西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

日米安保条約50周年の感慨

2010-01-19 | 京都の思い出(学生時代)
今日は、1960年1月19日に岸首相とアイゼンハワー大統領との間で現日米安保条約が結ばれてから満50年、半世紀である。そして1960年6月15日に日本では国会で「自然成立」し、現在に至っている。

思えば50年前の今日は、私は高校3年生の最終段階、大学受験直前であった。そして大学に入学してから6月15日まで落ち着いて講義は受けられず、議論、学生大会、街頭デモ等に「振り回された」毎日だったと言ってよい。デモの時は、宇治分校から京都に出てきて、大抵は立命館大学広小路キャンパスの「わだつみ像」の辺りに集合、そこから出発し、河原町通りを南下した。京都ホテルの前を通るとき、2階ホールから見下ろすアメリカ人らしきグループも目撃された。その辺りでフランス・デモ(道一杯に広がるデモ)に移ったりした。シュプレヒコールは「安保反対、岸を倒せ!」というのがメインだった。そして、四条から東に折れて八坂神社裏の円山公園の野外劇場まで行くのだった。

当時から現在まで、その思想的・理論的根拠には自らに「進化」はあったし、世界や日本の情勢も大いに変わったと言えるが、日米安保条約には「反対」で、いづれ廃棄すべきもの、という認識できた。当時は、日本もアメリカも両政府は、この条約は10年以上はもたないと考えていたらしく、10年経過したら、どちらか一方の通告で「終了」すると規定している。

当時、少ししてから、それを知って「へー」と思ったものである。

その後、ベルリンの壁が壊れ、ソ連も崩壊して「東西冷戦」は終わった。そして、現在である。アメリカ政権も日本政権もかわったのである。韓国、中国やインドもアジアで「大きく」なってきている。次の50年(と言わず、もっと早いかも)は、条約下での「対等平等」から、「廃棄」へ、「日米友好条約」へ、そして「東アジア共同体」へと歴史は回っていくのではないか。