伊藤ファミリーBLOG

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【今日の聖句】 2016/10/24

2016-10-24 06:55:05 | 今日の聖句
詩篇 59:16
「しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。」

たとい悪しき者が私たちに敵対し悩ますとも、神様は主に寄り頼む者の高き櫓となってかくまい、守ってくださいます。御言葉に聞き従う者の味方となってくださる主の御名を声高らかにほめまつり、主の庇護の元にあるにさいわいに心から感謝を捧げる私たちでありますように。

http://bible.com/81/psa.59.16.ja1955
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たかがピック、されどピック…

2016-10-23 20:56:05 | ギター・音楽関係
今日の夕方、自宅でギターを弾いていたら、ピックを家具の隙間に落としてしまいました。

仕方がないので、だいぶ前に買い置きしたピックを取り出してみたら、弾き心地が全然違う!

同じMartin、同じ形、同じ厚さなのに、買い置きしていたピックの方が全然弾きやすいことに気付きました。

改めてピックをよく見てみると、同じ形だと思っていたのに、微妙に鋭角な感じがします。

そこでもう一台のギターケースから最近買ったピックを取り出して並べてみたところ、明らかに形が違っていました。左が買い置きしていたピック、右が最近買ったピックです。



違いがわからない人のために、ピックの角を合わせて重ねてみると、こんな感じです。上が買い置きしていたピック、下が最近買ったピックです。



大きさはほぼ同じでしたが、三角形の辺の部分のなだらかなカーブが、最近のピックの方が丸っこくなっています。たったこれだけの違いで、弾きやすさがこんなにも激変するとは!

最近どうもアルペジオのピック弾きが下手になったように感じて、練習量が足りないからだと思っていましたが、買い置きしていたピックならば、ほぼほぼ思った通りに弾けました。なので、腕が落ちたと感じたのは、きっとピックの形の変化によるものだろうと、そう思うことにしました (^^;

とはいえ、今となっては新しい、弾きにくいピックしか入手できないことも事実。やはり腕を磨くしかないか…。それとも、理想のピック探しを始めるかな?
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/23

2016-10-23 09:50:01 | 一日一章・聖書通読日記
ルツ記 4:2-4
『ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、「ここにおすわりください」。彼らがすわった時、 ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。 それでわたしはそのことをあなたに知らせて、ここにすわっている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください。しかし、あなたがそれをあがなわないならば、わたしにそう言って知らせてください。それをあがなう人は、あなたのほかにはなく、わたしはあなたの次ですから」。彼は言った、「わたしがあがないましょう」。』

ボアズは自分よりナオミに近しい親族を探し、エリメレクの嗣業を購う意志を問いました。そのときボアズか言った「私はあなたの次です」という言葉に、彼のまことに謙遜な信仰が表されています。もし自分の意志や願望を優先させるならば、とても口にできない言葉です。神様はこのように謙遜な信仰の持ち主を愛され、豊かに祝福してくださいます。

http://bible.com/81/rut.4.2-4.ja1955

*****

ルツ記 4:5-6
『そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」。 その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。』

ボアズよりも近しい親戚の人は、エリメレクの嗣業を購うならばルツと結婚して自分の名前ではなくエリメレクの嗣業として残すべきとを聞いて、その権利を放棄してボアズに渡しました。彼の目的はエリメレクの嗣業を自分のものとする財産目当てであり、自分の思い通りにならないと知って、心を翻しました。

自分の思い通りにならないならば正しいことを行わない人、自分を豊かにすることは喜んでするが人のために貧しくなることを厭う人、他人の利益よりも自分の利益を追い求める人は、主の御心に適わない、神様の祝福を受け継ぐに相応しくない失格者となってしまいます。私たちは決して彼のように私利私欲を動機とする、自分を満足させるためだけの信仰に陥ってはなりません。

http://bible.com/81/rut.4.5-6.ja1955

*****

ルツ記 4:9-11
『ボアズは長老たちとすべての民に言った、「あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。 またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。これはあの死んだ者の名を起してその嗣業を伝え、死んだ者の名がその一族から、またその郷里の門から断絶しないようにするためです。きょうあなたがたは、その証人です」。 すると門にいたすべての民と長老たちは言った、「わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。」』

ボアズは次の権利者である自分がエリメレクの嗣業の地を購い、ルツと結婚してその家系を絶やさないことを、町の長老たちの前で宣言しました。この手続きはモーセの律法に基づいた正式なものであり、証人となった長老たちはこの宣言を受け、祝福の言葉を述べました。すべての証人の前で主の御心に適う正しいことを行う者こそ、祝福を受けるに相応しい者です。

http://bible.com/81/rut.4.9-11.ja1955

*****

ルツ記 4:13-15
『こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。主は彼女をみごもらせられたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。 そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。 彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから」。』

こうしてボアズはルツと結婚し、主が恵まれたので男の子が生まれました。ナオミの友人たちは、ルツによってエリメレクの子孫が与えられたことを喜び、また姑ナオミにここまで忠実に仕えた異邦人のルツを「7人の息子に勝る嫁」と賞賛しました。まことの義人は従順かつ謙遜な信仰とに基づく言動によって賞賛されます。異邦人である私たちもまたこのルツの信仰に倣い、まことの神様の祝福を受け継ぐ者とならせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/rut.4.13-15.ja1955

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ルツ記 4:16-17
『そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。 近所の女たちは「ナオミに男の子が生れた」と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。』

ルツがナオミに産んだ男の子はオベデと名付けられ、後にイスラエルの王となるダビデの祖父となりました。そしてダビデの血筋を引く者に、イスラエル人だけでなく異邦人を含むすべての人の王となるイエス様が生まれます。ナオミの不幸から始まったこのような壮大な神様の救いの計画を、当時の人々の誰が予測したでしょうか! 神様はこのように緻密で愛と配慮に満ちた計画をすべて成し遂げてくださるお方です。

http://bible.com/81/rut.4.16-17.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/23

