経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

逆立ち

2008年03月31日 | Weblog
今、企業が不振に苦しんでいる、とします。
 その場合、その理由は客数減、すなわち客離れによる。
 と、決めつけて下さい。

 そうすると、
 なぜ客離れが起きたかを突き詰めること
 になります。

 不景気で、といったことで頭を取られなくなります。
 

 つまり、自分で対応できない理由はそのままにし、
 「自分のお店にその原因がある」と捉えること。

 そうすれば、自ら手が打てるからです。
 
 そのうえでお客が自企業を選択する理由、
 自企業で購入する理由を増やしていけば
 売上は、間違いなく増えるのです。

 しかし、現実は、悲しいかな。
 商人の多くは客離れの要因を他者のせいにし、
 しかも販売攻勢を強くするか、
 あるいは売り上げの確保を断念し
 利益確保に転換するといった愚策を執る。
 

 以下、この客離れを招いた愚策を例示します。

 1.利益確保に躍起になり品質より原価に意識がいく。
   その結果、商品の品質が落ち品揃えも偏り客離れ。

 2.商店街、店舗、いずれも画一、効率的、近代化を目指すと、
   必然的にどこにでもある商店街、どこにでもある店舗、
   どこにでもある商品が並ぶことになり、客離れ。
 3,同様売れ筋、無難な商品の仕入れを繰り返すことで、
   お客の趣向、好み、個性、都合を無視し、客離れ。

 4.強引な営業をやり一時的には客数が増えたが、
   そのことでお客は不快感や圧迫感を受け、客離れ。

 5.不当表示や産地虚偽表示など消費者に「嘘をつくこと」、
 「都合の悪い情報を隠すこと」といったことが露見。客離れ。

 以上見るように自分の儲けや利ばかりを考えて頑張った経営者、
 自分の販売成績、ノルマの達成に必死の店長が、
 自ら客離れを起こす「意志決定をなす」ことで、
 客離れしたのです。

 対策は、明快。上の5つがすべて誤り。
 だからこれを逆さまにしたらいい。

 つまり逆立ちをしているから、景色が逆さま。
 逆立ちを止めたら、 景色は元に戻る。
 
 どっちが楽な姿勢か。自明の理です。

拝啓 地行 犀星 様

2008年03月30日 | Weblog
地行 犀星(じぎょう さいせい)様 

売り手の都合の合理主義、画一主義、
そして、中央集権主義を押しつけ、
消費者をないがしろにしたあり方が、
消費者をして、この業態そのものに
背を向けさせて、そのほとんどを
消滅させたのです。

長崎屋、寿屋、マイカル、ダイエーなど、
氷山の一角といえましょう。

経営は、合理化を図れば、その成果として、
間違いなく機関高収益がでます。

ゴーイングコンサーの企業の永い命にしてみたら
それは「瞬間」です。長くは続きません。
それだけではなく、そのことがまた分母を減らし、
さらに合理化に迫られる理由となり、螺旋化状態で、
短命に終わる、といった悲劇を生んでいるのです。

この悲劇の潮流にわざわざ飛び込む
選択をしたのは、他でもない、
その企業の経営者です。
経営者自身の意思決定です。

経営者のその判断により、従業員の仕事に対する
その努力は、消費者に嫌(いと)われ、
分母である売り上げを
落とす努力であったことになります。

そうした危機を早める努力が実り、
こうした結果を得たということ。

言葉を換えて繰り返しますが、
これまでの従業員の辛苦、売上を上げる努力は、
損益計算書や貸借対照表を
真っ赤な字にするだけではなく、
経営者の個人資産も信用もなくす結果になった。

考えてみれば「判断」とは、
なんと怖いものなのでしょう。

でもその「判断」で、未来永劫的繁栄を
確約されている企業もある。
このことを考えれば、その怖さは、
経営者自身の「判断違い」にあることは、
間違いがないことです。

たかが、あえて「たかが」といいましょう。
2店舗、10億の売上に満たない中小企業ですよ。
それを多店舗展開でスケールメリットを、といった
勇ましく、まったく無知、無謀なかけ声で、
経営者に鞭打ち、あおった
そのカリスマコンサルタントは、
カリスマでもなんでもない。

