは、それはあせて聞こえるだけではない。

人を動かせないのだ。

人が動かない言葉であふれかえっている組織がどうして動くというのか。

だが巷には、どこかで見聞した言葉をはき出すテープレコーダー人間の

吐く言葉であふれかえっている、といっても過言ではない。

組織ないも、その例外ではない。



「動かない」と、上に書いた。

人は、自分を持ち上げられない。だから他人の力が不可欠である。

他の人を動かすには、自分の吐く言葉に他人が感じ、

自ら動いてもらうしかない。

だからこそ、このことこそ「感動」というのである。



繰り返すが、 人は、個々人の頭で感じ、個々、人の意志と身体で動く。

で、そう他人の思うとおりにならない。



もうひとつ。

人は、自分で自分の体を持ち上げることはできない。

だから、私が自分の体を持ち上げたかったら、

他の人がこちらの目的にそって、自らの意志で動いて、

この私を持ち上げる動きをしてもらう以外にない。

その媒体が、「言葉」、すなわち人(自分)を感じさせ動かしめるものが、

奥深く潜む言葉こそ、本来の言葉と考えている。



多くの人を動かしてなんぼ、である組織、

そのリーダーは、なおさらのこと。

そのことを肝に銘じておくべきである。

学ぶ、ということ

2012年06月04日 | Weblog
人は、人からも学ぶが、それは学びの極く一部である。

人は、社会、組織、あらゆる事物から、意識、あるいは
無意識に情報を、取捨選択し、採り入れている。
学びのために、といった意識が、学びとなる情報を採り入れ、
それで示唆をうけ、学ぶ。

それは学んだ人の血肉となり、組織、社会に換言される。
こうして組織、社会も学ぶ。

人が生きていると言うことは、呼吸をしているということだが、
組織も、社会も呼吸をして生きている。

この相互の学び合いの相互交流を繰り返していくことで、
螺旋状に知恵、文明、経済、などなど進歩発展していく。

畢竟、学ぶということは一方的なものではなく、
「学び合う」ということ。切磋琢磨の関係である。

これを、学びの本質の第2点とする。
 
とすれば、教える人と教えを請う人の関係が、
明確に分化、専業化するという関係、つまり
「私、教える人、ボク教わる人」と区分し、
教える人が高い位置、教わる人が低い位置といったように
両者に上下の意識があるということは、望ましいことではない。

むろん立場上とか教えることを仕事を、否定しているのではない。
師を敬うことはおかしいとか、学ぶ者は云々とか、
そうしたこと言っているのではない。

そうした立場の人は、学びあい、という学びの本質を強く意識し
親は子に教えられ育つ。教師は生徒から学び、成長する、
と、いったことではないのだろうか。

仮説として、思いつくまま2つの学びの本質を挙げてみた。

考えてみれば、教職関係以外の人たちの多くは、
学校教育において、生徒、学生ではあったが、
教える勉強を専門的に学んだ経験を持っていないのである。
このことは親にも言える。

それで例外はあるにしても、人は人を教え得る。
親は、親をやっている。

この、やれていることに、「なんでやろ!?」、
と首をかしげて考えてみることが重要ではなかろうか。
 
「教えること」を、専門に学んでいない事実は、事実として、
この教わっている人たちから「学ぶ」ということを強く意識して
日々の教える「業」をなしていったら、意識しない場合より
はるかに学ぶことができるはずである。

「私、教える人」といった意識がどこかにあって、
教わる人から教わることがすくまいとしたら、
社会や組織、個々人は、かけがえのない学びの場を見落とし、
大きな機会損失していることになりはしないか。