2016-10-23 06:45:13 | 今日の聖句
ガラテヤ人への手紙 5:1
「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。」

私たちが罪赦され救われるのは、自分の行いや努力によるのではなく、キリストの購いの御業を信じる信仰によるものです。律法主義や誤った教えに惑わされて奴隷のような信仰に陥ることなく、ただキリストの十字架による自由を感謝して受ける正しい信仰を守り通す私たちでありますように。

http://bible.com/81/gal.5.1.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/22

2016-10-22 09:46:33 | 一日一章・聖書通読日記
ルツ記 3:1
『時にしゅうとめナオミは彼女に言った、「娘よ、わたしはあなたの落ち着き所を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。」』

ルツが落ち穂拾いをしてくれたおかげで何不自由なく生活することができるようになったナオミは、自分の束の間の幸せよりも、ここまで尽くしてくれたルツの幸せを願い求めました。ひとり子イエス様のいのちさえも惜しみなく与えられた神様の愛を知る私たちは、自分の満足のために人を犠牲するようなことを決してしてはならず、むしろ人の幸せのために自らの安定した生活をも喜んで差し出す自己犠牲の愛の心を持つべきです。

http://bible.com/81/rut.3.1.ja1955

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ルツ記 3:2-6
『あなたが一緒に働いた女たちの主人ボアズはわたしたちの親戚ではありませんか。彼は今夜、打ち場で大麦をあおぎ分けます。 それであなたは身を洗って油をぬり、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。ただ、あなたはその人が飲み食いを終るまで、その人に知られてはなりません。 そしてその人が寝る時、その寝る場所を見定め、はいって行って、その足の所をまくって、そこに寝なさい。彼はあなたのすべきことを知らせるでしょう」。 ルツはしゅうとめに言った、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」。 こうして彼女は打ち場に下り、すべてしゅうとめが命じたとおりにした。』

ナオミは未亡人となった嫁ルツに格別に慈しみを施してくれた麦畑の主人ボアズが近しい親戚であることから、ルツの再婚相手に最も相応しいと考え、ボアズの家に行くように勧めました。そしてルツは姑ナオミの言葉通りに皆行う、従順で忠実な心の持ち主でした。

せっかく神様が私たちを祝福してくださろうとしているのに、それが妨げられるとしたら、その最大の原因は自分の中にある不従順と自分の考えを曲げない我の強さに他なりません。ルツのように人の勧めに素直に従う者でありたいと願います。

http://bible.com/81/rut.3.2-6.ja1955

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ルツ記 3:10-13
『ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。 それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。 たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。 今夜はここにとどまりなさい。朝になって、もしその人が、あなたのために親戚の義務をつくすならば、よろしい、その人にさせなさい。しかし主は生きておられます。その人が、あなたのために親戚の義務をつくすことを好まないならば、わたしはあなたのために親戚の義務をつくしましょう。朝までここにおやすみなさい」。』

この記事はルツがボアズの元に夜這いをしたかのように見えますが、決してそのような不埒な行動ではなく、当時の再婚に関する正式な考え方である「レビラート婚」に基づくものです。その証拠にルツもボアズも情欲や衝動にかられることなく、冷静に節度ある再婚の手順を踏みました。

たとえ情欲に流されそうな状況に置かれても、私たちは決して誘惑に負けてはなりません。いつでも、どこでも、どんな状況に遭っても、神様が何を喜ばれるかを考え、神様の御心と御言葉の教えを忠実に守り、心も身体もきよく保つ私たちでありますように。

http://bible.com/81/rut.3.10-13.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/22

2016-10-22 06:40:31 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 3:36
「御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

私たち人間は皆、罪人であり、義なる神様の御怒りを受けて永遠の滅びに落ちるしかない存在です。しかし憐れみ深い神様は、私たち人間を愛するが故に罪なき御子イエスをこの世に送り、救いの道を備えてくださいました。御子を信じない者にならないで信じる者となり、永遠のいのちに与る私たちでありますように。

http://bible.com/81/jhn.3.36.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/21

2016-10-21 08:00:06 | 一日一章・聖書通読日記
ルツ記 2:1-3
『さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。 モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、 ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。』

ルツは姑のナオミを養うために、自分の知り合いもなく右も左もわからない異国の地イスラエルで、落ち穂を拾う仕事を始めようとします。落ち穂拾いは、最も貧しい人がその日の食料を得るために行う卑しい仕事でした。ここにルツの勤勉さと謙虚さがよく表されています。そのような真面目で前向きなルツに、神様は恵みを施され、「はからずも」最も近い親戚ボアズの畑に導かれました。

私たちが神様と人との前に心からへりくだり、勤勉に、前向きの、真摯に生きるとき、神様は私たちにも恵みを施され、思いも寄らない神様の素晴らしい御業を私たちの人生にも成し遂げてくださいます。それを単なるラッキーと受け流すことなく、神様の愛と憐れみに気付き、感謝する心を忘れない私たちでありますように。

http://bible.com/81/rut.2.1-3.ja1955

*****

ルツ記 2:5-9
『ボアズは刈る人たちを監督しているしもべに言った、「これはだれの娘ですか」。 刈る人たちを監督しているしもべは答えた、「あれはモアブの女で、モアブの地からナオミと一緒に帰ってきたのですが、 彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした」。 ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。 人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。』

畑の所有者ボアズはルツが勤勉に働く姿に目を留めました。そして畑の管理人たちもまた、ルツの真面目さをよく見ていました。ルツがナオミと一緒にイスラエルに帰依したモアブ人の娘と知ったボアズは、彼女に特別な配慮を施しました。