私は詐欺師よりホラフキ、罪作りだと思いますが、
それより悪いのはそれを鵜呑みにした経営者。
この不幸な結果を招き入れた責任は逃れられない。

それを認めて頂きたいのです。
そもそも50店舗、100店舗出店しても、
スケールメリットなど出せる規模にはなり得ない。
ライバルは1000店超えているのですからね。

よしんばそのカリスマさんの理論が正しいと仮定しても、
当社はその恩恵、メリットを受け得る規模ではなかった、

ということ。そんなことは最初からわかっていたこと。
身の丈知らずとは、まさにこのことではありませんか。

こうして厳しい言い方をしておりますのは
お話を伺っていて、経営者に当事者感覚がない。
悪くなったのは、全部自分以外のもののせい、
といったことが、つよく感じられ、
それも体質化している。
そのことが気になるからです。

ここにいたって、逃げ、言い訳、責任転嫁では、
再生は難しい。そう思うからです。

無謀な、裏付けのない決断の愚かさを逃げずに、
いまからでも遅くはないのです。
自分の意志決定が、現状の危機を招いたこと
を容認してください。
それが再生のための最低の条件です。

事業の盛衰は、古来、畢竟「人」です。
消費者と従業員と取引先などの関係者など
多くの方々の支え、これで成り立つのです。

この鉄則は普遍、そして不変のものです。

どうか、これまで支えてくださった地元の消費者、
そして苦楽をともに過ごしてくれた従業員、
買い掛け入金が遅延するににもかかわらず、
豆腐やパンなど、毎日納入してくださった取引先を
二度と、裏切らないでください。

事業の盛衰は「人」。店を動かすのも、
仕入れも,販売も、すべて「人」。

つい最近までご自身が、この地域で成功者として、
いい思いができたのも、皆人様のお陰。

自分の身体も地位は自分では持ち上げることは出来ない。

カリスマや教祖の言うことではなく、もっと、もっと、
支えて下さる、そうした人たちに

関心を持って下さい。
大切になさって下さい。
信頼してください。
慈しんであげてください。

人を中心において、経営をお考えください。
そして人に支えられる経営者、
消費者に支えられる企業、
お店をめざしてご精進頂く。

「理念を欠けば戦略は無謀化し、
  その戦略の誤りは、けして戦術では取り戻せないこと」、

このことを、けしてお忘れになりませんよう。敬具

挑戦 嫌われる体質作り

2008年03月29日 | Weblog
花粉と戦うといった、対処法自体が脳力開発、
つまり、かねがね人様や自分に言っていることと
自己矛盾、論理矛盾していることに、
今頃になって気がつき、自分に呆れています。
このことは、数日前でしたか、ここに書きました。

早速その誤りを糾して、今日(25日)で3日目です。
23日の午前中までは、これまで経験したことがないぐらい
酷い状況で、パソコンに向かうことも出来ず、
車の運転も出来ず、完全にお手上げ状況に陥っていました。

それでも戦うことはやめ、相手を認識しないように、
気をそらすことに努めました。

高校時代でしたか、歯が痛くて困っていたとき、
盲腸が痛くなり、母に連れられて病院に行ったんです。
市電に乗って盲腸の痛みをこらえているとき、
突然気がつきました。
それまで歯痛で右手は、左の頬を押さえていたのに、
今は左のお腹を押さえている。それに歯の痛みが消えている。

そのことを思い出しました。
それで、とにかく気をそらすことにしてみました。
ウンウンうなって努力といったことでは、気はそらせないので、
夢中になることを、いろいろ途切れなくやり始めました。

これも以前、触れたと思うのですが、2ケ月前、運動不足対策にと
直径560センチのバランスボールを1280円で買っていました。

それで、これに手をつかず、足をつかず腰掛ける。
これを、やりました。
むろん、そんなことが簡単に出来るわけはない。
腰を乗っけただけで、ひっくり返ります。
何度も何度も試みていると、ほんの一瞬ですが、
手足を離しても、まあるい風船の上に腰が乗っかる。

この間、私の花粉症の症状を感じるゆとりはなかったのです。
なにせ狭い部屋。転ぶと机の角に頭をぶっつけて大怪我、
といったことも起こるのですから。
必死、夢中でやりました。

それでも止めると、またすぐ元に戻りした。
これでは、ボールに腰掛けることへ挑戦して
一生を送らねばならないじゃないか。
そんな風には思いませんでした。

これは実に大きな収穫と、思いました。
気を花粉からそらせば、少なくともその間は、軽減する。
これを換言したら、甜茶を飲む、紫蘇の実を飲む、
といったこれまでの対策は、お金をかけて、
花粉に気を集中させていたことになる!

