郊外から都心へ出るのは、時間も交通費もかかるからと
いくつかの用事を重ねてから出向きたくなるけれど、
かえって忙しくなり、ただ事務的に用を済ますだけで
新たな創造、発展につながる余裕、遊びの間が減る。
だから、用事は1つでもよいし
または何も用を持たずに出かけるのが
最もお土産が大きくなるのではという、
仮説、願望 否、確信すら有ったり。
さてそんなそんな、旧暦じゃ新年となる今日日曜日、
特段用ぞ無く、電鉄にのって 国分寺乗り換えの鷹の台へ向かったる。
ギャラリーYの手ぬぐい展に少々飾っているし、
隣のパン屋で買うだろうし
近所のシントンというカフェに行く可能性はあるが、
必要性のある用にあらず。
んじゃ、誰そ我を待たむやと 静かにちゅんと期待してみん。
昨晩は 学生時代の友たちで集まり、留学生であった
台湾の男性の久々の来日を祝した。
みな よく 大人の階段のぼりつつも
同窓に咲く無邪氣さは変わらず、楽しいひと時。
世の中にゃ、色んな人や人間がいる。
生きていくには、リズムやけじめ、段取りが必要だが
おおもとの 人付き合いのマナー、ルール、品というものが
よい意味で大切で、
それが飛んじゃっている人間も世には案外多い。
そうなる理由として、自分が尊敬する人、一つの理想や目標とする人がいることで
謙虚さが保たれていればよいのだが、
いつでも一方的に教える立場だったり、上から目線の生活や仕事で
やってきた人間は、自覚せずとも尊大になっていて
テリトリーを離れたら、人々と呼吸を合わせられず孤立するだろうし
それで氣づかなければ、おかしな方向へ走り
真の歓びの実感できない晩節にさいなまれよう。
情報だけ披露して、選ぶのは各々の自由、という雰囲氣を
設えられる、品位ある人ばかりではなく
他人の氣持ちも推し量れず、
本人は自信があれど表現的には押しつけの形になることがある。
押しすぎず引きすぎず、攻めすぎず受けすぎない
中庸さは、日々大自然の息吹とコミュニケートして
季節のタイミング、準備、風との付き合いを通し
自然に身に付くべき、当たり前のようで
かけがえのない感性ではなかろうか。
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