経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

交代の意義

2009年09月30日 | Weblog
政権交代です。

このことが、従来思考から、未来志向への交代になれば
良し。そうでなければ同じこと。
もちろん国民は、前者を期待してこの結果がでた。

未来への期待が現実を変え、今を創った。

ここに、普遍的根本原理を、私たちは見い出します。

未来が今を創る。

これです。
これが計画の本質です。

今の政治で欠けているのは、端的に言えば
ビジョンがあって次ぎに長期戦略が立てられ、
その具現のための今がある。

ところが、今良かれ、今悪いから、云々・・・。
自分良かれ、自分たちに都合悪いから、云々・・・
の刹那対応の積み重ね、これが今の現状なのです。

ここでは政治の話は置いておいて、
同じことは多くの経営者の考えもそうではないか。
ということから、正しい経営計画の考え方について
昨日、簡単に述べました。

本日は、ポイントを5つに整理しておきます。

1に、長短の違い、意義は本質的に異なっていること。
 説明は、昨日の原稿を参照ください。

2に、次に戦略について。
 孫びんの兵法、競馬で確実に2勝1敗で勝つエピソード。
で、説明しましたが、これは、結果論ではありません。

目的具現のためにこの投資、痛みが存在し得るということです。

撒き餌をするのは、そこに未来の目的があり、
それが現実化するといった確信に基づく戦略思考があってのこと。

目標具現のために長期的、俯瞰的、総合的に見ての流れ、シナリオを描く。
それが戦略です。


個々での他者に振り回される、刷り込みに囚われない。
この他者の中に、過去の自分、また未来の自分が、
今の自分に縛られている、そうした自分も含む。
戦略の本質は、そうした囚われに己を空しくする。
これが絶対要件なのです。

現実は、己の囚われ、欲、丸見え。


3に、未来の計画は過去、今の延長線におかないということです。
ここが、とりわけ重要なポイントです。

過去に囚われた今の行動、そして未来の計画を作っている。
延長線において未来を考える、といった思考を改めるのです。
その理由は既に述べました。
一言で言うと流れに逆らわないということに尽きる。

長期計画を逆下りし、短期計画を作るということです。
具体的に言えば、長期経営計画を10年として立案したら、
次は7年の中期計画、その次には5年、次3年といった手順。
これが流れに即するという意味です。

4,私たちは未来に向かって進んでいるのではない。
この幻想を捨て去ること。
その上で、未来に設定した目標に向かって、
自分の瞬時、瞬時の判断で行動。
その積み重ねが時間軸が形成され、目標に接近する。

これは、自分が未来向かって突き進んだのではない。
未来から時間がこの今に流れてその結果、
未来が今、現実となるということです。

わかりやすい例を示しましょう。
私たちは、死に向かって努力しているのではない。
自分の力で、年取っているいる人はいない。

私たちは常に未来から流れてくるものに「対応」している。

諸行無常。

だからこそこの私が瞬時、瞬時の対応しなければならない。

その瞬時、瞬時の積み重ねがいつの間にか目標からずれている。
そういう意味で、自分が自分を俯瞰的、長期的、客観視、
すなわち己を虚しくすることが絶対欠かせないと考えています。


そうしたことはしばしばある。

だからこそ、時折、踊り場、一里塚みたいなところで立ち止まり、
「ここまでの判断は総じてどうか」を自分を含めて見てみる。
これが5。


何を言いたいのか。流れが変わるのではない。
流れが、変わったのではない。
交代の意義

これまでの流れに逆らう、あやまった対応、在り方を廃棄し
流れそのものに、私たちが即させることだ。

一夜明けて、バラエティ番組に、新潟のM・Tがでて、
数年前の繰り返し、再現している。

こんな調子では、看板が自民から民主に変わっただけ、
になりかねない。それがものすごく心配になり、
「変えあることの本質」を整理しておきたかった。

未来

2009年09月26日 | Weblog
百円硬貨の表と裏、

裏が100回も連続ででるということは、まずない。
100年も生きて365日×100年×24時間、ろくでもないと
判定し続けることが続くことはまずない。
判断次第だが、「いいこと」と判断することもあるのだが、
良くないことを見る習慣がある人は、良くないことが見えない。
それにしても、365日×100年×24時間も続けば驚異。奇蹟。希有。