ほっておいてもお客が来るお店というのは、
お客が来たくなる雰囲気、品揃え、魅力があるお店です。

私の身体は、 花粉というお客が来たくなる
雰囲気、品揃え、魅力があるお店なのです。

経営では人様に言っていてわかっていることなのにこの有様。
これは大きなショック、そして教訓でした。

でも、問題に気がついたら大丈夫。
これからは花粉に好まれない体質づくりに取り組めばいいのです。
それに症状が出たら、「気をそらす」。

この原稿も、バランスボールをイス代わりにして書いています。
読書も、執筆も、映画鑑賞も、このイスです。

それで、わずか3日でほぼ完治というのは
偶然にしても早すぎるようですが、これでもう2日。
嘘のように、例の症状が出ません。

いや時々、ひょいと出かかる。その瞬間、
近くにボールがあればボール。
なければ部屋を駆け回り身体を激しく動かし、逃げ回る。
嘘みたいですがこれで、鼻ムズがすぅっと引いていく。

「花粉に好まれない体質づくり」に関しては、
経営指導をやっている私にとっては、お手の物。
それに26年間、
「消費者から好まれないお店作り、企業作り」を
してきた経営者たちから教えて頂いたノウハウがある。
これからも彼らを先生として、学ばしてもらえる。

コンビニエンスの意味

2008年03月28日 | Weblog
昨日、郵便の投函へ、一番近いローソンへいった。
 歩いて45分。国道3号線、資料通行量は多いし、
 大型専門店が立ち並ぶ。好立地だ。

 それが、閉店していた。

 私なりに、かってな理由を考えた。
 答えは、車も多いし、人も多い、
 便利な立地であったこと。


 依然、ずいぶん前のこと。
 コンビニ業界が停滞していることとその理由を
 ここにも、書いたことがある。
 本稿は、この消えたコンビニを例に取り、
 売る側と買う側の「コンビニの乖離」に
 言及してみたい。


 少なくとも校区単位で言えば、1万人超のこの地域には、
 私の足で歩いて40分以内にところには、
 商店はもちろん、コンビニはない。

 高齢者は、家族がいれば、家族に頼ればいいが、
 そうでない人は、歩いて片道1時間の大型スーパーへ
 買い物に行っている。歩けないものはデイサービスである。

 コンビニコンビニエンスとは、便宜という意味だ。
 コンビニエンスストアとは、便宜性を売るお店ということ。

 ならば、ここらはコンビニが店を出す最適地
 だと思うのだが、ゼロ、一店もない。

 理由は簡単である。便宜性などは、かけ声と看板、
 それに自画自賛の品揃えを言っているのであって、
 消費者の「それ=不便宜の解消」など
 企業には関わりのないことだからだ。
 
 自画自賛の品揃えと書いたのは、
 便宜な品揃えをしていますよ、という品揃えのこと。
 つまり、単に売り手が、売れる品揃えをしている。
 そのことを意味しているにすぎない自画自賛。
 
 これは企業の論理として行っている通常のことであって、
 なにもこと改めて「便宜性」と言うべきしろものではない。
 少なくとも地域住民にとっての便宜性ではない、
 という意味で使っている。

 若者にとっての便宜性と、中高年にとっての便宜性は
 必ずしも一致しない。こうした大きな括りにすら、
 対応していない。出来ていない。
 停滞は当然である。

 少子高齢化、若者層の減少は、当然、どの業界に於いても
 客層の転換を余儀なくされるが、
 これに「コンビニエンス」という概念がついていっていない。
 また商品を提供するメーカー業界も、その点問題がある。

 こうしたことは簡単に言えば、
 時流変化に対する、対応のギャップであり、
 いつの時代にも大なり、小なりみられること。
 で、ことさら目くじらを立てることでもない。

 それをコンビニ業界を例にとって、
 あえて論議しているのは、
 そもそも若者層をターゲットにし、支持されて発展した
 「過去、実績」に、縛られ、それを断ち切ることが出来ない、
 そうした、私たちが持つ縛りの習性についてである。