ルツ記に出てくるボアズの姿は、愛と憐れみに富む神様の御姿と生き写しのように表しています。ボアズがイスラエルの神を慕って異国の地に来たルツに目を留め格別な待遇をしたように、神様もまた主の御名を信じる私たちに目を留めていてくださり、あふれるばかりの祝福と恵みとを施してくださいます。

http://bible.com/81/rut.2.5-9.ja1955

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ルツ記 2:10-12
『彼女は地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。 ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。 どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。』

ボアズが誰か知らなかったルツは、どうして異邦人の私にこれほど親切にしてくださるのかと問います。するとボアズはルツが姑ナオミに忠誠を尽くし、イスラエルの神を慕って異国の地にまでやって来たことに対する報いだと答えました。

神様は、私たちが人目に付かない隠れたところで行う善い行いも、心の中の信仰も、すべて知っておられます。誰からも気付かれなくとも、どんな小さな事にも忠実に、真実を尽くすならば、神様は必ず報いてくださることが私たちの慰めであり、励みとなります。

http://bible.com/81/rut.2.10-12.ja1955

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ルツ記 2:14-17
『食事の時、ボアズは彼女に言った、「ここへきて、パンを食べ、あなたの食べる物を酢に浸しなさい」。彼女が刈る人々のかたわらにすわったので、ボアズは焼麦を彼女に与えた。彼女は飽きるほど食べて残した。 そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。 また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」。 こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾った。そして拾った穂を打つと、大麦は一エパほどあった。』

朝から休みなく落ち穂拾いを続けた勤勉なルツに、ボアズは充分な昼食をもってねぎらい、午後にはわざと落ち穂を多く拾うことができるように格別な便宜を図りました。そしてルツも気を緩めることなく、夕方まで落ち穂拾いと脱穀の重労働を続けた結果、1エパ、およそ22〜23リットルにもなる大麦を一日で拾い集めることができました。これは約1週間分に相当する収穫で、落ち穂拾いではとても集められない量です。ここにボアズの寛大さと気前の良さが表されています。

これは恵みと憐れみに富む神様の御姿を比喩したものでもあります。神様を信じる私たちもまたボアズのように寛大で憐れみに富み、惜しみなく人に施す者となり、またルツのように謙虚で勤勉、実直な者とならせていただきますように。

http://bible.com/81/rut.2.14-17.ja1955

*****

ルツ記 2:19-23
『しゅうとめは彼女に言った、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように」。そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。 ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」。ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚のひとりです」。 モアブの女ルツは言った、「その人はまたわたしに『あなたはわたしのところの刈入れが全部終るまで、わたしのしもべたちのそばについていなさい』と言いました」。 ナオミは嫁ルツに言った、「娘よ、その人のところで働く女たちと一緒に出かけるのはけっこうです。そうすればほかの畑で人にいじめられるのを免れるでしょう」。 それで彼女はボアズのところで働く女たちのそばについていて穂を拾い、大麦刈と小麦刈の終るまでそうした。こうして彼女はしゅうとめと一緒に暮した。』

あまりにも多くの収穫を持ち帰ったルツに、ナオミは誰の畑で落ち穂を拾ったのかと尋ねたところ、最も近い親戚のボアズであったと知り、恵みと憐れみに富む神様の御名をほめたたえました。そして明日からもボアズの庇護の元で落ち穂を拾うようにとルツに勧めました。

ルツもまたナオミの言葉に従い、大麦の収穫(4月初旬)から小麦の収穫(5月下旬)まで、姑ナオミのために落ち穂を拾い続けました。このルツの勤勉さ、謙虚さ、従順さに、私たちも見習わせていただきたいと願います。

http://bible.com/81/rut.2.19-23.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/21

2016-10-21 06:50:07 | 今日の聖句
ガラテヤ人への手紙 6:10
「だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。」

私たちを良きもので満たしてくださる神様に倣い、私たちもまた善に励むならば、神様は大いに喜ばれ、更に祝福を増し加えてくださらないはずがありません。善を行うことは神様の御心に適うことですから、いつでも、どこでも、分け隔てなく、喜んで善を行う私たちでありますように。

http://bible.com/81/gal.6.10.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/20

2016-10-20 07:53:05 | 一日一章・聖書通読日記
ルツ記 1:1-3
「さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。 その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、ふたりの男の子の名はマロンとキリオンといい、ユダのベツレヘムのエフラタびとであった。彼らはモアブの地へ行って、そこにおったが、 ナオミの夫エリメレクは死んで、ナオミとふたりの男の子が残された。」

ルツ記は士師記の時代に生きたとある人の生涯から、神様のなされる御業の素晴らしさについて学ぶことができます。この時代に飢饉があったというのは、食糧事情のみならず、イスラエルの霊的な危機をも意味します。

エリメレクという人は他国に食料があると聞いて、神様から与えられた嗣業の地イスラエルを離れ、異邦人の国モアブに行きましたが、これはこの世での幸福な生活のために神様の祝福を捨てたことを意味します。理由はわかりませんが彼は結局モアブの地で死に、妻と二人の子どもが異国の地に残されました。一時的なこの世の繁栄を追い求める者の結末は、このようなものです。ただ神様の約束を信じて、神の国から迷い出ることのない私たちでありますように。

http://bible.com/81/rut.1.1-3.ja1955

*****

ルツ記 1:4-5
「ふたりの男の子はそれぞれモアブの女を妻に迎えた。そのひとりの名はオルパといい、ひとりの名はルツといった。彼らはそこに十年ほど住んでいたが、 マロンとキリオンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子と夫とに先だたれた。」

