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農耕開始から国家誕生までの4000年に何があったのか...デヴィッド・グレーバーの遺作『万物の黎明』の自然科学研究への影響

2024-08-08 | 先住民族関連

アスティオン 2024年08月07日(水)10時30分

小埜栄一郎+松田史生

<理系研究者が「新しい世界史」から得た気づきとは? 自然科学研究への影響について>

ともにデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』を愛読していた、2人の生命科学研究者がグレーバーの遺作『万物の黎明』を手に取ったのは自然の流れだった...。

代謝適応進化を研究する小埜栄一郎(サントリーグローバルイノベーションセンター株式会社主幹研究員)と代謝工学を研究する松田史生(大阪大学大学院情報科学研究科バイオ情報工学専攻教授)という2人の理系研究者が、社会・経済人類学者の本(デヴィッド・ウェングロウとの共著)を読んで得た気づきとは? 『万物の黎明』の自然科学研究に対する影響について議論した。

◇ ◇ ◇

※前編:ヨーロッパは自由、平等を米先住民から学んだのに隠した...デヴィッド・グレーバーの遺作『万物の黎明』から受けた「知的なパンチ」 から続く

「ホビー」としての農業

小埜 私たち理系の人間はよく、比較対象の「共通する変化」と「共通しない変化」をベン図で描きます。前者は最大公約数的であるゆえに普遍的要因と推定し、後者は独自性に関わると推定します。

2人のデヴィッドは、カリスマ的英雄や官僚主義が前者にあれば、農業は後者(共通しない独自性)に位置付けられることを多くの事例で丹念に調べ上げて結論づけています。

シンガポールのような超近代国家は食料を輸入によって調達することで農業以外のことに専念しています。当然、依存先があってのことですが、農業が国家維持に必須ではないことが分かります。

松田 農耕が開始されてから国家が生まれる4000年の間に人類が何をやっていたのかは、謎ですよね。そもそも耕作は食料獲得法としては手間がかかりすぎて効率が悪い上に、狩猟採集だけで食べていくことができる食料が豊富な地域で農耕が始まっているので、必要に迫られていたとも思えません。

『万物の黎明』では「遊戯農耕」という概念が出てきます。農耕開始が国家誕生につながるというストーリーへの反駁としては十分ですが、では本当は何が起きていたのか? という説明には今一つ何か足りない印象を受けました。

小埜 現代の企業買収などのニュースを見ていると、官僚的な農業国家を乗っ取るという形で現代国家が成立したという説は然もありなんです。大衆が暴力的にヒエラルキーに組み込まれ、年貢として重労働を強いられたのが、実際かもしれません。つまり、従来は「自由なホビー」であった農業が、義務的なジョブとしての食糧生産になったということです。

可食であるかどうか置いておいて、愛でて育ててみたくなるという動機は個人的には同意できます。種を捨てたらそこに同じ実をつける木ができたというハプニングも栽培化(Domestication)に大いに寄与していると思いますが、採取同様に栽培も最初は楽しいホビーだったのだと想像しています。

松田 豊かな狩猟採取生活には、知識と経験をもとに、毎年変化する状況に応じて工夫するベンチャー企業のアイデアマン経営者のような能力が必要です。

4000年かけて動物、植物の遺伝子構造と形態を変える家畜化(飼い馴らしDomestication)が進み、最終的には圧倒的な生産性を達成して、国家形成の基盤となったという説明が1つあり得ます。しかし、それでもやはり効率の悪い耕作をあえて選ぶ動機が今一つわかりません。

おそらく面倒な作物や家畜の世話や見張りなどの仕事が好きで得意な人が相当数いたのではないかと想像をします。いずれにせよ、4000年の間にいろいろな試みや失敗があり、農耕と国家との関係もシンプルなストーリーには回収できない複雑な歴史があるということなのでしょう。

では、私たちの専門である自然科学研究分野から、農業と国家については何か言えることはないでしょうか。

小埜 遺伝学的なフレームで国家の進化は問いを立てられますが、国家規模の再現性実験を実行して検証することは困難です。

しかし、ヒト以外の生物群集の研究は参考になるかもしれません。共生や寄生など生物間相互作用の多様性を見ると、国家を維持するような、略奪や交易といった別のやり方を生むのはヒトに限らないからです。みな他者に依存して生きています。

それでも人間の強烈なところは、農耕技術の発明だけでなく、利己的な目的で家畜や作物そのものを品種改良したところです。これは急速な食料調達の集団拡大の基礎にもつながっています。私の研究材料である醸造用酵母の振る舞いを見ているとそう思います。人為選抜によって野生種と生理的に大きく異なっています。愛玩動物もそうですね。

松田 生物進化の側面からはどうでしょうか?