 コンビニ業界における、昨今の不採算店の閉店は、
 経営上の応急処置であり、本来の時流対応、消費者への対応、
 構造的なことに対する対応とは、関係ない。

 コンビニ各社が力入れ始めたポイントカードなど然り。
 この観点に限定するならば、まったく方向違いの手段で、
 変化に対応、とりわけ高齢化に対してはむしる逆行。
 既存客層、若者への対応に過ぎない。
 生鮮食品導入、均一価格販売なども然り。

 高齢者時代への対応の「便宜性」という観点からみたら、
 それらは、消費者から診た場合、大きなズレがある。

 消費者が望んでいるのは、
 高齢者向きのアイテムやその品揃え、サービスといった
 ことより、高齢者でも容易に買い物に行けるお店、
 あるいはデイサービス的「コンビニエンス」性ではないのか
 そのことに目を背けているのでは、と申し上げたいのである。

 かって既存中小商店が、「コンビニエンス・ストア」に、
 便宜性を凌駕され、消えていった。
 今度コンビニの運命・・・か。

 「開いててよかった」-これがコンビニ。
 近くに店が無くて困っていた。
 それがこのコンビニが出てくれて、よかった。
 これがコンビニエンス。

 たくさんお店がある便利な場所にあるこのコンビニを
 私たちの集落の人たちは、少しも
 「オー!コンビニエンス、あって良かった。開いててよかった」
 とは言わないし、思わない。

再絶賛「北の国から」

2008年03月27日 | Weblog
倉本聰さんの、「北の国から」をまた見始めている。
ほんとうはDVD全集が出たときに買いたかった。
だが、TV連ドラとスペシャル版で10万円は超える。
おいそれと手を出せるものではない。

一巻ずつ買おうか、と迷っている間に、
ツタヤでDVDでレンタルが出来るようになった。
それを口実に購買はあきらめた。
それでも、手元に置いておきたい。

ツタヤでは、「男はつらいよ」と抱き合わせに、
2巻ずつ。それに溝口作品を1巻、
5巻を抱き合わせで借りる。
深刻な作品を見ると、引きずられる。
だから翌日は、次は「喜劇」を見て
バランスをとっている。
 
昨夜は、「北の国から」の方。
別に悲劇ではないのだが、涙が出る。
昭和生まれ、昭和に青春時代を送った者独特の
ノスタルジャではなかろうか思う。
何度も見ていて、筋を追う必要もない。

主人公の黒板 五郎一家、21年にわたるドラマ。
五郎の子供、「純」と「蛍」の兄妹を演じた子役の
吉岡秀隆と中嶋朋子の可愛いこと。
演技などとはまったく思えないうまさ。
美しい北国の風景、動物、花たち。
それらを追っているだけで、涙が出てくる。
 
6-7歳の子役の中嶋朋子が、最終回、自分の子供と共演?する。
それに、自分の人生を重ね、そして、ドラマを通じて
俳優さんたちの人間としてのドラマをも垣間見れる。
といったことも合わせて、まさに、昭和が生んだ
夥しいドラマの中で、最高傑作だと、私はおもう。


そのその結果そ、どうなるの?

2008年03月26日 | Weblog
 わたしごと。
歴史が好きで読む本は、ほとんど歴史小説。
その程度の生かじりの知識でと断ってのことですが、
歴史上の争いは、国であろうと、また個々人であろうと、
選択肢のない状況のもとで起きているように思えるのです。

自由とは、選択肢があって
自分で選択できることだ、と思います。
一神教、社会主義国家、一党独裁・・・。
こうしたことに共通するのは、
選択肢がないことです。

その結果が嵩じると、どうなるか。
 チベット「騒乱」・・・・。
「騒乱」は、日経の見だしから、採りました。
これは辞書を引くと、端的には
「世の秩序が乱れること」,

ということです。

 ここで、世とは、
共産国家中国国家(におけるチベット自治区)のこと。

ここの秩序を乱した、ということで、
騒乱罪として、処刑されることになる。

つまり正義は チベット自治区を支配している中国になり、
それを騒ぎで乱した者は、犯罪者だという立場で、
知ってかしらずか、マスメディアは、
「騒乱」と使っている。