エリメレクの息子たちは、イスラエル人以外との結婚を禁じた神様の律法を守らず、異邦人であるモアブの女性と結婚しました。しかし彼らもまた父エリメレクのようにモアブの地で死にました。神様の戒めよりも、手の届く範囲にある安易な幸せを追い求める者の結末を見たように思えてなりません。私たちは身近な幸せに飛びつくことなく、たとい困難が待ち受けていても神様の約束を信じて待ち望む者でありたいと願います。

http://bible.com/81/rut.1.4-5.ja1955

*****

ルツ記 1:6-8
『その時、ナオミはモアブの地で、主がその民を顧みて、すでに食物をお与えになっていることを聞いたので、その嫁と共に立って、モアブの地からふるさとへ帰ろうとした。 そこで彼女は今いる所を出立し、ユダの地へ帰ろうと、ふたりの嫁を連れて道に進んだ。 しかしナオミはふたりの嫁に言った、「あなたがたは、それぞれ自分の母の家に帰って行きなさい。あなたがたが、死んだふたりの子とわたしに親切をつくしたように、どうぞ、主があなたがたに、いつくしみを賜わりますよう。」』

夫と二人の息子に先立たれたナオミは、主の憐れみによりイスラエルの飢饉がやんだことを聞いて、自分の故郷に戻ろうと決意します。私たちもまた帰る場所があります。それは主イエス様の十字架を信じ救われた者だけが入ることのできる永遠の安息の地、天の御国です。帰るべき場所が用意されているさいわいに感謝する私たちでありますように。

http://bible.com/81/rut.1.6-8.ja1955

*****

ルツ記 1:9-10, 13-14
『どうぞ、主があなたがたに夫を与え、夫の家で、それぞれ身の落ち着き所を得させられるように」。こう言って、ふたりの嫁に口づけしたので、彼らは声をあげて泣き、 ナオミに言った、「いいえ、わたしたちは一緒にあなたの民のところへ帰ります」。

そのためにあなたがたは、子どもの成長するまで待っているつもりなのですか。あなたがたは、そのために夫をもたずにいるつもりなのですか。娘たちよ、それはいけません。主の手がわたしに臨み、わたしを責められたことで、あなたがたのために、わたしは非常に心を痛めているのです」。 彼らはまた声をあげて泣いた。そしてオルパはそのしゅうとめに口づけしたが、ルツはしゅうとめを離れなかった。』

イスラエルに帰還するに際し、ナオミは二人のモアブ人の嫁に、父の家、自分の国に戻るようにと告げました。それは夫に先立たれた彼女たちが、異国の地で社会的にも経済的にも苦しい生活を強いられるよりも、再婚して幸せに暮らせるようにとの配慮から来るものでした。おそらく彼女自身も、身寄りのない異国の地モアブでどれほど苦労したか、自らの経験から得た教訓でもあったと思います。

二人の嫁はナオミについて行きたいと願いながらも、兄嫁オルパはナオミの説得に応じ、自分の国に帰って行きました。しかしルツはナオミから離れませんでした。人間的な愛や配慮、この世の幸せよりも、ナオミの背後にある神様の永遠の祝福を見る者は、困難な人生をも恐れず受け入れる勇気が与えられます。

http://bible.com/81/rut.1.9-10,13-14.ja1955

*****

ルツ記 1:15-16, 18
『そこでナオミは言った、「ごらんなさい。あなたの相嫁は自分の民と自分の神々のもとへ帰って行きました。あなたも相嫁のあとについて帰りなさい」。 しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。」

ナオミはルツが自分と一緒に行こうと、固く決心しているのを見たので、そのうえ言うことをやめた。』

ナオミはルツに自分の国に帰るようにと重ねて説得しましたが、ルツはナオミと共にイスラエルに行くことを強く決意していました。なぜならルツはナオミと離れることよりも、ナオミの信じている神様と離れたくなかったからです。それは「あなたの神は私の神です」との信仰告白にも表されています。

私たちにとって人とのつながりは大切です。しかしもっと大切なものは神様とのつながりです。ルツがナオミの信じるまことの神と離れることを拒んだように、人間的な愛よりもはるかに勝る神様との愛の交わりを決して手放さない私たちでありますように。

http://bible.com/81/rut.1.15-16,18.ja1955

*****

ルツ記 1:19-22
『そしてふたりは旅をつづけて、ついにベツレヘムに着いた。彼らがベツレヘムに着いたとき、町はこぞって彼らのために騒ぎたち、女たちは言った、「これはナオミですか」。 ナオミは彼らに言った、「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。 わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。 こうしてナオミは、モアブの地から帰った嫁、モアブの女ルツと一緒に帰ってきて、大麦刈の初めにベツレヘムに着いた。』

イスラエルに帰還したナオミを見たベツレヘムの人々は、これが本当にあのナオミなのかと驚きました。聖書には詳細に記されていませんが、おそらくエリメレクとナオミはイスラエルを出るときには相当裕福であったのに、モアブの地で夫と二人の息子に先立たれた苦労から余程やつれ果て、かつての繁栄の姿など見る影もなかったことでしょう。そこでナオミは、私を自分の名前の意味である「楽しみ」と呼ばず「苦しみ」と呼んでくださいと告白するほどでした。

神様の祝福から迷い出た者には、このような厳しい結末が待ち受けています。しかしナオミのさいわいは、再び神様の治められる国イスラエルに立ち返ったことです。たとい一時は神様から離れても、心から悔い改めて神様の元に立ち帰るならば、そこから新しい祝福の人生が始まります。

http://bible.com/81/rut.1.19-22.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/20

2016-10-20 06:45:03 | 今日の聖句
使徒行伝 4:12
「この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

