サムエル記上 3:1-2
「わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。 さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。」
サムエルはエリの元で主に仕えて成長しました。しかし当時は主の預言も黙示もまれな、イスラエルの霊的な暗黒時代でした。エリの目がかすんで見えなくなったというのは、年齢的な肉体の衰えのみならず、霊的にも目が閉ざされていたことを意味します。
私たちもまた、主の御言葉が臨むことがまれになっていないでしょうか。聖書を読んでも心にピンと感じるものがなく、御言葉に目が閉ざされていないでしょうか。今一度、自分の信仰状態を見つめ直し、心の目を開いてくださいと主に祈り求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/1sa.3.1-2.ja1955
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サムエル記上 3:3-5
『神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、 主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、 エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。』
主の預言がまれな暗黒時代にあっても、神の箱の前に灯火はまだ消えていませんでした。これは、希望は失われていないことを意味します。主は祭司エリに代わり、主の御言葉を語り告げる者としてわらべサムエルを呼ばれました。
しかしまだ幼かったサムエルは、エリが自分を呼んだものと勘違いし、エリの元に駆けつけました。エリもまた主がサムエルを呼ばれたことに気付かず、帰って寝なさいと答えました。私たちは主の細き御声に気付く耳と心を兼ね備え、主の語りかけを待つ姿勢を学ばなければなりません。
http://bible.com/81/1sa.3.3-5.ja1955
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サムエル記上 3:7-9
『サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。 主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。 そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。』
主が三度サムエルを呼ばれたとき、ようやくエリも、サムエルに語りかけたのが主であることを悟り、次に呼び掛けられたら「僕は聞きます、お話ください」と答えるように教えました。たとい肉体的にも霊的にも衰えていても、サムエルを正しく指導したエリの姿勢に信仰の継承の大切さを学ばせていただきたいと思います。
http://bible.com/81/1sa.3.7-9.ja1955
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サムエル記上 3:10
『主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。』
主は再びサムエルを呼びました。そしてサムエルはエリから指導された通りに、主の御声を聞く姿勢を取りました。主は私たちにも、いつ語りかけられるか誰もわかりません。しかし主の御声を聞いたならば、直ちに「しもべは聞きます。主よ、どうぞお話ください」と、主の御声を聞く姿勢を取ることができるように、常日頃から備える私たちでありますように。
http://bible.com/81/1sa.3.10.ja1955
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サムエル記上 3:15-18
『サムエルは朝まで寝て、主の宮の戸をあけたが、サムエルはその幻のことをエリに語るのを恐れた。 しかしエリはサムエルを呼んで言った、「わが子サムエルよ」。サムエルは言った、「はい、ここにおります」。 エリは言った、「何事をお告げになったのか。隠さず話してください。もしお告げになったことを一つでも隠して、わたしに言わないならば、どうぞ神があなたを罰し、さらに重く罰せられるように」。 そこでサムエルは、その事をことごとく話して、何も彼に隠さなかった。エリは言った、「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」。』
サムエルが主から告げられた言葉は、自分の仕える祭司エリの家系に対する厳しい裁きでした。幼いサムエルはその裁きの言葉をエリに語ることを恐れましたが、エリは、主の言葉は何事も隠さず話すようにとサムエルを指導しました。そこでサムエルはエリの指導に素直に聞き従い、神様から告げられた言葉を包み隠さず語りました。そしてエリはその言葉が主の言葉であると認め、受け止めました。
この箇所から私たちが学ぶべき事はたくさんあります。まず最初に、主から授かった御言葉は余すことなく語らなければならないことです。人を恐れて都合の悪いことは隠したり、人に喜ばれるために受け入れられやすい言葉だけを語ることは、主の御言葉を語り継ぐ者として相応しくありません。最近は教会でも愛や癒し、許容のメッセージばかり語られる傾向がありますが、それは御言葉の飢饉につながる危険信号です。
また、どんな厳しい言葉でも、主の御声と聞き従う耳と心を持つことが私たちに求められます。自分にとって受け入れやすい御言葉ばかりを選り好みする者は、信仰の失格者です。エリもまたサムエルから告げられた厳しい裁きの言葉を、すべて主の御告げであると素直に受け入れました。この謙虚さと素直さがなければ、罪の悔い改めもなく、赦しも受けることなどできません。
