経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

壁を叩く

2007年08月31日 | Weblog
暗闇の中にいたとしょう。どうするか。
ずっと、考えていた。

 とにかくなんでもいい。トン、トン、トン、と叩いてみる。
 当たるものが何であろうと、叩いてみる。
 その返ってくる、小さなトン、トン、トンの音で、
 自分の今いる位置、進む方向、自分の存在を、確認する
 それが生きている、ということだ。
私にはそれ以外にない。

 結局、自分とはそうした周囲からの反応で、
 イメージ、形成されたもの。
 なにかしら残念な、口惜しい思いもするが、
 トン、トン、トン、と叩いてみる
 その反応でしか 自分の存在を確認できない。
 そう認めざるをえない。
 
 私のこれまでの壁は、そしてこれからの壁も。
私が暗闇の中で、途方に暮れたとき、
「私」が自分の存在を確認する使う杖の一つだろう。 
「自分以外は、みな自分の杖よ」、
私は、誰にも聞こえない小さな声で、そうささやく。

 もし暗闇の中で、壁もない、床もない。
 天井もなかったとしたら、いったい私は、
 どうして自分の存在を知ればいいのだろう、
 冷や汗が出る思いです。
 
 合わせず、曲げず、真似ず、
 そうした自分のままの「存在」と、
 その「存在」の居場所があれば、これはシメシメだ。

 だが、自分の「存在」の居場所が見あたらないようだと、
 それは自分自身の「存在」を 背景に合わしたか、
 背景に合わせてねじ曲げたか。あるいあは背景に真似たか。
 先ほどまであった存在が、消えてしまうってそう言うことだ。

 存在のない自分を、想像しただけでも怖くなる。
 やがていつかは来る「死」と、そうした世界ではないかと。
 考えるだけでもぞっとする。恐怖です。

 でも、もっと怖いことは、
 生きていて、間違いなく存在しているのに、
 存在を認識できないことではないのか。
 自分の存在の在り場所が見つからない。
 たとえば、白い背景に、白の自分。
 大きな白なかに、小さな白がある、とさけんでも
 だれが認めてくれよう。こんな人生、
 ここまで生きてきて、なんとしょう。
これから生き続けて、なんとしょう。
 
かなり傲慢で、良くない、不適切な表現だが、
ある学究の徒、あるいは英知の集団、個性の集まりが、
今の私には、白い壁の白一色に見える。

 トン、トン、トン、と叩いてみる。
 いくら叩いても、声も音も返ってこない。
 いっぱい人がいるのに、大きな声でな件でいるのに。
 不思議な壁、不気味な壁。

白の中に、異物の黒が入ろうとすると、
 白はこぞって、黒を排斥しようとする。
 白は一人では、異物の黒を排斥はできない弱虫だから、
群れて白壁として、異物を排他するのでは。
それは、壁とならなければ、排他できない白の弱さかも。

それは、一信教の排他性と同じです。
一人一人はいい人で、個性的。
その彼らが、固まって壁になると、怖い。
たとえば映画「ジャヌ・ダーク」でみる 
宗教国家における魔女狩りの怖さ。そう、あれだ。
 
大なり小なり、組織、集団には
そうした魔女狩りの要素はある訳で,
社会もまた、その一つなのです.
何より、個は常に個。その個は組織されないと、
全体、初回の構成因子になり得ない。

だから、これからも常に、当たるものが何であろうと、
叩いてみて、その返ってくる小さなトン、トン、トンの音で、
自分の存在とその位置を確認し続けて生きていく。
壁はそんな風に利用するば、有り難いな、と感謝もできる。

だが,言っておくが、自分が壁にはなることはごめんだ。
壁は、道具だ。杖だ。自分の命を道具として、
 生きたくはないのだから。

トン、トン、と叩き続ける
 トン、トン、と叩き続ける。
 「俺、個々にいたよ」と、
 トン、トン、と叩き続ける。

なんにも知らないことを、知る

2007年08月29日 | Weblog
なんだか、残暑と呼ぶには早すぎるような猛暑が連日、続いております。不思議なことにここ2日、大雨雷注意警告が出されながら、一滴も雨が降らないで、解除になる、といった珍現象が続いております。