多くのマスメディアは、、
無意識にしろ、当然のように、
中国の立場、視点からこの事件を
見ていることが明らかです。

ちなみに、「そうらん」には、
もうひとつ「争乱」があります。
これも、はしょると、

「争いによる混乱」という意味です。

争いとは、AとBといった
利害が反する当事者の存在があります。
当事者関係というのは、対等関係です。

使うなら、「争乱」だと私には思えます。

 このことだけではありません。
とりわけ、最近の報道には、
当事者双方の立場を無視して、
一方的視点から報道される
といったことが、増えてきました。

 でも、そのことをここで
言いたいのではありません。

 師の城野 先生が言っていたこと。
 かって中国では毛沢東の書いた本しか
 書店に並んでいなかった。
 それでも爆発的に売れた。
 なにせほとんどの国民が買うのですから。
 買わなければ、国賊視される。
 それで紙の価格が暴騰。
 トイレの紙が市場から消えた。

 作家の塩野 七海さんの「ローマ物語」は、
 私の愛読書の一つです。

 ローマ帝国は、長寿国家でした。
 なにせこれまで1千年続いたいつの国家は
 ローマ帝国以外無いのです。
 その理由はなんだろう、栄えた理由はなんだろう。
 それが滅びた理由はなんだろう。
 そうした観点でこの本は書かれています。

 もちろん理由は、たくさんあります。
その中の一つをあげるとしたら、
衰退の背景に、それまでの多神教から、
一神教への転換があることは、周知の通りです。

否、一神教そのものに問題があるというより、
他を選択できない、させない、という「排他性」。
この排他性こそが、諸悪の根源だ、

と、私は、このことを言いたいのです。

平和のシンボル、オリンピック。
それを実現したいために
多くの事実がゆがめられる。
それが可能になるのは、どういうときであったか。
日本も昭和に入り、軍国国家になり、
第二次世界大戦が終わる間、経験していること。

それは、統制です。縛りです。

宰相とリーダーシップ

2008年03月25日 | Weblog
あくまでこのの是非、善悪には関わりなく
 宰相としてのリーダーシップの観点から、  
日本の首相でダメと酷評された人を
 思いつくままノミネートしてみる。

 まずメカケ退陣の宇野、投げの鈴木善幸、
 無力の村山某、、ゴルフの森、人柄の小淵、、
 投げだし安倍。

 それに、このリストにまず当確となるのが、
 現職の福田首相。
 それもワースト10を作るとなると、
 まず上位に付ける勢いでリーダーシップなき故の
 失態を積み重ねている。

 さすがに、NO1確実の宇野を超えることはあるまいが、
 ひょっとしたら村山、鈴木、小淵をごぼう抜きし、
 ボス森との2位争いを迫る勢いだ。

 上のリスト中、宇野は女性問題、森はゴルフで辞めている。
 こうした辞め方は福田総理には、まずはあるまい。
 辞めるとしたら、国民の支持を失い凋落し、
 鈴木、安倍と同じように投げ出す、といったことか。

 投げ出しにしても、一国の首相だから、
 花道(丁の言い大義名分)が必要だが、
 安倍にはそれが無く、
 次策の「病」を採らざるを得なかった。
 
 まさか前任と同じ理由というのは、
 いくら善人宰相でも採りづらいだろう。

 さらにリストに共通することは、国民の見えない裏舞台で
 決まった首相がほとんどだ、と言うことだ。
 宇野、森、小渕、安倍、今の人。
 村山はどうだったか記憶にないが、
 鈴木は田中の傀儡だった。

 この2つを合わせ考えると福田総理の起死回生は、
 国民の信を問うこと。
 すなわち解散。衆議院選挙ということになる。

 これは解散が目的ではなく選挙大勝が目的である。
 今の福田首相に対する国民の支持率が
 極めて低く、それも凋落傾向にある。

 これでは解散という宰相の伝家の宝刀が
 使えない、ということだ。
 こうした状況を八方ふさがりという。

 では、この事態の根本には何があるか。
 安倍政権から急遽、引き継いだとか、
 内外情勢が悪いときだった、という同情論もあろうが、

 「環境や情勢に関わりなく、采配をもって
      国と国民を最善に持って行く」、

 これが首相に求められるリーダーシップである。

 そうした視線からみるに、彼のリーダーシップと、
 その背景の志は、永田町の中でも自民党という範囲でしか
 通用しない。その程度だ、ということだ。
 他者に働きかけてこそ目的を具現できる。
 それがリーダーの 要件の一つである。