もの、こと、情報はについて、それ良し、それ悪しき
と判断するのはね自分である。

また、人は見るものを見て判断しているのであって
見ていないもの、しらないものは判断しようがない。
このことも先に触れました。


そういう意味でパラドックスですが、
短期スパンではろくなことはないが、長い目で見れば
荘でもないかも、と思うだけでも長い目、長期スパンで
見、考えることには、意義があルと考えます。

孫びんの兵法(いわゆる孫子の兵法ではない別人)に、
競馬で確実に2勝1敗で勝つエピソードがあります。

この場合、孫びんは、2勝し2対1でトータル的に勝つために、
1敗が不可欠だ、と先に全体勝利を設定において1敗する。
勝つために1敗する。

上の、長期的、俯瞰的、総合的・・・とはそういう意味です。

故事の「塞翁が馬」は、人生とはそういうものだ、というむなしさを
含んだ教訓という側面があると取り方もありますが、
「あおくさ。一喜一憂しなはんな。長い目で見てみなはれや」
といった長く生きた者でないと言えない達観の諭しとも解できます。

あるいは、人生いろいろ、人それぞれ、いろいろ言う。
それに振り回されず、逃げず自分の考えでいけばいい、
という励ましの取り方もありましょう。

いずれにしても、判断とは、判断する人のそのときの解。
他の人がとやかく言えるものではない、これは確かです。
かといって世間様は道徳を遵守してくれず、いろいろとやかく言う。
そういうものです。

だから、一切無視せよとか、逆に無視せず素直に耳を傾けよ、
いったことと、ことを別にして、だからこそ、
振り回されない自分の判断を大切、慈しむ。

他者に振り回される、刷り込みに囚われるのではないことを前提に、
同様、過去の自分に、今の自分が、
今の自分に、未来の自分が、振り回され、刷り込みに囚われてならない。

その自分の瞬時、瞬時の判断で、時間軸が形成され、
それが人生一路となるのは確かだろうけれども、
時折、踊り場、一里塚みたいなところで立ち止まり、
俯瞰的に「ここまでの判断は総じてどうか」をみてみる。

反省という意味ではなく、自分判断を自分で客観視してみる。
それが、長期経営計画に対しての短期計画の意義と考えるのです。

経営等で、経営計画を立てるとき、多くは短期計画の延長線上に
長期計画を、その先に具現すべき目標を設定します。

私は、これは違うのではないか、と30数年前、
会社時代に、経営企画を初めて担当したとき、疑問を抱きました。
それは、私が経営計画に無知であったおかげです。

そのときは、馬鹿にされましたが、そのおかげで下に触れる
私流の経営計画が作れたのですから、塞翁が馬です。
このことについては、ここに詳述しています。

未来が今になり、過去に去る。
私は、このこそを、大好きなビビアンリーの
映画「哀愁」で ロバート・テイラーと交わす台詞の中で
耳にし、知り、驚愕しました。
「未来が、やってくる」

この流れに逆らう考え方に疑問を持った。
結論を言うと、目標が先にある。
そしてその目標に達するための戦略策定を、
長→中→短、の順で立て、そしてそれに基づいて、
今なにををやるかの戦術をあれこれやれ、選択。
それを実行していく。これが流れに即した在り方。

それを、短→中→長の順で積み重ねて、考え、立案している。

それで、私の思う経営計画立案手法を、考え、考案しました。
このことについては、ここに詳述しています

その意義、私の場合

2009年09月24日 | Weblog
自分の最善の選択が、長い目で見ると正しくはない。
またその逆で、そのときはミスったと悲嘆した選択が、
後々そのことがなかったらえらいことになり、今の自分はいない、
と、いったことは珍しくはありません。


そう考えると、問題は、どこでその判断を下すかであって、
その「こと」そのものにあるのではないといった見方ができます。

情報は「こと」。様々な情報を得て受け取る人が、
それに「良い」という判断を下し、「良い」というラベルを貼ったら、
それは「良い情報(こと」。

悪いとみて悪いというラベルを貼ったら、それは「悪い情報(こと」。
情報(こと)そのものに甘辛や色、重要度がであるのではない、
といったことを、以前、ここに書きました。

とすれば、「そやとすれば時間的長短とは関係ないのとちがいまっか?」
と問われそうですが、長い期間経ないと、長い目で見た判断は出来ない。

高い位置に立たなければ俯瞰的見方は出来ない。
やはり、時間軸は欠かせない。高低も欠かせない。
両面思考、多角度から見ることは欠かせない、といったことになります。


だから、「長く生きてきても、ろくなことない」といったことは、
長い期間に起こる「こと」に対して、その大半の出来事について
「ろくでもない」と判断したということになります。