 この猛暑で、もうしょうがないぐらい売上が上がっている業種もあり、逆にどうしょうもないぐらい、売れないといった業種や物があるのかもしれません。
 経営指導を専門にしていますから、厳しいいいかたかもしれませんが、暑さ、寒さ、天候もある程度なら、それらは情報の一つとして、受容する人なら、売上を上げる方へ、活かすことが可能です。

 しかし、今日も他の自治会長さんと、あちこち回ってみたのですが、もう大変な水不足です。人間なら、水道が出なくなったらコンビニなどで、お金を出して飲み水を買うことが出来ますが、オアシも足もない田んぼの稲は、どうしょうもないのです。

彼らは水が無くて、「大変だよ」、「飲みたいよ」と叫んでいるわけではないのですが、放っておくと死んでしまう。いわゆる不作では人間が困ることになりますから、お百姓さん達は、朝早くから、田んぼの様子を見に行っては、水の手当をしてと、今、大変だそうです。

 私も(偉そうに胸を張り)県の農林水産のお手伝いを長くやっていますから、そんなことは知っていました。でも、それは知っていただけのこと。実感の欠けた知識。

 こうしてお百姓さんと田んぼを回っていると、何にも知っていなかったことがよくわかります。プロのお百姓さんたちからみたら、これも嘘だ、といわれることでしょう。その通りです。

 水が無くて、稲の命が絶たれる。そのこと、すなわち、お百姓さんの命が絶たれること。この実感が、プロのお百姓さんにはある。それが、車の窓から田んぼをのぞき込んで、「わかった」といっている私には、ほんの一筋もない。私のわかった、というのはそのレベルなのです。

 農業は、専門外だから、といって逃げれたとしましょう。では仕事の経営、専門の経営では、私は経営者の心の痛みを共感できているのでしょうか。そのことが頭をよぎって、窓から見ていた田んぼが一瞬見えなくなったぐらい、ショックを受けました。
 稲の命を自分の命として共感しているお百姓さん。それに対して、仕事先の企業の経営者と、そうした共感ができているのだろうか。疑問形にすることもない。ノウです。

昨日見た、映画「ここに幸あり」(けんもち聡監督。ちなみに大津美子さんの歌とは一応無関係)は、その意味では、素晴らしい作品です。
 プロだが、まったく売れない俳優が、雇われて俳優志望の青年 邦に、俳優になるための基本的なこと。たとえば発声練習。身体や顔の緊張を取ること、歩くことといったことを指導するのです。福岡県糸島にある200人ぐらいの人口の姫島での話。この俳優さんが幸、という人なんで、「ここに幸あり」。
 この幸さんは、飲み込みの悪い、島の青年 邦と、島の日常風景と、島の人たちの関わりのあり方に、自分が俳優として根本的に欠けていたいたものをみつけ、突然契約を打ち切って帰る。何で?と問う邦に対して、幸は答える。「俺には、おまえに教えるものはなにもない」。

 「俳優が教えたのは、技術。その彼にかけていたのは、日常との関わり。それを邦と姫島が教えてくれた、ということです。」。この「  」の中の解は、私の理解。映画では一言もそんなことは言っていない。この映画を見る直前に、先ほどの稲とお百姓ののことを、体験していたから、この解が出てきたのだろうと思います。

まだ、まだ、いやまだまだといえるレベルにすら達していないな、と思いながら、不思議に心はうきうきで良い気分でした。

 日常性を切り取ったら、底にはある物も実はない。背景のない人物は、存在しないのとおなじこと。どうして、このことに気づかなかったのだろう。エンドマークを目で追いながら、私はこの映画に、両手を合わせたい思いでした。

成功本のせいか

2007年08月28日 | Weblog
 有名人や成功者の引きで、自分自身が有名人や成功者になったという例はよく聞く。昔かぶりつくように読んだ伝記にも、そうしたことが書かれていた。私とて、信じていないわけではない。事実、そうだろうと思う。

 だが、やたらに、そうした言い回しが巷にあふれ、いかにも軽い言い方で、皆が皆、「出会い」、「出会いのお陰」と言うのをきくと、なにかギンギラギン、金脈を求めて人脈を選りすぐっている感じで、いやになる。

