経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

安倍総理、と「選ぶ」

2007年03月31日 | Weblog
高松でタノウエ脳力経営塾を主催していただいている雅さんから、昨夜、次のようなメールを頂いた。

先日(24日)に安倍総理が丸亀町の視察へ来られました。そのときに商店街のお店の中で再開発された一番街のお菓子屋さんと私方のお店に立ち寄られました。

そのときの映像が http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg1067.html
政府の「安倍総理のライブトークTV」に出ていますのでご覧ください。

取り巻きの方々でお店の中はすごい状態でした。にこやかに握手していただき家族全員での記念写真まで「ハイどうぞ皆さんいらっしゃい一緒に撮りましょう」と気さくに声をかけていただきました。

自費でお茶も買っていただき、会社としても良い宣伝になりました。
(後略)
  *

尾碕雅裕さんとは、脳力開発を学び、実践している同志である。仲間である。高松・徳島タノウエ脳力経営塾が16年も、欠かさず続いているのは、ひとえに彼のお陰である。

高松の中心商店街は、私が知っているだけでも大きな所7つはある。その中心の中心が「丸亀商店街、400余年の歴史を持ち、栄え続けてきた日本でも有数の伝統ある商店街である。

 そこには当然としておびただしい商店がはりついているのだが、他の商店街と違ってそのほとんどが地元商店である。県外著名店は、ただひたすら空き店舗待ち。だが、どっこい銀行や証券会社の支店封鎖、といった時が、少し以前はあったがこれは例外。ここの商店街で、空き店舗がでることは滅多にない。だからここでは、県外資本が空き店舗待ちしている状態なのだ。こうしたと商店街は、今日日(きょうび)、地方では珍しいのでは。

そうした中から、安倍総理が2店を訪れた。その一つが、雅さんのお店「お茶の亀屋翠松園」。首相が気まぐれに訪れたのではない。選んだのである。首相が選ぶ訳はないから、誰かが誰かに選ばしたのである。
 
この「選ぶ」、「選ばれた」に、私はえらく興奮して、こだわっているのである。会長も社長も、常務の雅さんも、絶対に自薦、自分を売り込む人ではない。否、むしろそれを嫌った生き方をしている人たちである。
 
だから、誰かが、地元の誰かが、ここ良かれと、他薦したのである。
 そのことが雅さんは、嬉しかったに違いない。そしてそうした話(ありかた)に、一番喜び、「それ、それ、俺のかねがね言っているとおりだろ」と、喜ぶのは、この私だということを分かっているから、知らせてくれたのである。それが何より嬉しかった。

 自分の好きな友の店を、知らぬ誰かが押している。なんだかぞくぞくしてくる。嬉しいではないか。こうした事例がなにより、私の「売らない営業理論」の裏打ちとして、励みと勇気を与えてくれるのだ。友は、それを知っていてくれる。
 
人から、「ここの店、いいいよ」と言ってもらえる。これが商人冥利だ。かねがね、「俺が俺が」や「売上ひたすら頑張ろう」だけでは、人は支えまい。押すまい。こうしたことですら、かねがね、日常の人の生き様(よう)が働いているのである。、

 支えられる、押されるお店の人たちを知る私は、幸せだ。
 13年前に、商業界に掲載した私の執筆、読んでいただけたら、私の感激とその理由のお裾分けになるのかなと思っている。

ああせー、こーせー

2007年03月30日 | Weblog

「社長たる俺のいうとおりにせよ」、といったことを言う社長は、1に、「俺の言うとおりにやったら、間違いなく我が社は進歩発展する」ということと、「俺の言う事以外やったら、間違いなく我が社は退歩衰退する」と言っていることになる。2に、「偉いのは俺、分かっているのはおれ」だから「君たちの言うことなすこと、信用できん」というメッセージを部下たちに発していることになる。

ところが、実際はどうか。こうした企業は、あれよ、あれよという間にダメになってしまうのである。
 当然だ。そうした社長の周りには何でもハイ、ハイのおべっかをいって信用を得ようという連中が占めるようになり、それがやがて全社に広がる。有能な社員、とりわけ諫言を発する社員は見せしめと、いの一番にさらし首にされる。首を切られ、晒されるのは誰しもいやだから、皆会社のことを思っての言動ではなく、首切り人のご機嫌を思って言動をするようになる。

