士師記 21:1-3
『かつてイスラエルの人々はミヅパで、「われわれのうちひとりもその娘をベニヤミンびとの妻として与える者があってはならない」と言って誓ったので、 民はベテルに行って、そこで夕暮まで神の前に座し、声をあげて激しく泣いて、 言った、「イスラエルの神、主よ、どうしてイスラエルにこのような事が起って、今日イスラエルに一つの部族が欠けるようになったのですか」。』
ベニヤミン族との戦いに勝利したイスラエル11部族の人々は、落ち武者を除き全滅させてしまった後で我に返り、ベニヤミン族が滅びてしまうことに気がつきました。しかし彼らは戦いの前に、ベニヤミン族とは婚姻関係を結ばないとの誓約を立ててしまっていたため、後に引けない状況になっていました。しかも自らの軽率な言動が招いた結果を、「主よ、どうしてですか」と神様に責任をなすりつける愚かなことを平気でしています。
神様の御心を求めず、ただ怒りに任せて無分別な行動を取るならば、取り返しのつかない結果を招くのみです。私たちは神様の御心を求めることによって、常に冷静に、正しい判断を行うことができます。もしマイナスの感情に心が支配されているならば、まず神様の御前に行き、心を静めて主の細き御声を聞き、公正な判断を仰ぐ私たちでありますように。
http://bible.com/81/jdg.21.1-3.ja1955
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士師記 21:7-12
『われわれは主をさして、われわれの娘を彼らに妻として与えないと誓ったので、かの残った者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいであろうか」。 彼らはまた言った、「イスラエルの部族のうちで、ミヅパにのぼって主のもとに行かなかったのはどの部族か」。ところがヤベシ・ギレアデからはひとりも陣営にきて集会に臨んだ者がなかった。 すなわち民を集めて見ると、ヤベシ・ギレアデの住民はひとりもそこにいなかった。 そこで会衆は勇士一万二千人をかしこにつかわし、これに命じて言った、「ヤベシ・ギレアデに行って、その住民を、女、子供もろともつるぎをもって撃て。 そしてこのようにしなければならない。すなわち男および男と寝た女はことごとく滅ぼさなければならない」。 こうして彼らはヤベシ・ギレアデの住民のうちで四百人の若い処女を獲た。これはまだ男と寝たことがなく、男を知らない者である。彼らはこれをカナンの地にあるシロの陣営に連れてきた。』
神様の御心に従わずに自分たちが正しいと思うことをやりたい放題した後で、その結果を取り繕うために、イスラエルの人々はまたも愚かな行動に出ます。女性のいなくなったベニヤミン族の落ち武者のために、自分たちと行動を共にしなかったという理由だけでヤベシ・ギレアデの人々を虐殺し、結婚相手となる若い女性のみ生かして残すという残忍な事を行いました。
神様になぜですかと問いながらも、自らの罪を悔い改めず、過ちを反省することのない者は、罪に罪を重ねる結果を招くのみです。私たちは決してこのような愚かな真似をしてはなりません。
http://bible.com/81/jdg.21.7-12.ja1955
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士師記 21:13-15
「そこで全会衆は人をつかわして、リンモンの岩におるベニヤミンの人々に平和を告げた。 ベニヤミンの人々がその時、帰ってきたので、彼らはヤベシ・ギレアデの女のうちから生かしておいた女をこれに与えたが、なお足りなかった。 こうして民は、主がイスラエルの部族のうちに欠陥をつくられたことのために、ベニヤミンをあわれんだ。」
イスラエルの人々は、ベニヤミン族が絶えることのないようにと、自分たちの解決手段で彼らと和解し、ゆるしました。しかし「主がイスラエルの部族のうちに欠陥をつくられたことのために、ベニヤミンをあわれんだ」との御言葉を読んで違和感を感じます。これは罪を断ち切るために神様がなされた裁きを否定し、自分たちの考えでベニヤミン族を憐れんで赦したということです。本当は神様が赦すべき罪を、人が赦してしまっているのです。順序が逆です。
これは現代社会にもはびこる神様抜きのヒューマニズムに他なりません。私たちは神様の愛よりも人間愛を優先させていないでしょうか。
http://bible.com/81/jdg.21.13-15.ja1955
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士師記 21:16, 19-21