 で、ひねくれて、例により極端な例で考えてみる。
 たとえば背の高い人と出会い、近づきになれば背が高くなるのか。ならないな。
 私はチビデブで、回りはたいてい私より背が高いが、20過ぎから1センチも伸びていない。

 金持ちに近づいたからといって金がわいてくるわけない。これも同様だ。ただしこちらの例は、金持ちのおこぼれが入ることもあるだろうから、貧乏の人と付き合っているよりは、あるいは金に恵まれるかもしれない。

 こうしたことをたくさん検証し、その結果、1に、金持ちと付き合った人が金持ちになり、有名人と付き合った人が有名になる、といったことが証明され、かつ2として、金持ちとつきあって貧乏になり、有名人とつきあって無名で終わる、といった事例が皆無、という、2つの条件が成立することが実証されて、それは普遍性あるものになる。それなら、「成功の原則14の原則」といった本になって然るべきだ。

 本屋に「◎△金持ちになる原則」といった風な本などを見ていると、それで金持ちになれるのなら本など売って稼ぐ必要もないし人に知らせる必要なかろうに。おれなら自分でこっそり・・・・」と皮肉を言いたくなる。
 
 「あなただけに教えるとっておきの・・・・」というのもある。
 全国にある本屋、それに電子店で、だれでも購入できる本だから、「あなただけを」を「自分だけ」と思って、皆読む。もうこれだけで落語の小話みたいに笑える話になる。
 少なくとも全部、そうなるはずはない。それはわかっている。それでかまわない。ただそのあなただけの中に、自分が入ればいい。みなそう考えて、手を出すのだろうか。

 からくりの内実はいたって簡単、単純。すなわち、そうなった人たちだけが、表に現れ、そうならなかった大多数が表にでないからである。
 成功本の多くは、多分に恣意的に成功例だけを挙げて、圧倒的大多数であるそうでない人は、すぱっと切り捨てているに違いないのである。
 つまり、成功者が、円グラフ全部を占めたわけではなく、成功者だけで円グラフが作られているのが、この類(たぐい)と解した方が正解だと、私は思う。

 どこかの国で投票率100%、1人の人の得票率が100%だったとする。その国を民主国家とは誰も思わないだろう。
 
 だが、こうした成功本の多くは、平然とその強権、独裁国家と同じアンフェアなことをやっている。 だから、というわけではないかも知れないが、一部野例外を除いて、そうした成功本に載っている人物は、自分の成功談の中に、実に頻繁に「おかげさまで」という表現をまぶしている。それは天の邪鬼の私が邪推するに、(実は成功の本でもなく、他人のお影でもなく)、自分の力で有名になり、金持ちになった、と内心思っていると思うのだ。

 そうそう。「運が良かったんです」というのも多い。あれは、「それに比べて皆さん、運が悪い方ばっかし」と、私には聞こえる。
 運を、運びと解することもできる。それは、「私は人生の運び方が良かったんですよ。それに比べて、あなた方はなんとへたくそ」と、これもそんな風に聞こえる。

 どっちにしろ、ずばり「私の実力ですよ」とは、世間の反動、冷ややかな羨望を考えると、なかなか言えるものではない。
 だから、石が飛んでこないおまじないとして、「おかげさまで」を常套句にしている、と、大昔、たくさんの成功本を読んできた私が、暑さに打たれての戯言である。

  うとうとした耳に、誰からかの声が聞こえた。
 「そんな本に投資したお金を、貯金していたらきっと今頃、成功おじさんだったのにね」。


復活

2007年08月27日 | Weblog
 朝から、事務所のレイアウト変更である。思い立ったらレイアウトの変更は、即やる。これがスーパー時代からの習慣だ。

 雨が降ったときと、晴れたとき、雨のとき、春、夏、秋、冬、状況が変化しているのに、売るが固定と言うことは、考えられないことだ。変化対応とは、変化があればその数だけ対応がある、ということになる。

それが染みついているから、事務所もプロジェクトとに合わせて変える。季節に合わせて変えるのは、採光や温度調整。ときには自分の気分に合わせても変える。だからしばしば変える。そのため床のピータイルが剥がれ落ちたりのマイナスもあるが、仕事にはのめり込める環境が、飽きっぽい私には重要なことである。
 