人は魂の救いを求めて様々な宗教を生み出しましたが、イエス・キリストの他に人を救いうる御名はないと私たちは断言できるでしょうか。数多の神々(と呼ばれるもの)と決して同列ではない唯一の救いの道なる主イエスの御名を、確信を持って大胆に証する私たちでありますように。

http://bible.com/81/act.4.12.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/19

2016-10-19 07:55:19 | 一日一章・聖書通読日記
士師記 21:1-3
『かつてイスラエルの人々はミヅパで、「われわれのうちひとりもその娘をベニヤミンびとの妻として与える者があってはならない」と言って誓ったので、 民はベテルに行って、そこで夕暮まで神の前に座し、声をあげて激しく泣いて、 言った、「イスラエルの神、主よ、どうしてイスラエルにこのような事が起って、今日イスラエルに一つの部族が欠けるようになったのですか」。』

ベニヤミン族との戦いに勝利したイスラエル11部族の人々は、落ち武者を除き全滅させてしまった後で我に返り、ベニヤミン族が滅びてしまうことに気がつきました。しかし彼らは戦いの前に、ベニヤミン族とは婚姻関係を結ばないとの誓約を立ててしまっていたため、後に引けない状況になっていました。しかも自らの軽率な言動が招いた結果を、「主よ、どうしてですか」と神様に責任をなすりつける愚かなことを平気でしています。

神様の御心を求めず、ただ怒りに任せて無分別な行動を取るならば、取り返しのつかない結果を招くのみです。私たちは神様の御心を求めることによって、常に冷静に、正しい判断を行うことができます。もしマイナスの感情に心が支配されているならば、まず神様の御前に行き、心を静めて主の細き御声を聞き、公正な判断を仰ぐ私たちでありますように。

http://bible.com/81/jdg.21.1-3.ja1955

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士師記 21:7-12
『われわれは主をさして、われわれの娘を彼らに妻として与えないと誓ったので、かの残った者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいであろうか」。 彼らはまた言った、「イスラエルの部族のうちで、ミヅパにのぼって主のもとに行かなかったのはどの部族か」。ところがヤベシ・ギレアデからはひとりも陣営にきて集会に臨んだ者がなかった。 すなわち民を集めて見ると、ヤベシ・ギレアデの住民はひとりもそこにいなかった。 そこで会衆は勇士一万二千人をかしこにつかわし、これに命じて言った、「ヤベシ・ギレアデに行って、その住民を、女、子供もろともつるぎをもって撃て。 そしてこのようにしなければならない。すなわち男および男と寝た女はことごとく滅ぼさなければならない」。 こうして彼らはヤベシ・ギレアデの住民のうちで四百人の若い処女を獲た。これはまだ男と寝たことがなく、男を知らない者である。彼らはこれをカナンの地にあるシロの陣営に連れてきた。』

神様の御心に従わずに自分たちが正しいと思うことをやりたい放題した後で、その結果を取り繕うために、イスラエルの人々はまたも愚かな行動に出ます。女性のいなくなったベニヤミン族の落ち武者のために、自分たちと行動を共にしなかったという理由だけでヤベシ・ギレアデの人々を虐殺し、結婚相手となる若い女性のみ生かして残すという残忍な事を行いました。

神様になぜですかと問いながらも、自らの罪を悔い改めず、過ちを反省することのない者は、罪に罪を重ねる結果を招くのみです。私たちは決してこのような愚かな真似をしてはなりません。

http://bible.com/81/jdg.21.7-12.ja1955

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士師記 21:13-15
「そこで全会衆は人をつかわして、リンモンの岩におるベニヤミンの人々に平和を告げた。 ベニヤミンの人々がその時、帰ってきたので、彼らはヤベシ・ギレアデの女のうちから生かしておいた女をこれに与えたが、なお足りなかった。 こうして民は、主がイスラエルの部族のうちに欠陥をつくられたことのために、ベニヤミンをあわれんだ。」

イスラエルの人々は、ベニヤミン族が絶えることのないようにと、自分たちの解決手段で彼らと和解し、ゆるしました。しかし「主がイスラエルの部族のうちに欠陥をつくられたことのために、ベニヤミンをあわれんだ」との御言葉を読んで違和感を感じます。これは罪を断ち切るために神様がなされた裁きを否定し、自分たちの考えでベニヤミン族を憐れんで赦したということです。本当は神様が赦すべき罪を、人が赦してしまっているのです。順序が逆です。

これは現代社会にもはびこる神様抜きのヒューマニズムに他なりません。私たちは神様の愛よりも人間愛を優先させていないでしょうか。

http://bible.com/81/jdg.21.13-15.ja1955

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士師記 21:16, 19-21
『会衆の長老たちは言った、「ベニヤミンの女が絶えたので、かの残りの者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいでしょうか」。

それで彼らは言った、「年々シロに主の祭がある」。シロはベテルの北にあって、ベテルからシケムにのぼる大路の東、レバナの南にある。 そして彼らはベニヤミンの人々に命じて言った、「あなたがたは行って、ぶどう畑に待ち伏せして、 うかがいなさい。もしシロの娘たちが踊りを踊りに出てきたならば、ぶどう畑から出て、シロの娘たちのうちから、めいめい自分の妻をとって、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。」』

ヤベシ・ギレアデを虐殺してもベニヤミン族を維持するためには女性の数が足らなかったため、イスラエルの人々は驚くべき決断を下します。それは、白で行われる主の祭りのために踊りに出てきた女性を片っ端から誘拐しても構わないという、更に罪に罪を重ねる解決手段です。人間的な考えに基づく解決手段の、いかに浅はかで罪深いものであるかを端的に表しています。私たちはこのような愚かな歴史を反面教師として、同じような過ちを犯さぬよう、肝に銘じなければなりません。

http://bible.com/81/jdg.21.16,19-21.ja1955

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士師記 21:25
「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。」