こうして、よいしょ連中の仕事は、首を切られないためによいしょに励む、よいしょで信頼を得ようと努力する。またよいしょナンバー1を目指しての内部での権力争いで忙しくなる。それで企業本来の仕事をする者がいなくなる。

こうした現象を、組織から人心が離れるという。人心が離れるという意味は、国で言えば民、企業で言えば消費者が、背を向け、やがて離れることを意味する。
企業組織を動かしているのは従業員、そして企業を支えているのが消費者であるから、彼ら、彼女たちが背を向け、離れたら、企業は存立できず、間違いなく自滅する。

 過去の歴史から、こうしておかしくなった国、衰退し消えていった企業はいくらでも挙げることが出来る。

組織はそもそも縛るものではなく、機能させるものである。この視点で、自社なり他者なりを見てみると、これから自滅しそうな企業もまた容易に予測出来る。

継続

2007年03月29日 | Weblog
「継続は力」と、言われている。
これは、小さなことを積み重ねて蓄積されたものが、(ほんとうの)力になるといったことで、含蓄のある言葉である。

「やろう」といった計画自体はいくらでも立てたり、口にしたりできても、いざ実行しないのでは何にもならないし、やったとしても続かないでは何にもならないばかりか、逆に自分や自社の評価を落とすことにもなりかねない、という含蓄が背景に込められていて、耳が痛い。

 継続は難しいといわれているが、結構継続していることもある。私の場合。
つい3年前までタバコを継続していた。これ40年の継続
つい最近までの晩酌。これ41年の継続。
歯磨きは60年ぐらいの継続。

ここまで書いて、気づいたことだが、良いことを継続したら、良いことが蓄積ないし力になる。悪いことを継続したら、悪いことが蓄積ないし力となる、という至極当たり前のことである。
前者の継続により、人はその人を、「あの人はいい人だよ」と評価する。
後者の継続により、人はその人を、「あの人は悪い人だよ」と評価する。

継続をなしたものは、そのどちらかに評価される。
だから、良い人、良い企業として、良い評価を得たかったら、良いことを継続することが、力になる。
悪人と、悪徳企業として、悪い評価を得たかったら、悪いことを継続することが、力になる。

 つまりこの「継続は力なり」の意味は、1にどれだけ継続出来るかどうかが
本当のその人の実力だ、と言う意味と、2に小さなことでも一歩ずつ、一口ず
つ続けていけば、成果という意味での力を得られる、という二つの意味がある

 逆に言えば、多くの人が、なかなか物事を継続ができない。そうした人間の持つ弱さ、だめ加減を背景にして、いるといった皮相的な教訓とも、受け取れる。

「素振りを毎朝300回。1年続けたら、強くなれるよ。才能もない者が強くなるには継続すしかないんだよ」、と中学時代、剣道部の先生に言われたことを思いだす。

 継続の意義は、第一に、人にしろ、企業にしろ、信用・信頼は、時間を経てこそ蓄積されるからである。その意味で、一過性、思いつき、短期といったことに、きわどさがあるのは、こうした時間軸という意味での試練に耐えていないことである。
だから何事でも、「継続」が出来ない人は、約束や時間を守れない人と同様、周囲から信頼されない、信用されない。
「はて、いつまでつづくことやら」と、剣道をやりたいといった私に、父母は笑ったが、我が両親は、1にはなから子息の私を信用していなかった、2に、続かないであろうのに、剣道具など買ってやれるかい、という打算が会ったに違いない。その期待、予測通り2年そこらでやめたのであるが。

継続の意義の第二に、一定のことを意識して継続することにより、無意識に出来るようになることで脳の回線作りができることである。
古い習慣を改め、新しい習慣に置き換えていく、これを習慣の改更というが、新たに行うことを習慣として定着させるには、継続が不可欠である。企業でいえば、これまでの悪しき組織風土や体質を改める。これは、良き組織風土や良き体質を、新たにデパートに行ってかってきて、カゼットポン、入れ替えると一家やり方は出来ない。新しい習慣を継続により構築して行かねばならないのである。
これが経営革新である。

異常整理すると、こう言えよう。

なにごとにしても継続できない人、企業は、信頼されない
よいことでも、継続しないと、進歩発展の力とはなりがたい。
悪いことなら、一回でも評価は落ちるが、継続すれば致命的。


雲泥の差

2007年03月28日 | Weblog
 自社のスクラップ、会長や社長、幹部が掲載された記事などのスクラップを、社員に作らせている会社はやがてだめになろう。自画自賛のパンフレットや社内報を発行している企業も、先は見えている。