命短し、つまり短期間でこうした「ろくでもない」と判断し、
その時点で、人生を閉じるとするのであれば、
それは「ろくでもない」人生、と言えるのかもしれません。

しかし長い人生、たとえば100年生きていて、生まれてから
100年連続で「ろくでもない」と判定するような事態はまずない。

そう考えて、今日までの我が人生、赤字の判断。
収支を黒字にも持って行くためにはあと30年欲しい。
できれば、50年。これで人生黒字確実。

赤字で終えられたら、神や仏は取り立て不能で、
困りなさるのでは、とお祈りのたびに申し上げ、
日々楽しく粉骨砕身、過ごす今日この頃であります。

ブログについて、さらに思うこと。

2009年09月23日 | Weblog
昨日のブログのこと。その続きです。

ブログは。

投資、費用が低減、ほとんどかからないことに甘えてか、
あるいはこれまでの常識に囚われて、
効果に大きな期待を寄せていないのでは?ということ。

つまり、本来はもっと大きな、あるいはこれまでとは違う効果
といったものが、先にあるのではないか。
そうしたものを感じる。もっと言えばそうした兆しが覗える。


あっても見なければ、ないに等しい。
見るもの、見えるものはこれまでの延長線上の存在だけ。

幽霊も宇宙人も、人間かその周辺の動物に寄せて描かれる。
見たこともないものは、イメージ出来ないし現せないからである。

話のたとえが、大げさになってしまいました。
繰り返しますが、ITとその周辺の今のところの在り方は、
そうした制約、縛りの中にある、というのが私の想いです。。

その制約、縛りを外したらそこに何が見えるだろうか。
そんなことを、想像してみたかったのです。


従来のチラシ、情報誌、ニュースレターなどのアナログを
デジタルに換えたが、その使い方は何も変わっていない。


来年ですか、TVアナログ放送がデジタルに変わる。
でもそこに映し出されるものが変わるわけではない。
女性が男性に見えるわけもない。
番組に出でるタレントががらりと入れ替わるのでもない。
政治が変わるわけでもない。
我が家の収入が増えるわけでもない。



永田町と霞ヶ関発信の革新は、その中身は保守性。
それを目新しい横文字の包装紙に包んだもの。
保守と慣性の法則を信奉しているそこから、
革新が生まれるはずがないのです


そろばんが、電卓に変わってもそうだった。
電卓がエクセルの自動計算になったからといって
我が家が収入の部が増える訳ではない。
赤字を黒文字に変換したから、収支が黒字に変わるわけではない。
チラシに激安をうたっているスーパーは電子商店にも激安をうたう。

こうしたものなのだろうか。
こうしたことに私たちは、ITに期待を寄せてきたのであろうか。

黎明期の期待は、もっと大きなものがあった。ではなかったろうか?
それが何なのかは、漠然とし過ぎてわからなかったけど、
けっこうわくわく感があった。そんな気がする。

だが、アナログの刷り込みの中で、
あまりにも身近に日常的に慣れ親しんでいるうちに、
そうしたわくわく感も、何か起こるのではといった期待感も、
そして新しい革命への気概すら希薄化してしまった。

自分自身、ITをそんなもの、アナログの延長線の当たり前ものと
無意識に思いこんでしまっている。

思い込んでいる限り新しい想いは、永田町と霞ヶ関同様、生まれない。

それを意識して、縛りを切り、慣性の法則を否定し、
新しい在り方を考えてみることが大切ではないか。


以上。根拠は希薄です。
が、私はそんな気がしてならないのです。
その「そんな気」には、自分なりの確信すら持っています。

むろん、今のITは、今にとどまることなく、
ものすごい勢いで、新しいものに進歩発展していくことは
間違いがありません。確信しています。

ですが、刀が鉄砲に、鉄砲が大砲に変わるといったことは
本来の進歩発展ではない。道具(ツール)のは置き換えに過ぎない。

私が思う本来の進歩発展とは、戦争の道具が無用になること。
すなわち「戦いが存在しない」といったレベル。

この将来(さき)の夢を、過去の延長に見て、
縛っても、縛られてもならない、と思うのです。

ブログ効用?

