西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

『99.9%は仮説』(竹内薫著)より

2010-01-12 | 文化論、科学・技術論
一寸前に買ってあった『99.9%は仮説』(竹内薫著、光文社新書)を読んだ。

るる書くのは止めて、ひとつだけ「へー」と思ったことを書く。

それは、「医学界の負の遺産、ロボトミー」の項だ(100頁~110頁位)。エガス・モニス(1874~1955)というポルトガルの医者が、1949年度のノーベル生理学医学賞を「ある精神病において、ロボトミー手術の治療的価値を発見したことに対して」受賞した。(この年に湯川秀樹博士が「中間子論」でノーベル物理学賞を得た。)

ロボトミー手術とは、一口に言って脳の前頭葉の切除手術である。現代、脳の前頭葉の働きは大分分かってきていて、こういうブログをさっさと書けるのも前頭葉の働きのおかげだと思う。

ところが、こともあろうにモニスは、1935年11月に人間に対して、このロボトミー手術を始めた。そもそものきっかけは、1935年のロンドンでの神経医学会でカーライル・ヤコブセンとジョン・フルトンという人が「チンパンジーに対してロボトミー手術を行ったら凶暴性がなくなった」という報告を行ったのだが、それをたまたま聞いていたモニスがロボトミー手術を精神病患者に応用することを思いつき、すぐさま自分の患者に対し手術をしたのである。

竹内さんは、「これは、現代から考えると、まったくありえないことです」と言っている。私も5年ほど前まで大学の「研究調査倫理委員会」のような所の仕事もしていたので、こういう権的な試みは現代なら絶対許されないと思う。

当時は(まあ75年前ですが・・・)医学にとって人間は「実験動物」と同じだったんだな、と認識を新たにした。(現代では、本当はどうなのだろうか?)

何故、モニスがすぐにロボトミー手術を行ったかというと、「当時は、たとえば統合失調症や躁うつ病のような精神病に対して、効果的な治療法がなかったから」という。

で、現代から見ると「脳の司令塔」を切除する訳だから、暴れなくなるのは当然なわけです。そのかわり副作用として「腑ぬけのようになる」ことや亡くなった人も多かったようだ。(1948年の記録など)

1952年のクロルプロマジンに始まった薬物療法の進歩によりロボトミー手術の評価は一変した。「結果的には、ロボトミー手術というのはとりかえしのつかない治療法だったということになります。世論が180度変わってしまったわけです」と竹内さんは言っている。

はたして、こういう「犯罪的」とも言えることに対するノーベル賞は取り消されたのだろうか。一寸、分野は違うが、沖縄核持ち込みの密約をした佐藤栄作元首相のノーベル平和賞もどうなるのだろうか。ノーベル賞も絶対視してはいけない。特に科学は、反証できるのだから全て(99.9%)仮説と考えた方が良い、というのが竹内さんの本の趣旨である。

そういう意味で、竹内さんも言っているが、科学哲学や失敗の歴史も含めて科学史の研究や教育が大切と思った。


大学は何をする所か?

2010-01-11 | 京都の思い出(学生時代)
大学(大学院も含む)は、一体何をする所なのだろうか。

『中央公論』二月号は、「大学の敗北」を特集している。歯切れの良い養老猛司さん(元東大教授・解剖学者、今「虫少年!?」)が「東大よ「世間」に背を向けよ」という趣旨を70歳を過ぎた「勝手にしやがれ」の立場からボンボン言っている。

こういう好きなことを言っていれば長生きするだろうな、と思う。

私は、たまたま京大に入ってから総長「訓示」や教授講義等で「大学は真理の追求の場」と言われても、初めは正直ピンと来なかった。社会に出て就職するための通過機関と思っていた。

ところが、当時、たまたま「安保闘争」(1960年)の時期だったせいもあるが、毎日毎晩、口角泡を飛ばして「ああだ、こうだ」の議論の日々、色々友人の口から出てくる本を読んでいないと恥ずかしいので、直ぐに岩波文庫等で買って慌てて読んで、前から知っているがごとくに次の日には議論に参加、という日々だった。

たまたま総合大学だったので、経済学部、法学部、文学部などの講義にもぐりこんで高名な教授の講義を聞くも、さっぱり分からない。でも、こういうのが学問なのか、と高校までと全然と言っていいほど違う雰囲気に少しずつ慣れていった。また、教養部の先生方の話は面白いものが多かった。

でも、養老さんが言っているが、東大をはじめとする旧制帝大でも明治以降、実学中心で、学生の大半には学問・研究する場ではなく、法学部は「官吏養成所」、医学部は「医者養成所」だったと言っている。現在の東大医学部は、全国トップの偏差値の理系学生が入ってくるが、医学部のカリキュラムは医師養成のため全国一律で、まあ、東大医学部では6年かかって「お利口さん」を「お馬鹿さん」に引き下げているようなものだ、とも言っている。