『会衆の長老たちは言った、「ベニヤミンの女が絶えたので、かの残りの者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいでしょうか」。
…
それで彼らは言った、「年々シロに主の祭がある」。シロはベテルの北にあって、ベテルからシケムにのぼる大路の東、レバナの南にある。 そして彼らはベニヤミンの人々に命じて言った、「あなたがたは行って、ぶどう畑に待ち伏せして、 うかがいなさい。もしシロの娘たちが踊りを踊りに出てきたならば、ぶどう畑から出て、シロの娘たちのうちから、めいめい自分の妻をとって、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。」』
ヤベシ・ギレアデを虐殺してもベニヤミン族を維持するためには女性の数が足らなかったため、イスラエルの人々は驚くべき決断を下します。それは、白で行われる主の祭りのために踊りに出てきた女性を片っ端から誘拐しても構わないという、更に罪に罪を重ねる解決手段です。人間的な考えに基づく解決手段の、いかに浅はかで罪深いものであるかを端的に表しています。私たちはこのような愚かな歴史を反面教師として、同じような過ちを犯さぬよう、肝に銘じなければなりません。
http://bible.com/81/jdg.21.16,19-21.ja1955
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士師記 21:25
「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。」
士師記の最後を締めくくるのが「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」という御言葉です。士師記にはこの箇所と同じ御言葉が何度も出てきます。神の義を求めず、自分の正義を貫く者は、士師記の時代の人々のように善悪の分別もない支離滅裂な結果を招くのみです。
聖書は、過去の忌まわしい失敗事例をも包み隠さず記録して、後の世代の人々が繰り返し同じ過ちを犯さないようにと警告します。神様を脇に置いて自分の好き勝手に生きた士師記の時代の人々のようになることなく、まず神の義と神の国を求め、御言葉に忠実に聞き従う私たちでありますように。
http://bible.com/81/jdg.21.25.ja1955
『かつてイスラエルの人々はミヅパで、「われわれのうちひとりもその娘をベニヤミンびとの妻として与える者があってはならない」と言って誓ったので、 民はベテルに行って、そこで夕暮まで神の前に座し、声をあげて激しく泣いて、 言った、「イスラエルの神、主よ、どうしてイスラエルにこのような事が起って、今日イスラエルに一つの部族が欠けるようになったのですか」。』
ベニヤミン族との戦いに勝利したイスラエル11部族の人々は、落ち武者を除き全滅させてしまった後で我に返り、ベニヤミン族が滅びてしまうことに気がつきました。しかし彼らは戦いの前に、ベニヤミン族とは婚姻関係を結ばないとの誓約を立ててしまっていたため、後に引けない状況になっていました。しかも自らの軽率な言動が招いた結果を、「主よ、どうしてですか」と神様に責任をなすりつける愚かなことを平気でしています。
神様の御心を求めず、ただ怒りに任せて無分別な行動を取るならば、取り返しのつかない結果を招くのみです。私たちは神様の御心を求めることによって、常に冷静に、正しい判断を行うことができます。もしマイナスの感情に心が支配されているならば、まず神様の御前に行き、心を静めて主の細き御声を聞き、公正な判断を仰ぐ私たちでありますように。
http://bible.com/81/jdg.21.1-3.ja1955
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士師記 21:7-12
『われわれは主をさして、われわれの娘を彼らに妻として与えないと誓ったので、かの残った者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいであろうか」。 彼らはまた言った、「イスラエルの部族のうちで、ミヅパにのぼって主のもとに行かなかったのはどの部族か」。ところがヤベシ・ギレアデからはひとりも陣営にきて集会に臨んだ者がなかった。 すなわち民を集めて見ると、ヤベシ・ギレアデの住民はひとりもそこにいなかった。 そこで会衆は勇士一万二千人をかしこにつかわし、これに命じて言った、「ヤベシ・ギレアデに行って、その住民を、女、子供もろともつるぎをもって撃て。 そしてこのようにしなければならない。すなわち男および男と寝た女はことごとく滅ぼさなければならない」。 こうして彼らはヤベシ・ギレアデの住民のうちで四百人の若い処女を獲た。これはまだ男と寝たことがなく、男を知らない者である。彼らはこれをカナンの地にあるシロの陣営に連れてきた。』
