西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

日本史認識のパラダイム転換

2010-01-17 | 歴史とのつながり、歴史の面白さ
近所に住んでおられる近代史(日本・朝鮮関係史)専攻の中塚 明さん(http://blog.goo.ne.jp/in0626/e/cdb20413a4a41fe55f56a2b6a3bc4509の示唆で雑誌『思想』(岩波)1月号の巻頭論文「日本史認識のパラダイム転換のためにー「韓国併合」100年にあたってー」(宮嶋博史著)をざっと読んだ。これを、精華町の町立図書館で読んだのである。(昨日、奈良市の北部会館図書館で、この雑誌があるか尋ねたところ、「かってあったが、今は奈良市立図書館にはない」と言われた。)他にも読みたい論考があるので、この号を書店で注文した。

ざっと読んで、この論文は、確かに今までの「日本はアジアの中心」史観は考え直さないといけないのでは、と思った。この論文は、将来の大きなパラダイム転換のきっかけになるかもしれない。

宮嶋さんは冒頭の部分で言う。「・・・転換の本質的内容は、日本がふたたび東アジアの周辺的地位にもどりつつあることである。「韓国併合」が強行された100年前は、日本がアジアの中心に駆け上がろうとしていた時期(私注:『坂の上の雲』時期)であった。その後、第二次世界大戦の敗北にもかかわらず、東西冷戦という国際関係の中で米国の従属的同盟者として、東アジアの中心的地位を占め続けることになった日本が、冷戦の終結と中国の復活の中で再度、東アジアの周辺国になるであろうことが確実であると思われる。ここで再度というのは、19世紀なかばまでの東アジアにおける日本の地位が周辺的なものであったからである。」

宮嶋さんは、14世紀頃からの東アジア(乃至中国周辺地域)の状況を眺めて、宋時代くらいから社会統治のベースに「儒教」(礼、礼治など)を置き、科挙試験で中央官僚を身分によらず選び出して、いってみれば「儒教モデル」の中央集権国家を造っていったという。朝鮮(やベトナム)も、それにならったが、日本には取り入れられなかった。印刷術や出版業が未発達で科挙試験が事実上実施できなかったことも一つの理由と言う。

だから、江戸時代の幕藩体制は、「一貫した中央集権」ではなかった。(逆に欧米の圧力もあり、明治維新となり、別の中央集権国家が出来ていった。)

19世紀の中ごろ、中国や朝鮮には、「儒教モデル」の確固たる国家があったので、欧米の「モデル」に何故ならないといけないのか、という訳で「中体西用」(中心は中華モデル、役に立つ西洋ものは利用)路線となり、ある意味で「遅れた」のである。

過去、歴史学界で「何故、日本が他のアジアの国に先駆けて明治以降の「近代化」が可能になったか」について色々と論考があるが、この「儒教モデル」の浸透が日本にはなかったことを視野に入れた論考は殆どないという。もし、そうなら正にここで宮嶋流パラダイム転換となるのではないか。

確かに、日本にも江戸時代には多くの儒者がいたし、明治以降も『論語』などの儒教は学ばれていたが、中国や朝鮮での役割を充分受け取っていなかったのではないか(理解が「中途半端?」)、と言う。明治以降は、福沢諭吉の「脱亜入欧」などにより、制度、学問などは欧米一辺倒に傾いたのである。

この論文では、石母田正さん、丸山眞男さんなども批判されている。

まあ、最近読んだ『日本辺境論』(内田 樹著)や森嶋通夫さんの「東北アジア共同体論」そして、最近の鳩山さんの「東アジア共同体」政策など、21世紀はそちらの方に傾くのかな、とも思う。

でも、今後、その共同体が昔の「儒教モデル」で運営できるものではなかろう。中国やベトナムは「社会主義」を標榜しているし、韓国や日本は「市場経済主義」である。まあ、中国、ベトナムは「社会主義的市場主義」らしいので共通項があるかもしれないが・・・。

勿論、アメリカやEU等々とどういう「スタンス」を取るのか。過去の歴史研究も「国の身を処す」一つのベースであろう。「細切れ歴史学」から「雄大な歴史学」になることを期待したい。