士師記の最後を締めくくるのが「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」という御言葉です。士師記にはこの箇所と同じ御言葉が何度も出てきます。神の義を求めず、自分の正義を貫く者は、士師記の時代の人々のように善悪の分別もない支離滅裂な結果を招くのみです。

聖書は、過去の忌まわしい失敗事例をも包み隠さず記録して、後の世代の人々が繰り返し同じ過ちを犯さないようにと警告します。神様を脇に置いて自分の好き勝手に生きた士師記の時代の人々のようになることなく、まず神の義と神の国を求め、御言葉に忠実に聞き従う私たちでありますように。

http://bible.com/81/jdg.21.25.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/19

2016-10-19 06:55:08 | 今日の聖句
マタイによる福音書 6:34
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」

先の見えない現代社会において、誰しも将来への不安はつきまといます。しかし歴史を司られるまことの神様に全幅の信頼を寄せる者は、漠然とした不安よりも希望を確信することができます。不確実な明日への思い煩いから解放され、今日を確実に、精一杯生きる充実した毎日を過ごす私たちでありますように。

http://bible.com/81/mat.6.34.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/18

2016-10-18 08:02:52 | 一日一章・聖書通読日記
士師記 20:1-2
「そこでイスラエルの人々は、ダンからベエルシバまで、またギレアデの地からもみな出てきて、その会衆はひとりのようにミヅパで主のもとに集まった。 民の首領たち、すなわちイスラエルのすべての部族の首領たちは、みずから神の民の集合に出た。つるぎを帯びている歩兵が四十万人あった。」

ギベアで起こった忌まわしい出来事の知らせを受けて、ベニヤミン族を除くすべてのイスラエルの民は、北はダンから南はベエルシバまで(これは日本で言うならば北は北海道から南は沖縄まで)、そしてヨルダン川東岸の嗣業の地であるギレアデからも、ベニヤミンの地にほど近いミヅパに集合しました。その人数は歩兵で40万ということですから、ヨシュアの人口調査(約60万)から考えても、ほぼ全員に近い人数です。

何か事が起きたとき神の民イスラエルが一致団結したように、信仰の共同体である私たちもまた、主のために教会全体が一致団結することは大切なことです。

http://bible.com/81/jdg.20.1-2.ja1955

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士師記 20:3-6
『ベニヤミンの人々は、イスラエルの人々がミヅパに上ったことを聞いた。イスラエルの人々は言った、「どうして、この悪事が起ったのか、われわれに話してください」。 殺された女の夫であるレビびとは答えて言った、「わたしは、めかけと一緒にベニヤミンに属するギベアへ行って宿りましたが、 ギベアの人々は立ってわたしを攻め、夜の間に、わたしのおる家を取り囲んで、わたしを殺そうと企て、ついにわたしのめかけをはずかしめて、死なせました。 それでわたしはめかけを捕えて断ち切り、それをイスラエルの嗣業のすべての地方にあまねく送りました。彼らがイスラエルにおいて憎むべきみだらなことを行ったからです。』

前代未聞の事態に、先に妾を殺されたレビ人が全イスラエルを召集した理由を説明し、イスラエルの律法に基づき、憎むべき淫らなことをしたギベアの人々に報復することを提案しました。

このことは一見、理に適っていますが、本来は双方の弁明を聞いて善悪を判断することがイスラエルの律法に基づく裁判の手順ですから、一方的にベニヤミンを悪と決めつけたこの判断は、律法に従っていないことになります。ここに士師の時代の「人はそれぞれ自分の目に良いと思うことを行っていた」という誤った信仰に陥っていた状況が垣間見られます。

私たちは、聖書の基準に照らして、神様の御言葉に忠実に従うことが大切です。

http://bible.com/81/jdg.20.3-6.ja1955

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士師記 20:11-14
『こうしてイスラエルの人々は皆集まり、一致結束して町を攻めようとした。 イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。 それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう」。しかしベニヤミンの人々はその兄弟であるイスラエルの人々の言葉を聞きいれなかった。 かえってベニヤミンの人々は町々からギベアに集まり、出てイスラエルの人々と戦おうとした。』

全イスラエルはベニヤミン族に対峙し、ギベアの町の悪事を働いた者を渡すようにと言いましたが、ベニヤミン族はその言葉を拒み、イスラエルと戦う姿勢を取りました。神様の前に明らかな罪を容認してまで自分たちを守ろうとしたベニヤミン族の判断は誤っています。しかし同時に、はじめから戦うつもりでベニヤミンを力でねじ伏せようとしたイスラエルの民たちの態度もまた誤りです。義と平和を愛される神様を信じる私たちは、何事もまず平和的な解決を模索する努力を怠ってはなりません。

http://bible.com/81/jdg.20.11-14.ja1955

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士師記 20:15-17
「その日、町々から集まったベニヤミンの人々はつるぎを帯びている者二万六千人あり、ほかにギベアの住民で集まった精兵が七百人あった。 このすべての民のうちに左ききの精兵が七百人あって、いずれも一本の毛すじをねらって石を投げても、はずれることがなかった。 イスラエルの人々の集まった者はベニヤミンを除いて、つるぎを帯びている者四十万人あり、いずれも軍人であった。」