神様の御心に従わずに自分たちが正しいと思うことをやりたい放題した後で、その結果を取り繕うために、イスラエルの人々はまたも愚かな行動に出ます。女性のいなくなったベニヤミン族の落ち武者のために、自分たちと行動を共にしなかったという理由だけでヤベシ・ギレアデの人々を虐殺し、結婚相手となる若い女性のみ生かして残すという残忍な事を行いました。
神様になぜですかと問いながらも、自らの罪を悔い改めず、過ちを反省することのない者は、罪に罪を重ねる結果を招くのみです。私たちは決してこのような愚かな真似をしてはなりません。
http://bible.com/81/jdg.21.7-12.ja1955
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士師記 21:13-15
「そこで全会衆は人をつかわして、リンモンの岩におるベニヤミンの人々に平和を告げた。 ベニヤミンの人々がその時、帰ってきたので、彼らはヤベシ・ギレアデの女のうちから生かしておいた女をこれに与えたが、なお足りなかった。 こうして民は、主がイスラエルの部族のうちに欠陥をつくられたことのために、ベニヤミンをあわれんだ。」
イスラエルの人々は、ベニヤミン族が絶えることのないようにと、自分たちの解決手段で彼らと和解し、ゆるしました。しかし「主がイスラエルの部族のうちに欠陥をつくられたことのために、ベニヤミンをあわれんだ」との御言葉を読んで違和感を感じます。これは罪を断ち切るために神様がなされた裁きを否定し、自分たちの考えでベニヤミン族を憐れんで赦したということです。本当は神様が赦すべき罪を、人が赦してしまっているのです。順序が逆です。
これは現代社会にもはびこる神様抜きのヒューマニズムに他なりません。私たちは神様の愛よりも人間愛を優先させていないでしょうか。
http://bible.com/81/jdg.21.13-15.ja1955
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士師記 21:16, 19-21
『会衆の長老たちは言った、「ベニヤミンの女が絶えたので、かの残りの者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいでしょうか」。
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それで彼らは言った、「年々シロに主の祭がある」。シロはベテルの北にあって、ベテルからシケムにのぼる大路の東、レバナの南にある。 そして彼らはベニヤミンの人々に命じて言った、「あなたがたは行って、ぶどう畑に待ち伏せして、 うかがいなさい。もしシロの娘たちが踊りを踊りに出てきたならば、ぶどう畑から出て、シロの娘たちのうちから、めいめい自分の妻をとって、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。」』
ヤベシ・ギレアデを虐殺してもベニヤミン族を維持するためには女性の数が足らなかったため、イスラエルの人々は驚くべき決断を下します。それは、白で行われる主の祭りのために踊りに出てきた女性を片っ端から誘拐しても構わないという、更に罪に罪を重ねる解決手段です。人間的な考えに基づく解決手段の、いかに浅はかで罪深いものであるかを端的に表しています。私たちはこのような愚かな歴史を反面教師として、同じような過ちを犯さぬよう、肝に銘じなければなりません。
http://bible.com/81/jdg.21.16,19-21.ja1955
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士師記 21:25
「そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。」
士師記の最後を締めくくるのが「おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった」という御言葉です。士師記にはこの箇所と同じ御言葉が何度も出てきます。神の義を求めず、自分の正義を貫く者は、士師記の時代の人々のように善悪の分別もない支離滅裂な結果を招くのみです。
聖書は、過去の忌まわしい失敗事例をも包み隠さず記録して、後の世代の人々が繰り返し同じ過ちを犯さないようにと警告します。神様を脇に置いて自分の好き勝手に生きた士師記の時代の人々のようになることなく、まず神の義と神の国を求め、御言葉に忠実に聞き従う私たちでありますように。
http://bible.com/81/jdg.21.25.ja1955