2009年09月22日 | Weblog
自分の最善の選択が、長い目で見るとただしくはないことも、
最近はぼろぼろでてきて、昔の自分のしたり顔の判断を苦笑しています。

そうした今の判断も、これから将来(さき)には、どうなのか。

まさに塞翁が馬。しかしそのことを気にして、判断を躊躇しては
人間は一瞬たりとも生きられないことになります。

としたら、「自分の判断はそんなもの」と
諦観するのがいいと思ったりします。

上の「塞翁が馬」では、他の人がとやかく言う形を取っていますが、
私はその他の人の中に、自分を含めて、
いな自分を中心にして、考えています。

おおよそ迷いとは、自分ともう一人、あるいはさらに何人かの
自分の中の他人との見方の違い、考え方の違い、
判断の違いではないか、と解しているからです。

その意味もで記録は、重要です。
とりわけ人生は、自分が自分を記録しておかなければ、
自分が死んだ後、自分の記録は他者による記録しか残らないからです。
他者の記録に、「この馬鹿」と記録されたら、私の一生、馬鹿。

もっとも、無名人私など、他者による記録さえ残らず、
死んだとたん、生きてきた証すら消えてしまいます。

「そんなん、かまへんやん。死んでからのことなど誰も知らんとええやん」

と言われる向きが多いのではと思います。私もそう思います。
だが同感、と相づちをうちながら、どこかに「それでもなぁ」といった
未練がましい気持ちは残るのです
「そぎゃん論理なら、墓や仏壇、いや葬式などもいらんのと違うと?」
坊さん、皆失業だ。


ここまできて、少し気がついたことがあります。
生きている人に死んだ人が残すのは、生きている人のためではないか。
それによって願わくは自分の生きてきた証を
生きている人の記憶に留め置きたい。

「それも今、生きているさかいいえる煩悩。ちがいまっか?」

そうした意見にも私は「じぁつど。そぎぁんじぁっど」とうなずいてしまう。

としたら、そうした煩悩こそ人が人であり、生きている証、
とこれまた容認することじゃないかと思います。

いやいや、すいません。
朝から抹香臭い話になりましたが、
キーボードに向かったときは、ブログやメルマガについて
書くつもりだったのです。それが連想が飛躍しまして。

で、リセット。戻します。

考え、思いは皆消えますが、これを記録に残す意味で、
ブログやメルマガは、実にいい。
私はこうした時代に生まれたことを、実に運が良い、
恵まれた、と本気で感謝すること、しばしばです。

ならば、それを最大に生かさない手はない。
ここで最大とは、費用対効果からみて最高、最大の利という意味です。

投資、費用が低減、ほとんどかからないことに甘えて、
あるいはこれまでの常識に囚われて、
効果に大きな期待を寄せていないのでは?ということ。
それを,書きたかったのです。

拡大以外の道

2009年09月21日 | Weblog

これぐらいの規模になれば、鹿児島市に
支店を出すか本社を移す会社が多い。
だが、当社は支店すら持たないのである。


彼は2代目である。
10年ほど前から、3代目に継承。


会長としてのYさんの仕事は、
初代、2代目の自分が造った家を3代目に引き継ぐ仕事だ。
今、姦しい事業継承と微妙に、その重点の置き場が違う。

具体的には、これまでの家のリニューアルや建て直し、
それとそうした古いお客さんとの温故知新。


このご時世だが、当社は不況知らず、とみる。
理由は、決算書を見なくても、Yさんは語らずともわかる。
そのことを私自身が、施工主ちして経験、体感しているからだ。

この1ヶ月半の現場の職人さんたち、一人一人の仕事ぶり。
そして、その監督の仕事、采配ぶり。
何ごとにしろ、我が妻に相談、調整、それを素人にわかるように
手書き絵図を描き、それで丁寧に妻の意見を聞き、説明している。
新しい機器については、私まで呼び出されその使い方の説明会を行う。

一日仕事を終えたら、頭領やいかにも気が難しい職人さんたちが
下働きにまかせず、率先して徹底的に後片付けと掃除。
その日の仕事ででたゴミや廃材などは、その日分きちんと持ち帰る。


この話を飲み会で友人のKさんとに話したら、
彼も子供部屋を母親のためにバリヤフリーに改造してもらったことがあり、
ここまでやるのかと、感激より、驚き、カラオケ仲間に話した、という。