まあ、要するに「研究大学」と「官吏・医者養成大学」などを区別せよ、ということらしい。勿論、これらは並列であって上下の序列ではない。一面では、そう思うが、他方、現在の国民の「民主主義」理解では中々難しい。全国に同じようなダム、空港が出来ていくのが今までのシステムで大学もその線に乗ってきたのだ。今後は、どう変わるのだろうか。見守っていきたい。

まあ、継続的な研究や勉強が好きな人は、偏差値などにとらわれず(少しは「並行」しているが、)旧制大学系(+旧制高専系)に行ったほうが良いのかな。体験から言って・・・。

国民読書年

2010-01-11 | 文化論、科学・技術論
最近、ブログを書く頻度が落ちている。まあ、毎日覗いてくれている人には、「新鮮味」が落ちるかもしれないが、過去に4千件ほどのものがあるので、「逍遥」して頂くと有難い。

で、ブログ書く頻度が落ちたのは他にすることがあるからだ。その一つに読書がある。過去を振り返って一番読書をしたのは学生時代から30歳代位までではないか。

50歳代、60歳代と何かと「忙しかった」せいもあり、十分に出来なかった。ここにきて、言ってみれば「職場人間」から「地域(居住地)人間」に転換したので、読みたくて買って「積んどく」してあったものを紐解きたい。また、興味ある古典や新刊なども小遣い消費の根幹として買って読みたい。図書館も利用したい。

読書をすると、当然、考えることになる。これは、本を買うようにお金が要るわけではなく、正に「無料(無量)」の楽しみなのだ。ああでもない、こうでもない、自分だったらこう考えるがなあ・・・、時間がすぐ経っていく。

今年は、「国民読書年」のようだ。読んで、考え、出来れば書いていきたいが、どうもブログは延々と書くのには適さないのでは・・・、と思っている。

最近、「ツイッター」という「つぶやき書きネット」も紹介されたが、時間利用の上から、当分は使わないだろうと思う。

『読書力』(齋藤 孝、岩波新書)を読む

2010-01-06 | 教育論・研究論
最近、やたら『○○力』といった本が多い。よほど、日本人は「力なく」「弱弱しく」なってきたのかな。

 でもまあ一度読んでみるか、と思って年末年始に『読書力』(齋藤 孝著、岩波新書)を読書してみた。先頃の「教育論」問題意識の続きである。さすがに、こういう題の本を書くくらいなので、齋藤さんは、若いころから猛烈に読書していることが分かる。

 文庫本100冊、新書版50冊を22,3歳頃までに読むべし、と「文庫本」100冊の推奨リストも付いている。とにかく、読書する癖、作法をつけてしまえば死ぬまで楽しく有意義に読書でき、それが、何事をするにも思想、行動のベースになるとのことだ。

 面白かったのは、一つには、本を読むということは、その著者から面と向って語ってもらっていると考えると、古今東西の識者に「教えを請うている」格好で、「至福の時間だ」ということだ。もう一つ、面白い考えかなと思ったのは、例えば西洋では『聖書』といった「唯一絶対の本」があって、それにより生き方の基本が決まる面が強いが、日本では、そういう書は、ないので、そのため一定の本を読んで(言わば「雑学」ブレンドして)「大体の生きかた方向」を定めてきたのではないか、とのことだ。(江戸時代までは、『論語』などの「四書五経」であったかもしれないが・・・)

 後、具体的な書棚での背表紙を見せた本の並べ方と並べ替え方、読書会の効用、三色ボールペンでの線の引き方、複数の人で登場人物、キーワード等を共同でマッピングしてみることなど、How to?に関する技法伝授もある。

 細かいキーワードの一つで「アイ・スパン(目が行き届く空間)」というのが面白い。別のことだが、触発されて、建築を見る場合でも、どの範囲を見るかによって、見方が違ってくると思った。

 注文としては、出来れば、何歳から始めても「読書力」は身につくものだ、そして「読書は楽しくて知らず知らず役に立つものだ」という風に展開して欲しかった。

 でも国民全般に「読書力」がつくことが、全体的な国民力を確実につけ、上げていく「急がば回れ、瀬田の唐橋」だ、ということは本当にその通りと思った。

 齋藤さんは、ここから『コミュニケーション力』『教育力』『段取り力』『退屈力』などと、どんどん「力」をつけて普及している。私も、いくつか「○○力」を構想してみているが、早くやらないと齋藤さん他に先を越されるかな・・・。