 それに、重たい机やロッカーを移動させたり、配線を変えたりするため、相当の運動になる。せっかくならと窓を閉め切り室温をサウナ並みに上げてやるようにしているから、2時間もやると、汗は出尽くしたという感じがして、実に爽快である。

 それでも結構疲れるので、その合間、合間、休憩をかねて、扇風機を身体に浴びながらパソコンに向かい、仕事をする。それがどういうわけだろう。ものすごくはかどるのである。夢中になって、レイアウトを途中のまま放り出してしまいそうになったり、どういう具合に次に何を動かすかを忘れてしまったり、といったことが、しばしばである。

今回も、実に良い具合に手直しできた。理想型と思う。いつのそう思うのだが、またじきに動かすことになる。飽きもあるが、やはり仕事を実際にしている内に、頭で作り上げたものが、うまくいかないことが結構あるからだ。
 21時にひとまず終わり、映画「復活の日」を見る。 

時間と次官

2007年08月23日 | Weblog
 昨日の一日を、思い出して、点検してみよう。
 消費者との接点と、それ以外のことと、数にしたらどちらが多かっただろうか。
 時間にしたら、どちらが多かっただろうか。

 前者が多かった人は幸いである。たまたまハナキンでそうであったというなら別だが。
 後者が多かった人は、さらに自分にこんな質問をして欲しい。

「最近、現場以外で働くことが多くなっていないか」。
 「現場より後方が幅を利かしていないか」。
「現場で稼ぐ人より、彼らを管理する人が威張っていないか」。
「消費者の方より、経営者の方や上司を向いて仕事する部下を可愛がっていないか」。

 とりわけ、こうした質問の意図がわからない、といった経営者がいたら、それはダメになる企業症候群の重症である。

 企業犯罪も、あの防衛省の次官騒ぎも、もともとは一般国民との接点の希薄な連中の成せること。消費者からみてどうか、というメルクマールがないと、とんでもない論が飛び交い、結論になるのだ。

 「このアルミ箔の包装資材なら、賞味期間は倍は伸びる」。
「そうそう。社内規定は社で決めたこと。」
・・・・・・・チョコ食べて、腹をいためるは、よその人
本来は、チョコ食べて、うまいとほほえむ、子らの顔

 「次の次官を選ぶのは、次官ではなく私。時間がない。いそご」
「決めるのはかってだが、手続きがなっていない」
・・・・・・・上が決め、民が戦う、戦なり
本来は、民を防衛しょう、というのが防衛相と防衛省の仕事。

 民や消費者との接点の薄い人たちが、不幸を自ら作り、招くのです。

十日町市でのMMAP

2007年08月22日 | Weblog
6月に新潟・十日町市の桑原公認会計士事務所の主催で行った「MMAPで売上増進」のセミナーの模様を、掲載した「ニューズレター」を、桑原先生から送っていただいた。初回5時間コースの所を、時間の関係で4時間に縮めて実施。プロだから、綻びは出さないよう密度を上げてやったつもりだが、やはり大人気の班別討議野時間が不足したようである。心からお詫びしたい。

 MMAPの最大のポイントは、個人作業の後のグループ討議である。「討議や会議、人と話したり、人の話を聞いたりすることが、こんなに楽しいものとは、考えても見たことない」と、これは自画自賛ではなく、毎回、何処で開催しても言われる。当然だ。MMAPを創案するとき、ここに一番研究と実験の重点を置き、心理学でいう緊張の後の弛緩を、個人作業は緊張する。その緊張を共同作業することで弛緩するという裏打ちも確認した上で構成。実際の職場にも、このあり方を持ち込んだらいかが?ずいぶんと楽しく働き、生産性も上がるよ、といった私の提案を織り込んでいる。

 だから時間制限をしないと、楽しいからいくら時間があっても足りないことになる。この楽しさをそれぞれ企業に持ち帰っていただき、楽しみながら仕事をやることがいかに大きな成果になるか、そうした職場風土を作っていただきたいものである。