対して、伸びる会社は,相手の喜ぶ材料を探し、客先のスクラップを作りそれを相手に届ける。

新聞を開いた時「この記事をみたら何々様が喜ぶなあ」と無意識に思いをはせられたら商人として一流と自画自賛していい。
 
あなたのところの社員は、「この記事を、社長へ持って行ったら喜ぶだろうな」と、あなたの孫の記事を切り抜いている。それは、常日頃あなたが経営者として間違いの言動を採っている証、そのものだ。

こうした違いが、企業の行く末を替えている。雲泥の差とは、こんなことだ。

ものさし

2007年03月27日 | Weblog
 「そのことは、お客さまから、ほんとうにプラスになることかどうか」を考え、プラスになることを「仕事」という。これが私の定義です。その意味での仕事をしている人は、我が社には、いったいどれだけいるだろうか、考えてみてください。その前に経営者自身は道でしょう。自問自答して欲しい。
 なぜこん当て木々をしたかといいますと、そもそも買い手、消費者に得にならないもの、すなわち作り手、売り手だけがプラスするものをもって、経済行為そのものが成立しないからです。消費者は、作り手、買い手のために経済行為をなすことは、あり得ないからです。
 このことを前提、物差しとして、自分の企業が為していること。経営者として為していること。従業員にやっていただいていること。経営計画、組織、スローガン、チラシ、POP、電話、

 お客様にとっては1番忙しい時期、忙しい時間を抑えているだろうか。人はとかく、相手様の忙しさを忘れるものです。
 自分たちの段取りで仕事を進めて、それを「効率的」とか「段取りよく」とか言っていることないでしょうか。利用されるお客様から見てそれがどうなのかを忘れてしまう。
 現場を見て、マニュアル見るならともかく、マニュアルで現場を見てしまったり、マニユアルの中の言葉を散りばめたセリフでお客さまと会話しているようでは、マニュアルに使われている人間失格者。自分たちの都合を不便してでも、お客さんの都合を優先することが「サービス」の本質です。

巨大市場は、機会ロス

2007年03月26日 | Weblog
ウエイブ・ドクターといった言葉は、すでにあるだろう。パソコン・ドクターという言葉も知っている。そうしたところのHPを見てみると、その内容を知るのに、また一人ドクターが必要になる。

 私はワープロが198000円でNECから出される以前から、いわば旧世代のパソコンからの常用者である。会社勤めしていた頃にはオフ・コンを使っていた。
だが、何年経てもまったくこの世界には無知である。TVは見れたらいいのであって修理にくわしくなる必要はない。パソコンも然り。それでいいと思っている根性が災いしているのだと思う。今朝もキーボードが反応しなくなり立ち往生。1時間のロス。その程度なのである。

 つまり私程度のユーザーは、通訳か介添人がいなければ、そもそも相談すら出来ない、と気後れしてしまう、だから彼らのサイト画面を見ると、知らない人に、こんなことしらないのか、といったアプローチ画面に驚くことになる。

 いわゆる「こまった」というトラブルに煩わしい思いをすることは、日常茶飯事である。それに相談に乗り、解決するドクターにたいして、パソコンに関する百科辞典をマスターしてからお伺いしないと相手の言うことが理解できない。相談できない、というので何のためのあなた方の商売か、と私はイラ立ってしまうのである。

 書かれていること。見る人がプロなら分かるが、そうでなかったら分からない。これは遅刻しない人に、遅刻するなと注意し、肝心な遅刻する人は、遅刻していてそこにいない、という状況と同じじゃないか。

 彼らは、自分はプロ、だが相談する方は素人、という相互の立場さえ理解できないのか、とそうしたサイトを最初から敬遠してしまう。おびただしい巨大なる機会ロスあふれるマーケット、なんともったいない、というのが、経営指導をしているパソコン無知の私の思いである。


 外科医が、カルテにドイツ語を使い、専門用語を使うのはかまわない。だが患者への説明にドイツ語を使われたのでは、どうしようもない。
 だが私が知る限り、パソコン、ウエイブ、サイト、IT・・・(私にはこうしたことばの区分が出来ないのだ)、こうした用語、言葉そのものからしてそうなのだが、パソコンなどを仕事や趣味の道具として使っている私たちには、まるで理解できない思想と言語なのだ。
 
 それならそれで、わかりやすいように伝達する、そうしたプロがいても良さそうなのだが、現実は専門、特殊、新語、難解、そうした語をちりばめ自社のご立派さを誇る、といったカタチや人ばかりである。