歩兵40万人もいた全イスラエル軍に対し、ベニヤミン軍は26,700人の精兵で対抗しようとしました。その精兵は髪の毛一筋もはずさずに石を投げることのできるほどに、高度に訓練された精兵でした。しかし彼らは共に、神様よりも人数や技術に頼る態度に変わりありません。物量も訓練も大切ですが、私たちは信仰に基づいて神様の御心に聞き従うことが最も重要です。

http://bible.com/81/jdg.20.15-17.ja1955

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士師記 20:18-25
『イスラエルの人々は立ちあがってベテルにのぼり、神に尋ねた、「われわれのうち、いずれがさきにのぼって、ベニヤミンの人々と戦いましょうか」。主は言われた、「ユダがさきに」。 そこでイスラエルの人々は、朝起きて、ギベアに対し陣を取った。 すなわちイスラエルの人々はベニヤミンと戦うために出て行って、ギベアで彼らに対して戦いの備えをしたが、 ベニヤミンの人々はギベアから出てきて、その日イスラエルの人々のうち二万二千人を地に撃ち倒した。 しかしイスラエルの民の人々は奮いたって初めの日に備えをした所にふたたび戦いの備えをした。 そしてイスラエルの人々は上って行って主の前に夕暮まで泣き、主に尋ねた、「われわれは再びわれわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦いを交えるべきでしょうか」。主は言われた、「攻めのぼれ」。 そこでイスラエルの人々は、次の日またベニヤミンの人々の所に攻めよせたが、 ベニヤミンは次の日またギベアから出て、これを迎え、ふたたびイスラエルの人々のうち一万八千人を地に撃ち倒した。これらは皆つるぎを帯びている者であった。』

最初の2回の戦いにおいて、40万人のイスラエル軍のうち10分の1にあたる4万人が、2万6千人のベニヤミンの精兵に撃ち破られるという惨敗を喫してしまいました。これは怒りにまかせて、また数の圧倒的優位を頼みとして、自分の思い通りに物事を進めようとしたイスラエルの過ちによる失敗です。私たちは何を行うにもまず神様の御心を求め、神様にのみ寄り頼むことが必要です。

http://bible.com/81/jdg.20.18-25.ja1955

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士師記 20:26-28
『これがためにイスラエルのすべての人々すなわち全軍はベテルに上って行って泣き、その所で主の前に座して、その日夕暮まで断食し、燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。 そしてイスラエルの人々は主に尋ね、-そのころ神の契約の箱はそこにあって、 アロンの子エレアザルの子であるピネハスが、それに仕えていた-そして言った、「われわれはなおふたたび出て、われわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦うべきでしょうか。あるいはやめるべきでしょうか」。主は言われた、「のぼれ。わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」。』

最初の2回の戦いに惨敗したイスラエルは、ここではじめて神様の契約の箱の前で礼拝を捧げて御心を問いました。私たちは、自分たちの計画を前提に神様に判断を求めるのではなく、まず神様を礼拝して栄光を帰し、御心に聞き従うことが勝利の人生の秘訣です。

http://bible.com/81/jdg.20.26-28.ja1955

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士師記 20:32-35
『ベニヤミンの人々は言った、「彼らは初めのように、われわれの前に撃ち破られる」。しかしイスラエルの人々は言った、「われわれは逃げて、彼らを町から大路におびき出そう」。 そしてイスラエルの人々は皆その所から立ってバアル・タマルに備えをした。その間に待ち伏せていたイスラエルの人々がその所から、すなわちゲバの西から現れ出た。 すなわちイスラエルの全軍のうちから精兵一万人がきて、ギベアを襲い、その戦いは激しかった。しかしベニヤミンの人々は災の自分たちに迫っているのを知らなかった。 主がイスラエルの前にベニヤミンを撃ち敗られたので、イスラエルの人々は、その日ベニヤミンびと二万五千一百人を殺した。これらは皆つるぎを帯びている者であった。』

2回の戦いに勝利したベニヤミンの人々は、次も楽勝できると自分たちの力に慢心し、ついに全滅する結果を招いてしまいました。神様に頼らず自分の力で何とかしようとする心、神の義を行うよりも自分の思い通りに生きようとする者は、最後は必ず滅ぼされることを、私たちは賢く学ばなければなりません。

http://bible.com/81/jdg.20.32-35.ja1955
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【今日の聖句】 2016/10/18

2016-10-18 06:50:24 | 今日の聖句
箴言 27:5-6
「あからさまに戒めるのは、ひそかに愛するのにまさる。 愛する者が傷つけるのは、まことからであり、あだの口づけするのは偽りからである。」

耳に痛い忠告をする者こそ、心からその人のためを思ってくれる真の友です。人に嫌われることを恐れて当たり障りのないことしか言わない者を友とすることなく、まことの愛に基づいて苦言を呈し、過ちを正してくれる友を持つさいわいに感謝する私たちでありますように。

http://bible.com/81/pro.27.5-6.ja1955
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【COGHCC聖書通読】 2016/10/17

2016-10-17 08:00:01 | 一日一章・聖書通読日記
士師記 19:1-3
「そのころ、イスラエルに王がなかった時、エフライムの山地の奥にひとりのレビびとが寄留していた。彼はユダのベツレヘムからひとりの女を迎えて、めかけとしていたが、 そのめかけは怒って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの父の家に帰って、そこに四か月ばかり過ごした。 そこで夫は彼女をなだめて連れ帰ろうと、しもべと二頭のろばを従え、立って彼女のあとを追って行った。彼が女の父の家に着いた時、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。」

イスラエルに王がなかったとき、という時代背景は、目に見える王だけを指したのではなく、神様こそが目には見えないまことのイスラエルの王であるとの信仰が衰退していることも意味しているようにも思います。

