暗闇の中にいたとしょう。どうするか。
ずっと、考えていた。
とにかくなんでもいい。トン、トン、トン、と叩いてみる。
当たるものが何であろうと、叩いてみる。
その返ってくる、小さなトン、トン、トンの音で、
自分の今いる位置、進む方向、自分の存在を、確認する
それが生きている、ということだ。
私にはそれ以外にない。
結局、自分とはそうした周囲からの反応で、
イメージ、形成されたもの。
なにかしら残念な、口惜しい思いもするが、
トン、トン、トン、と叩いてみる
その反応でしか 自分の存在を確認できない。
そう認めざるをえない。
私のこれまでの壁は、そしてこれからの壁も。
私が暗闇の中で、途方に暮れたとき、
「私」が自分の存在を確認する使う杖の一つだろう。
「自分以外は、みな自分の杖よ」、
私は、誰にも聞こえない小さな声で、そうささやく。
もし暗闇の中で、壁もない、床もない。
天井もなかったとしたら、いったい私は、
どうして自分の存在を知ればいいのだろう、
冷や汗が出る思いです。
合わせず、曲げず、真似ず、
そうした自分のままの「存在」と、
その「存在」の居場所があれば、これはシメシメだ。
だが、自分の「存在」の居場所が見あたらないようだと、
それは自分自身の「存在」を 背景に合わしたか、
背景に合わせてねじ曲げたか。あるいあは背景に真似たか。
先ほどまであった存在が、消えてしまうってそう言うことだ。
存在のない自分を、想像しただけでも怖くなる。
やがていつかは来る「死」と、そうした世界ではないかと。
考えるだけでもぞっとする。恐怖です。
でも、もっと怖いことは、
生きていて、間違いなく存在しているのに、
存在を認識できないことではないのか。
自分の存在の在り場所が見つからない。
たとえば、白い背景に、白の自分。
大きな白なかに、小さな白がある、とさけんでも
だれが認めてくれよう。こんな人生、
ここまで生きてきて、なんとしょう。
これから生き続けて、なんとしょう。
かなり傲慢で、良くない、不適切な表現だが、
ある学究の徒、あるいは英知の集団、個性の集まりが、
今の私には、白い壁の白一色に見える。
トン、トン、トン、と叩いてみる。
いくら叩いても、声も音も返ってこない。
いっぱい人がいるのに、大きな声でな件でいるのに。
不思議な壁、不気味な壁。
白の中に、異物の黒が入ろうとすると、
白はこぞって、黒を排斥しようとする。
白は一人では、異物の黒を排斥はできない弱虫だから、
群れて白壁として、異物を排他するのでは。
それは、壁とならなければ、排他できない白の弱さかも。
それは、一信教の排他性と同じです。
一人一人はいい人で、個性的。
その彼らが、固まって壁になると、怖い。
たとえば映画「ジャヌ・ダーク」でみる
宗教国家における魔女狩りの怖さ。そう、あれだ。
大なり小なり、組織、集団には
そうした魔女狩りの要素はある訳で,
社会もまた、その一つなのです.
何より、個は常に個。その個は組織されないと、
全体、初回の構成因子になり得ない。
だから、これからも常に、当たるものが何であろうと、
叩いてみて、その返ってくる小さなトン、トン、トンの音で、
自分の存在とその位置を確認し続けて生きていく。
壁はそんな風に利用するば、有り難いな、と感謝もできる。
だが,言っておくが、自分が壁にはなることはごめんだ。
壁は、道具だ。杖だ。自分の命を道具として、
生きたくはないのだから。
トン、トン、と叩き続ける
トン、トン、と叩き続ける。
「俺、個々にいたよ」と、
トン、トン、と叩き続ける。
ずっと、考えていた。
とにかくなんでもいい。トン、トン、トン、と叩いてみる。
当たるものが何であろうと、叩いてみる。
その返ってくる、小さなトン、トン、トンの音で、
自分の今いる位置、進む方向、自分の存在を、確認する
それが生きている、ということだ。
私にはそれ以外にない。
結局、自分とはそうした周囲からの反応で、
イメージ、形成されたもの。
なにかしら残念な、口惜しい思いもするが、
トン、トン、トン、と叩いてみる
その反応でしか 自分の存在を確認できない。
そう認めざるをえない。
私のこれまでの壁は、そしてこれからの壁も。
私が暗闇の中で、途方に暮れたとき、
「私」が自分の存在を確認する使う杖の一つだろう。
「自分以外は、みな自分の杖よ」、
私は、誰にも聞こえない小さな声で、そうささやく。
もし暗闇の中で、壁もない、床もない。
天井もなかったとしたら、いったい私は、
どうして自分の存在を知ればいいのだろう、
冷や汗が出る思いです。
合わせず、曲げず、真似ず、
そうした自分のままの「存在」と、
その「存在」の居場所があれば、これはシメシメだ。
だが、自分の「存在」の居場所が見あたらないようだと、
それは自分自身の「存在」を 背景に合わしたか、
背景に合わせてねじ曲げたか。あるいあは背景に真似たか。
先ほどまであった存在が、消えてしまうってそう言うことだ。
存在のない自分を、想像しただけでも怖くなる。
やがていつかは来る「死」と、そうした世界ではないかと。
考えるだけでもぞっとする。恐怖です。
でも、もっと怖いことは、
生きていて、間違いなく存在しているのに、
存在を認識できないことではないのか。
自分の存在の在り場所が見つからない。
たとえば、白い背景に、白の自分。
大きな白なかに、小さな白がある、とさけんでも
だれが認めてくれよう。こんな人生、
ここまで生きてきて、なんとしょう。
これから生き続けて、なんとしょう。
かなり傲慢で、良くない、不適切な表現だが、
ある学究の徒、あるいは英知の集団、個性の集まりが、
今の私には、白い壁の白一色に見える。
トン、トン、トン、と叩いてみる。
いくら叩いても、声も音も返ってこない。
いっぱい人がいるのに、大きな声でな件でいるのに。
不思議な壁、不気味な壁。
白の中に、異物の黒が入ろうとすると、
白はこぞって、黒を排斥しようとする。
白は一人では、異物の黒を排斥はできない弱虫だから、
群れて白壁として、異物を排他するのでは。
それは、壁とならなければ、排他できない白の弱さかも。
それは、一信教の排他性と同じです。
一人一人はいい人で、個性的。
その彼らが、固まって壁になると、怖い。
たとえば映画「ジャヌ・ダーク」でみる
宗教国家における魔女狩りの怖さ。そう、あれだ。
大なり小なり、組織、集団には
そうした魔女狩りの要素はある訳で,
社会もまた、その一つなのです.
何より、個は常に個。その個は組織されないと、
全体、初回の構成因子になり得ない。
だから、これからも常に、当たるものが何であろうと、
叩いてみて、その返ってくる小さなトン、トン、トンの音で、
自分の存在とその位置を確認し続けて生きていく。
壁はそんな風に利用するば、有り難いな、と感謝もできる。
だが,言っておくが、自分が壁にはなることはごめんだ。
壁は、道具だ。杖だ。自分の命を道具として、
生きたくはないのだから。
トン、トン、と叩き続ける
トン、トン、と叩き続ける。
「俺、個々にいたよ」と、
トン、トン、と叩き続ける。