私の中の私二人

2007年08月21日 | Weblog
 [経営の勉強したいのですが、どういう本を読んだらいいのでしょうか。いくつか紹介して欲しい]、というご相談を受けた。

「それなら、これ。私の本。”羊たちの探しもの”これに尽きます。」

 私も、共著などかき集めると23冊の本を書き、出しているから、それなら「羊たちの探しもの」が一番ですよ。それも1冊買うより10冊以上纏めてお買いになれば、より効果があります。100冊お買いになれば、たちどころに経営は良くなる、と言いたかった。
 だがそこはぐっと押さえて、「経営者のあなたが、(いまさら)どうして?}、とお尋ねすると、「最近、事業が思わしくなくなったので」というご返事。
 
 「ならば、私の本 ”羊たちの探しもの”。これを出来るだけたくさんお買いになること。たちどころに事業は思わしくなります」、と言いたかった。
 1冊1000円、これを10冊買っても1万円。1万円で、かりに年商1億円の企業が5%売上が上がるとして500万UP。この粗利益率が25%として125万円の利益の増加だから、125万ー1万=124万
つまり経営者は、1つの決断によって124万円の儲けを見込めるのである。
「悪い話じゃないでしょう。かりに売上が上がらなかったとしても、実損は1万円ぽっきり。ネズミ講や霊感商法みたいな恐れはないし、株みたいな大損もないし」

 だが、現実の私は、
「ねぇ、Mさん。あなたは、風邪を引くたび内科医になろうとおもったこと内科医?」と、皮肉をいっぱい口ぶりで、尋ねたのです。

 Mさんは、怪訝そうに「ない」と答えた。その顔は、「えらい(偉いではない)人に相談してしまったな。やはり無料相談より、高くてもF総研かT経営にするべきだった」、といった表情がありありだった。

 [当然ですよね。でも今、Mさんは、これと同じ質問をしたのですよ」
 [n?,n?]

「わかりにくいですか?、事業が思わしくなかったら、思わしくいくようにしたらいいのですよね。Mさんはそれを望んでおられるのでしょう。それをどうして遠回りというか、経営の勉強、そのための本は、と言われるのでしょうか。もう一度、ゆっくり申しあげますよね。事業が思わしくなくなった、ということは事業を経営しているMさんが、思わしくない経営をされた結果そうなった。ここまではいいですよね。
ならば、思わしくない経営をやめて、思わしくなる経営をする。その場合、御社に於いて思わしくないことは、何だったのか、その理由をはっきりつかむこと。その理由でもって幾ばくかのお客様が、御社に背を向けられた。その数が客数減。それに平均単価を掛けた分だけ、売上が落ちた、ということですから。
 経営のお勉強も悪くない。万巻の経営の本を読むのもいい。夥しい経営手法を試すのも悪いとは言いません。でもそれより大切なことは、お客様が背を向けたその理由を、売場でも行ってつかむことではないですか。資金繰りが苦しいといって、資金繰りを楽にする本など読んでいたって楽にらないから、Mさんは銀行回りされるでしょう。それと同じことをされたらよろしいのです。
 売上も利益も、もともとはお客様が関係されている。そのお客様に教えてもらう。それが経営者の最高の勉強だと、私は思いますよ」。

 言いながら、これでまた、機会損失。本の在庫の山が頭をよぎった。
 以下、むにゃ、むにゃ、むにゃ。
「今、お話ししたことなどを含めて、経営者にとって、一番大切なことを書いているのがこの私の本、”羊たちの探しもの”です。これをお買いになると、たちどころ・・・・・・」。

甘チョコ、苦チョコ

2007年08月19日 | Weblog
 記者会見が始まるまで、団扇で涼んでいた顔が映し出されていた。
それは、何度繰り返し見ても、これから謝罪会見の直前の緊張などが覗えるものではない、どちらかというとのんびりした顔。そこからは、ことに重大さの認識の欠如と、「被害者が出ていないのに、何で?」、といったお坊ちゃま経営者の顔が覗える。

 昨日は、取締役と担当が行った、と発表していたが、これもわずか1日で石水社長自身も改ざんの事実を把握していた、と訂正。また16日から19日までの4日間を予定していた全製品の生産停止は、事実上無期限停止に延期。見通しの甘さというか、事態の把握、認識力に疑問を感じる。