 家庭でしか通用しないリーダーシップ程度では、
 党首としてのリーダーの紙質にも疑問がもたれよう。
 
 ちなみに、その点、彼のボス森は、
 少なくとも永田町一帯には、通用したし、
 田中のリーダーシップは、霞ヶ関まで及んだ。

 この点では、福田総理は、小渕に近い。
 人の良さも似ている。
 だが国民は人柄だけでは支持しない。
 小渕の例で証明済みだ。

 「環境や情勢に関わりなく、采配をもって
         国と国民を最善に持って行く」
 
 国民はこうしたリーダーシップを
 発揮できる宰相を支持しているのである。

 民主党も含めて、そうした人物を国民が、
 今、見いだせないところに、
 この日本の抱えている問題の大きさが読める。

 かってヒトラー、ムッソリニー、レーニンが出てきたのは、
 まさにそうしたリーダー不在の土壌に、
 国民の英雄願望があったことを思えば、
 今の日本は、土壌的には、暗く怖い状況と想定できる
 
 これが英雄待望の動きにならないことを祈りたい。
 
(敬称省略させて頂きました。ご容赦下さい)

我、未だ未熟-後編

2008年03月24日 | Weblog
花粉症とは、「人間(私)は、体内に異物がいると、
 それを排除しようと免疫反応を示すが、
(最近の私は)、
 花粉を異物として反応し、その結果、鼻、目・・・」
 ということだ。

「花粉を異物」、すなわち、異なる意見は、受け入れない。
異見の主は的、他宗派を受け入れない一神教、
他民族を排斥する順民族主義が、
この私の身体にあるということか。
あるいは脳が判断ミスしているのか、
いずれにしても問題は花粉にあるのではない。
では、だれが?。それは私が、だ。

私の心か身体かが、花粉を敵と見なして敵対行為して、
応援兵(甜茶、紫蘇油)を頼んで、戦いを拡大している。

 なんということはない。

私が問題だったのに、相手(花粉)に問題あり、
とした私の判断ミス、その姿勢のまま、
それを元に花粉問題の戦略を考えた、

この未熟さこそ、問題を大きくした根本なのだ。
相手を敵と見るのと、そうではないのと
相手が危害を加えていると思うのと、
そうではないのとおもうのでは
180度、対応が異なる。

このことは、私にとっては、
「花粉症が私に気づきを与えた」などと、
聞いたようなセリフで軽く流せない
私の浅さを突いた大きな反省課題である。
同時に、大きい再発見である。

花粉症のこと、現に今朝もキツイ症状なのだが、
そもそも私の戦略が誤りとわかったことで、
私の心中は晴れ晴れとしている。

「これ」を改めれば、
戦術はいくらでもある。
だから、シクミ作りを一からやり直せば、
時間はかかろうが、まず解決できる。
その見通しがある。

サルも木から落ちる、と言うが、
戦略に関してはプロと自認していた私は、
このサルにも劣る。
このサルの落下原因は調べていないが
私のほうは根本的な未熟さが原因。

 このサルと私に共通するのは、
当たり前のこととを軽視した慢心ではないか。

だが、「サルものは、追わず」ともいう。
猿はともかく、私は落ち込みは引きずらない。
次の課題が与えられたのだから、
今から早速、脳力開発の研鑽に努めたい。

我、未だ未熟

2008年03月23日 | Weblog
まだまだ未熟」、「こんなことすら、口だけでわかっていない」、
「置き換えが出来ていない」、「少しもともわかってない」、
「対(つい)」と書いて、実は対(たい)しているじゃないか」、
「、「偉そうなことを言って」、「間違っていたんだ」、「大反省」、・・・・・

 昨夜、溝口健二の「山椒大夫」を見終えて、寝る前に、
 頭に余韻を残さないために、今、課題にしている
「花粉症に罹らないシクミづくり」に関して、
いろいろ集めた資料を読んでいた。