同感。わかる。
現に私も、Kさんに話し、ブログに書き、講演で3回も話している。

私は、仕事上、地元では名を伏せるが、
カラオケやゴルフ場で、話する人は固有名詞で話するだろう。

当社は、値引きをしない。値切られることも希有だという。
工事の途中に起きる様々な施工側の注文。
「これ、いまから直せるかな」。
「この鍵、ついでに直してくれないかな」。

といったものは、1つ返事でやってくれる。
(コストを)削るのではなく、価値を加える。
値引きではなく、お客の方に価値を付加する。
これが、「付加価値」である、と私は思う。

「私が金持ちだったら、もう一軒御社に作ってもらいたいなぁ」
最後の日、若い監督に真顔でいったら、真顔で嬉しそうな顔になった。

拡大以外の道

2009年09月21日 | Weblog

これぐらいの規模になれば、鹿児島市に
支店を出すか本社を移す会社が多い。
だが、当社は支店すら持たないのである。


彼は2代目である。
10年ほど前から、3代目に継承。


会長としてのYさんの仕事は、
初代、2代目の自分が造った家を3代目に引き継ぐ仕事だ。
今、姦しい事業継承と微妙に、その重点の置き場が違う。

具体的には、これまでの家のリニューアルや建て直し、
それとそうした古いお客さんとの温故知新。


このご時世だが、当社は不況知らず、とみる。
理由は、決算書を見なくても、Yさんは語らずともわかる。
そのことを私自身が、施工主ちして経験、体感しているからだ。

この1ヶ月半の現場の職人さんたち、一人一人の仕事ぶり。
そして、その監督の仕事、采配ぶり。
何ごとにしろ、我が妻に相談、調整、それを素人にわかるように
手書き絵図を描き、それで丁寧に妻の意見を聞き、説明している。
新しい機器については、私まで呼び出されその使い方の説明会を行う。

一日仕事を終えたら、頭領やいかにも気が難しい職人さんたちが
下働きにまかせず、率先して徹底的に後片付けと掃除。
その日の仕事ででたゴミや廃材などは、その日分きちんと持ち帰る。


この話を飲み会で友人のKさんとに話したら、
彼も子供部屋を母親のためにバリヤフリーに改造してもらったことがあり、
ここまでやるのかと、感激より、驚き、カラオケ仲間に話した、という。

同感。わかる。
現に私も、Kさんに話し、ブログに書き、講演で3回も話している。

私は、仕事上、地元では名を伏せるが、
カラオケやゴルフ場で、話する人は固有名詞で話するだろう。

当社は、値引きをしない。値切られることも希有だという。
工事の途中に起きる様々な施工側の注文。
「これ、いまから直せるかな」。
「この鍵、ついでに直してくれないかな」。

といったものは、1つ返事でやってくれる。
(コストを)削るのではなく、価値を加える。
値引きではなく、お客の方に価値を付加する。
これが、「付加価値」である、と私は思う。

「私が金持ちだったら、もう一軒御社に作ってもらいたいなぁ」
最後の日、若い監督に真顔でいったら、真顔で嬉しそうな顔になった。

一生単位の経済性

2009年09月17日 | Weblog
ユーターン、脱サラ後2年目に作った我が家。
その後84水害、何度かの台風直撃、7年前の大地震、
その都度一時しのぎの補修をしたものの、もう限界。
床が抜け雨漏りが止まらない。
それで全面リニューアルしたのだが、それがほぼ完了した。


昨日、この手面倒な仕事を手がけくれた建設会社、
Y組のY会長が挨拶にみえた。
こんな小さな仕事に、わざわざと感服する。


この家は28年前、別の建設会社Fに作ってもらった。
そのとき、見積もりが高いという理由でふるい落としたのがこのY組だ。

いやはや、コンサルタントとしての選択眼を問われても仕方ない。
赤面の至りである。恥ずかしい。

言い訳はこうだ。
脱サラ直後で先の稼ぎの見通しもない、といった
まさに合理的、経済的理由。だがその結果はどうか。

工事中、F社とは、なにやかやとトラブルや問題が発生。
そのせいか、このF建設の社長とは、むろん営業も
支払いの精算が終わって以来、28年間一度も顔を見せない。

何か用事があって電話すると奥さんか事務員がでて、
「社長は現場ですが」、の返事でそのまま。

家を造って、1年もたたない頃、たまたま地元の銀行の
経済セミナーに招かれ、講演。立食パーティでY社長に再会。
私より10歳ぐらい年長のYさんは読書好き。
とりわけ経済の話が好きな人である。
それがきっかけで、少し愚痴を話した。
以来水害、台風、大地震の復旧工事やメンテ、みなY組だ。