 ただ、これまでと違うのは、大腸菌群を検出したアイスクリームなど問題の商品だけでなく、すべての商品を店頭から回収すると発表するなど、これまでと比べて敏速な対応が見られたこと。当たり前のことだが、これまであたりまえでなかったので、その分幸い。

 それにしても、何度も書いているが、これまでの事件発生のとき、どうして自社の点検なりをしないのだろう。明日は我が身ということは自覚できたろうに。なにせ賞味期限を1、2カ月延ばす改ざんを1996年以降繰り返していたことことを社長自身が把握していたか、あるいは指示していたのだから。

 隠して得るものより、隠して失う方が遙かに大きいということぐらい、誰でもわかる計算である。苦いチョコが売れるはずがない。

チョコレートの食べ過ぎか、実に 甘い判断。甘すぎる、甘チョコ経営者だ、といわざるを得ない。


黒い恋人

2007年08月18日 | Weblog
チョコレートの多くは黒系、茶色である。そこへ北海道のイメージの強いミルクを主材料することで生まれたのが、「白い恋人」である。黒の中に白だからたちまち注目された。
 今また、この「白い恋人」が注目された。それは「恋人を裏切った」事件により、である。
 
 黒板に白いチョークを使うのは、くっきりと目立つからである。今、多くはホワイトボードに黒のマーカーで点を打つ。
 みな見ているのは、小さな点の方。黒板では白。ホワイトボードでは黒点であり、白い空間でない。
 一点を見つめる、といった言い方がありますが、まさにこれ。その他は見ていないということ。

 脳力開発でいうなら、この一点は特殊性。他が普遍性ということある。大部分が普遍性で占められているにもかかわらず、私たちは特殊性に囚われがちである。
 この1点を、自分と見なしたら、自分以外の人たちが普遍性です。ここに多数決の論理や、ABC分析、主観と客観などを持ち出したとしたら、どちらに軍配があがるか。自明の理だ。事の是非ではなく、このことは常に頭においておく必要がある。

 私は、企業再生や革新の仕事をするとき、企業と企業外、といったことで前者と後者の温度差、量の差、質の差・・・、といった風に見ることにしている。要は社会と孤立している企業かどうかを押さえておきたいからだ。

 情報でいえば、企業外の情報が圧倒的に多い。
 内と外のつながりで情報は相互交流している。この場合、内である企業と外(これを世間と呼びましょうか)では、大きさが違う。もつ情報量も違う。

 ですから、社内の結束や統制、打合せを密にするといったことを徹底してやると、逆に外部との情報の流れを遮断してしまうケースがしばしば起きる。これは社内が、外部に対して孤立化したため外部との交流が分断される、といった原因で発生する現象である。
 井の中の蛙現象が組織レベルで発生する、と考えたらわかりやすい。

 社内で発生する問題は大なり小なりすべて外部とのつながりがある。ですからその対応・対策を社内での打合せに留め置くと、逆に外部との情報乖離が開き、同じ問題が繰り返されるだけでなく、さらに問題が大きくなる、といったことになる。

 メディアの俎上に載る企業事件やトラブルを外から見るだけで、私たちは、「何で馬鹿なことを白い恋人よ。」と、(ほとんど後付なのですが)いったりするのだが、組織内の人は、ある意味では真剣に大まじめでそうした間違いをやっている。その理由が、これ。

 多い方、企業で言えば客の立場で観てみる。これを客観といいますが、お客の方から、みて、「このことお客の自分にとって喜べることだろうか」といった見方が組織内に浸透していないとこうしたことは防げない、と私は思っている。

 正しい対応は、外部との打合せを密にする、外部との情報交換を刻々やる、外部へ情報公開をする。この3点である。むしろ外部に社内の温度を合わせる、外部の風を入れて風通しを良くする。この外部の構成でもっとも多いのは消費者ですから、このことはとりもなおさず、客として観る、といったこと。これを組織の意識、風土、シクミにすること。
 