 その典型が、ソフトやハード販売会社の、カスタマサービスとか修理センターといったところだ。そもそも窓口がたくさんあって、そのどれを選んで良いかも分からないものにとっては、ここでシャットされるシクミかな、と思うほどである。電話はつながらない。つながってもたらい回しされる。相手に伝えてもまずは検査漬け、検査の繰り返し。解決の道のりは遠く、それで「解決するかといったら、打率は私の場合3割以下。

 これだけユーザーの不満の大きい、そして巨大マーケットは他にあるまい。いくらドクターがいたとしても、ドクターは作り手、売り手のためのドクターであって、ユーザーのドクターではないのである。先に述べたが話す言葉からしてそうでないことは明白だ。

 相手が困っていることに対して解決するのが仕事のはずなのに、外科医が胃を切開する目標を立てて仕事しだしたら、どうだろう。今、いやこれからもこの世界は、自分たちの目的を果たすために、この種のサービス分野を目指す人であふれることになろう。
 それは、クライアントの問題解決という仕事を仕事にしているものにとっては、まさに有り難いことである。かゆいところに手が届くためには、そのかゆいところをつかむことだ。つかむためには、人による接点が不可欠。そしてかゆくない所へは手をださない、という信頼性がまた不可欠。その信頼性も人との接点が基本にある。

デジタルの世界のトラブルは、デジタルではなく人に依る部分を大きくすること意外にない。手暇がかかること。手暇がかかるから、クライアントがそれに見合うフィーを感激して喜んで払う、というシクミを構築しなければ事業としては成立しない。

ここで、私は自分の自慢をしておきたい。私ぐらいクライアントとして不満が多いものはざらにはいまい。しかもその無知ぶりで、たくさんのソフト会社のコールセンターに手を焼かしている。それが彼らや彼女たちが、私の電話に出たとたん分かる。彼らは私の過去の相談を瞬時に検索し、呼び出し、身構えるからである。それぐらいこの世界には無知である。

彼らはデジタルの専門に強い。だが私は限りなく無知のユーザーなのだ。このすれ違い乖離を私が埋めることは不可能。彼らが埋める以外にないのである。それがこの業界の「ドクター」としての課題になる。
そこに気づいて欲しい。きづく企業が出て欲しい。
そのための労は、消費者の一人、超ベテラン、無知のクライアントとして惜しまない。
大きなマーケットの発展のために、素人、専門の消費者として、そして経営指導を生業(なりわい)にしている私は、役立つ、と自画自賛しているのだが。
ちなみに、朴さんの会社、朴さんの相棒、小崎さんは、こうしたことをやっている、まさに希有な一人だ。http://blog.livedoor.jp/goen151a/
こうした人が主流の企業、業界が、消費者なりクライアントから支えられるのである。そこへ持っていってほしい、かゆくないところを書いてもらうのは、むしろ迷惑、不愉快である。そんな企業は消えて欲しい。それが消費者、クライアントの切望なのである。

美しい商人を求めて

2007年03月25日 | Weblog
売り込まない、売らない営業理論の構築を目指し、「美しい商人をめざそうよ」と呼びかけてきた。

 「そんなきれいごとで生きられるものか」、「そんな理想論で商売が成り立つはずはない」、と私の貧乏性を知る親しい友人から注意を受けた。
「若いからね、理想を持つのは良いが現実はそんなもんじゃない。やめなさいよ」、東京在住のこの道の大先生たちからも、好意あふれる忠告をいただいた。

 だが人のマネや人を追うことを嫌いで、偏屈者の私は、自分なりのものを目指したかった。だがそれはそれなりの能力と実績があればこその話で、そんなものない私は、自分でも無謀だと思った。でも自分のものをやりたかった。都会を捨てた。親を捨てた。大先生を捨てた。大企業を捨てた。経営の専門書を捨てた。

 以降、なにか、答えがでそうで、そこまで出かかっているのに、といったことを繰り返すし、なんとかここまできた。朝が来たらもう夜、夜寝たら朝といった怠惰な感じで日々を過ごしながらも、まあ、こうして時を過ごしていれば薄皮が重なってくるかも、と半分以上はふてくされの思いだった。