小埜 『万物の黎明』が人類史研究の標準的なアプローチなのか、それとも異端なのかを判断する術を持ち合わせていませんが、植物特化代謝を研究している身からすると強いシンパシーを感じます。

自然科学研究には「モデル」に対して「非モデル」という比較がかつてありました。最初に詳しく調べられたものが「モデル生物」で、それと共通するものが重要であるという視点です。先行する知見に縛られてモノを見てしまうという陥りがちな罠があります。

しかし、幅広く生物を調べていった結果、すべての生物がユニークであり、それぞれ異なっていることが分かってきました。これは「共通性の生物学」から「多様性の生物学」へのパラダイムシフトです。

共通することが大事なのではなく、生物の生き様・生存戦略を規定するのは他者(種)との違いにこそ宿るという認識です。「例外なく例外があることが普通である」と。国家や文化の起源や多様性も同様であると理解しました。

意図されていない偶然が、その後に起こったことに対しては必然(前提)であったという、連続的な因果における「偶発性」と「必然性」は、国家の発生にも多分に介在していると、私は解釈しました。

松田 進化論の領域ではでグールドがまさしく『ワンダフル・ライフ──バージェス頁岩と生物進化の物語』(1)(早川書房)でその話題を取り扱っています。

約5億年前のカンブリア紀には、現在の生物の祖先に加えて、全く構成原理の異なる生物が出現する大爆発が起きています。つまり、多細胞生物の多様性は最初が最大で、その後は狭い範囲で多様化していただけで、ヒトにつづく進化にも必然性があったとは言えないということです。

また、多細胞生物につながる真核細胞の進化過程では、「アーキア」という微生物の細胞内にバクテリアが取り込まれて共生していたことが確実視されています。しかし、全生物の歴史の中で一度しか起きていない。つまり特別な環境下で偶然起きたイベントの結果かもしれないということです。

多細胞生物への進化も偶然の産物だったのかの検証は、多くの研究者にとって熱いテーマです。しかし、「歴史にifはない」という通り、本当のところはやはり分からない、という点が面白いですよね。

小埜 生物進化を巻き戻すと別の生物が進化するいう、グールドの主張は「進化は一度きりの歴史である」という意味ではその通りだと思います。一方で、厳密な選択圧(淘汰圧)の中に同一の遺伝型や表現型を晒すと、定方向の進化が繰り返し観察されるケースも報告されています(2)。

ですから、「歴史が再現できない」というのは、厳密には「同じ環境は二度とあり得ない」という意味だと思います。しかし、今ある社会構造は必然ではなく、偶発的な要素が多分に含んで形成されているという点は大切な視点です。

自然科学研究に対する影響

小埜 最後に 『万物の黎明』の自然科学研究に対する影響を考えてみたいと思います。

アリ、ハチ、ヒトなど、生物にも社会形成する種が沢山ありますが、単細胞生物からすると、多細胞生物は組織立った細胞社会として生きていると見ることができます。役割分担することで、個体や細胞は集団や個体の生存率(適応度Fitness)を高めるという意義があります。言い換えると集団内に同じ機能しか持たない細胞塊は、機能分化した細胞集団に比べると集合しているメリットを生かせていません。

シロアリですら農業(キノコ栽培)しているという報告があります。「集約的食糧生産」としての農業は、規模の大きな集団の維持に効果的である。それゆえに収斂して何度も出現しているのかも知れません。

しかし、現存する生物種の中には食料生産しない集団が多く存在するので、食物連鎖中に自らのニッチを見つけることができれば、必ずしも食料の自給自足は必要ではないように思います。

ただし人間の場合は食糧生産を放棄しても輸入できる状況が永続的(あるいは自分が生きている間)に続くだろうという希望的(あるいは利己的な)観測が前提にあるように思います。

実際にはグローバルな社会では食料生産を誰かが引き受けないと国家的な飢餓に窮する脆弱な状況です。特定の国家のヒューマンエラーで大規模に人口調節される...そんな日が到来ないことを願っています。

松田 世界全体を国家が覆っているので、「移動し、離脱する自由」を行使するための外部はもうありません。だからこそ、社会の破綻を防がなくてはなりません。

『万物の黎明』の最後で、平等な社会では実力者が社会的な弱者を庇護してきた点、つまり平等な関係の中に非対称性(支配と被支配)が生まれるメカニズムについての指摘がありますが、それ以上詳しくは述べられていません。グレーバーがその先に何を見ようとしていたのかをよく考える必要があります。

このテーマは、日本中世社会を王朝と結びついていた社会的弱者の聖性が失われ、被差別民となっていく画期として描いた網野善彦の仕事に通底するように思えます。しかし、網野も聖性が失われるメカニズムまでは述べていません。

このテーマをおそらく深掘りするはずだった、グレーバーの次回作が読めなくなってしまったことが残念ですが、彼に続く研究者が日本からもぞくぞくと出てくるのではないかと思っています。

小埜 集団の定住、巨大化に伴う社会階層化、そしてその構造維持には農業に加え、宗教も深く関わっていると思います(3)。そして遂にはブルシット・ジョブを生み出すに至った現代社会を脱出不能の「万物の薄暮」としてではなく、そうではない社会のありようを考えていく時期にきています。

自然科学に携わる私たちに大いなる刺激と勇気を与えてくれた『万物の黎明』は、サイバースペース内でエッセンス化された情報がすさまじいスピードで大量消費されている現代の社会人にこそ読んでほしいと思います。本書が無批判に受け容れられている「神話」を再考するきっかけになることを願っています。手に取ると怖気付いてしまう質量が難点ですが、読む価値はあると思います。

また、本文中には青森の三内丸山遺跡や任天堂の「ゼルダの伝説」といった日本の事例が出てくることも最後に申し添えて、この対談を終えたいと思います。本日は、ありがとうございました。

【参考文献】
(1)『ワンダフル・ライフ──バージェス頁岩と生物進化の物語』(著) スティーヴン J.グールド(2000) 早川書房
(2)『生命の歴史は繰り返すのか?──進化の偶然と必然のナゾに実験で挑む』(著)ジョナサン B.ロソス(2019)化学同人
(3)『宗教の起源──私たちにはなぜ<神>が必要だったのか』(著)ロビン・ダンバー(2023)白揚舎

https://www.newsweekjapan.jp/asteion/2024/08/4000.php

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