経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

まだ繰り返しますか

2011年08月31日 | Weblog
自分や自分の事業を真ん中において、

経営を見たり考えたりしたのでは事業はうまくいかない。



客が観て、買うか買わないかを決める。

客観できる状態に自分をおかないと客観ができるはずがない。



にもかかわらず、自分たちを主に、すなわち作り手・売り手を中心に据えて、

物事を考え観るから、その主観と客観との間にズレができる。

そのズレの分だけ購買が減じ、売上が上がらない。



そういう意味で、多くの企業が売上不振で

消えてしまったと、私は思っている。



また今、存在している企業も計り知れないほどの

得るべき売上を逸していると考える。

ちなみに、これを私は、「売上の機会損失」といっている。



売上を上げる、といった考えこそまさに主観的表現である。

こうした自分を中心に置いた考えで頑張ることは、

いわば主観を、お客に押し通すということになる。

「戦い抜くぞ!ということは,

主観をもって客観を打ちのめすということだ。



主観に押されて客観がたじたじ退却



ということで、購買はますます遠のくことになる。

観る客体、すなわちお客が、敬遠するからである。



客観という意味は「客の視線で観る」というのは、

語源を調べないままの私のこじつけだが、

そう大きくはちがわないのではないか。





相手に成りきって物事を判断することは

戦(いくさ)の世界ではセオリーである。



相手はこちらの都合で動くわけはないのだから、

相手の動きを相手の身になって考え、それで対応。

これ以外に「対応」はないはずだ。



単に武力が勝る、力がある、といったことでは勝てないのは、

勝敗の決め手がここ、対応如何にあるからである。



繰り返す。

相手、お客はこちらの思うとおり動いてくれるわけはないから、

こちらの考え、主観を押し通していたのではうまくいくわけはない。

戦争だと殺されてしまうだろうし、企業なら倒産である。



それでも、まだ繰り返しますか。

戦略の共有

2011年08月27日 | Weblog
大願、戦略は、単に個人的欲求を果たす、
ということでは、その望み、戦略に他の多くの人たちを
同調させることはできない。


家康だけではなく、戦略を知るものは、
その個人的戦略を、他の人が共有できるものに転嫁している。

さらに言えば、共有とは、こちらの戦略を共有、
といった側面で語られるのが一般的だが、
これこそ片面思考である。


それはそうだろう。

組織を構成する各人にしてみたら、戦略の共有と言うが、
俺個人の戦略は、いったいどうしてくれる、といった疑義が
起きるのは当然である。

この疑義が存在する限り、共有、統一は
危うさが残る、といって良い。

ここである。
ここに真の戦略共有の要諦がある。
この点を避けて、戦略の共有は存在しえないのである。


家康に限らず、個人的大望、戦略を、
可能な限り多くの人たちが共有できるものに持って行く。
これが組織拡大の命題になる。

可能な限り多くの人たちが共有できるものに持って行く
これが第一である。

加えて、それは可能な限り多くの人たち各人の個々の戦略を
内包、組み込まれていなければならない。これが第二だ。


多くの「戦略の共有」には、この第二の側面が、はなから欠損、
考慮されていないのである。


錯覚してはならない。

組織力は、雇用数が多いこと、店舗数が多いこと、
資本金が多いこと、といったこととは次元が異なることだ。


戦略を共有しあっている人の数の大きさが、
真の組織の大きさであり、強さである。

ここで「戦略を共有しあう」とは、
全体の戦略と個々の戦略が統合、融合されている、
という意味あり、単に合算されたものではないということ。
念押ししておきたい。

本稿の総括。以下の3点。

1に、人に勝ちを譲ってそれを戦術化することで戦略の実現を図る。
2に、戦略は共有された員数で組織力となる。
3に、できるだけ多くの人に共有できる大望、戦略を掲げること。(了)