 しかし数は少ないかも知れないが、今の営業を続け、自分の心を荒ませることをいやだと思っている人はどこかにいる。大きくなることではなく、千金を求めるのではなく、一人一人のお客様に役立ち感謝されることを誇りとし、それでいてちゃんと悠々食べていけている(そうした商人を私は美しい商人と呼んでいるが)商人はいる。たったそれだけの根拠のない「希望」が、私を支えてくれた。

 希望はのぞみの具現が希有であることをいう。だが無望(無謀)ではない。そんな言葉遊びにすら、希望を懸けてきた。

 その間、実に多くの名のある企業が消えていった。実に多くの著名経営者が挫折、中には犯罪者として有名になった。
 一方、増収増益、私たちが知りもしない経営者が率いる世界的な会社も少なくないことを知った。名も知らない企業や、会社でもない商店で消費者から無くてはならない企業、商店として堂々存在している。そうした人にも出会った。

 「見よ、見てご覧、企業はタレントではない。経営者は著名度を競うものではない。おおよそ商いにはそうしたことは関係ないのだ」、浮かれた思いで言ったり、書いたりしているのではない。
 私が、泡沫的な理想にうつつを抜かしているここ20年の流れの中でLD社のホリエモンの会社は大きくなった。5年前には知らなかった会社が、莫大な富と知名度を得た。もちろん以前にも、たとえば高塚某氏、古くは坪内氏、その他数多くのタレント経営者が人気者になり、そして消えていっている。

 それはなんだったかと、自らに問うているのだ。
一方、名もなく貧しい郡部で小さな店が100年以上続いている。たとえば、私の住む鹿児島県、薩摩川内には、明治元年創業の畳屋「田辺屋」は変わらず繁盛しているし、旧吉田町に、名前は「池田百貨店」だが40坪にも満たない萬屋が堂々生き抜いている。

 こうした現実もあることをみれば、あながち私の目指した理想にも希望がもてる。無謀ではなかったと、自分自身を少しは褒めてやることが出来る、と安堵するのである。
薄い皮でも積み重ねていけば強い厚みになる。それでもこのお思い込み(仮説)が、私の世界で実証できなかったら、私は美しい商人を目指す数少ない友人に向かってこう言おう。
 「私はまだ、積み重ねが足りないのだ。」。
その声がうわずり悲壮に聞こえようとも、私は叫び続けたいのだ。
「美しい商人の時代がくる」と。」

ドンブリに水入れて

2007年03月24日 | Weblog
どんぶりに水を入れて、頭に乗せ、様々なもの、ときには美女の写真、時には鬼婆などの絵、そうしたに風景に一喜一憂、悲喜こもごもしながら、螺旋階段を上っている自分。これぞ我が人生。
昨日、書いたものを今朝、読み返して、私はなぜ、「水を入れたどんぶり」と書かなかかず、「水を入れて」と書いたのか、そのことに簡単でも触れておかねば、と思い、昨夜、ある会の流れで2時に寝て、酔いの真っ最中なのですが、ほっぺを叩きながらキーを叩いています。
理由があるのです。それはドンブリに最初から水が入っていたのではない。後から入れたこと。これが一つです。二に、それは、他ではない。自分が入れたのです。三に、水以外に様々なものを選択して入れることが出来たにも関わらず、水を選択したのです。
その結果が「どんぶりに水が」です。ではこれは私の選択ですが、なぜオレンジジュースでななく「水」なのか。それは、水は無色透明。後から加えるものによって変化、変色するからです。たとえば無垢で生まれた赤ちゃんは、水。それが成長するにつれ、いろいろ色が付き、濁ってくる。そうしたことをイメージして、水。
では、なぜ「ドンブリ」。これはたいした理由はありません。コップではあまりに小さすぎ。バケツでは頭に乗っけるには大きすぎ。それで「どんぶり」。
それでは、話を本論に戻して、締めくくります。

波瀾万丈といっても所詮、人の人生その範疇。ドンブリを失っては生きていけない。欲張ってもドンブリ以上の水は入れられない。ドンブリを捨てず、割らないように、また水をこぼすことなく、生きていくこと、これすなわち生き方のありかた。経営のコツ、と私は思っています。

経営以外のことは全く無知。その経営にしても浅学、といった私の考えですから、科学的論拠、根拠などたいしてない。ただ自分が「何処にいるのか」、その自分が相対する人の位置がどこなのかを診ることは、仕事上必須のことですから、そのためにけして本意ではありませんが、問題のありどころをつかむ上から、人をマトリックスで分類する手法はよく使います。
すなわち、
経営を診るとは、経営をしている「人」を診ること。
人を見るとは、位置を診ること。
位置を知るには、東西南北におおよそでも分類し両者の位置の目安をつけて、対処する。