Y組の営業担当は、皆監督さんを兼務している。
そして細かい仕事でもけしていやがらず相談に乗ってくれる。
その都度、自分の選球眼が金銭を物差しであったこと、
後悔し赤面している。


バブルに入り建設不況、多くの建設会社はリニューアルに進出。
だが景気が戻ると多くはリニューアル事業からほとんど手を引いた。
Y組は、それ以前からアフターと追加工事、リニューアルなど
細かい仕事をこつこつやり続けているのである。


最初にきちんとした家を建てていないと、
後からのリニューアルも難しくなり、高くつき、
結局一生を通したら高い買い物になる。
だから施工主の一生を通して家に関する
全体投資の経済性を考えることが、大事、
というのが彼の経営哲学である。
                    

重たく暗い映画

2009年09月12日 | Weblog
7~8年ぐらい前か。
文庫になったのを機に天童 荒太さんの「永遠の仔(幻冬舎)」を読んだ。

読む前に積ん読。読み終えても本棚に積ん読。
当然、上から次ぎ次読み終えた本が被さってくるから、
この5冊の文庫は、私の視界からも、記憶からも消えた。

それがこの7月末、我が家のリニューアルのため、
本箱を動かしたときに、この本が飛び出した。

他の本も飛び出したのだが、この本が目に入ったのは、
5巻組であったことと、天童さんが140回直木賞受賞、
の新聞で目にした記憶のせいかもしれない。

毎週水曜日は出張でない限り、用事があろうとなかろうと街にでる。
水曜日と決めているのは、この日がツタヤの旧作DVDの
レンタル料金が100円だからだ。
だが、レンタルを目的に街にでるわけではない。
街で、商店街を歩き店をのぞき、日常の巷に浸るためである。

我ながら驚いた。
ツタヤに入って棚を端から端までゆっくり回り、
借りたい作品を探すのだが、これが時間がかかる。

なぜかというと、私は学生時代からの映画マニア。
バイトで稼いだ金の大半は映画につぎ込んだぐらいだ。

ここにツタヤが出店して以来、週に一度は足を運んでいる。
一時は、ITレンタルも利用していたし、
今でもITでギァオの無料動画配信で観ている。

新作は原則として見ないし借りない。
だから見ていない作品を探すことが結構一仕事である。

それで最近はTVドラマまで手を伸ばしている。
そのいつも見ている陳列棚の前を通り、
ぱっと目に入ったのがこの「永遠の仔」である。

以前からそこにあったに違いないが、目に入っていなかった。
そこにあり それに目を向けたに違いないが、目に入らなかった。
このことに驚いた。
それが、目に入った。4巻×145分全巻借りた。


「日陰の二人」、「奇蹟の海」」、「つぐない」、
クラシックでは「道」、「自転車泥棒」といったように、
キリスト教の影響かもしれないが、外国作品には重たい暗い、
それでいて目を背けてはならないテーマを扱った名作が結構ある。

だが、映画を見慣れていると自負している私も、
日本映画、それもTV放映作品でこれほど暗い作品を見たことはない。
途中から薄いお湯割りの焼酎を、仙台の佐藤光一さんが贈ってくださった
とっておきの銘酒「勝山・献」に切り替えた。
重たい辛口で知られるこの酒を、ちびりちびり口に含みながら、
その暗さに耐えて観た。

耐えられたのは、重さがあったからだ。
それにキャストの俳優さんたちも好演し見事な作品だったからだ。
さらに、それに、銘酒の支えが。


人として、背けてはならないテーマ。その重さ。
子供がいない私のは、これまでもこれからも死後も体験できようがない
味合うことの出来ない幼児虐待といったテーマである。

私は、人生を欲張りに生きたいと心がけている。
いろんな人生を知りたいのだ。人間を知りたいのだ。
人のもつ様々な心を少しでも知りたいのだ。

自分の一生で経験することのない世界を少しでもかじっておきたい。
それで小説を読む。映画を観る。

その欲張りに生きたいことが、関心を増やし、
必然的に時間的にせわしくなる。
だから、どうしても駄作で時間をつぶしたくはない。

その意味で、偶然的にこの作品が目にとまったのは幸運である。
出来具合、監督などまったく考慮せず、ためらわず籠に入れたこの作品。
宝くじを引き当てた幸運を味わえた。