 こうしたことが対策だろう。優先順位として、社内の風通しより社外との風通しが先、重要だ、ということを念を押しておきたい。

 密閉度の高い、閉鎖的な企業、金太郎飴的な企業は、反面、外部から孤立する危惧が高くなることを念頭に置いて、その問題を真剣に解くことをやらないと、何かの拍子に内部崩壊する。こうした事例は枚挙に暇がない。そう、ほとんどの経営者は、「枚挙に暇がない」の意味を考えていない。

 つまり、 その枚挙に暇がありませんの中に、自分の所も含まれている。これはえらいこと、といった意識が欠如しているのである。だから枚挙に暇がない状態が続くのある。

 白い、といったこの色の持つ清楚なイメージを、黒い汚点で汚した当社は、消費者という恋人を裏切ったことになり、その影響と責任は大きい。


エラーのメッセージがえらーいこと、教えてくれた

2007年08月16日 | Weblog
昨夜、0時までかけて、白圭通信19-14号の配信を行った。
眠たい目をこすりながら、手作業。3時間かけて送信。ほっとした。さて、今日は4時に起きて、少し働きすぎた。寝ようとパソコンを閉じかけた。そのとき。メール画面から、

「配信の一部が、エラーで送信されていません」

の警告。

 白圭通信送信に対するエラーメッセージである。これは困った。1万以上のIDのどれが届いて、どれが届いていないか、調べようもないではないか。

 かといって、全部送信のやり直しは二重配信になる。
今朝、迷いつつももう一度打ち込みやり直し、再送信した。一部の方には二重送信でご迷惑になるが、どうかお許しください。お詫びいたします。

 さて、その原因だが。いろいろ考えられる可能性を想定し、それを絞り込んでいく。企業再生時の仕事で、不振になった原因究明に常に使う手法だ。


 生まれたときはどうだったか自分で知るよしもないが、私がイメージするに、たぶん 生まれたときは皆、器(うつわ)。ほとんど何も入っていない器、ひょっとしたら立派な器、高貴な鬱、貧しい器、提供の器と、器には様々な違いがあるのかも知れないが、中身が虚ろであることは共通しているはずだ。

 そして、なにか失敗する都度、そのエラー修正。それで「うまくいく」という成功体験を得る。この積み重ね(螺旋階段をイメージしたら良いと思うのだが)で、少しずつ、利口になってくるのだと、私は思う。
 このことは、パソコンとのおつきあいで、パソコンの様々なエラーを通じて学んだことである。

「このパソコン、えらい間違いばかし起こしよって」と、最初の頃はパソコンを責め立てた。パソコンは言い訳もしないが、トラブルをなおしてくれることもしない。仕方がないので自分で取り組むか、専門家になおしてもらう。
 それで徐々にわかったこと。認めざるを得なくなったことは、「エラーの原因、理由、勘違いも含めて、その99%以上は、この自分にあり」ということだ。

 この気づきは私にとっては、内心自分の心を疲れたようなショックであったし、そのことで、人生にとって、大切なことを得ることが出来たのである。

 人のせいに出来ることはある一面幸いなことであるが、ある側面では不幸なことである。
エラーは、間違いの知らせである。こうしたらいけませんよ、という警告である。そうして、間違いを正しなさい。正したらうまくいく、という案内でもある。さらにエラーを正すことで、チョットずつ利口になれる、という普遍性あるアドバイスである。
 
 これは営業でも然りだ、という教えでもあった。
 おおよそ、物が売れないのは(エラー)、そのものが、買う人にとってたいして役立つ物ではない、と受け取られているか、または、そのものの存在をしらないか、大きくは2つとしよう。これでエラーの警告が出たとしたら、どう対処したらいいか。前者なら、買う人にとって役立つのも、喜んでもらうものにと、認知してもらう工夫、といったこと。後者なら、「世界のどこかで、この私を求めている、誰かがいる」という確信の元に、そのものの存在なりを、広く知らしめる、ということ。
 
 こうしたことをパソコンのエラーは、私に教えてくれたのである。もっともパソコンにたいして、怒鳴りつけることをせず、こんな風に謙虚になれるようになったのは、長い間エラー、トラブルをパソコンのせいにして、気が咎めていた私のパソコンに対する反省が、大きいのかも。