仕事を通じて試みてきたものにどこまで普遍性があるかどうかおぼつかないところですが、個人の単なる感想だとおもって読み流していただけたら、と思います。

おお怖い

2007年03月23日 | Weblog
見ること、一つとっても実は大変なことである。
目は前に二つだけしかついていませんから、前しか見えない。
それも180度、これが横の視野の限界。また視力には限界がありますから、その限界を超えた先は見えない。そう。見る、見えることには制約、限界といったものがある。見えていても見えないものがある。

今、私は、窓を瀬にて机に向かいキーを叩いていますが、後ろの窓は見えない。膝から下も見えない。かろうじて画面が見えるぐらいです。そう考えると見えるはずのものも、ほとんどと見えない。だから耳鼻、口などの役割と出番がある。近寄る(動く)ことで、見えなかった者も見える。玄関に誰か来ても見えませんが、ドアフォーンを手にして、それを通して耳が助けてくれる。台所は、ここから見えませんが、「ああ今日は、カレーか」と分かる。

すべて目でまかなえれば、他はいらない。自分で何でもやれれば人はいらない、組織も社会もいらない。

こう考えると、世の中のほとんどは、出来ないお陰で、他の人が必要になる。助け合いや社会や組織が必要になるように、出来ている、理解した方がわかりやすいのではないでしょうか。
 
目に限ったことではありませんが、目を例に取れば、360度全体を目だけで見ることをまかなおうとすれば、体中に目が必要になる。ちょっと気持ち悪いことになります。
 こう考えれば、足りないことや、限界を嘆くのは、まったく不合理なこと、おかしなこと。こうした世の中を、ありかたそのものを否定することになります。
 
逆です。こうした足りないように思えること。人間としての限界、自分の能力の足りなさが、飛行機を生んだ、望遠鏡を生んだ、車を生んだ、と考える。私は怠け者で、努力するのが嫌いですから、自分の能力不足、至らなさをこうした風に、言い訳することのほうを好みます。

 ところが、これが言いたいことですが、人の多くは完全を目指す。完璧さを目指す。これは、孤立、孤独に入り込むだけではなく、いわば神や仏に近づくことになる。
 年取ったら、「あなたずいぶんと丸くなったね」といわれます。あれ、怖いです。
刑事物でよくいいますね。亡くなられた人を、仏様と。おお、怖いですね。それは死を意味することになると思うからです。
さらに完全なる神仏から見たら、人が神仏に近づくことは、神仏からみたら、ライバルが増えることにもなる。神仏と争って勝てるわけはない。おお、こわ。
私は、いつまでも人の手を借りられる不完全燃焼人間でありたい。完全燃焼とは、灰になることですから。おお、怖わ。

人生ルンルン。経営楽々

2007年03月22日 | Weblog
事物を見聞きし触発を受ける。それをメモしておく。だが人の話はメモしない。人の話から触発され、自分の頭に浮かんだことは、これ確実にメモする。
人の話は聞く。聞くが、鵜呑みは絶対しない。自分なりの解でイメージしてその明暗、虚実などを確認する。

次にそのイメージしたものが、自分が相手だとしたら、その相手はイメージを大歓迎し受け入れるだろうか、とイメージし直してみる。「おっ、これなら気分が良いぞ」と、お客の自分が確信もてたらら、それはいける、ゴーだ。それで売り手としての自分のその判断は、初めて「正」の解となる。

自分だけに、都合の良い、心地よい、イメージは、結局、虚で、実になることはない。なぜなら虚を受けて諾する相手など鋳るはずがないからである。

こちらの都合の良いイメージで、物事を進める解は、誤解になる確率が高くなる。価格も手段の一つ。言葉も手段の一つ。要は、手段はいくらでもあるのだが、足りなければ追加して考えればいい。その中のこちら良し、相手良しの手段をいくつか組み合わせてやってみる。うまくいくまで組み合わせを変えて試みてみる。

そうした実践過程で得たものが、自分の考えなりノウハウになる。私は、そう考え、事物に触れ、人の話を聞き、本を読み映画を見ています。
 
 消費者は、このお店、この企業、この人とつきあったら、心地よい。気分が良い。得をする。そうしたところや人を選択し、手放したくなくなる。ここまで持って行けば、あとは人生ルンルン。経営楽々。