いつになるかわからないが、この原作の小説をもう一度、読んでみたい。
だがそれは、この映画の暗い重たい記憶が消えてからになろう。

上に立つ

2009年09月09日 | Weblog


祭りと言えば、思い出した。
数年前の博多商人塾の打ち上げに
元塾生の中島夫妻が駆けつけてくれた。
適当に飲んだ後、その日が、博多多の三大祭りの一つ
「 博多祇園山笠」の前夜祭ということで、
見せ場を案内してくださった。
 
山笠の上に、大きな恵比寿様が掲げられている。
その膝の位置に、数名の下は締め込み、
上には羽織の人が座っている。
「選ばれた人」である。


三角形を紙に書いてそれを眺めていると
そこから、様々なことが見えてきます。
広さでみたら、底辺に近いほど広い。
△の頂点の部分が狭い。

高さで見たら、頂点が一番高く底辺が低い。

数(ドッド)で見たら、上に行くほど少なく、底辺は多い。
安定感でみたら、底辺が広いほど安定する。
上を下が支えているから、この部分が短く狭くなれば
三角形は不安定になる。

論理で見たら、底辺が普遍性、主流。
上に行くほど特殊性を帯びる。

この三角形を社会構図に置き換えてみたら、どうか。
上が、士農工商でいえば、士。 下が庶民。

組織で言えば、経営者。下がバイトやパートタイマー
財力で言えば、上が大金持ち、中が中金持ち。下が・・・・・。

人はなぜか上に高く進もうとする。
向上心といえば、いいことだ。
出世欲といえば、まあ、これも良し。

競争心もその在り方が問われることがしばしば。
だがこれも良しとする。

下のような皮相的な見方も、またある。

上り詰めたところが一番狭いのに。
なんでそんな窮屈なところを目指すのか。

人皆、上に登ったら、どうなるか。
逆三角形になり、不安定を招くことになるのでは。

三角形の頂点にたって、俺はえらいのだ。
人々の上に立っている。
俺は、底辺から抜け出ることを考え、三角形の頂点を目指して、
がんばってきたのだ。と思う人も多かろう。

ここまでくると、底辺は悪い。
努力をしない人のたまり場。
上は立派。偉い人、選ばれた人の指定席、
といったニュアンスが、感じられる。

それに人皆、上に登っったら、どうなるか。
逆三角形になり、不安定を招くことになる。

それ、入らぬ心配。そこでまた格差が生まれ、
全体を上に押し上げつつ、ピラミットは維持されるのだから。


朝から、そんなことをあれこれ考え、考えが固まらないまま
キーで、こうして記している。

まてよ。上に立つことをいったん良いこと、悪いこととせず
上に立つ人の、心の問題として、考えてきたらどうだろう。


ここで、
「あっ。俺がこの頂点にいる状態はたくさんの人々から
支えられていることを表しているのだ」と思う人がいたら。

「あっ。この高さは、たくさんの支持者の1票に支えられた結果だ」
と、選挙の期間以外に実感している政治家がいたら。

エクセルで作った売上グラフをみて
「あっ。この売上げは、たくさんのお客様が購買されたその結果だ」
と、思わずパソコンに向かって、頭を下げる人がいたら。

「あっ。うちの企業が存在できるのは、多くの人々が支えがあればこそ」
と、経営者が毎朝、神仏に頭を下げると同じに、感謝を表したら。


お祭り。山笠、御神輿。
御輿の上に乗っかる人は、選ばれた人である。
ここに乗ることを夢見て、子供の頃から、選ばれる人を目指すという。
それは、御輿なり山笠なりを担ぐ人たち、誰しもが担ぐに値する、
と納得する人でなければならない、と親や周囲から教えられからだ。

子供たちは、人々から支えられる条件を自分たちなりに考え、課し、
自分を磨き、磨かれ、人を磨き、育つ。

人を育てるために先人が作り出したしくみが、祭りだとしたら、
先人の知恵はすごいと驚嘆せざるを得ない。

ならば、三角形の頂点は、すばらしいことではないか。

「そんな暇があったら勉強しなさい。大人になっも上に立てませんよ」

で育った子が、大人になって三角形の上に立てるだろうか。