歪む事実

2011年08月22日 | Weblog
歴史は、その後の者によって微妙に歪められる、

ということも、あって当然。



とりわけ、信長が短気であったとする説は、

私が今更検証するまでもなく、後世の俗説、作文である。



徳川の時代に生きる者が、どうして徳川の悪口を記せようか。

ヨーロッパ中世期時代の肖像画に描かれている人物は、皆美男美女である。

当然である。

生活の面倒を見てもらっていたお抱え画家達が、

そのまんまを描くことは生活基盤を失うことになったろうから。



家康をあがめるには、信長を遠回しに落し、

家康を婉曲によいしょした苦心の表現といっていい。





否、そもそも現象的なみて、短気とか長気とか判断し、

それを全体的かつ固定的な「性格のせい」である、

と決めつける見方こそ、間違いである。



それは短期戦を用いる武将を、短気。長期戦をなす武将を

気が長い、とレッテルを貼るに等しい。



性格如何に関わらず信長、いや彼らは、短気も、中気も、長気も、

時と場合で、使い分け、戦略の具現のための戦術として使う。

それでないと、生死をかけた戦に望めるわけはないのだ。



当時の武将だけではない。

だれしも性格は、固定的なものとせず、

どこかで意識し、あるいは無意識に使い分けをしている、

といったところがある。



子供の頃には、「うつけもの」を装い、

成人してからも奇行で知られる信長だが、

それはすべて戦略に基づく、科学的計算性に戦術の表れであった。



それは先に述べた桶狭間の戦い、武田の崩壊の切っ掛けとなった

長篠の戦いなどに、明確に見ることができる。



当時としては、あるときは短気に、あるときは気長に、

あるときは不遜に、あるときは謙虚に、大願成就のために

自在に使い分けた信長は、ことの是非、好き嫌いは別にして、

まさに戦略家の典型といえる。

歴史は歪む

2011年08月20日 | Weblog
家康は、何事かあると管総理みたいにいらつき、

そして爪をかむ。

この癖は天下を取ったあと、死ぬまで直らなかったとか。



短気な彼は、爪をかんでいらつくのを押さえたのかもしれない。

あるいは辛苦に耐えたのかもしれない。



さらに、いつかはこうした境遇から脱したい。

そして憎き者どもに復讐といった「願」を立てたであろう、

といったこともまた、彼になりきって考えれば容易に理解できる。



この悔しい、あるいは苦しい想いの中で、

いつかは必ず、この状況から脱し、

岡崎で百姓をしながら待っている臣下の苦労に報いてあらねば、

といった強い願望を思ったに違いない。



こうした大望を成就する(戦略の帰結点)ため、

中国の臥薪嘗胆の話同様、一種のトリガーとして爪を噛んだ。

そして、大成してからも、苦しいときの想いを忘れるなよ、

といった身への戒めのためにそれを続けたのかも知れない。



歴史には、確固たる確証が乏しい。

だからこそ、とらわれず、今のも私たちは

想像を膨らませることができる。





いずれにしても、



「鳴くなら、鳴くまで待とうホトトギス」



といったことが、彼が性格的に辛抱強いといったことを

裏付けるものではない。



ちなみに、戦国を代表する三人の性格になぞらえて、



詠まれた3つの句の作者は、長崎の平戸、松浦家三十四代当主で、

安永4年(1775年)に平戸藩の九代藩主の松浦静山である。



徳川に阿ね、信長、秀吉と対比させ、徳川を讃える、

といったニュアンス、含みがあって当然である。

(先祖は関ヶ原の戦いで、東軍、徳川に付いていた徳川シンパ)。



歴史は、その後の者によって微妙に歪められる、

ということも、あって当然。

でっかい話

2011年08月17日 | Weblog
僕にとって良いこと→僕と君にとって良いこと→
組織にとって良いこと→日本にとって良いこと
→世界にとって良いこと。

矢印の右側の、「良いこと」を、意識してやる。より右側をやる。

この習慣作で、その反作用として、
世界にとって良いこと→。日本にとって良いこと→組織にとって良いこと
→僕と君にとって良いこと→僕にとって良いこと
と、ドミノが流れていくのが実感できるはずだ。
むろん、最後の「僕にとって良いこと」まで、届くのに、
少し時間がかかるが。


繰り返します。
1に、僕にとって良いこと→僕と君にとって良いこと
→組織にとって良いこと→日本にとって良いこと
→世界にとって良いこと。

矢印のより右側のいいことで最左にも良いことを選択してやる習慣作り。

これがうまくいけば、次にはその反動、反作用として
2に、常に右から左へ、高い方から低い方へ、未来から今へ、
抽象から具象へ、「良いことが」流れてくる。

その場合、右辺の「世界」の方が、最左の「僕」より、遙かに大きいし、
数も多いから、復ってくる「良いこと」は、
百倍返しなんてそんな小さなものではない。

計り知れない「良いこと」に膨れあがって復ってくる。


経営計画など、まさにその典型事例。
過去からの延長は、過去に縛られ、とらわれる。縛られる。
これを解除、解き放せば、無限の可能性が広がる。
将来(さき)、未来ってそうした広々としたものなのだ。