 「これだ、わかった。そうか。そうなんだ!」

 ふと頭をよぎったこの発見に喜んだのはつかの間、
 私はその発見のことより、自分のいい加減さに、
 自分であきれかえって、落ち込んだ。
 
 それを、思いつくまま言葉に書き出したのが、上。

 花粉症対策とは、私から見たら、花粉を憎き、手強き敵。
 そうみて、戦ってきた。これが対応、対策。
 ここの「対」は「たい)」

 これをイメージすると、こうだ。
 花粉という外敵に対し、私が戦う。その武器、
 あるいは応援兵として、甜茶や紫蘇油。
 そのチャンチャンバラバラで、傷つきやられるのは
 私の目、鼻。

 では、以前は、なぜなんともなく、
 ここ10年から、こんなことになったのか。

 考えを思いつくまま書き出したのが、以下2点。

 1-花粉が悪者、それを退治する、という論理自体が
、 完全に誤りなのだ。なぜなら10年前までは、
  杉花粉が降りかかる中を、犬と散歩していて、
  犬は花粉症に罹ったが、私は平気だった。
  その犬も若いときには平気だった。

2-花粉自体が原因で、鼻むずむずというのであれば、
上の1は起こりえない。
3-かりに花粉が悪いとしたら、花粉に良い花粉になって
 頂かない限り、私の花粉症は解決しない。

 私が、落ち込んだのは、上の1~3の文章にある、
「花粉」を「相手」あるいは「消費者」、「競合店」に
 入れ替えてみたときである。

 なんということはない、私が常日頃偉そうにいっている
 ことになるではないか。
                後編に続く

専門分野

2008年03月22日 | Weblog
4年前の9月、新潟・加茂市にある経営情報大学で
開催された実戦経営学会の理事会に、初めて理事候補
として出席していた。他の理事は全員大学の先生。
民間の理事は私一人。それがなんの偶然の重なりか、
新理事に承認されると同時に、いきなり常務理事に
選任されることになった。

上に偶然の重なりと書いたが、実は九州支部長の
村上則夫教授が体調のご都合で辞退され、
こともあろうに私を後任に推挙されたのである。

その任期が、この3月で終わる。
私の後任は、体調が戻られた村上教授。当然だ。

上のようなことで、学会之様々な会合に出入りし、
大勢の学者先生とお知り合いになれた。
その交流の場で、いつも問われて困ることは、
「ご専門は?」である。

学者にとって、自分の専門分野こそが、学者たる
所以であり、そうした質問は極く当たり前のこと。

にもかかわらず、問われる以前からどぎまぎし、
問われたら、言葉に詰まる。
経営に関する学会に初めて入ったのは昭和61年。
その後22年間、専門らしき専門分野を持ってないのは、
私の怠慢である。

もちろん、いつか自分の関心、集中できる分野に出会い、
それに関して、自分なりに掘り下げて研究してみたい
といった野望は、常に頭にあった。

それでいながら、これまで自分の専門はもとより
専門といったように絞ることができず、あれや
これや,そのとき、そのときに引かれるものに
目移りしながら、さらに連想でもって、自分の
関心を、やたらに広げていくあり方、やり方を
続けて、ここまできた。

正直に言えばこれがもっとも私の性分に合っている。
そして、それが私の生き方として一番過ごしやすい、心地よい。
そう断言しながら、一方では関心を絞れないことに対すること。
絞りきれず分散、目写ししていることによる、
いわば知の積み重ねのないことに、
一種の不安を感じているのも事実である。

だからといって、よくジョークに使われる、

「専門を持ってないことが、私の専門なのです」

とは、かりにそれが居直りに聞こえないとしても、
私は使いたくない。

私なりに、「消費者中心主義」、「売れて儲かるシクミの研究」、
「売らずとも売れる営業の研究」といったことは、
長年、私なりにアカデミックな観点から研究している。

だから、少し赤い顔をして、
「私の専門は、売れて儲かるシクミの研究です」
と言ったことがある。
その折の、学者先生達の怪訝な顔。

それを思うと、これまで通り、
「いや、私は浅学で、専門らしい研究など、むにゃむにゃ・・」
が一番似つかわしく、それに徹してきたこの3年余であった。

この4月から、理事の肩書きは残るが、
もう「ご専門は?」と問われることはまずありまい。

私は、自分の関心、気の向くまま、学問の世界をも、
気儘に楽しみたい、と思っている。

当面の関心課題は、「花粉症に罹らないシクミ」づくりだ。