http://bible.com/81/1sa.3.15-18.ja1955
「わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。 さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。」
サムエルはエリの元で主に仕えて成長しました。しかし当時は主の預言も黙示もまれな、イスラエルの霊的な暗黒時代でした。エリの目がかすんで見えなくなったというのは、年齢的な肉体の衰えのみならず、霊的にも目が閉ざされていたことを意味します。
私たちもまた、主の御言葉が臨むことがまれになっていないでしょうか。聖書を読んでも心にピンと感じるものがなく、御言葉に目が閉ざされていないでしょうか。今一度、自分の信仰状態を見つめ直し、心の目を開いてくださいと主に祈り求める私たちでありますように。
http://bible.com/81/1sa.3.1-2.ja1955
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サムエル記上 3:3-5
『神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、 主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、 エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。』
主の預言がまれな暗黒時代にあっても、神の箱の前に灯火はまだ消えていませんでした。これは、希望は失われていないことを意味します。主は祭司エリに代わり、主の御言葉を語り告げる者としてわらべサムエルを呼ばれました。
しかしまだ幼かったサムエルは、エリが自分を呼んだものと勘違いし、エリの元に駆けつけました。エリもまた主がサムエルを呼ばれたことに気付かず、帰って寝なさいと答えました。私たちは主の細き御声に気付く耳と心を兼ね備え、主の語りかけを待つ姿勢を学ばなければなりません。
http://bible.com/81/1sa.3.3-5.ja1955
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サムエル記上 3:7-9
『サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。 主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。 そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。』
主が三度サムエルを呼ばれたとき、ようやくエリも、サムエルに語りかけたのが主であることを悟り、次に呼び掛けられたら「僕は聞きます、お話ください」と答えるように教えました。たとい肉体的にも霊的にも衰えていても、サムエルを正しく指導したエリの姿勢に信仰の継承の大切さを学ばせていただきたいと思います。
http://bible.com/81/1sa.3.7-9.ja1955
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サムエル記上 3:10
『主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。』
主は再びサムエルを呼びました。そしてサムエルはエリから指導された通りに、主の御声を聞く姿勢を取りました。主は私たちにも、いつ語りかけられるか誰もわかりません。しかし主の御声を聞いたならば、直ちに「しもべは聞きます。主よ、どうぞお話ください」と、主の御声を聞く姿勢を取ることができるように、常日頃から備える私たちでありますように。
http://bible.com/81/1sa.3.10.ja1955
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サムエル記上 3:15-18
『サムエルは朝まで寝て、主の宮の戸をあけたが、サムエルはその幻のことをエリに語るのを恐れた。 しかしエリはサムエルを呼んで言った、「わが子サムエルよ」。サムエルは言った、「はい、ここにおります」。 エリは言った、「何事をお告げになったのか。隠さず話してください。もしお告げになったことを一つでも隠して、わたしに言わないならば、どうぞ神があなたを罰し、さらに重く罰せられるように」。 そこでサムエルは、その事をことごとく話して、何も彼に隠さなかった。エリは言った、「それは主である。どうぞ主が、良いと思うことを行われるように」。』
サムエルが主から告げられた言葉は、自分の仕える祭司エリの家系に対する厳しい裁きでした。幼いサムエルはその裁きの言葉をエリに語ることを恐れましたが、エリは、主の言葉は何事も隠さず話すようにとサムエルを指導しました。そこでサムエルはエリの指導に素直に聞き従い、神様から告げられた言葉を包み隠さず語りました。そしてエリはその言葉が主の言葉であると認め、受け止めました。
この箇所から私たちが学ぶべき事はたくさんあります。まず最初に、主から授かった御言葉は余すことなく語らなければならないことです。人を恐れて都合の悪いことは隠したり、人に喜ばれるために受け入れられやすい言葉だけを語ることは、主の御言葉を語り継ぐ者として相応しくありません。最近は教会でも愛や癒し、許容のメッセージばかり語られる傾向がありますが、それは御言葉の飢饉につながる危険信号です。
また、どんな厳しい言葉でも、主の御声と聞き従う耳と心を持つことが私たちに求められます。自分にとって受け入れやすい御言葉ばかりを選り好みする者は、信仰の失格者です。エリもまたサムエルから告げられた厳しい裁きの言葉を、すべて主の御告げであると素直に受け入れました。この謙虚さと素直さがなければ、罪の悔い改めもなく、赦しも受けることなどできません。
http://bible.com/81/1sa.3.15-18.ja1955