ある人が妾を迎えたことは、一夫多妻性であった当時としては別に悪いことではありませんでした。しかし何らかの理由でその妾が実家に帰ってしまったため、その人は和解しようと妾の実家に赴いたため、彼女の父は彼を喜んで迎えます。ここまでは何のやましいことはなく、むしろホームドラマでも見るような、ごくありふれた微笑ましい日常かもしれません。しかし、人にとって何の問題もないことが、イスラエル全体が罪に陥るような大問題となる引き金を引くことになることを、この聖書の箇所は私たちに戒めているように感じました。私たちは何をするにも、自分が正しいと考えることに頼らず、まず神様の御心を尋ね求めることが肝要です。

http://bible.com/81/jdg.19.1-3.ja1955

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士師記 19:9-10
「その人がついにめかけおよびしもべと共に去ろうとして立ちあがったとき、娘の父であるしゅうとは彼に言った、「日も暮れようとしている。どうぞもう一晩泊まりなさい。日は傾いた。ここに宿って楽しく過ごしなさい。そしてあしたの朝はやく起きて出立し、家に帰りなさい」。 しかし、その人は泊まることを好まないので、立って去り、エブスすなわちエルサレムの向かいに着いた。くらをおいた二頭のろばと彼のめかけも一緒であった。」

妾の実家に5日間も滞在したこの人は一日でも早く帰宅したいと思ったのでしょうか、義父の冷静な勧めを聞き入れず、日暮れも近いというのに帰路に旅立とうとしました。この性急な判断が、その後イスラエルに大きな過ちを犯させるきっかけとなりました。自分の考えや計画にこだわって人の勧めに耳を貸さない頑なな心は、私たちを罪に陥れる結果を招くことを忘れてはなりません。

http://bible.com/81/jdg.19.9-10.ja1955

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士師記 19:11-15
『彼らがエブスに近づいたとき、日はすでに没したので、しもべは主人に言った、「さあ、われわれは道を転じてエブスびとのこの町にはいって、そこに宿りましょう」。 主人は彼に言った、「われわれは道を転じて、イスラエルの人々の町でない外国人の町に、はいってはならない。ギベアまで行こう」。 彼はまたしもべに言った、「さあ、われわれはギベアかラマか、そのうちの一つに着いてそこに宿ろう」。 彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギベアの近くで日が暮れたので、 ギベアへ行って宿ろうと、そこに道を転じ、町にはいって、その広場に座した。だれも彼らを家に迎えて泊めてくれる者がなかったからである。』

帰路の途中で日が暮れてしまったため、この人は急いで宿を探します。このときも近くの異邦人の町に行かず、同じ神様を信じるイスラエルの部族の町まで行く正しい判断をしました。しかしこの人にとっては正しい判断も、結果的には間違いの元だったのです。彼らがたどり着いたギベアの町は、同族の旅人が来て困っていても誰一人もてなすことのない、愛の冷えた、当時の人々の習わしにも反した罪の町でした。クリスチャンだからと言って、誰もが正しい信仰を持っているわけではありません。この世には多くの自称クリスチャン、表面的なクリスチャンがいる悲しい現実があります。

http://bible.com/81/jdg.19.11-15.ja1955

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士師記 19:16-21
『時にひとりの老人が夕暮に畑の仕事から帰ってきた。この人はエフライムの山地の者で、ギベアに寄留していたのである。ただしこの所の人々はベニヤミンびとであった。 彼は目をあげて、町の広場に旅人のおるのを見た。老人は言った、「あなたはどこへ行かれるのですか。どこからおいでになりましたか」。 その人は言った、「われわれはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥へ行くものです。わたしはあそこの者で、ユダのベツレヘムへ行き、今わたしの家に帰るところですが、だれもわたしを家に泊めてくれる者がありません。 われわれには、ろばのわらも飼葉もあり、またわたしと、はしためと、しもべと共にいる若者との食物も酒もあって、何も欠けているものはありません」。 老人は言った、「安心しなさい。あなたの必要なものはなんでも備えましょう。ただ広場で夜を過ごしてはなりません」。 そして彼を家に連れていって、ろばに飼葉を与えた。彼らは足を洗って飲み食いした。』

宿もなく途方に暮れて広場にたたずんでいだ人を家に招いてもてなしたのは、この町の人ではなく寄留者の老人でした。彼らはしばし、楽しく交わりのひとときを持ちました。たとい私たちの周りの状況は悪くとも、置かれた環境によらず、神様の御心を行うことが私たちに平安をもたらします。

http://bible.com/81/jdg.19.16-21.ja1955

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士師記 19:22-23, 25-26
『彼らが楽しく過ごしていた時、町の人々の悪い者どもがその家を取り囲み、戸を打ちたたいて、家のあるじである老人に言った、「あなたの家にきた人を出しなさい。われわれはその者を知るであろう」。 しかし家のあるじは彼らのところに出ていって言った、「いいえ、兄弟たちよ、どうぞ、そんな悪いことをしないでください。この人はすでにわたしの家にはいったのだから、そんなつまらない事をしないでください。

しかし人々が聞きいれなかったので、その人は自分のめかけをとって彼らのところに出した。彼らはその女を犯して朝まで終夜はずかしめ、日ののぼるころになって放し帰らせた。 朝になって女は自分の主人を宿してくれた人の家の戸口にきて倒れ伏し、夜のあけるまでに及んだ。』

ギベアの町の人々は、旅人をもてなさない愛の冷え切った心だけでなく、律法が禁じた忌むべき同性愛をも平気で行い、それを誰も戒めないほどに堕落していました。そして彼らは旅人の妾を夜通しレイプして死に至らしめてしまいました。

これと同じ状況は、天から火が下って滅ぼされた罪の町ゴモラとして聖書の中に出てきます。そして今の日本も、この町と同じ状況ではないでしょうか。罪の世に生きる中でも罪に汚れず、神の愛ときよさを保ち、主の御言葉を守り行う私たちでありますように。

http://bible.com/81/jdg.19.22-23,25-26.ja1955
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