僕、と縛るからちっちゃい。
僕と君、家族と言うから小さい。
これが日本と、仕切るから狭い。
世界と線を引くから、宇宙と比べて小さい。

人の心と可能性と比べれば、宇宙だってたいしたことない。
宇宙、これも取っ払っちゃいなよ。


イラカン、イラチク

2011年08月14日 | Weblog
家康について、おもしろい話がある。


「鳴くなら、鳴くまで待とう不如帰」

と、その忍耐力ぶりを謳われている家康ですが、
実際は逆で、きわめて短気であった、という説。

私は、家康に直接会っていませんし、
そのころ彼の周辺にいた人のヒヤリングも
皆亡くなっているのでできない。

それで事実かどうか確認のしょうがないのだが、
「辛抱強い」といった説には、疑問がある、と私は思える。

いずれにしても、
短気な性格と、戦略思考には直接関係がない。

家康は短気だったからこそ、将来(さき)に大望を抱いて
その具現に向かって、こつこつと歩んでいくといった
長期戦略を採った、と考えられる。


以下、軽く文献等で経緯とその根拠に触れてみたい。
幼児の頃、あることを契機に、家康は辛苦の生活を強いられた。
我慢づよいとか短気であったか、
といった性格云々にかかわらず、堪え忍ばざるを得なかった。


その「あること」。
天文16(1547)年、信長の初陣の年、
信長の父・織田信秀が岡崎に攻め入るとの情報を得た
竹千代(家康の幼名)の父・松平広忠は今川義元に援軍を求める。
その際、義元はその見返りとして、竹千代(このとき6歳)を,
見返りとして、人質に差し出すよう要求する。

広忠はこの要求を受け入れざるを得ず、
竹千代を駿河府中の義元の元へ送ることにする。
その護送の途中、戸田康光の家臣又右衞門が、
竹千代を塩見坂で奪い去り、織田家に売り渡してしまう。

こうして竹千代は信長の兄・織田信広と人質交換されるまでの
約2年間、竹千代は尾張で人質生活を送ることになる。
この「あること」が、彼の一生を決めた。

この頃から、竹千代は何事かあると、管総理みたいにいらつく。
そして爪をかむ、といったことが癖が始まったとされる。
それを彼の周囲の人は、「いら竹」と言ったかどうかわからない。
しかし出血するぐらいきつく噛む、といったことであったらしい。

大望

2011年08月12日 | Weblog



「大望」という言葉が、私は大好きです。

韓国ドラマ「大望」のことではない。



辞書を引く。

大望(たいもう)

・大きな望み。たいぼう。「-を抱く」



類語として、

野心 ・ 志望 ・ 大志 ・ 希望(に燃えて) ・ 青雲の志

大きな望み ・ 雄途(につく) ・ 雄図(空しく~)

野望(をもつ) ・ 将来を期す ・ 雌伏する


といった言葉がある。



私が好きな理由は、言葉の響きともに、

あの「太公望」からの連想だ。



釣りをして、魚ではなく国をつり上げた、

ということで釣り好きの人を「大公望」といいます。



家族と自分の国を滅ぼされ、孤児となった彼、望は、

的への復讐心を「亡国を再興する」という戦略に転換、

他の3人の孤児とともに20数年後にはそれを実現した。



この大公 「望」の話です。

すごいです。戦略の凄みです。



彼のように変わらぬ大望をもち、一つの戦略をも持ち続け、

その戦略を共有する人数をじわじわ広げていったら、

国家さえ作れる。



このように、戦略は大きさと心の広さが大いに関係します。

ここは目先の勝ち負けにとらわれず、勝ちと功を相手に譲り、

それをもって、自分の戦略を成就する、といったことに対して、



「あの人は器量が大きいね」とか

「度量がある」といった言い方がされる。



また「人望がある」とも言われます。

それはその通りなのですが、大望をもち、

その具現のため小異を捨て、功を人に譲るといったことで、

彼の周囲には人が集まる。



こうしたことで他人から見たら器量や度量、人望がある、

とあるように見える、ということでしょう。



逆に言えば、

それは大望、戦略があるからこそ、ということができる。



家康について、おもしろい話があります

戦略に不可欠なこと

2011年08月09日 | Weblog
組織外部にまで流すといったことの是非は横に置き、

少なくとも組織内部全員の戦略共有は不可欠、

というのが私の結論。



それはリスクがない、ということではなく、

片足を踏み出せば、バランスが崩れるというリスクがあるが、

踏み出さねば動けない、ということと同様の意味だ。



得るものー失うもの=□



と式を立て



得るもの>失うもの

□が+になるように、図れば良いのである。



これが、想定外を組み込んでも□が+になるように、

図り、持って行く。これを事前に考える。

これが「戦略」というものである。





100人の従業員がいる企業で、パート比率50%とする。

このGWに全員で従業員旅行に行くことにした。

社員だけにしか行き先も、何時に集まるかも知らされない。

どうなるか。





100人分の賃金を払いながら、

50人しか目標を与えられていないとしたら如何。





身内だけを登用する。如何



アーセー、コーセー、俺の言うとおりやれ。如何



戦略が知らされていないと、戦術は出てこない。

出てこないのに、やっているようにみえるのは、

彼らが暗闇の中で、で動いているようなもの。



暗闇の中でと明るい所での仕事とどちらが成果が上がるか。

暗闇の間かで、誰かがマッチを点す。

皆、その小さな明かりの方を見る。



このマッチの明かりが、戦略だ。組織の光明、希望、方向になる。



そうしたことで本来、戦略なき組織というのはあり得ない。

だが、あっても共有できていなかったり、組織の末端で希薄になったり、

よじれたりしている、といったことがむしろ実態に近い。



戦略は口を酸っぱく徹底的に繰り返し、浸透させる。

ところが、戦略そっちのけで、本来は任せるべき戦術の方を

口を酸っぱく徹底的に繰り返し、浸透させる、



この、2つの「口を酸っぱく徹底的に繰り返し、浸透させる」

のどちらに力が入っているかで、企業の盛衰を分けている。


あの手、この手

2011年08月07日 | Weblog
帰結点に得られるもの、価値的に大きい方を、

始点以前に選択、設定しておく。

これが大戦略。



そしていったん決めたら譲らない、譲れない、変えてならない。

これが戦略。



対し戦術は、その戦略具現化のために状況に応じ、

変え、組み合わせるもの。



これが戦略と戦術の関係だ。



しかし、巷では口では戦略、戦術といいながら、

実際場面では、戦術的にうまくいかないと、

戦略を変えたがる一種の癖が見受けられる。



戦略は変えてはならない、固定的なもの。

繰り返す。

戦略は始点から、それが成就する帰結点まで

変えてはならない。



以下、簡単な例で、今一度観てみたい。



このGW

鹿児島から大阪へいって、歌舞伎を楽しむか、

あるいは、ハワイへ泳ぎを楽しみに行くか。



これをまず決める。家族全員が協議し、戦略を共有する。



大阪で歌舞伎を、と決まった。

これが戦略決定。



大阪へ行くには、様々な方法がある。

鹿児島中央駅から新幹線に乗る。

鹿児島空港から、伊丹空港へ入り、そこから・・・もある。

全行程、歩くのもある。

博多まで新幹線。あとは在来線もある。

鹿児島から、フェリーでもある。

タクシーで熊本までいって、

熊本から博多まで在来線、それから飛行機もある。



戦術は組み合わせであるから、無限に近い組み合わせがある。





それを博多まで新幹線で行ったが、そこで列車が動かなくなった。

では、大阪に行くのをやめましょう



行き先をハワイへ変更、

こんなことなら、家でごろ寝しとけばよかった、



これでは家族で歌舞伎を、といった帰結は得られない。



このように、戦術が手詰まりになったら、

戦略のせいにする癖は、実に多く見られる。



大阪で歌舞伎を観る、という帰結に達するには、

博多から新大阪まで新幹線で、と戦術を固定することはない。



飛行機があるじゃん。

いやこの際タクシーでリッチにでもいいやん。



このように、戦略を果たすために、

あの手、この手と戦術を変える。その組み合わせを変える。

11.05.01







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どっちが大きい

2011年08月03日 | Weblog
組織は、機能分担である。

それぞれが、共通の目標具現のために

役割分担するためのシステム構成である。



だから戦略の共有が絶対要件になる。

戦略を一部の者にしかに知らせない

といったことは、あってはならないことだ。





ところが、現実には、

経営陣だけが知っていればよく、他には知らしめない。

管理職までは知らしめるが、一般社員には知らせない。

社員までは知らしめるが、それ以外例えば契約社員、

パート等には知らせる必要はない。



こうしたレベルの差は、例外なく存在している。



そんなことを言っても、

組織には企業秘密というのがあるんで情報漏洩があるので

契約社員や派遣社員などには、とてもとても。



と、いったことを良く耳にする。





そして、ここで戦略の共有は、事実上建前に終わってしまい、

次の論議がなされることは、まずない。





○確かに、間違いなくリスクはある。

しかし、何事でもリスクはあるのではないか。



○漏洩といったことは管理者にも、

否、経営陣にも起こりえるのではないか。



○もっと踏み込んで考えてみたら、

戦略が外部の漏れたとして、失うものはなにか



○いやむしろ、外部の人たちにも共有してもらったらどうか。

理念、社訓では、むしろ積極的にそれをやっている企業が多いではないか。

等々・・・・・・・・・・。



物事をなすに当たり、リスクはつきものと考えたら、

上の議論に決着を付ける考え方として、



全員が戦略共有できていないことにより失う損失と、

戦略が外部に漏れた場合の損失と、どちらが大きいか。



そして、

全員が戦略共有できていうことにより得る利益と、

情報が内部だけに止めおかれた場合の利益と、どちらが大きいか。